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お嬢様にピンチなし  作者: 碧衣 奈美
第三話 消えた魔法使い

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魔性と魔法使い

 少し時間が戻る。

 リンネ達がシーナの街にある魔性の森へ着く日から数えて、二日前の晩。

 ニルケが友人ユーガスの家を出たのは、かなり夜も遅くなった時間だった。久し振りに会うユーガスとつい話がはずんでしまい、気が付くと夜も更けている。名残惜しかったが、ニルケは帰路についた。

 夜空には、細い三日月が浮かんでいる。通りはとっくに人通りもなく、静かなものだ。

 その静かな道を、ニルケはのんびりと歩く。魔法ですぐに帰ることもできるが、魔法を使うような距離でもない。それに、少し歩きたい気分でもあった。

 途中、通りを横断するねこを見掛けた。

「今から集会ですか」

 何となくそんな言葉をかけてみる。ねこは返事するかのようにニャアと鳴いた。

 が、次の瞬間、驚いたような声を出し、そのまま素早く逃げて入ってしまう。ニルケが驚かした訳でもないのに。

 不思議に思ったニルケだが、すぐに原因がわかった。背後に不気味な気配が近付きつつあるのだ。邪悪とも呼べる空気だ。

 すぐに振り返る。と、そこには骨と皮だけで作られたような、鳥に近い異様な姿の魔物が立っていた。まるで魔物の骨格標本が動いているみたいだ。

 コルドナの街に魔物が出る、なんて噂はどこからも聞いていませんが。

 それからすぐに、昨夜の父の話を思い出す。魔法使いが何人も消えた、という話を。

 これが魔法使いをさらっていった……というのは充分に考えられますね。魔法の気配を嗅ぎ付けて現れた、というところですか。

 魔物が白い息を吐く。すぐにニルケは防御の呪文を唱えた。まともにかからないようにし、それから風を出して辺りに漂っている煙を吹き飛ばしてしまう。

 それを見て、魔物は大きな鎌を取り出す。それをニルケに向かって投げ付けた。

 それはそうやって使う武器ではないでしょう。

 ニルケは素早く防御の盾を出し、鎌はその盾に当たって跳ね返った。魔物はあきらめず、今度は短剣を連続して投げる。だが、全てはニルケの盾に阻まれ、魔法使いを傷付けることはできない。

 このままこうしている訳にもいきませんから、少しはこちらからも攻撃させてもらいましょうか。こういうのはあまり得意ではありませんが。

 ニルケは盾を出しながら、攻撃の呪文を唱える。すると、ただ跳ね返って地面に落ちるだけだった魔物の短剣が、向きを変えて魔物を狙って飛ぶ。

 一本が魔物の肩に、一本が足に刺さる。魔物は短い悲鳴を上げたが、ダメージを受けた様子はない。懲りずにまた攻撃を開始する。

「いい加減にしなさい。ぼくも本気で攻撃しますよ」

 相手は何の容赦もなく、なぜ攻撃してくるのかという理由も言わない。こんな輩の相手をしていても、自分が疲れるだけだ。

 ニルケは長く鋭い剣を出した。それを見て、魔物の短剣を投げる仕種が一瞬止まる。ためらわず、ニルケは剣を魔物へ向けて飛ばした。剣の先は、しっかり魔物の胸を狙って飛ぶ。そして、狙い違わず心臓部を貫いた。

 カシャンという軽い音が響く。ニルケの剣が地面に落ちた音だった。

 魔物の胸を貫いたはずの剣が、地面に落ちているのだ。

 幻影?

 ハッとして後ろを向いた時はもう、遅かった。

 しまった。本体は後ろにっ。

 魔物はニルケの背後へ回り込み、最初のように白い息を吐きかけた。間近で吐きかけられ、防御が間に合わない。息を止めたが、すでに煙はニルケの肺に侵入していた。

 力が抜ける。頭が重くなり、立っていられなくなる。目の前がはっきりしなくなって、意識も段々と薄れてきた。やがて、足は体重を支え切れずにゆっくりと崩れ、手の平と頬に地面を感じる。

