檻の中の狼
リンネとニルケは、ガーネズの誕生日五日前にラースの街を出発した。
ペンスの街までは、だいたい三日で着く。馬を飛ばせば一日半もあれば到着するが、別に急ぐ旅でもない。リンネはのんびりと馬を歩かせて進んだ。
最初、ニルケは移動魔法を使えば歩かなくてもペンスへ着くと言ったのだが、リンネは拒否した。
せっかくよその国を通って旅ができるのに、その行程を省くなんてもったいない。
それが彼女の意見だ。両親やニルケにすれば、それですぐに到着してくれれば、余計な心配をせずにすむのに、と思っていたのだが、無理にそうさせると後がどうなるか怖い。
ガーネズに「父様達は後で来るから」と言うだけ言って、ペンスの街から一人でラースへ帰って来そうな気がする。しっかり何日もかけて寄り道して。
その間、死ぬ程心配しなければならないのなら、まだお目付役がしっかりいて少しでも安心できる状態で送り出したい。
……というラグスの苦慮の結果、リンネは嬉々として出発したのだった。
「うっれしいな。こんなに気楽な気分で旅ができるなんて」
家族でペンスの街へ向かう時は、全員で馬車に乗る。着くまではよその街をいくつか通り過ぎることになるが、通るだけ。ひたすら進むだけだ。目的は祖父母の家へ行くことだから、余計な場所へは行けない。行ってもらえないのだ。
これは旅ではない。ただの移動だ。
「リンネ、ぼくの存在を無視しないでくださいね」
ニルケがふと気を抜いた途端、いきなり馬を飛ばして姿をくらますような気がしてならない。
本当にそうなったら魔法で居場所をすぐに捜すこともできるが、なるたけそういうことをさせないでほしい、と心から願うニルケだった。
「わかってるわよ。ニルケのおかげで、こうして旅ができるんだもの。一緒に来てくれてありがとう」
こういうところは素直でかわいい。とんでもなくやんちゃではあるが、同じ屋根の下で九年も寝食を共にしているので、ニルケにすれば妹のような感覚だ。
ラースの街を出て南下した二人は、やがてクウバと呼ばれる村にさしかかった。
ここは東側が海に面しており、漁業が盛んだ。南西には山が連なり、動物の毛皮などをラースの街へ売りに来る者も多い。小さな村だが、比較的豊かな土地である。
海沿いの道を進みながら、なじみの海の匂いを嗅ぐ。ルエックは国の半分が海へとせり出している。ラースの街は、そのせり出した部分ほとんどを占めているのだ。二人にすれば、潮の香りはいつも周りに漂っている。
浜辺は誰もいない。はるか沖に、舟が何艘か出ているのが見えた。きらきら光る波間にただよう舟は、とても小さくて頼りなく思える。でも、漁師達は力強く舟を漕いで、生活の糧を得ているのだ。
「ラースの港とはすごい違いよね。あんなに小さな舟で魚をとるんだから、すごい」
ともすれば浜辺の方へ進みそうになるのを、ニルケが手綱を引き戻す。
「リンネ、社会見学はいいですが、それは帰りにしましょう。今日はトーカの街まで進む予定ですからね」
オクトゥームの国にあるトーカの街。ルエックの東側にある隣国で、トーカはオクトゥームを入ってすぐの所にある街だ。ラースの街を出ると、ちょうどトーカ辺りで陽が暮れる。毎年トーカの街で宿泊するので、今日もそうすることになっていた。
「わ、わかってるわよ。海なんて見飽きてるもん」
ちょっと拗ねた顔で先を進む。
左に海を眺めながら進み、ようやくクウバ村から出ようという所まで来た。道なりに進むと、今度は少し山へ近付くことになり、それなりに木が生い茂る環境になる。
「ねぇ、何か音がしない?」
リンネに言われ、ニルケも耳をすました。確かに、ガタガタと何かを揺すっているような音がする。
「檻に動物が捕まっていて、それが暴れているんじゃないですか? この辺りなら、獣も出るでしょうから」
完全に山の中へ入った、というのではないが、民家があるような場所に比べれば木は多くなってきている。近くの草むらから、大小の動物が飛び出してもおかしくない。それが人間にとっての害獣であれば、罠が仕掛けられていることもあるだろう。
