彼女の来訪
三月も半ばになった。寒さも少しずつ緩み、そろそろ春が来るぞ、と誰もが喜んでいる。それなのに、期待を裏切るかのように肌寒い日がまた戻ってきた。
もちろん、本当の冬のような寒さではないものの、暖かさを心待ちにしていた人達にとっては堪える寒さだ。ふくらみかけていた花々のつぼみも、忘れ物を取りに戻って来たような寒さに縮こまっている。
そんな気候のせいか、魔法使いのニルケは少しばかり調子が悪かった。寒さがぶり返す数日前から、どうも調子が悪いな、という気はしていたのだ。
朝方が急に冷え込んだこの日は、身体がひどく重いように感じていた。特に激しい運動をした訳でもないのに、関節がやけに痛い。
やっぱり風邪……でしょうね。ここ数年はひかずにすんでいたのに。
ニルケは自分の不調をそう判断した。
いつもリンネに振り回され、それに負けまいと気を張っていたので、風邪をひく間もなかったような気がする。さすがにニルケも、疲れがたまってきたのかも知れない。
今日はリンネが抜け出していても、捜しに出掛ける体力はなさそうだ。放置するということは職務放棄になってしまうが、捜し回って連れ帰っても、それから何かを教えるということは厳しい。
そんなことを考えていたニルケだが、リンネは珍しく抜け出すことなく邸内にいた。リビングのソファに座っていたのだ。
「珍しいですね。リンネがおとなしく家の中にいるなんて。ああ、だから今朝は急に冷え込んでしまったんですね」
「しっつれいねぇ。あたしだって、たまにはおとなしくしてることだってあるわよーだ」
いつも抜け出すことを皮肉られ、リンネはベーッと舌を出す。
「たまに、でなければ、もっといいんですけれど」
「いつもおとなしいと、ニルケも退屈でしょ?」
「……まぁ、今までの生活を考えれば、そう感じてしまうでしょうねぇ」
気が付いたら、いなくなっている。どうしてこうも同じことが毎日繰り返されるのか、不思議な気すらするのだが、心のどこかで実は楽しんでいるのかも知れない。このリンネがおとなしくなったりしたらニルケだけでなく、誰もが彼女がおかしくなったと思うだろう。
「ね、元気が一番よ」
「見事に自分の行動を正当化しますね」
リンネの場合、元気すぎるというところに問題が少々あったりするのだが……。
思わず苦笑してしまうニルケ。だが、リンネはそんな彼の力のない笑みに気付く。
「ニルケ、顔色悪いわ。具合、悪いんじゃない?」
「……そうですか?」
確かに体調はあまりいいとは言えないが、リンネに言われる程ひどいとは思っていないニルケだった。
「そうですかって、自覚症状ないの?」
リンネは立ち上がってニルケに近付くと、両手で彼の顔をはさむ。ちょっと強引に、自分の額とニルケの額を合わせた。身長の差なんて、あってないようなもの。あまりに素早くされたので、ニルケはその勢いにされるがまま。
家族とニルケ以外の男性が同じことをされたら、誤解されそうな行動だ。
「ほらぁ、熱があるじゃない。あたしの勉強の面倒なんか見てる場合じゃないわ。早く休まなきゃ」
手に触れた頬も、額に触れた額も、少し……いや、かなり熱い。これは間違いなく熱がある。
「あーあ、こんな時についてないな」
「え?」
「何でもない。ほら、早く」
いつもとは逆の立場で、ニルケはリンネに部屋へと連れて行かれた。
「ちゃんと着替えて休んでるのよ。お医者様を呼んでもらうから、早くベッドに入って。おとなしく寝ていてね」
まるで母親のように言いおいて、リンネはニルケの部屋を出た。
おとなしく、ですか。いつもはぼくが口にする言葉なんですけれどね。自分が言われると、やけに新鮮な気が……。
思わず笑みをもらしながら、リンネの言う通りに着替えて横になった。途端に身体がずっと楽になる。思っていたより無理をしていたらしい。
額に手を置き、心なしかいつもより熱いかな、などと考える。熱があるのなら、関節が妙に痛いのも納得できた。寒いと感じたのも、気温のせいもあるだろうが、この熱のせいだ。
さっき、リンネは妙なことを言っていたような……。
こんな時についてない、とか何とか。ニルケが熱を出して、何がついてないのだろう。リンネ自身が熱を出して遊びに行けないのなら、ついてないという言葉も理解できるのだが、リンネはどう見ても元気そうだった。