 それを最後に、ニルケは意識を失った。

「う……」

 次に目が覚めた時、ニルケは古いソファの上に横たわっていた。

 そのソファがある部屋全体も、古いながら広い。貴族の屋敷にある、応接室をもう少し広くしたような部屋だ。

 しばらく頭が重かったが、次第にはっきりしてきた。

 どうやら、荒っぽい眠りの魔法をかけられたようだ。立ち上がって自分の身体を調べてみるが、どこにも異常はない。

 一方の壁は、ガラスがはめられた扉になっていた。が、外は見えない。布で覆っているのでもないのに、ガラスの向こうは真っ白なのだ。

 結界だろう、とニルケは判断した。恐らく、本来であれば庭かバルコニーへ出られる扉だろう。

 試しに扉の取っ手に触れてみたが、ビリッとした感覚が指先を襲い、手を引っ込めて見ると軽い火傷のようになっていた。ここから出さない、という無言の脅迫だ。

 その向かい側の壁は何もなく、単に二枚の扉だけがある。とりあえず、ニルケはその扉にも近付いた。今度は用心して、軽く触れるだけにしておく。

 やはりパシッと火花が散った。出られないよう、ここにもしっかり魔法がかけられているらしい。

 ニルケが横になっていたソファは、部屋の真ん中に置かれていた。ガラス扉が右に、普通の扉が左にある。前後の壁は何もない。出入口となる扉はこの左右の扉で、他に出られそうな穴などはどこにも見当たらなかった。天井にも抜けられそうな部分はない。

「さて、ぼくに何のご用でしょうか」

 出さないつもりでいるのなら、そのうち招待した相手から出向いて来るだろう。強引な招待だが、受けたからにはホストを見たいものである。

 ニルケはしばらく部屋をうろつき、扉以外に抜け穴の類がないか見落としてないことを確かめ、魔法なしでは出られないと知ると、のんびりソファに座って相手の出方を待つことにした。

 外の明るさがわからないので、今がもう朝になっているのか、それともまだ夜明け前であるのか、もしかすれば昼過ぎになっているのか、判断できない。

 噂に聞いた、魔法使いをさらっている誰かの仕業なのだろうか。だとすれば、他の魔法使いは別の部屋に監禁されていることになる。さらってきた人間は見張りやすいよう、一つの場所に閉じ込めておきそうなものだが、こんな広い部屋に一人、というのも妙な気分だ。部屋が余っているのだろうか。

 もしかすると、孤独にさせておいて何か仕掛けようという魂胆、という可能性もある。何にしろ、油断はできない。

 色々と考えながら、ニルケは誰かがやって来る、もしくは声だけでもしないかと待った。無理に外へ出た途端に命を奪われてしまう、というのもごめんだ。

 とにかく、何か動きがないかと待ち続けた。

 だが、全く音沙汰がない。誰も来ないし、いきなりどこかから声がして脅しをかけてくる、というのもない。

 どういうつもりなのだろう。ひょっとして忘れられているのか。それはそれで、ちょっと困る。

 時間を計る物が何もない。時計もないし、窓の外の明るさが変わらないために陽が上っているのか沈んでいるのかすらもわからない。目安になるものが何もないのだ。

 どれだけ待っただろう。こういう時は短い時間がとても長く感じるものだ。

 それでも、ニルケは動かなかった。これも相手の心理作戦ではない、とも言い切れない。家族やリンネが心配しているのは想像がつくが、今は横に置いておく。ここまできたら、ニルケとしても根比べだ。

 さらに時間が経った。

 突然、部屋の空気が変わったのを感じる。はっとしてニルケは立ち上がった。

 ようやく来たか、と思いながら身構えていると、ニルケを襲った骨の魔物が姿を現す。

 魔物は肩に人間を担いでいた。一言も言葉を発さず、つかつかとニルケのいるソファの方へと近付く。

 ニルケはふいの攻撃に備えて両手に力を込めたが、魔物はそんなニルケには見向きもせず、担いでいた人間をソファに寝かせると、さっさと消えてしまった。

 てっきり何か動きがあると思っていたニルケは、あっけにとられる。

「ち……ちょっと待ちなさい。ここへ連れて来たのは、ぼくに用事があるからでしょう。何の用があるのか言いなさい。いつまで閉じ込めておく気ですか」

 魔物の消えた方へ向かって叫ぶ。だが、魔物はもう姿を現さなかった。

「いい加減にしなさい。人を何だと思ってるんですか」

 さすがにニルケも頭にきた。

 それがわかったのか偶然か。

 魔物は現れなかったが、ようやく声が聞こえてきた。地の底を這うような低い声だ。

(ルームメイトを連れて来てやった。仲よくするがいい。わしに会いたくば、そこから出よ)

