消えた湖
さっきのも今のも、マウロの声だ。
カードが狼の姿になって、彼女の上に覆いかぶさるようにして乗っている。マウロがいるのは水上ではない。砂の上だ。
湖のそばには、逃げたはずのステイドがいる。彼がマウロに砂を投げ付けたのだ。
リンネの方にばかり気が向いていたマウロは、ステイドの存在に気付いていなかった。少しでも強い力で攻撃してやろうと湖の水際まで来ていたため、砂をもろに顔に受けてしまったのである。そのため、竜巻の力が消えてしまった。
横からの攻撃にうろたえたマウロを、今度はカードが襲う。水際まで来ていたマウロを、カードが湖の外へと倒すのは簡単だった。思わぬ方向からの攻撃を受けた後に襲われたので、マウロは魔力で抵抗する暇もない。
「いっ、いやぁ」
砂の上に倒されてしまったマウロは、陸揚げされた魚みたいなものだった。ばたばたと暴れている。それはカードに乗られているのをどうにかしようというのではなく、地上にいるのが苦しいためにもがいているとしか見えない。
「水から離れると、ああも駄目になるって訳か」
「助かりました。さっきの水がまともにかかっていたら、今頃は立てないでいましたよ」
マウロの様子を見て、気が抜けてしまった。さっきまでの魔性の強気が嘘のようだ。
「熱いっ」
リンネが小さく悲鳴を上げた。その声にどきっとして、みんながそちらを向く。
リンネに何か邪な力が加えられたかと思ったのだ。自分が苦しんでいても、あんなに嫌い、恨んでいたリンネに対してはマウロも何かやったのではないか、と。
だが、そうではなかった。マウロは自分のことに精一杯で、リンネに何かを仕掛ける余裕はない。
リンネが悲鳴を上げたのは、ポケットに入っている石のせいだった。
「石が……さっきよりずっと熱いの」
火が出る時も熱かった。今はあの時の比ではない。本当に焼けているように熱いのだ。ポケットから取り出したものの、とても持っていられない。
「あつーいっ」
とても持っていられず、とうとうリンネは石を放りだした。石は砂の上を転がり、そのまま湖にポトンと落ちる。
「あ……落ちちゃった」
今まで助けてくれた石なのに。あの石なくして水へ入ることはできない。
「ぎゃあーっ!」
マウロの一段と高い悲鳴が響き、そちらから目を離していたリンネ達は飛び上がりそうになる。
リンネの様子がおかしいと知ったカードが離れた隙に、もがきながら湖へとマウロは戻ろうとしていた。
湖にさえ戻れば、力もちゃんと使える。今度こそ報復できる。
そう思ってマウロが入った湖は、さっきまでの湖とは別もののようになっていた。慌てて水の外へ出る。出たくなくても、もう入れない。
水が熱湯になっていたのだ。見れば濃い湯気が湖全体から立ち、あっという間に水面には泡が出始める。
湖の水は、今や完全に沸騰していた。
「あ……ああ、私の湖が、私の館が……」
砂の上では苦しいということも忘れ、マウロは呆然と煮え立つ湖を眺めている。思わぬ展開に、リンネ達も言葉を失っていた。
やがて、湖の水は蒸発しているのか、少しずつその面積を減らしていく。水が消えてしまう。
「いや……私の湖が消えてしまう……いやぁ……」
かすれた悲鳴を上げるマウロ自身も、その美しかった身体が干涸らび始めていた。砂に水分を奪われているのだ。湖が消えるにつれ、マウロの身体も消えてゆく。
やがて、砂漠にゆっくりと太陽が顔を見せる頃になると、湖は完全に消えてしまった。
そして、マウロの姿も……。
☆☆☆
濡れた服のまま、全員がぼんやりと湖のあった所を眺めていた。
「火が……消えてる」
ダルウィンが持っていた松明の火も、まるで朝日に溶けたかのように消えていた。
