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お嬢様にピンチなし  作者: 碧衣 奈美
第十五話 銀の実の力

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ムルヴェードルの素性

 リンネは寝返りを打って目を覚ました。

 うっすらと目をあけ、まだ少し寝ぼけている頭で何か妙だと感じた。

 無意識に身体を起こし、それから目をしっかり開けて見回してみる。

「ここ……どこ?」

 自分の部屋ではない。自分の家の、別の部屋でもない。知り合いの家にも似ていない。エクサール家よりは見劣りするものの、これといっておかしな所もない、ごくごくありふれた部屋。

 頭をひねって考えるが、リンネはどうしても自分の記憶の中からこの部屋のことは抜き出せなかった。

「カード……ニルケ……ラグアード」

 誰か近くにいないかと思いつつ、声に出して名前を呼ぶ。でも、返事はなかった。期待はしていなかったが。

 そうこうしているうちに、頭もしっかりしてくる。

「思い出した。ムルヴェードルだわ。何かおかしな術をかけて眠らせて……。どういうつもりなのよ、あいつ」

 リンネの知らない場所。ということは、どこか別の所へさらわれたのだ。

 しかし、さらわれた身なのに、リンネがいる部屋はそんなに悪いものではなかった。

 目を覚ましたのもごく普通のベッドであったし、部屋に置かれている調度品なども数は少ないものの、それなりにいい品だ。部屋全体も広い。お嬢様を人質にしている、という自覚があるのだろうか。

「だけど、さらった相手に気を遣うはずはないわよねぇ」

 単に人を閉じ込めるような粗末な部屋がなかっただけ、だろうか。

 とにかく、何が目的なのかを知りたい。リンネは部屋の扉がある方へと歩いた。

 バンッと勢いよく開ける。ムルヴェードルに正面から理由を聞こうというつもりであるから、そっと開けて外を窺う、なんてまどろっこしいことはしない。

 が、外開きの扉に何かぶつかったような音がして、リンネは一瞬、止まった。

 もしかして……外に誰かいたのかしら。

 扉のない方にも人が立っていた。だが、それはリンネの知らない顔で、どうやら見張りに立っていたらしい。ギロッとこちらを見る。その薄い青の目がまるでねこのように瞳が細くなり、リンネは少したじろいだ。

 扉が動き、その扉に直撃を受けたらしい人物が、リンネの方を覗き込んだ。鼻を押さえ、リンネの方を睨む。その顔は、運よく反対の方に立っていた見張りと同じ顔だ。

 二人とも、男か女かわからないような中性的な顔をしている。薄い茶色の短い髪に、少しつり気味の目。二十代前半くらいで、身長はそんなに高くない。そっくりの顔なので双子かとも思ったが、まるで作られたような顔だ。ムルヴェードルはどうやら魔法を使うらしいから、彼の力で作り出されたものかも知れない。

 あまりにもそっくりなので気持ち悪かったが、リンネはこんな見張りに構ってはいられない。

「ちょっとそこをどいて。あたしはあたしをここへ連れて来た、ムルヴェードルと話があるのよ」

 見張りはどちらも言葉を発しない。ただリンネを見ているだけ。

 こういうのを相手にしていたら時間の無駄とばかりに、リンネはそれ以上は言わずに部屋を出ようとした。

 それを、二人がリンネの肩を掴んで止める。

「離しなさいよ。今あたしが言ったこと、わかんないの? ムルヴェードルに会いたいの」

 だが、二人はリンネの言葉を無視。肩を掴む手の爪が伸びる。やたらとその爪が鋭いのを見て、リンネは文句を言おうとした口を閉じた。

 押されるままに、部屋へと逆戻りする。扉が無言で閉められた。

「ふん……このままでおとなしく引き下がるリンネじゃないわよ」

 リンネは扉に背を向け、窓の方へと歩き出した。

 もちろん、扉が駄目なら窓から抜け出す、という気でいたのである。窓から見える景色では、ここは二階のようだ。しかし、リンネにそんなことは関係ない。

 だが、窓を開けた途端、リンネはすぐに閉めてしまった。窓の外のすぐ横に、これまた見張りがいたのである。それも、窓のすぐ下にあるわずかな出っ張りの所に立って。

 これにはリンネも驚かされた。まさか窓の外にまで見張りがいるとは思っていなかった。いたとしても、せいぜいリンネがいる部屋の下辺りを(もちろん、地面の上で)うろうろしているくらいだろう、と。

「とことん見張ろうってつもりね。扉や窓が開く分、期待させておいて、がっかりさせるなんてサディストのやることじゃない。まるっきり開かないのもいやだけど」

 それにしても、窓の外にいた見張りも扉の外にいた見張りも、同じ顔をしていた。それだけで気味が悪い。やはり造り出された人間に違いなかった。

「こんな所でずっとどうしろって言うのかしら。ムルヴェードルはこの部屋へ来る気はあるのかしらね。あの見張りに言って通じるかは疑問だけど、もう一度言っておく必要はあるかも」