「くっそー」
「……人の声がしてない?」
「しましたね」
獣を捕まえ損ねた人、だろうか。
気になった二人は、音のする方へと馬を進めた。
「きっと、あれね。さっきのガタガタって音」
リンネの差す方向に、檻が一つある。道から少しそれた草や木の間から、かろうじて見えた。音がしなければ気付かず、あっさり通り過ぎてしまうような位置だ。
見た目はほとんど木の箱のようだが、ちゃんとそれらしく扉には鉄格子もはまっている。扉は閉まっているのであの中に何かいるようだが、逆光になっているので暗くて様子はわからない。
まさかとは思うが、さっきの声の主があの中にいるのだろうか。
だが、檻はかなり古く、しかもちょっと小さい。スリムでそんなに身長は高くないリンネでも、入ったらちょっときついなー、というサイズ。余程ひ弱か腕力のない子どもでもない限り、ちょっとがんばればブチ破れそうに見える。
さっきの声は若い男性のようだった。子どもではなさそうだったから、自力で何とかできそうなものだが。
リンネは馬から降りて、そちらへ近付いた。
「リンネ、あまりそばへ寄らないで。凶暴な獣かも知れませんよ」
ニルケも降りて、リンネの後に続く。
「だけど、人の声だったでしょ。獣の鳴き声であんなに人間の言葉っぽいもの、ある?」
「この近くにいた人かも知れません。檻の中とは限りませんよ」
ニルケがそう言った直後。
「もう出してくれよぉ」
間違いなく、言葉が聞こえた。
「やっぱり中にいるのね」
驚いたリンネは、その檻へ駆け寄る。中に閉じ込められているのは動物じゃない。
「きゃっ」
リンネが近付くと、檻の中から突然手が伸びてきた。褐色の肌をした、でも確かに人間の手だ。
「頼む、ここから出してくれよ。腹が減って、力が出ないんだ」
「わかった、今出してあげるから」
さすがに素手は難しい。リンネは檻を壊せるような石がないか探した。こんな檻なら、木の部分を叩けば壊れそうだ。鉄格子部分も、よく見ればかなり錆びている。
「待ちなさい、リンネ」
リンネが近くで手頃な石を見付け、それで叩き壊そうとするのをニルケが止めた。
「どうしてよ、こんな所に閉じ込められてかわいそうじゃない。早く出してあげなきゃ」
「もしかすれば、彼が何か罪を犯してここに入れられたのかも知れません。出してあげるのは早計というものです」
「オレは罪なんて犯してない」
少しムッとした声が返ってきた。
「本当ですか? ぼくにはきみから人間の気配を感じ取れませんが」
リンネがその言葉に驚いて、ニルケを見た。
彼は魔法使いだ。長年魔法を使っているうちに感覚が鋭敏になり、普通の人間ではわからないものを感じたりできる。リンネにはわからないことでも、ニルケにはわかる、ということがあるのだ。
「魔物が人間の悪さをして、ここに閉じ込められたの?」
リンネはしゃがんで、檻の中を見る。そこには黒い髪と褐色の肌を持つ少年が、足に鎖を巻き付けて座っていた。黒い瞳がわずかな光に反射しているのがわかる。
その姿は、どう見ても人間としか思えない。見た目はリンネとそんなに年代は変わらないだろう。たぶん、背格好もそんなに違わない。狭い檻の中はかなりつらそうだ。
「オレ、本当にそんなことはしてないんだ」
少年は鉄格子を掴んで叫ぶ。
「確かにオレは魔獣だよ。でも、これまで人間には何もしてない。なのに、他の魔物が山の獣をたくさん殺したのを、オレの仕業と勘違いした人間がオレを閉じ込めたんだ」
「魔獣って、つまりは魔物でしょ? こんな木の檻なんて、簡単に壊せるんじゃないの? あなた、あたしとそんなに歳が変わらない男の子に見えるし、魔物でなくても自分で出られるんじゃない?」
「初めは抜けられないよう、呪符が貼ってあったんだ」
「ああ、なるほどね」
魔に有効な呪符なら、逃げようにも逃げられない。封印されたようなものだ。リンネは実際に見たことはないが、話には聞いたことがある。