こんな時、という言葉も不明だ。今日は祭りや何かしらのイベントがある訳ではないのに。
考えようとしても、今はまともに考えがまとまらない。目を閉じると、ニルケはあっけない程すぐ眠りに落ちた。
医者が来て風邪と診断したのを、おぼろげに覚えている。やっぱり、と思いながらその言葉を聞いて。
でも、それは夢だったような気もした。熱に浮かされ、現実と夢の境目がはっきりしない。
目が覚めかけた時、心地いい冷たさが額に触れた。その冷たさで、ニルケは少し目を開ける。
最初に目に入ったのは、金色の髪。さらさらと流れる長い金糸。
それを見て、働きの鈍った頭で考える。エクサール家で自分以外に金の髪を持つ人がいただろうか、と。
エクサール一家は黒髪ばかりだし、使用人も赤や茶の髪はいるが、金の髪はいなかったはず。それとも、自分が知らないうちに入った新入り、だろうか。
でも、新入りだとしたら、この部屋へ入って来るのも妙だ。来るならもう少し見知った人が入って来そうなもので……。
もう少し目を開くと、紫の優しい瞳がこちらに向けられているのが映る。
「シェリ……ルー……?」
意識せず、そんな名前が口をついて出た。
「気分はどうですか、ニルケ」
自分の呼びかけに答えが返ってきて、しばらく間があき……それからニルケは大きく目を開いた。
「シェ……シェリルー? どうしてここに?」
夢ではなく、そこには現実のシェリルーがいた。
☆☆☆
「あーあ、こんな時に風邪ひくなんて、ニルケもタイミングが悪いわよねぇ」
リンネが口を尖らせる。
「急に寒くなったからなぁ。それに、ここんとこ本調子じゃなかったみたいだし」
今は人間の姿ではあるが、魔獣であるカードはニルケの不調を何となくは感じていたらしい。そういうことは、人間よりずっと敏感だ。
「どうせそんな体調でも、遅くまで魔法書を読みふけってたんでしょ。どうして自分の身体にそこまで拷問ができるのかしら」
「……ニルケは拷問だと思ってないから、やってたと思うけど」
リンネにとっては拷問でも、ニルケにとっては娯楽とも言える時間のはずだ。これは価値観の相違である。
「どっちにしろ、タイミングの悪さは否めないわよ。彼女は今日来る予定なのよ。せっかくお膳立てしてあげたのに。ニルケが高熱で動けない、なんて、あたしの予定には入ってなかったわよ、まったく。普段はあたしに負けないくらい元気なのに」
リンネがニルケの風邪に文句をつけているのには、もちろん理由がある。
今日はシェリルーがエクサール家を訪れる日なのだ。
コルドナの街にいる魔法使いシェリルーと、リンネは時々手紙をやりとりしている。いつもであれば、他愛もない話で手紙は埋まるのだが、この前リンネが出した手紙は少し違った。
彼女がニルケを想っているということは、シェリルーとニルケの二人を知っている者であれば誰もが知っている。リンネはそんな彼女をラースの街へ呼び、ニルケと一緒にいられる時間を作ってあげようとしたのだ。
手紙でシェリルーに遊びに来るように書くと、喜んでという返事。シェリルーも以前からラースの街へ来たいと思っていたのだ。
その後、今日という日にラースへ到着すると知らせてきた。
それなのに、一緒にいてもらうはずの……と言うか、完全にメインであるニルケがダウンしてしまった。よりによって、今日という日に。
リンネがタイミングが悪い! と文句を言うのも仕方がない。
シェリルーの来訪について、リンネはニルケにあえて知らせていなかった。突然の訪問で驚かせてやろう、というつもりだからだ。
ちゃんと知らされていれば、ニルケももう少し健康に気を付けよう、と考えたかも知れないが、それは結果論。
「こればっかりは仕方がないよ。魔法使いったって、ニルケだって人間なんだから風邪もひくしさ。そうだ。シェリルーが見舞ったら、ニルケだって早く治るかも知れない。そうしたら、ラースの街を歩くってのは無理でも、話くらいならゆっくりできるぜ」
部屋はもちろん、エクサール家の庭は広い。病み上がりであれば、庭を歩き回るだけでも十分に有意義な時間をすごせるはずだ。
「そうね。そうしてもらうしかないわね」
まるでリンネ自身のデートがキャンセルされたかのような落胆ぶり。大好きな二人に楽しんでもらおうと思っていたのに、こんなアクシデントでその時間がなくなると思うと残念でならないのだ。
