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お嬢様にピンチなし  作者: 碧衣 奈美
第二十話 海の鏡

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ヴィクスの不信とリンネの信用

「やっぱり海って広いのね」

 海の中で、リンネはそうつぶやいた。

 薬をもらうと、さっさと海へ飛び込んだリンネ。その後を、カード達が慌てて追い掛ける。こういう時のリンネの素早さは、カードですら後れを取ってしまうのだ。

 海の中でリンネは手にした薬を飲み、恐る恐る呼吸をしてみる。すると、当たり前のように息ができた。水の抵抗があるので動きは陸上よりやや(にぶ)るものの、普通に泳ぐよりずっと動きやすい。呼吸に関しては全く問題がなかった。

 そうして落ち着いて周りを見ると、珊瑚が色鮮やかに広がり、岩の下にできた隙間に小さな魚が隠れ、遠くでは大きな群れが静かに泳ぎ、海底の砂に朽ちかけた舟が沈んでいる。

 これまでに何度か水の中へ入って行動する、ということはあったが、こうしてゆっくり見回すことはなかった。なので、とても新鮮だ。

「陸地より面積がありますからね」

 ニルケが事実を淡々と述べる。

「だけど、大草原を眺めるみたいな感じにはならないわね。遠くまで見渡せないって言うか」

「水と空気では光の屈折率も違いますし、呼吸ができるようになっても視界までは薬の効果もあまり期待できないんでしょう」

「確かに、リンネ達とあたしじゃ、水の中の景色は見え方がちょっと違うかもね。この辺りの海はきれいで見通しもいい方よ。人間がたくさんいる街の近くの海は、浅くて光がたくさん入って来るけど……あまりきれいとは言えないことの方が多いのよね」

 この中で唯一薬を必要としないマリンは、水の中でも動きがとても軽やかだ。

「本当なら今頃はエクサール家に到着して、ご挨拶を申し上げていたでしょうに……」

 ヴィクスが恨めしそうに、大きく息を吐いた。彼も同じように薬をもらい、海の中までついて来ているのである。

 ニルケがクウバ村で待っていてはどうかと言ったのだが、あの島へ行く時と同じで、自分だけが安全な場所で待つ訳にはいかない、と同行しているのだ。

「仕方ないじゃない、なっちゃったものは。リンネが来なきゃ、おじさん、ずっとあの浜で呆然としてたわよ。それを思えば、彼が生きてるのがわかってるだけいいじゃない」

「水の魔物なんぞに、言われたくはない」

 マリンとしては、一応慰める意味で言ったのだが、ヴィクスはそう取らなかった。

「あの化け物は、お前の仲間じゃないのか。我々はお前の仲間のせいで、ひどい迷惑をこうむっているんだ。生きているのがわかってるだけいい、だと? そもそもあんな奴が存在しなければ、こんな目に遭わなかったんだ」

「ずいぶんな言い方するじゃない」

 マリンだって、こんな言われ方をすればムッとする。

「水の魔物って一口に言うけど、それってあくまでも四元素で分けた場合でしょ。属するのは確かに水で同じだけど、みんなそれぞれちゃんと個性があるわよ。種族だってちゃんとあるんだから」

 珍しくマリンも憤慨する。

「人間だって、どこどこの国民だとか民族だってこと、言うじゃない。別の国の人間の悪事を、人間ってひとくくりで自分がしたように非難されれば、あなただって怒るでしょ。それと同じよ。魔物や妖精にだって感情もプライドもあるのよ。それにね、恩着せがましくするつもりはないけど、ダルウィンを助けたのはあたしなのよ」

「だが、あんな怪しい島へ連れて行ったのはお前だろう。水の妖精だと言うのなら、なぜもっと安全な所へ連れて行けなかったんだ。助けてもさらに危険な場所へ行ったのでは、助けた意味がないではないか」

「全知全能じゃないんだから、仕方ないでしょ。あたしはあたしなりに動いたんだから。それにさっきから聞いてたら、お前お前って何よ。あたしにはマリンっていう、かわいい名前があるんだからねっ」

「オレと初めて会った時も、そんなこと言ってたな」

 横でカードがぼそっとつぶやく。最初に会った時から、マリンは「お前」と呼ばれることをひどく嫌っていた。

「だって、ちゃんと名前を呼んでほしいもん。あたし、この名前がすっごく気に入ってるんだから」

「名前など、どうでもいい。あの島へ行ったことで、ダルウィン様はさらに危険な目に遭われるかも知れないのだ。人間にできようはずもないことを押し付ける、あのような魔物どものために……ダルウィン様はこの海の中でさまよっていらっしゃるのだぞ」

「もういいでしょ」

 リンネがやれやれ、という顔で口をはさむ。

「マリンもさっき言ったけど、なっちゃったものは仕方ないじゃない。今は彼が生きてるだけで十分だと思うわ。こんな所で一人にされれば心細いでしょうけど、ダルウィンは強いもの」

「若君に剣の腕があることは、私も認めます。その辺の(やから)と戦っても、そうそう負けることはありません。ですが、ここは人間の力が及ぶような場所ではないのですよ。リンネアリール嬢、私には魔物の肩を持つあなたのお心が知れませんな」