「それがようやくはがれたと思っても、何も食ってないから力がなくて出られないんだ」
「リンネ、立ち去った方がいいようですよ。彼のことはよくわかりませんし、勝手に彼を解放する権利はぼくたちにはありませんからね」
魔物が本当のことを言ってるかどうか怪しい、とニルケは言っているのだ。
人間に見えるように変身できる魔物や魔獣は、力が強い部類になる。檻の中の少年は完全に人間に見えるし、だとすればかなり強力な魔獣のはず。
だが、リンネはニルケの言うことを聞いても、すぐには立ち去ろうとはしなかった。
「ねぇ、どうして呪符がはがれても、人間は新しいのを貼りに来ないの? もしあなたが逃げ出したりしたら、また同じことが起こるかも知れないのに」
「結局、本当にやった奴が見付かったんだ。でも、オレは忘れられてそのまま」
「こんなことしておいて、忘れたの? ひどいわね。かわいそうに……」
リンネはすっかり同情してしまっている。
「どれくらい、ここにいるの?」
「三十年……はいたかなぁ。ここへ来ても、怖がってみんな逃げちまうし。人間がここまで来たのって久々だ」
「そんなに長い間、忘れられてたの? ひどい。あなた、それでよく死ななかったわね」
「オレ達の寿命からみれば、三十年なんてそう長くもないけどさ。何も食わなくても、百年は生きてられるかな。もっとも、こんな風に力はなくなるけど。たぶん、最初の頃に張られた呪符のせいで、余計に力を抜かれたんだ」
食べられないのに死ねない、というのも逆に苦しそうだ。
「あなた、無実の罪でずっと入れられてたのね」
「うん。えん罪って奴だよな、ったく」
「出してあげる」
「リンネ!」
ニルケが止めようとしたが、もう遅い。
リンネは持っていた石を振り上げ、檻の木の部分を叩いた。木の壁はすっかり腐っていて、思った以上にあっさりと破れる。風雨にさらされ、もう紙と大して変わらない強度だ。リンネは石を捨てると、手でばりばりと木をはがす。
ニルケは慌ててリンネをそこから引き離すと、自分の後ろへやった。
「何するのよ、ニルケ」
「相手は空腹の魔物ですよ。自分がエサになる気ですか」
「でも、あの子の目は嘘をついてないわ」
「魔物は人間を騙すのが得意なんです」
そう言い争っている間に、少年は破れた部分から頭を出し、肩を出し、やがて檻から抜け出した。両足には錆びた鎖が巻き付いたままだ。
「ふう……」
黒の短い髪。汚れた白の半袖シャツに黒いズボン。露出している部分の肌は、褐色。
街を歩き回っていれば、彼のような少年はどこででも見掛けられる。檻の中にいる時からそうだったが、どこから見ても本当の人間としか思えない。
しかし、檻から完全に出てそのまま地面にうつぶせになったかと思うと、少年は黒い狼に姿を変えた。
わ……本当に人間じゃないんだわ。魔物……ううん、これが魔獣なのね。
人間の時より足が細くなったので、狼に巻き付いていた鎖が外れる。
檻から出て、束縛していた鎖が外れ、これで魔獣は完全に自由だ。
それを見たニルケの右手の拳が、淡い赤に光る。少年が襲ってきた時に反撃するためだ。
「ニルケ、攻撃とかって苦手なんじゃなかったの?」
「いざとなれば、そうも言っていられないでしょう」
ニルケは武道関係は苦手だ。いわゆる完全な文化系。剣術もきっと、リンネの方が上手い。
そんなニルケがすぐ攻撃に移れるように構えているのは、ひとえにリンネを守るためだ。魔物と戦っている間にリンネを逃がすこともできるだろう。
年上の人間として、か弱い(かどうかはこの際気にせず)女の子を守らなければ。彼にはリンネを任された責任があるのだ。
「だけど……襲ってくる気配、ないわよ」
言われてみれば、確かに狼だった魔獣はまた人間の姿になっている。本当に空腹のようで、近くの木にぐったりともたれて座っていた。これでは狩りなど無理そうだ。
「リン……っての? とにかくありがとな。とりあえず、日干しになるのは避けられた」
力のない声で礼を言う。
「本当におなかすいてるみたいね」