あんなに深かったはずの湖は、その水が消えて普通に砂の平地があるだけだった。底深い穴もなく、もちろん建物などもない。干涸らびたマウロも、跡形もなく消えている。
全てが夢だったみたいだ。
しかし、濡れた服が夢ではなかったことを証明している。そして、ここに来る前にはいなかったステイドの父がいることも。
「もしかして……あたしがこんな水消してって思ったのが、石に伝わったのかしら」
それ以外に考えられない。リンネがあの赤い石を湖に落としてから、あんな状況になったのだ。
その石は、どこにも見当たらない。湖に入ったのだから、湖のあった場所に転がっていないかと捜してみたが、わからなかった。湖と一緒に消えてしまったのだろうか。それとも、砂の下に深くに埋もれてしまったのか……。
「リンネ、火傷していないか」
ダルウィンがリンネの手を掴んで調べる。思わず捨ててしまう程に熱い石を持っていたはずだが、リンネの石を持っていた手には何の傷も火傷もなかった。魔法というのは不思議なものだ。
「ステイドが一矢報いたおかげで、ぼく達も助かりましたね」
考えてみれば、一番単純な物理攻撃。だが、マウロにはその攻撃が一番効いた。おかげで、マウロの攻撃の力が緩んでリンネ達は助かったのだ。
「ぼく……リンネ達を置いて逃げるなんてできなくて、やっぱり戻って来ちゃったんだ。そうしたら、あいつがまた水の竜巻を起こして襲い掛かろうとしてて……何をやってるんだか自分でもわからないうちに、砂を投げ付けてた」
一年ぶりで身体を動かす父は、なかなか早く逃げられなかった。ある程度まで走ると、息が切れて走れなくなってしまい、ステイドが振り返ればまた水の柱が高く上がっているのが見えた。
夜の砂漠に現れた光る湖。さらにそこから現れた水の柱は、水の竜にも見えた。
このまま逃げるなんて……できないっ。
素通りされても文句は言えないのに、リンネ達はならず者に絡まれているステイドを助けてくれた。
砂漠の湖の話を聞いて行動を共にし、ほとんどあきらめていた父を助けてくれた。
それなのに、自分だけが逃げるなんて……できない。
テクトには呼吸が戻ったらまた逃げてと言い、ステイドは今来た方へと走った。
水を操るマウロ。何の反撃の術も持たないリンネ達。自分だって、何の武器もない。
それでも、無我夢中だった。ただひたすらあの水の竜巻を何とかしたくて、ステイドは砂を掴んでいた。
ここは砂漠だ、砂はいくらでもある。両手に砂を掴むと、それをマウロに向かって投げ付けた。何度も何度も。湖の水際まで来ていたマウロはステイドの存在に気付かず、投げ付けられた砂をもろにかぶってしまった。完全に油断していたから、目に入ったかも知れない。
マウロが手で顔をかばっても、ステイドは砂を投げ付け続けた。状況を把握してマウロが少年に反撃しようとした時、カードがマウロを突き倒し、湖の外へ押し出したのだ。
「俺達の誰がやろうとしても、うまくいかなかったはずだ。全員が目を付けけられていたから、同じことをしても砂なんかすぐに払われた。ステイドがいなかったら、本当に魂を取られてたな」
ダルウィンの言葉に、ステイドは慌てて否定する
「そ、そんな……ぼくなんて。ぼくは何もできなかった。リンネやダルウィンが湖に入ってくれて、ぼくは待ってただけだよ」
湖に入れば溺れかけてカードに助けられ、ニルケが必死に魔法を使っている横ではただ待っているだけだった。いいところなんて、一つもない。
「ステイド、もっと自信を持ちなさいよ。最終的にはあの赤い石のお陰で湖を消したけど、あなたが行動を起こさなかったら、あの石を使う前にあたし達はダメージを受けてたもの。何もできなかったなんてこと、ないのよ」
「振り返れば、リンネはマウロにケンカを売っていただけですからね。それを思えば、ステイドはしっかり戦っていましたよ」