 ずいぶんな扱いである。閉じ込めておいて、そこから出て来い、とは。

 声はそれっきりで終わった。ニルケは扉の方へ行ったが、魔法は解かれていない。自分で解いて出て来い、という訳だ。いやがらせもいいところである。何の恨みがあって、こんなことをされねばならないのだ。

 ニルケは取っ手に解呪文を唱えようとして、さっき魔物が新しい人間を連れてきたのを思い出す。その人を放っておく訳にもいかない。

 ソファの方へ戻り、横向きで寝かされている「ルームメイト」の肩を揺すった。

「大丈夫ですか?」

 ストレートの長い金髪が腰近くまでかかっている。掴んだ肩はとてもきゃしゃだ。

 女性? 女性が連れて来られたのか。

 ニルケはもう一度、彼女の肩を揺すった。まだ目を覚まさない。彼女もニルケと同じ術をかけられ、連れて来られたのだろうか。無理に起こしても、おかしな後遺症が残ってしまいかねない。

 ニルケはそっとしておくことにした。上着を脱ぎ、彼女にそっとかける。静かな寝息だし、これなら今のところは支障もないようだ。

 また帰る時間が遅れそうですね。帰ったら、リンネに何を言われるやら……。

 ユーガスの家へ行く時の別れ際。リンネの言葉を思い出せば、戻ればどういうセリフが飛び出して来るか、想像がつく。

 連れて来られたからには、彼女も魔法使いなんでしょうね。

 ソファで眠っている女性は、二十歳前後だろう。どこにでもいそうなお嬢さん、といった雰囲気だ。美人といってもいいだろう。一見しただけでは魔法を扱いそうには見えないが、人は見掛けによらない、という言葉もある。これで案外、とてつもない魔法を繰り出すのかも知れない。

 彼女も魔法使いがさらわれる、という噂を聞いているだろうか。自分がその被害者だとわかった時、パニックにならないでいてくれるといいのだが。

 リンネのような性格なら、あまり騒いだりすることもないだろうから、そういう点では楽。でも、リンネははちょっと……かなり特殊なタイプだから、目の前の彼女にそれを求めてはいけないだろう。

 大抵の人は追い詰められたり、恐怖が頂点に達すると錯乱状態になってしまうことが多いものだ。あるいは、なぜ自分がこんな目に遭わなくてはいけないのか、という文句をそばにいる人にわめきたてるタイプ。こういう場所でそうはなってほしくない。

 またしばらく時間が過ぎる。同じ術をかけられているのなら、ニルケも彼女と同じくらいの時間、眠っていたのだろうか。

 もっとも、これだって時計がないから体感でしかわからない。

「……ん」

 彼女が身動きした。やがて、まぶたがゆっくりと開く。きれいな紫の瞳。

「気分は悪くありませんか?」

 ニルケはわざと少し足音をたて、彼女に近付く。いきなり驚かせないためだ。

 しかし、男の声と姿はやはり女性には警戒心を起こさせるものらしい。彼女はビクッとしてこちらを向いた。

「ああ、急に動かない方がいいと思いますよ。まだ頭が重いでしょう? しばらくすればなくなるはずですが」

「ここはどこなの。あなたが私をここへ連れて来たの? あの魔物はあなたが……」

 自分の身体にかけられていたニルケの上着を、彼女は固く握り締める。それだけを見ても、不安で一杯だというのがわかった。

「待ってください」

 ニルケは「ルームメイト」の言葉を遮った。このままでは自分が犯人にされてしまう。

「ぼくもあなたと同じ境遇に遭っているんです。鳥の骨のような魔物に襲われたでしょう? この部屋へはその魔物が運んで来ました。同じ魔物に、ぼくも連れて来られたんです」