リンネは自分の荷物から食料を取り出した。今日、明日の昼に食べるつもりで用意してきたパンや干し肉などだ。ちょっとだけ日持ちするお弁当である。
「こんなのでよければ、食べる?」
差し出された食料とリンネの顔を、少年は交互に見詰める。
「あ、こんなの嫌い? 人間の食料って口に合わないかしら」
「え、いや、そうじゃなくてさ……これ、リンのだろ。オレにくれていいのか?」
「いいわよ、またどこかで買うから」
リンネが渡すと、少年はむさぼるように食べた。二回分の食料だったが、あっという間にきれいになくなる。
「本当に飢えてたのねぇ」
「そりゃ、一日二日じゃないからな」
少年は人心地ついた様子。見ていると、とても人や獣を襲うような魔獣には見えない。実際、襲って来る気配は全くなかった。
「人間をどうこうしようって気は全然ないのね」
それじゃあ、今からいただきます、なんて言われたらどうするのか……といったことを、リンネは全然考えない。
「オレさ、ガキの頃、人間の女の子に助けられたことがあるんだ。その子はリンくらいか、もう少し小さかったかな。病気がちらしくて、動物と接することがほとんどなかったみたいでさ。オレが小さかったってのもあるけど、その子はオレを犬と間違えてた。野良犬と思ったのかもな。家族に内緒で、こっそり食い物をくれてたんだ」
「リンネがやりそうなことをしていたんですね」
「いいじゃない。子犬サイズなら、何かあげたくなるわよ」
しかし、その少女は当時の流行病にかかり、亡くなってしまった。
人間との関わりと言えばその少女と、檻に入れた人達くらい。
檻に入れたまま放っておかれたのはいただけないが、最初に出会った少女に食べる物をもらったことが少年の中で大きく占めていた。そのためか、人間に対してどうこうしようという気にならないのだ。
少なくとも、明らかな敵にならない限りは。
「そっか。やっぱり食べ物の力って大きいのね」
食べ物の恨みは怖いと言うが、食べ物の恩もまた大きいのだ。
「さぁ、リンネ。もういいでしょう。行きますよ」
ニルケに促され、リンネは立ち上がった。
「リン、旅の途中なのか?」
「うん。途中と言うより、始まったばかりよ」
「じゃ、オレも行く」
「どうしてですか」
リンネの代わりにニルケが尋ねる。
「旅には危険がつきものだろ。リンに何かする奴がいたら、オレが追っ払ってやるよ」
「きみが『何かする奴』ではない、とぼくたちに信用させられますか?」
ニルケはまだ少年を信じていない。彼の言うことが本当かどうか、ちゃんと見極められていなかった。
本当に三十年閉じ込められていたかはともかく、空腹だったには違いない。食事をしたばかりだが、あれで足りたのかどうか。
もし足りなければ、次は自分達が彼の胃袋に収まることにもなりかねない。さっきの話もどこまで本当なのか。
「無理だな」
ニルケの言葉に、少年はあっさりきっぱり言い切った。
「だってオレ、そういう術、持ってないもん。オレ、魔力があっても、うまく使えないんだよなぁ。こうして人間の姿か狼の姿になるくらい。オレが何かしようとしても、魔法使いのあんたなら、どうにかできるんじゃない?」
「術を使って信用させようとするなら、それは詐欺です」
言わんとすることはわかるが、言わなくていいことまで言っているような……。
「ねぇ、ニルケ。いいじゃない。連れてってあげようよ。狼がボディガードしてくれるんなら、きっと追い剥ぎなんかが出ても怖がって逃げるんじゃない?」
ニルケに同意を求めるような言い方をしてるが、実のところ、もうリンネは彼を連れて行く気になっていた。
もちろん、ニルケはそのことがわかっているし、リンネは言い出したら聞かないのもわかっている。長い付き合いだ。
「あたしの後ろに乗る?」
「いいや、歩いてく。久し振りに土を踏み締めたいからな」
ニルケの返事を聞くまでもなく、ふたりはすでにそんな会話までしている。完全に同行決定だ。
やっかいな種が増えたと、ニルケはこっそり溜め息をつくのだった。