家庭教師
第四話は五部構成ですが、全体的に短め。
リンネ達の昔のお話です。
「もう辞めさせて頂きますっ。ぼくにはお嬢様の面倒など、とてもみられません!」
家庭教師は彼の雇用主であるラグス=エクサール氏に詰め寄るような形で、退職を申し出た。
「ま、まぁ……落ち着きたまえ」
ラグスは興奮気味の家庭教師をなだめようとしたが、彼は何も聞いてはいなかった。
「もういやです。この先、あんないやがらせをいつされるかと思うと、お嬢様には近寄れません。そうなったら、勉強を教えるなどとてもできません。辞めさせて頂きます」
「考え直すということは……」
「ありません。ありえません。お断りします」
家庭教師の青年は、ラグスの言葉にとりつく島もない。
やれやれ、無理に引き止めてもすぐに同じことが起こるか。すぐに次は……見付からないだろうなぁ。
ラグスは心の中で溜め息をつきながら、あきらめて頷いた。
「わかった。すぐにこれまでの給料を計算するから。もう少しだけ待っていてくれ」
家庭教師はほっとした様子で、ラグスの部屋を辞した。
ラグスの部屋の扉を開けると、少しくせのある長い黒髪の小さな少女がそこに立っている。家庭教師はぎょっとした顔になったが、何も言わずに通り過ぎた。
「ああ、リンネか。入りなさい」
リンネと呼ばれた少女は、父の顔を伺うようにして部屋へ入って来た。
「とう様、あの先生、やめちゃうの?」
「そのようだ。部屋の外で聞いていたんだろう?」
リンネは頷いた。
「虫があんなにきらいだなんて、知らなかったもん」
小さな頬を大きくふくらませて拗ねる。ラグスも娘に悪気があってやったことではないので、無下に叱れない。
さっき出て行った青年は、リンネの四人目の家庭教師だ。一週間前に来たばかりの。
本音を言うならば、リンネは彼が来た時からあまり好きになれそうにはなかったのだ。
痩せて神経質そうな顔をした二十代半ばの男性で、本人の責任ではないのだが、声も妙に甲高かった。
そんな声の男性は街にもたくさんいるが、普段は声のことなんて気にならない。でも、なぜか彼の場合は気になってしまった。
これがいわゆる、相性がよくない、ということだろうか。
リンネを呼ぶ時「リンネアリール様」とわざらしいまでに言う。本名だし、別におかしくはないのだが、呼ばれ慣れないのでリンネと呼んでもらいたい。
正式の場合でもないのにそう呼ばれると、リンネは妙に気持ちが悪かった。相手が小さな女の子とはいえ、金持ちという人種に何かコンプレックスでもあるのだろうか、と子ども心に勘繰りたくなる。
しかし、父親が連れて来た家庭教師。いやだと思っても、まだ六歳の彼女は自分の意見をうまく言えなかった。時々授業を抜け出すくらいしか、リンネは抵抗する術を知らない。
で、抜け出したのだが、帰って来たら当然、叱られた。
「先生、そんなにおこらないで。これあげる」
リンネは野原で捕まえたカマキリを、彼のポケットに入れた。
リンネとしては、このまま嫌いでいても仕方がないし、それなら少しでも仲よくしようと思ってやったことだ。リンネなりに努力しようとしたのである。
でも、彼はそんなリンネの気持ちをわかってくれなかった。
「うわっ、何だ、これはカマキリじゃないか。やめろっ。早くどかせてくれ。ひえぇっ、動いてるっ」
元気よく動き回っていたのを捕まえて来たのだし、生きているから動く。しかも、今日ゲットしたのは今までにない大物だ。捕まえた時、嬉しくてリンネは歓喜の声をあげたくらいである。
だが……残念ながら、彼は虫が大嫌いだったようだ。
まだ出会って一週間しか経っていないので、リンネはそんなことなど知らない。街にいる男の子は虫が好きだから、先生もきっと好きだろう、と思って彼にあげたのだ。
それなのに、先生は慌てふためき、暴れているうちにとうとう失神してしまった。
残されたリンネはつぶされかけたカマキリを救い、庭に放してやる。その後、気を失った家庭教師を眺めていた。
どうしてこんな状況になってしまったのか、どうしたらいいのか。それがわからないので、その場に立ち尽くすしかなかったのだ。
少しして、誰かを呼んでこなければ、と思い立ったが、それより先に先生が目を覚ました。
失神から立ち直った先生はすぐにエクサール氏の所へ行き、辞めると怒鳴り込む。
「まさか、女の子が虫を掴むなんて……あああ、考えただけで鳥肌がたつ」
扉の外で聞いていたリンネは、どうして女の子が虫を掴むと鳥肌がたっちゃうのかしら、と不思議に思った。
確かに、虫が嫌いな女の子の方が多い。でも、中には平気な人もいる。リンネがその中に入ってはいけないのだろうか。
とにかく。四人目の家庭教師はこうして去ることになった。
「とうとう四人目も辞めるか……。どうして居着いてもらえんのかなぁ」
ラグスはイスに座り、頭の後ろに手を組んで天井を見上げた。
「とう様、リンネがわるい子だから?」
「ん? いや……まぁ、リンネは悪いことはしてない。ただ、相手によっては、いたずらをされたと思ってしまう人もいるから」