「寝込んでるって言っても、会えなくなる訳じゃないんだしさ。二人が一緒にいられる時間があれば、それでいいんじゃないの?」
「んー、そっか。場所がどこだろうと、二人でいれば関係ないわよね」
自分に当てはめて考えてみる。
恋人のダルウィンと一緒にいられるなら、どこでも構わない。もちろん、きれいな景色を見たり、楽しい催し物に参加するのも楽しいが、それはそれ。
彼が隣にいてくれれば、それでいい。
そんな話をしているうち、その日の午後にシェリルーがエクサール家に到着した。
「きゃあ、シェリルー! いらっしゃーい」
訪れたシェリルーをリンネが大歓迎する。
「こんにちは、リンネ、カード。お言葉に甘えて来ちゃったわ」
「来る途中、何か起こらないかと思ってたけど、無事みたいだな」
「ふふ、おかげさまでね」
過去、シェリルーは何回もさらわれる目に遭ったので、彼女が移動する間に何かあるのでは、と少し心配だったのだが……今回は杞憂だった。
「来てくれて嬉しいわ。おうちの方はどう? もうすっかり元通りになった?」
シェリルーの家は、一ヶ月半程前に諸々の事情でロック鳥に半壊された。特にシェリルーの部屋は、屋根が見事なまでに吹っ飛ばされたのだ。
「ええ。前よりきれいになったかもね」
シェリルーは穏やかな笑みを浮かべながら答えた。
「やぁ、よく来たね」
「娘からお話はよく聞いているのよ。ゆっくりしてらしてね」
リンネが家族にシェリルーを紹介し、エクサール家は彼女を歓迎した。
「あなたがニルケの恋人?」
挨拶の後、ラグアードが単刀直入に尋ねる。シェリルーの話は何度か姉のリンネから聞いたりはしていたものの、本人と実際に会うのは今日が初めてだ。
姉の話で、二人が恋人であると聞いていたラグアードは、子どもらしい無邪気さでそう聞いたのだった。
もちろん、他意はない。ああ、この人がそうなのか、と確認しただけだ。
「え、あの……」
そんな子どもの質問に、シェリルーは真っ赤になる。もしリンネが彼女の立場であれば、はっきり「そうよ」と答えるのだが、シェリルーはリンネより年上である割に純粋なので臨機応変に対応できない。
「リ、リンネ、あなたなの? そんなことを話したのは」
「シェリルーってば、どうしてそこで、うんって言わないのよ」
「え……だって……」
照れたり焦ったりしているシェリルーを見て、ついついリンネはさらにからかってしまうのだった。
「あの、シェリルー。そのニルケなんだけどね」
ここでニルケがいつまでも出て来なければ、彼女もおかしいと思うだろう。ニルケがエクサール家に住んでいることはシェリルーも知っているし、隠してはいられないことだ。
そもそも、ニルケと会わせるためにシェリルーを招待したのに。
「え……風邪?」
「うん。今朝はいつもより急に冷え込んじゃったでしょ。ここのところ少し体調が悪かったらしいんだけど、それでガタがきちゃったみたいなのよね。今日に限って。せぇっかくシェリルーに来てもらって、びっくりさせちゃおうって思ってたのに」
話しているうちに、リンネはまたがっかり気分が戻って来る。
いつも二人が会う時は、周りが何やかんやでバタバタとしている。
シェリルーの家が壊された後、少し片付けの手伝いをした。その間に、二人が色々と仲よく話をしているのは見ている。
でも、用事をしながら、というのでは話も盛り上がりに欠けてしまうだろう。もっと話を続けたいと思っても、あまりできなかったはず。
今回シェリルーを招待したのは、たまには本当にゆっくりと二人っきりでいられるように、というリンネなりの心遣いなのだ。
「ねぇ、リンネ。お見舞いしていいかしら」
少し遠慮がちながら、シェリルーが聞いた。
「うん、もちろん。こっちよ」
カードも彼女が来る前に言っていた。シェリルーに会えば、ニルケも早く治るのでは、と。
リンネはシェリルーをニルケの部屋へと連れて行った。
医師に処方された薬を服用し、ニルケは眠っている。部屋に誰かが入って来たことにも気付いていない。
シェリルーも最初は少し顔を見られたら、くらいに思っていた。だが、額に置いたタオルを絞りなおしていたりするうち、看病のようになって……。
やがて、ニルケが目を覚ました。





