消えたリンネ
ラースの街には、いつもの年よりも冷たい冬が訪れていた。
ラースは北に位置する割にそれ程寒くならない所なのだが、今年はやたらと身を切るような冷たさを含んだ風が吹く。
普段は積もることの少ない雪も、この冬は溶け切らないうちに次の番がやって来る。毎日のように氷が張り、どの家庭でも例年より薪の消費量が増えていた。
大人達は背中を丸めて歩き、人に会えば今年訪れた冬将軍の厳しさを口にする。
だが、子ども達はどんな季節でも元気一杯だった。
寒さなど、ちょっと走り回ればすぐに身体は温かくなる。氷が張ればそれを割り、かけらを通して不思議な色の光に喜ぶ。雪が降れば、雪玉を作って投げ合い、様々な形の雪人形をこしらえる。冬でも退屈している暇などないのだ。
そういう子ども達の中に、リンネが混じる。小さな子ども達の中に入って、同じように遊ぶのだ。
彼女と同じ年頃の子なら、寒さを嫌って家に閉じこもりがちだが、リンネは寒さに強いのか、遊びたい気持ちの方が強いのか、平気で外へ出るのだった。
「ねぇねぇ、リンネ。あたし達、おかしな穴、見付けたの」
今日も街へ遊びに出て来ていたリンネ。そんな彼女になついている子ども達が、服を引っ張って報告する。五つ六つの子ども達で、年長の子でも八つになったばかりだ。
「おかしな穴? 落とし穴みたいなもの?」
「ううん、ちょっと違うみたい。ぽかってあいてるの」
相手はまだ小さいので、表現力がちょっと足りない。ぽかっとあいてる、と言われても、どういう状態かがわからない。
子ども達に引っ張られ、リンネはその穴があるという所へ連れて行かれた。
にぎやかな街を少し離れた場所にある空き地だ。リンネが生まれるはるか前には、低所得者の居住エリアになっていたと聞く。
現在は雑草が生え放題で、所々に壊されそこねたあばら屋があった。いわゆる浮浪者が住み着くような場所だ。いつ崩れるかわからない危険家屋だが、かろうじて屋根があるし、この寒さで少しでも風を防げるのなら、と彼らも入り込んでいるのだろう。
だが、子ども達がリンネを連れて行ったあばら家に、人はいなかった。
「んー、本当におかしな穴ねぇ」
リンネは素直に感想を述べた。
そこには子ども達が言うように、確かに穴があった。外れかけた出入口の扉を開けて中へ入ると、ガラクタやほこりだらけの床に、大きな黒い穴が開いていたのだ。
かろうじて飛び越せる幅。真っ暗で、下の方は全く見えない。とんでもなく深いものなのか、暗いから見えないだけなのか。
とにかく、あまり気持ちのいいものではなかった。人間が掘ったようには思えないものがある。黒い煙がたまっているようにも見えた。
もしかして、魔物が作った穴とか……。ありうるわよねぇ。以前にもよその土地へつながる怪しい穴を見たことがあるし。人間が作ったにしては、ちょっと異様だもん。この床の下は土のはずなんだから、穴の中に土が見えてもよさそうなのに、それが全然見えないわね。カードがいてくれれば、ちょっとはわかるんだけどな。
いつもリンネと一緒に行動している狼の魔獣カード。今日はここにいない。この寒さで体調を壊してしまったエクサール家の侍女におつかいを頼まれ、薬をもらいに行っているのだ。
ややこしい術などは使えないらしいが、彼ならこの穴が本当に怪しいかそうでないかくらいはわかる。まぁ、リンネにだって、普通の穴らしくない、ということは何となくわかるが。
「おかしな穴でしょ? 底が見えないもん。どうやって掘ったのかなぁ」
「たいまつなんか持って来たら、何があるかわかるかもね。でも、火で遊んじゃだめって言われるし」
「もしかしたら、この下に宝物があるかも知れないねって言ってたの」
「でも、すごく深そうでしょ。落ちて出られなくなっちゃうの、いやだもん」
「それに、宝物じゃなくて、おっきなお化けがいたりしたら、つかまえられちゃう」
子ども達が口々に言う。
「普通じゃないわよねぇ。何なのかしら、この穴」
持たなくていいものにまで、興味を持ってしまうリンネ。警戒しつつも、その妙な穴へ近付いて行く。
それから、ゆっくりと穴の中を覗き込んだ。
「あーっ、リンネ!」
子ども達が一斉に叫ぶ。床に開いた穴を覗いた途端、リンネの姿がフッと消えてしまったのだ。
穴の中へ落ちてしまったのだろうか。子ども達はしばらくリンネの名を呼ぶが、リンネは出て来ない。
「どうしよう……」
一人が覗き込もうとしたが、他の子ども達に止められた。
「ダメだよ。一緒に落ちちゃうよ」
「リンネ、穴の下で気を失ってるのかも」
「だから、呼んでも返事がないのかなぁ」
「このままじゃ、リンネが死んじゃうよぉ」
みんな、泣きそうな顔になる。まさかこんなことになるとは思ってもみなかったのだ。
リンネにこの穴のことを教えれば、きっと彼女は自分達と一緒になって何だろうとはしゃいでくれる、くらいにしか考えてなかった。