「あ、あなたも……」

「あなたをここに置いて魔物が消えた後、声がしました。わしに会いたくばここを出よ、と。相手が何を考えてるかはまだわかりませんが、挑戦させようとしているみたいです」

 ニルケの話を聞いて状況がわかったのか、彼女も少し落ち着いたようだ。

「あの……あなたは」

「ああ、申し遅れました。ぼくはニルケ=ドュート。ラースの魔法使いです。実家がコルドナにあって帰っていたんですが、少々時期がよくなかったようですね」

「シェリルー=サントレーフ。コルドナの街に住んでいて、私も魔法使いです。その……まだまだ見習いですけど」

 控え目な女性のようだ。いつも元気すぎるリンネを見ているニルケにすれば、まともな女性を見た、という気分だ。もちろん、こんなことはリンネに話せない。

「ぼくも大した腕ではありませんよ。……やはり魔法使いが狙いだったようですね、ここの主は」

 シェリルーも、例の噂は耳にしていた。友人にも注意しろ、と言われたばかりだったのだ。しかし、まさか魔物が庭へ入って来るとは思わなかった。

 その存在に気付いて悲鳴を上げる間もなく、ニルケと同じように白い息を吐きかけられて意識を失った。気付いた時にはここにいて……。

「私、よく失敗するんですよね。魔法書もよく読み違えたりしちゃうし。魔法は私に向いてないみたい。だから、まさか私がさらわれるなんて思ってもみなかったし……」

 さらってきた人間が二人も魔法使いだという偶然なんて、まず考えにくい。やはり噂をつくっているのは、さっきの声の主だろう。魔法使いを集めて何をする気なのか。

 とにかく、シェリルーも目を覚ましたことでもあり、ニルケはこの部屋を出るために動くことにした。

 出るなと言われたなら、静かにわからないようにしようとも思うが(リンネが抜け出す時の心情がわかったような気がするニルケである)出ろと言われたのだからどうやろうとこちらの勝手だ。あちらもいやみったらしく、封じの魔法を使っているのだから。

「扉は全て、魔法で封じられています。これを破って出て来い、ということでしょう」

「出られるかしら」

「どれだけの力でこの扉を閉じているか、ですね。とりあえず、やってみます。少し離れていて」

 もし失敗した時、自分が出した力が相手の魔法に跳ね返されることがある。そうなると、その跳ね返った自分の力でケガをする時があるのだ。

 シェリルーは言われた通り、おとなしく後ろに下がった。

 ニルケは静かに解呪の呪文を唱え始めた。それから指先を扉に向ける。

 パチッという大きな火花が出た。扉は開かない。だが、跳ね返る力はなかった。少しは効果があった、ということか。

 ニルケはもう一度唱え、さっきより力を強めてみる。また火花が出たが、しかし跳ね返る力はない。念のために扉の取っ手に触れてみたが、やはり魔法は解けていなかった。

「開かないんですか?」

「相手の魔法の方が強いようです。しかし、おかしいですね……」

「何がですか?」

「相手の魔法が強いということは、ぼくが放った魔法の力は跳ね返されるはずです。それが何も反動がないというのが……」

 どうも納得しにくい結果だ。わずかの跳ね返りもないとは。

「私も手伝います。二人でやれば、開くかも知れないわ」

 あの声も、ルームメイトと仲よくしろ、と言っていた。つまり、協力して出て来い、というつもりだったのか。

「では、お願いします。気を付けてください。跳ね返らないと思っていたら、倍の力が返ってくるということもありますから」

「はい」

 二人して呪文を唱える。跳ね返る力も予想して充分に注意し、二人の力を扉にぶつけた。だが、やはり反応は変わらない。

「私、今は失敗してなかったと思いますけど……」

 シェリルーは少し心配そうだが、他の作用をもたらすような魔法は感じられなかった。一応、彼女の魔法も成功していたようだ。

「ぼくも今までより強くやったつもりですけれどね。そう簡単には出さない、という意思の表れ、ですよ」

 声は、出よ、と言った。自力で出て来い、という意味だ。さらには、出られるものなら出てみろ、というのもあるのではないか。

「もし開かなかったら?」

「このままにされるか『ルームメイト』とやらをまた増やすか、でしょうね」

 ニルケはまだこの時、相手が魔性であるということを知らなかった。

☆☆☆

 ニルケとシェリルーは、扉からガラス扉に標的を変えた。

 あの扉だけが出入口ではない。ガラス扉の向こうは真っ白でどういう状態か見えないが、扉の魔法さえ解いてしまえばどこか別の場所へ行けるかも知れない。結界という難関はあるが、ガラスを破った途端に全てが崩壊、ということもありえる。