「あたしも、大切な若君を助けてくれた恩妖精(おんじん)を前にして、それだけひどいことを並べられるあなたの心が知れないわ」

「っ……」

 相手が自分の父より年上の人間であろうと、リンネはひるむことがない。ヴィクスはリンネのように若い女性からこうもはっきり言われたことがないのか、言われた内容にすぐ反論できないのか、言葉に詰まった。

「別にあたしの心が知れなくてもいいわよ。あたしはダルウィンと結婚するんだもの。あなたがあたしのことを嫌いでも、別に構わないわ。生きてる以上、誰かに嫌われるのは仕方ないことだから」

「私は何もそこまでは……」

 相手は一応、若君の婚約者だ。ヴィクスが教育係であっても、従者には違いない。近い将来、(あるじ)に準ずる存在になる女性に対して意見するにも、やはり限度がある。

「ここで仲間割れをしている場合ではないと思いますが」

 ニルケの静かな声で、とりあえずその場はそこまでで終わった。

「ダルウィンがどっちへ行ったかなんて、カードの鼻じゃ無理よね」

「水の中のにおいまでは、いくらオレでも無理だよ。鮫なんかだと、かなり遠くの距離からでも血のにおいを嗅ぎ分けるって聞いたことあるけどなぁ。残念ながら、オレは陸地専門だよ」

 陸上であれば、ダルウィンのにおいをたどって彼が歩いた跡を追うことも可能だ。しかし、海の中ではカードの鼻も利かない。ここではカードも例の薬なしには呼吸できないし、動きも陸地と比べて制限されるから、人間とあまり変わらないのだ。

「ねぇ、ニルケの魔法はどう? 追跡の魔法でわかんない?」

「難しいですね。あの魔法はある程度の範囲内にいるだろう、ということを前提に使いますから」

「わかんないな。それでどうして使えないの? ダルウィンがこの海にいるっていうのは知ってるじゃない」

 マリンが不思議そうな顔で尋ねる。

「……マリン、海と簡単に言いますが、どれだけの広さかわかっていますか?」

「無理だよ。マリンはオレ達と数字の感覚がズレてるから」

「そーかなぁ。海全部って訳じゃなくて、この界隈でしょ。だいたいの範囲があると思うけど」

「だいたい、と言われても、その範囲が広すぎますよ。ぼくが使う魔法の範囲というのは、本当にわずかなものなんですから。それに、魔法の気配を感じて、あの魔物に邪魔されないとも限りません」

 マリンは何でもない顔で「この界隈」などと言うが、それだってとんでもない広さだ。恐らく、ラースの街がすっぽり入るだろう。それ以上かも知れない。

 ニルケはラースの街でこの魔法をよく使うが、それは捜す相手であるリンネの行きそうな場所がいくらか決まっているからこそ、範囲を絞れるのだ。もしも街の端から端までが捜す範囲になれば、ラースのような大きな街でリンネを見付けることは非常に難しくなってしまう。

「こうなったら、手分けして捜すしかないかしらね。手掛かりがないまま歩いて、彼がいる場所と正反対の方へ行っちゃうのは困るし」

「オレ、とりあえずこの周辺で情報を仕入れて来るよ。人間が海の中を歩いてんだ。珍しいから誰かが見てるはずだろ」

「待って、カード」

 言ってその場から走り出そうとするカードを、マリンが引き止めた。

「離れない方がいいわ。水に棲む者同士なら、少し離れたってすぐにお互いを見付けられるけど、みんなは危険だと思う」

 水の妖精にすれば、水の中は当然テリトリー内。自由自在に動ける。

 でも、リンネ達が同じようにしようとしても無理だ。呼吸はできても、所詮は陸の生き物。行動も限られてくる。それは、地の魔獣であるカードだって同じこと。

「そっか。やっぱり陸と同じって訳にはいかないか」

「情報収集なら、あたしがするわ。あたしなら、どこにいたって変じゃないもん。話だってスムーズにできるはずよ。みんなが聞いて回ったら、最初にどうしてこんな所にいるんだってことになって、話がややこしくなっちゃうでしょ」

「んー、それはそうね」

 なぜ人間や地の魔獣がここに? と言われたら、ここへ来ることになった事情を話さなければならない。へたに隠そうとしたり黙っていれば、おかしな疑いをかけられて情報が引き出せなくなってしまう。

「けどさ、マリンひとりでできるのかよ」

 色々な意味で、マリンだけという点には不安がある。あたしにやらせて、と言ってトラブルを起こしかけたという「前科」持ちだ。

「魚たちはあたしの頼みを聞いてくれるもん。へーきよ。待っててね」

 マリンはそう言うと、小さな魚に姿を変えて泳いで行った。

「ぼく達は待つしかないようですね」

「オレ、ちょっとその辺を見て来る」

「カード、マリンが離れると危ないって言ってたじゃない」

「リン達が見える範囲にいるから。オレだっていつもみたいに身体が動くんじゃないから、無茶をするつもりはないよ」

 誰かに任せきり、というのが好きではないカード。そう言うと、軽く底を蹴って上へ向かう。高い所から見下ろした方が、様子もわかると思ったのだろう。木や崖などを登ることなく上へ行けるというのは、水のメリットだ。