「そうだ。魔法使いへ知らせに行こう」
ニルケのことを思い出した男の子が提案する。
「あの魔法使いのお兄ちゃん? いつものリンネのこと、叱ってるよ」
「でも、リンネはあのお兄ちゃんのこと、好きって言ってたじゃない」
「叱られるのは、リンネがお勉強しないからでしょ」
こんな子ども達にも、事情はしっかりバレている。
「もう何でもいいよ。魔法使いならきっと何とかしてくれる。みんな、行こう」
自分達だけでは、どうしようもない。誰かに頼らなければ。
でも、普通の大人が助けられるだろうか。こんな時は、魔法使いの方が絶対いいような気がした。
幸い、近くに知っている魔法使いがいる。自分達は彼と仲がいい訳ではないが、リンネの家にいる魔法使いなのだから、彼女がよくない事態になっていると知れば、必ず助けてくれるはずだ。
そうと決まると、子ども達は急いでエクサール家へ向かって走り出した。
☆☆☆
「あの……ニルケ」
侍女が魔法使いの部屋の扉を控え目に叩き、そっと顔を覗かせた。
「はい、何でしょう」
金髪の青年が読んでいた魔法書から顔を上げ、扉の方を向く。
「門の所に……その、街の子ども達が魔法使いに会わせてくれって騒いでいるんですけど」
「子ども達が?」
初めての取り次ぎに、ニルケはきょとんとなる。
ニルケには、子どもに呼び出されるような心当たりがない。用事があるとすれば、リンネだろう。こんな寒い日にも関わらず、今日も元気に外へ出ているはず。勉強が終わった後なので、ニルケは彼女を追わずに済んでいた。
リンネと約束していた子ども達が彼女とすれ違い、どこへ行ったか尋ねに来た……なども考えたが、それならわざわざニルケを呼ぶことはしない。侍女にでも聞けば済む話だ。
とにかく、来ているというものをそのまま放っておく訳にはいかないだろう。
「わかりました。ありがとうございます」
しおりを挟んで本を閉じ、魔法使いは門へと向かった。
「……あ、魔法使いだ」
ニルケの姿を見ると、子ども達は少しちゅうちょするような様子を見せる。会わせろと騒いでいたらしいにも関わらず、彼を目の前にしてなかなか話し出そうとしない。
「ぼくに用事があるから、来たのでしょう? どうかしましたか」
「……あの……」
あまり話したことのない魔法使いに会い、子ども達は緊張しているようだ。互いをつつき合い、お前が話せとでもいうように目くばせしている。
「ちゃんと話してくれないと、わかりませんよ。ぼくは魔法使いですが、きみ達みんなの言いたいことが全てわかる訳ではないんですから」
「……あ、あのね」
ニルケは腰を落とし、子ども達と視線を合わす。魔法使いの優しい口調に、一人が思い切ったようにしゃべり出した。
「リンネが穴に落ちちゃったの」
「穴に?」
やれやれ、おてんばも程々にしてもらわないと……。
ニルケは子ども達にわからないよう、小さく溜め息をついた。
勉強を抜け出すのも相変わらずなら、遊び回るのも相変わらず。いい加減におとなしくしてもらいたいとは思うのだが、きっと無理だろうというあきらめもある。
「何やってんだよ、ニルケ。ガキに囲まれて。生徒を増やすつもりか」
ちょうどおつかいから戻って来たカードが、小さな子ども達の中心にいるニルケを見て、そう茶化した。
「リンネがまた困ったことになっているようですよ」
「ちぇっ。何だよ、オレがいない時に限って」
これだから、リンから離れられないんだよなぁ、などとカードがぼやいた。
「こっちなの。来て」
ニルケよりは何度も会っているので慣れているせいか、子ども達はカードの手を引っ張って例の場所の方へと連れて行こうとする。何にしろ、リンネが自力で出られないようなら行くしかないだろう。
「リンネがこれに懲りてくれればいいんですが」
「無理なんじゃないの?」
子どもに引っ張られ、先を歩くカードが顔だけをこちらへ向けて、あっさりと言ってしまう。ニルケも言葉にはしないが、肩をすくめて同感だという表情をした。
だが、子ども達に引かれて着いた所にある穴を見て、ふたりは何も言えなくなる。
底の見えない真っ黒な穴が、獲物を待ちかまえるようにして開いていた。普通の人間にはわからないだろうが、ニルケやカードにはおかしな空気が穴の周りに流れているのが伝わってくる。
「ニルケ……何だよ、これ」
子ども達の手前、なるたけ表情を変えないようにしていたふたりだが、心中穏やかではない。魔物が棲むような山や森ではなく、街の中にこんなものがあるのは異常だ。
「これも、次元の穴、とでも呼ぶべきでしょうかね……」
ニルケにも、はっきりした穴の正体というものはわかりかねた。だが、何かの不自然な力でできてしまった穴だというのは感じられる。
「何にしろ、このまま放置する訳にはいきませんね。同じことが起きる可能性がありますし」
「……リンネ、大丈夫?」
よくない雰囲気を察知したのか、子ども達が心配そうにニルケを見る。