 意思表示はしておくべきだ。

 リンネはもう一度、扉へ向かう。扉の外に見張りがいようといまいと、構わない。そんな細かいことを気にしていては、いつまでもこの部屋にいるはめになる。

 だが、少し考えて、忍び足で扉に近付く。手には花瓶を持って。

 それから、さっきよりも勢いをつけて扉を開けた。しかも、手ではなく、足で。

 さっきよりもいい音がした。今の様子では、きっとあの不幸な見張りがまた扉攻撃を受けたに違いない。

 しかし、リンネはそれで攻撃の手を緩めなかった。反対側にいるもう一人の見張りの姿を認めると、その頭目掛けて持っていた花瓶を振り下ろす。パカッと間抜けな音をたてて花瓶が割れた。その少し後で、見張りが倒れる。

 扉が少し動き、扉攻撃を受けた見張りが復活しそうになると、リンネはもう一度その扉を押した。今度は鈍い音が出て、そのまま動かない。どうやら見張りは気絶したようだ。

 リンネは部屋の外を窺い、見張りは二人だけだというのを確認してから部屋を出た。

 階段を降りる。と、下の方からあの見張りと同じ顔のねこ目人間が、何人もわらわらと上がって来た。

「わっ……一体、何人いるのよ」

 さすがにそのまま下へ降りて行く気にはなれない。だが、上に行ってもまたあの部屋が待っているだけ。他にも部屋はありそうだったが、どこへ入ってもさっきの部屋と同じような結果になりそうだ。

 だが、このまま止まっていても、そのうちねこ目人間に捕まる。

「えーい、こんな所で止まっていられるもんですかっての」

 リンネは階段の手すりにまたがった。そのまま重力にまかせてすべる。ねこ目人間が手を出そうとしてくるが、リンネはそれを振り払った。

 下まですべり落ちると、軽々とリンネは床に着地する。そのまま走って外へと続く扉を探す。位置的にもそうだろうという扉を見付け、一気にそちらへダッシュした。

 部屋のものより大きな扉だし、扉の前は小さいながらホールのようになっているから玄関だろう。だが、ノブが動かない。鍵がかかっているのだ。

 後ろを振り返ると、リンネを捕まえそこねたねこ目人間が、階段を駈け降りてこちらへ向かって来ている。気のせいか、目付きが鋭くなっているような。

 さっきの見張りに肩を掴まれた時の爪を思い出す。あんな爪で襲いかかられたら。

 手には何の武器もない。リンネの腕ではとてもあんな人数の相手は無理だ。

 扉に張り付くようにして、リンネはねこ目人間達と向かい合う。見事に同じ顔をしたねこ目人間達は、わずかな距離をおいてリンネを囲んだ。

 一斉に来るかしら。そうなったらいっそのこと、足の下へでももぐり込んで逃げることはできるけど、この格好じゃ……。

 リンネは昨夜のパーティで着ていたドレスのままだ。動くには少しマズい。

 裾をたくし上げ、リンネはいつでも逃げられるように構える。

「もういい」

 声が響き、ねこ目人間がスッと後ろに引いた。

 二手に分かれたねこ目人間の間から、開かれた扉から現れるかのように男が出て来た。さっきからリンネが捜していたムルヴェードルだ。

「お前達は引いていろ。お嬢様の相手は私がする」

「威張ってんじゃないわよ、この人さらいっ」

 怒鳴るリンネを無視し、手下達は屋敷のどこかへ姿を消した。

「さぁ、お嬢様。こちらへどうぞ。お茶でも淹れましょう」

 リンネの言葉を無視しているのは、ムルヴェードルもねこ目人間達と同じ。妙に優雅な仕種は、さらって来た人間に対する態度ではない。

「そのお茶に、別の何かを入れるつもりなんじゃないの? 次に目が覚めたら、また別の場所にいるんじゃないかしらね」

 どうせ効果はないだろうと思いつつ、リンネはしっかり皮肉ってやる。

「お茶には砂糖やミルク、ジャムやブランデーなど入れるものはたくさんありますよ。何も入れないのがお好みなら、そうしますが」

 やっぱり皮肉は通じていない。あからさまな無視だ。

「ここはどこなの」

「立ち話より、座ってゆっくり話す方がお互いよくありませんか?」

「……わかったわ」

 いざとなったら、お茶をぶっかけて逃げてやる、と心の中で計画しながら、ムルヴェードルの後をリンネはついて行った。

☆☆☆

 お茶を目の前に置かれても、リンネはすぐには手をつけなかった。もうさらった後なのだから、今更何かをするとも思えないが、素直に飲むのも抵抗があったのだ。

「説明してもらいたいわ。どうしてあたしをさらったりしたの。あなた、ドルチェットのおじ様の代理なんでしょ。こんなことしておじ様に迷惑が……」

 言い掛けて、リンネは言葉を切った。

「まさか、おじ様に何かしたんじゃないでしょうね」

「いいや。彼には自分の家へ戻ってもらっただけ。傷一つない」

「本当でしょうね」

「あの屋敷へ……エクサール家へもぐり込むために、彼の名前を借りただけ。代理という形を取れば怪しまれないからね。代理がいるのに、本人がいては困るから帰ってもらった。それだけのことさ」