「……私は、彼らを信用できません」

 ヴィクスの言葉に、リンネとニルケが彼の方を見た。

「そんなにカードやマリンが嫌い? 悪いことなんかしないわよ」

「あの化け物のせいで、ダルウィン様や我々がこうして危険な目に遭っているのは事実です。そして彼らも人間ではない。あのような者達を信用するなど、私にはできません。リンネアリール嬢にお聞きしたい」

「リンネでいいって言ってるのに」

 ヴィクスはそうするつもりはなさそうだ。若君の婚約者の名前を省略するなど、彼の頭にはないのだろう。

 彼を見て、ダルウィンの両親が頭のかたい人でなければいいんだけどな、とリンネはこっそり願うのだった。

「なぜ、あなたは魔物と一緒に暮らせるのです。日々の生活で、命の危険を感じることはないのですか」

 ヴィクスには、リンネが魔獣のカードと平気で暮らしているのが信じられない。常に命の危機にさらされるようなものだ。下手すれば、戦場よりも緊張を強いられる。

「危険? 少なくともカードやマリンと一緒にいて、あたしはそんなことを感じたりはしないわね」

 リンネは事実をそのまま述べる。

 考えてみれば、リンネがカードを家へ連れ帰った時から、カードが魔獣だということはリンネの両親も知らされていた。それでなおかつ一緒に暮らすことを許可してくれたのだから、すごい人達だ。さすがはリンネの両親、というところか。

 二人がヴィクスのような人だったら。極端な話、今頃リンネは生きていないかも知れない。これまでカードに命を救われたことは数知れずだ。

「ですが、いつ裏切って襲い掛かって来るともわかりません」

「そんなこと言い出したら、相手が魔物でなくても関係ないじゃない。ヴィクスって、いつも誰かに裏切られたりしてるの?」

「いえ、そんなことは……」

「でしょうねー。ヴィクスを裏切ったら、何だか怖そうだもん」

 言いながら、リンネはけたけた笑う。

「今まで他にもたくさんの魔物に遭って、何度か本当に危ないって思ったことはあったわよ。それは事実。でも、カードは命を張ってあたしを助けてくれるし、カード自身があたしのために危ない目に遭ったことだってあるのよ。あと、カード以外の魔族にもよく助けてもらったわ」

「よく……?」

 ヴィクスは目を見開いてリンネを見ている。魔物の知り合いがカード達だけではないことに驚いているのだ。

「さっきマリンが言ったけど、魔物や精霊、妖精にもそれぞれ性格があるのよ。人間を喰う魔物も確かにいるけど、それってきっとほんのわずかだわ。あたしが知ってる魔物は、いいひとばっかりよ。あ、ひとじゃないけど」

「しかし……信用しきるのもどうかと思いますが」

「ですが、カードはリンネのことを信用しきってますよ。人間だから、魔族だから、なんてことが関係ない時もあるんです」

 ニルケが上を見る。カードは言った通り、リンネ達から見える範囲で動き回っていた。

「正直に言えば、ぼくも最初の時はカードを信用していませんでした。普通の人ならそうでしょうね。でも、リンネは素直すぎて」

「え? あたしって素直?」

 ニルケの口から意外な言葉が出て、思わずリンネが嬉しそうに聞き返す。

「莫迦正直、という方が正しいですね」

 リンネが調子にのりかねないので、ニルケは咳払いしつつ厳しい言葉に言い換える。

「とにかく、人間の気持ちに応えてくれる魔族も、現実に存在するんですよ。人間より純粋な性格をしていたりさえします。魔は人間を破滅させる、と考える人はたくさんいますが、全てがそうだという訳ではない。ぼくはむしろ、破滅に導く魔を呼びよせてしまう人間の弱さの方が、ずっと問題だと思いますよ」

「とにかくね」

 話が堅くなりそうなところに、リンネが口をはさむ。

「人間にも、信用できる人とできない人がいるでしょ。魔族もそうだってことよ」

 リンネの言葉が終わる頃、カードが戻って来た。

「遠くから珍しそうに眺めてる奴はいるんだけどさ、近付こうとしたら逃げるんだよなぁ。オレに食われるとでも思ってるのかな」

「いるはずのない生き物がいて、魚達の方としても怖い物みたさなんですよ」

「怖く見えるのかな」

「カードはすてきよ。魚達はまだカードの魅力がわかんないだけ」

「へ? ……お、おい、リン。何やってんだよ」

 なぜか急にリンネに抱き締められ、カードは思いっ切り戸惑っている。

「マリンの抱き付くくせでも移ったのか?」

「んー、じゃ、そういうことにしとこっかな」

「リ、リン、何か変だぞ」

「ふふ、いーの」

 仲よくふたりがじゃれ合う様子を、ヴィクスは複雑な表情に眺めていた。

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