 ニルケとシェリルーは、ガラス扉に向かって解呪の呪文を唱えた。反応はなし。

 試しに、ニルケは効果があるかも知れない別の呪文も唱えてみた。

「空しくなりますよ、こうも無視されたみたいに何も起こらないと」

 わずかでも何かが変われば、そこを攻めてゆけるのだが、そういうものが一つも起こらない。腹が立つ程、静かなものだ。

 確かに魔法は発動しているはずなのに。失敗しているとしても、今までこんなに無反応なことはなかった。

「相手が人間以上の力を持っているということかしら」

 何度も魔法を使ううちに、ニルケは息が切れてきた。

「恐らく。いくらぼくより強い魔力の持ち主の仕業だとしても、人間がこれほどまでに強力な結界を張れるとは思いませんから」

 ニルケより強い魔法使いなど、世界にいくらでもいる。だが、ここまで何も反応しないのは妙だ。

「ニルケ、少し休んだ方がいいですよ」

 シェリルーの言葉に、ニルケは素直に従った。これ以上無理しても疲れるだけ。

 二人が扉に悪戦苦闘している間に魔物がまた現れ、パンと水だけという粗末ながらも食事を置いて行った。魔物の給仕なんて気持ちのいいものではない。だが、毒は入ってはいないだろう。こんな所に閉じ込めるだけの力があるなら、わざわざ毒殺する必要もない。どうやら飢えさせる気はないようだ。

 逃げる時に力がなくては困るので、二人は運ばれたものを口にした。ウェイターがあの魔物では食欲がなくなりそうだが、この場にいないだけいい。

 水を口にしながら、ニルケは考えた。

 何かがおかしい。いくら相手が魔物だとしても、こうまで魔法が効かないなんてことがあるだろうか。ニルケより相手が断然強い、と言ってしまえばそれまでだが、それだけではない気がする。

「あの……これはニルケの?」

 シェリルーが差し出したのは、眠っていた彼女にかけていたニルケの上着だ。彼女が起きてからずっと、ソファの背もたれにかけてあった。

「ええ。まだ持っていても構いませんよ。寒くないならいいですけど」

 暑くも寒くもない部屋だが、広すぎる。人がいないのに広い空間だけがあると、妙に落ち着かない。いわゆる適温であるはずなのに、ゾクッとしてしまう時がある。

「ありがとう」

 シェリルーは彼の上着をはおった。こんな状況に陥って、心細かったのだ。もしニルケがいなかったら泣いていたかも知れない。こういう時だから、人の小さな優しさがとても嬉しかった。

「あたしもニルケ程に魔法が使えたら、もっと手助けができたのに」

 話を聞いていると、シェリルーも幼い頃から魔法の勉強はしていたらしい。習い始めた時はコルドナの街に魔法使いがいなかったので、隣の街へ通いで修行していたと言う。

 ただ、こういうものにもやはり向き不向きというものが存在する。

 魔法の勉強は魔法書を読解することから始まるのだが、彼女は同じ時期に始めた子よりも半年多くかかったらしい。あとはもう、少しずつだった遅れにどんどん差がひらき……今は魔法使いの前に『腕の悪い』という形容詞が必要なレベル。

「ぼくもまだ勉強中の身ですよ。魔法力を向上させたい、という気持ちはそれなりにあります。独学ですから、行けるところは知れてますけれどね」

「独学? じゃあ、魔法使いの師匠がいて、というのじゃ」

「ありません。シェリルーと同じで、ぼくが勉強を始めた頃は近くに魔法使いがいなくて。近隣の街の魔法使いに師事しようという考えも浮かばなくて、自分で手探りで始めました。一度自分のやり方を確立してしまうと、今更誰かの元で修行を……という気にもならなくて。ああ、魔法使いじゃありませんけれど、ぼくの魔法力向上に大きく貢献してくれた人がいます」

 言わずもがなのリンネである。彼女がやたらといたずらしたり、勉強を抜け出して街へ遊びに行ったりするのを捕まえるため、ニルケは魔法を使った。よく本を隠されたので、その度に探索の魔法を、リンネを捜す時は追跡の魔法を使ったのだ。