お茶目で、ちょっとばかりおてんばなだけだ。そう思えば、いたずらにはならない……と思いたい。
初めて来た家庭教師は、二十代後半の女性で優しそうな人だった。もっとも、本当に優しいのかどうかはわからない。
彼女はリンネに勉強を教えることなく、エクサール家を去ってしまったから。
彼女が来た時、リンネは自分の部屋にいた。付け加えると、リンネは獅子の面をかぶっていた。
街で友達になった子の父親が演劇の小道具を作っている人で、劇に使う面を持っていたのだ。それが他の荷物に当たってしまい、傷ができた。直すよりも作った方が早い、というので捨てようとしたのだが、それを面白がったリンネがちょうだいと言ってもらって来たのだ。
家へ持ち帰り、面を付けて鏡を見てみる。身体は小さいのに、顔は大きな獅子の姿が映っていた。
大人って、おめんぶとうかいっていうのをするのよね。これだと、みんながびっくりしちゃっておもしろいかも。
一人でそんなことを楽しんでいると、先生がいらっしゃったからご挨拶なさい、と呼ばれた。リンネは自分が面を付けていたのを忘れ、そのまま出て行く。
先生はリンネの顔を一目見るなり大声を上げ、逃げてしまった。
それっきり。彼女は二度とやって来ることはなかった。
この時ははっきり言って、リンネの方がその声に驚いたくらいだ。おかげで面が落ち、壊れてしまった。もちろん、その先生にすれば知ったことではない。
二人目も、同じくらいの年代の女性だった。前の先生より少し性格のきつそうな雰囲気ではあったが、それなりにリンネも勉強した。
が、三日目。
勉強の時間になり、先生がリンネを呼びに行く。だが、リンネが部屋にいないので屋敷の中を捜していた。先生の声を聞き付け、ここにいるよー、とリンネは返事する。
そこはエクサール家の庭の中で、一番太く高い木の上。リンネはそこから手を振っていたのだ。
それを見た先生は、屋敷中に響くような金切り声を上げた。近くにいた使用人が驚いてやって来たが、原因がリンネの木登りだと知るとさっさと自分の仕事へ戻ってしまう。
こんなことは、この家で働く者にすれば日常茶飯事だ。騒ぐようなことではない。
だが、先生には、女性はおしとやかにつつましくするものだ、という信念のようなものがあり「女の子があんなことをするなんて信じられない。元気すぎる子を教える自信はない」と言って辞めてしまった。元気すぎても勉強はできるのでは、というラグスの言葉など、聞く耳を持たない。
三人目も女性。今度は多少骨太の先生を、ということで、見た目にもいかつい四十を少し過ぎた人がやって来た。
リンネにすれば、勉強さえ普通に教えてもらえれば(ちゃんと勉強するかはともかく)後はどうでもいいや、と思っていたので外見は気にしない。
だが、またリンネが街でもらってきた物が仇になった。おもちゃ屋さんで失敗作のびっくり箱をもらってきたのだ。
フタの部分が固く、なかなか開かない。開いても中のおもちゃがちゃんと飛び出して来ないのだ。新人が作ったとかで、かなりの設計ミスがあったらしい。
リンネはそんな下らない物までもらってきた。捨てるならちょうだい、と。
それを先生の前でいじっていたら、フタが開いたのだ。簡単に開くはずのないフタが開き、飛び出さないはずのおもちゃが勢いよく飛び出て来た。
リンネも驚いたが、先生はもっと驚き、その後で怒り出した。
「人を驚かして何が楽しいのっ」
びっくり箱は人を驚かすのが役目のおもちゃなのだが……。こんなつまらないことで怒るのだから、かなり短気な人のようだ。
もしくは、見た目だけが骨太で、案外気の小さい人だったのかも知れない。驚いたことが恥ずかしかったので怒ってごまかしていたのでは、などと後でリンネは思ったりもしていた。
これが原因で、彼女も家庭教師を辞めてしまう。
ラグスはいっそのこと、男性の先生に頼んでみるか、と考え、先に出て来た先生を雇ったのであるが……。
こと、リンネの家庭教師に関しては、どうも人選を誤ってしまうらしい。
一人目の先生から数えて今日まで、まだ二ヶ月も経っていない。
控え目に見ても、リンネに非はないだろう。いたずらしよう、いやがらせをしようとした訳ではない。がらくたばかりをもらって来るのもいかがなものかとは思うが、子どもは何にでも興味を持つもの。先生達は、性格的に娘と合わなかったのだ。
しかし、このまま放っておく訳にもいかない。リンネには勉強が必要だ。また新しい先生を探さなくては。あそこの子はやりにくい、という噂が立たないうちに、せめて三ヶ月くらいは定着してもらわねばならない。
「とう様、また先生さがすの?」
子どものリンネにすれば、勉強よりも遊ぶ方がいい。いっそのこと、もうあきらめてくれないかな、などと思ってしまう。これくらいの子どもなら、誰でも考えてしまうようなことだ。
「もちろん。リンネにはもっと学ぶことがあるからな。さて……次はどうするかな」
ラグスは再び頭を抱えるのだった。