引き合いに出されてしまったリンネだが、確かに半分はその通りなので、そしてステイドを元気づけるために黙っていた。
「さぁ、朝日もずいぶん高くなったことだし、帰ろうぜ。マウロのせいで朝メシが消されたからさぁ」
マウロの水の攻撃で、荷物のほとんどがあちこちに飛ばされていたり、砂に埋もれたりしている。一応持って来ていた食料は……ちょっと口にしたくない状態。
カードとしては、朝にはちゃんと朝御飯を食べたい。
一同もそれには反対せず、カティの街へと向かって歩き出した。
☆☆☆
濡れた服は、歩くうちに砂漠の風と気温で乾いてくれた。
カティの街は、昨日とどこも変わらず賑やかで活気にあふれている。通り過ぎる誰もが、リンネ達が砂漠に浮かぶ湖の魔性と戦ったなんて思わないだろう。
そして、湖が二度と現れないということを知ることはない。
何度も何度も礼を言い、カティの街へ来る時は絶対に寄ってほしいと言ってステイドは父を連れて家へ戻った。少しでも早く母の驚く顔を見たいというように、父の手を引っ張って。
そこには恐ろしい程真剣に父を取り戻そうとする少年ではなく、どこにでもいる子どもの顔があった。
「きっとステイドの母様も大喜びするわね」
「そうでしょうね。そうかと思えば、どこかでは娘の破天荒な行いに胸を痛めている母親もいますし」
「後ろにつかれてたとも知らないで、今頃仕事をしてる父親もいるんだよな」
「カード、ニルケの味方するの」
「いや、オレは事実を言っただけ」
「リンネ、あんまり無茶なやり方はやめておいた方がいいぞ。後々、やりにくくなる」
ダルウィンのセリフは注意をしているのか、アドバイスをしているのか……。
「外出禁止令が出ないことを祈るんですね」
「そういうのってなかなか守れないのよねぇ」
「リンネ! ……まったく。カティの街は昨日の間に歩いたでしょぅ。みんなが心配していますから、もう帰りますよ」
カードがそばにいて、ニルケが後を追ったのだから大丈夫だろうとは思っているリリアだが、もちろん娘のことが心配でないはずがない。
「えー、だってまだ行けてない店もあるのに」
せっかくここまで来ているのに、もう帰るなんてもったいないではないか。
「だったら、今度は正式にお願いしなさい。その時に見ればいいでしょう」
リンネは明らかに不満だった。せめて夕方までいたい。
でも、ちょっとやそっとでは引き伸ばしなど無理だ。この魔法使い相手には。
が、リンネの頭にうまい言い訳が浮かんだ。
「そーだ、ラグにおみやげをまだ買ってないわ。それだけ待ってよ。あの子に約束したの」
そのことについては、ニルケもラグアードの口から聞いている。
「ね、約束は守らなきゃ」
リンネはにっこり笑い、ニルケは大きく溜め息をついた。
「わかりました。じゃ、いい物を選んであげてください」
「やった。カード、行くわよ」
お供を連れて、リンネは街の中を駆けて行く。
「土産を引き合いにして、完全に見物する気だな、あれは」
ダルウィンがリンネの後ろ姿を見送りながら、笑っている。
「仕方ありませんよ。無理に連れ戻したら、同じことを繰り返しかねません」
ニルケだってリンネの魂胆はわかっている。が、何もわかっていないラグアードの楽しみを奪ってしまうのもかわいそうだ。
「しっかし、あのふたりは元気だな。昨夜は徹夜だったのに」
リンネ達が行った方向から、何やら騒ぎらしい音や声がしてきた。もしかして……。
「行った方がいいでしょうね。方向が方向だけに」
「本当に賑やかな……。迷子になっても、あのふたりならすぐに見付かりそうだ」
「帰ったら休暇をもらうことにします。魔法を使っても、リンネの行動はとても抑え切れませんよ」
ぼやきながらも、魔法使いは騒ぎが起こっている方へと足を向けた。