「ええ。リンネは元気ですよ」
安心させるように、笑みを浮かべながら答える。それから、ニルケはカードの方を向いた。
「カード、話して来てもらえませんか」
「……わかった」
「少し時間がかかるかも知れない、ということも伝えておいてください。ぼくはその間に、壁を作りますから」
エクサール家へ戻り、ことの次第をエクサール夫妻に話してほしい。少し厄介な様子らしいので、リンネを捜し出すのに時間がかかるかも知れない。その間に他の被害者が出ないよう、穴の周囲に結界を張っておく。
ニルケはそう言っていた。そして、カードはニルケの言いたいことを理解し、すぐに走ってエクサール家へと戻る。
「リンネ、みつかる?」
一人の女の子がニルケの服を握り、泣きそうな顔で尋ねる。
「もちろんですよ」
ニルケは何の心配もない、という顔でもう一度にっこりと笑った。
「だけど、何度呼んでも、リンネの返事がないの」
「この穴は、みんなが知っているような穴とは少し違うんです。次元の……つまり、自然の魔法が何かのきっかけで偶然に作ってしまったもので、リンネはみんなが考えているより遠くの出口に出てしまったんですよ。だから、呼んでも聞こえないんです」
「遠くってどれくらい?」
「さぁ、それはぼくにもわかりません。でも、ちゃんと見付けますから」
「……ほんと?」
「ええ。さっきカードにも言っていましたが、少し時間がかかるかも知れませんけれどね。必ず連れて帰りますよ」
「きっとだよ」
子ども達が口々に叫ぶ。
「約束します。さて、それじゃあ外へ出てもらえますか。リンネと同じようになっては、捜す人数が増えて大変になりますからね」
子ども達は心配が消え切らないような表情をしていたが、おとなしくニルケの言うことにしたがって外へ出た。
「さっき壁を作るって言わなかった? ぼく達、手伝おうか?」
「ありがとう。でもいいんですよ。魔法で作る、見えない壁ですから」
「見えないと、他の誰かが入るかも知れないよ」
子ども達に結界と言ってもわからない。
「見えないだけで、壁はちゃんとあるから平気ですよ。それに、物々しい壁を作ると、逆に何だろうと思った人が入ってしまうかも知れないでしょう?」
「そっか……」
「後はカードとぼくに任せておいてください。みんなはこのまま、おうちへ帰ってくださいね」
魔法使いに言われ、子ども達は早くリンネを連れて帰ってね、と言って帰って行った。
子ども達の姿が消えて、ニルケは小さく溜め息をつく。
よくあの子達まで巻き込まれませんでしたね。いや、もしかすれば身寄りのない人達がすでにここへ入り込んで、ということも。あの穴の向こうがどういう場所につづいているのか……。
ニルケはとにかく、その穴があるあばら屋の周りに結界を張った。ひとまず、これで再発は防ぐことができるはずだ。リンネを見付け出したら、ここを完全に封じてしまわなければ。
少しすると、カードが戻って来た。さすがに足が速い。
「すみませんでしたね、ややこしい役目を押し付けてしまって。家の方はどうでした?」
「オレ、ゴマかすの、下手だからさ。本当のこと、全部言ったぜ」
「構いませんよ。どういう言い方をしても、リンネがいなくなった事実は隠せませんから」
「もう、こういうことに慣れちゃったのかもな。思ったよりパニックにはならなかったぜ。……ああ、あれって放心してたのかも知れないけどさ」
リンネが望むと望まざるに関わらず、エクサール家からいなくなってしまう事態がよくあったりする。カードが言うように、両親はまたか、と思っているのかも知れない。
それに加え、ニルケやカードに任せておけば、大丈夫だろうという安心もあるのだ。任される方にすれば責任重大なのだが。
「それにしても、こいつ、本当のところは何なんだよ」
「さっきも言いましたが、恐らく自然にできた次元の歪みでしょうね。魔物があけたような気配は感じられませんから。こんな場所にこういうものができてしまうのは珍しいですが、街の真ん中ではなくてよかったですよ」
「きっと大騒ぎになってるな。……でも、やっぱりリンもそこに一枚かんでくると思うぜ」
「……言えてますね」
ニルケだけでなく、リンネをよく知る人ならみんなが頷くことである。
「さぁ、とにかく行ってみましょうか」
「ああ、リンのことだから、滅多なことはないと思うけど、もっとややこしい状況になってるってのはありえるからな」
「それが容易に想像できる、というのが困りものですね」
リンネがその場にいたら、怒ってしまいそうな会話が交わされる。
「んじゃ、先行くぜ」
カードがためらいもなく、穴の中へ飛び込んだ。軽く床を蹴り、穴の上に身体が移動した途端、カードの姿がふっと消える。穴の中へ落ちてゆく瞬間すら見えなかった。
「やはり普通の穴じゃありませんね」
言いながら、ニルケもその穴の中に身を投じた。