 そこから派生して、別の魔法も使うようになり……独学にしてはそれなりな使い手になったのである。

 そういう意味では、リンネはニルケにとってすごい恩人になったりするのだ。

 もっとも、リンネに話したら調子にのるから言えないし、ここまでなるのにかなり手こずらされたのも事実。

 今頃、リンネはどうしているだろう。どれ程の時間が経ったかどうか定かでないが、長い時間が過ぎたのはもう間違いない。どこにもいないと知ったら、捜し始めるのではなかろうか。リンネならやりそうだ。

 魔物に捕まってしまったのだと知れば、それこそ怖いもの知らずのリンネのこと、絶対に捜すわ、と言い出すに決まっている。(当たっている)リンネを止めるなんて、誰にもできないだろう。(これも当たっている)

 ただ、相手がニルケにもまだわからないし、リンネがここへ来られたとしても来るまでの間に危険がないか、というのが心配だ。多少のことなら……多少でなくても突っ込みかねない性格だから、余計に心配だ。

 ニルケの斜め上を行ったりするので、リンネがどういう手段で捜そうとするか、全く予測できない。カードがそばについているだろうが、彼にだってリンネをうまくなだめすかすのは至難の業だろう。

 はっきり言って、リンネのことを考え出すと、不安と心配しか浮かんでこない。

「ニルケ、大丈夫ですか? とても疲れてるみたい」

 リンネ達のことを考え、つい難しい表情をしてしまっていたらしい。それをシェリルーは気分が悪い、と勘違いしてしまったのだ。

「あ、いえ、大丈夫ですよ。……もしかして」

 ふとひらめいたニルケは、ソファから立ち上がった。ガラス扉の方へ向かい、何を思ったかいきなり魔法で水をかける。

「ニルケ? 何を……」

 水圧でガラスを破るつもりだろうか。でも、それまでに色々と当ててひび一つ入らなかったではないか。水の勢いを莫迦にできないからと言っても、ここではあてになりそうもない。

「思った通りですよ。ほら、あれ」

 水はガラス扉に当たっている。だが、しぶきが一滴も出ない。水滴がガラスに垂れることもなかった。

「え、どうして……」

「あの扉は、全ての魔法力を吸い込んでるんですよ。深い穴に力を放射してるようなものです。これなら反応がないのも当たり前。跳ね返る力すら、全て吸収しているんですよ」

 闇雲に魔法を使っても、これでは魔力を失うだけで出られるはずもない。魔力を失うということは、精神力や体力も消耗することにつながる。これに気付かずにずっと魔法で扉を開けようとしていれば、いつか全ての力が尽きて再起不能、最悪は死。

 シェリルーはそれを聞いてゾッとした。思わず自分で自分の肩を強く抱く。自分も彼と同じようにしていたら、ニルケよりも体力が少ない分、早くに力尽きていただろう。

「実際に触れて火花が出るのは、炎か雷の力を見えない膜のようにしているんでしょう。いわば、結界もどきですね。火花を見れば、こういう状況ですから結界が張られていると思いがちです。魔力を吸い取る仕掛けを隠す役割でしょうね。こちらは結界を解く魔法を使い続けさせられて。何にしても汚いやり方ですね。こちらがさんざん力を使って倒れ掛けた頃に現れて、脅しをかけようという計画でも立てているんですか」

 見えない主にきつい口調で言ってみるが、返事はなかった。

「魔法が駄目なら、まともな物質でガラスを割ってみましょうか」

 水の入っていたカップを手にすると、シェリルーはガラス扉に向かって投げてみた。

 パリンといういい音がしたが、割れたのはカップだけで、扉には傷一つない。

「物質でも無理なようですね。傷の一つも付くようなら、そこのソファを投げようかと思ったんですが」

 カップ一つで破れるなら、ソファなら確実だ。しかし、やっても疲れるだけ。

「扉が無理なら、どこから出ろって言うつもりかしら」

 ここの主はこの様子を見て、どこかで笑っているのだろうか。そう考えると気分が悪い。さらってきた目的も告げず、人を悩ませて何が楽しいのか。

 見付けたら一発……いけない、リンネの性格がうつってしまったような……。

 自分の考えたことについて、反省するニルケ。

「もう一度、この部屋の中を探してみましょう。他に出入口になるようなものが見付かるということもありますし」

「なかったら?」

「その時に考えましょう」

 やはり、どこかリンネに似てきているニルケだった。

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