 さっきまでとは違い、ムルヴェードルの口調はやけになれなれしいものになっていた。

「まず、こんな形になってしまったのは謝ろう」

 謝る、と言う割に態度は大きい。小さなテーブルを挟んでリンネとムルヴェードルは座っているが、ふんぞり返るような姿勢で足を組んでいる。

 だが、ムルヴェードルの口から「謝る」という言葉が出たのは、多少なりとも驚いた。

「ここはムルアの国でフェレという街だ。そこにある私の屋敷。これで居場所はわかっただろう?」

「そうね。それで強引にあたしを御招待してくださった理由は何なの? それと、あなたの素性を知りたいわ」

「当然の疑問だね」

 ムルヴェードルは、組んでいた足を組み直した。

「そう、きみをここへ連れて来たのは、ゆっくりと話したいことがあったからだ」

「話したいこと? 何を?」

「昨夜、あの庭で見ていた木さ」

 あの暗い庭で、ムルヴェードルが目敏(めざと)く見付けた木。いや、木と言える程に大きくない。土に差してある枝だ。

 リンネが手に入れた、銀の実がなる木の枝。

「あれがどうだって言うの。ただの枝じゃない」

「まさか。それならきみを招待する必要はなかったさ。はっきり言おう。あの木が欲しい」

「あんな枝のために、あたしを誘拐したって言うつもり? 本当のことを言いなさいよ」

「芝居はしなくていいよ、お嬢様。あれがただの枝ではないことを、こっちは知っているんだ。ごまかしても無駄さ」

 あの木のことを知っている。

 あの枝になる銀の実が、悪しき力を溶かす力を持っているのだということを知っている、という意味だろうか。

 昨夜、ムルヴェードルは枝に実がなっていない、と言っていたのをリンネは思い出した。

「あの木が欲しいって、どうしてなの? あの木が持つ力を知っているの?」

「ああ、あの木になる実が不思議な力を持つことをね。あの木の話を聞いてから、ずっと探していたんだ。本体がどこにあるかはわからないが、手に入れた者がいると聞いてね。それがきみだった、という訳だ」

 どうやら銀の実の力を知っているようだ。あいまいな言い方をするなら、リンネはとことんまで知らないフリをしようとしたが、リンネが銀の実の力のことを知っている、ということもこの男はわかっている。

 弟のラグアードが魔物に呪いをかけられ、その呪いを解くためにリンネはあの木を探した。あの木になる銀の実が呪いを解くと言われたからだ。ニルケ達はもちろん、他にも協力者があってようやく手に入れた銀の実。

 実を取った後で残った枝をどうしようかと考えた時、そのまま捨てるのは申し訳ないので、庭に植える……と言うより差しておいたのだ。

「それで、あの木をどうするつもりなの」

「本当なら、木をそのままここへ持ち帰りたかった。だが、そうすると実がならない。木の持ち主の元でしか、実はならないらしいからね。だから、きみにあの木をここへ持って来てもらいたい。そうすれば、木の持ち主は私になり、実も手に入る」

「そんなにうまくいくかしら。あの枝になっていた実は、全部使っちゃったわ。次にまた実がなるかどうか、あたしにもわからないわよ」

「なるさ。必ずなる。私の力で実を手にいれる。そのために、きみの承諾が欲しいんだ」

 リンネは何か奇妙に感じた。

 なぜ、こんなにあの木にこだわるのだろう。悪しき力を溶かす実だと知っているのに、自分の力で実を手にいれると言う。実を欲しがるということは、何か悪い力が彼の身に起きているのだろうか、とも思うが……こうして話をしている限り、そんな風に見えない。

 あの実で何か他のことをしようとしているんじゃないのかしら。この人の目はそんな感じだわ。呪いを解きたいために必死になっている……っていうようには思えないもん。

「もう一つの質問には答えてもらっていないわよ。あなたは一体、誰?」

「私? 私はムルヴェードル。昨夜も自己紹介はしたはずだ」

「名前は聞いたわよ。あたしが聞いているのは、あなたが魔法使いか何かかってこと」

「私が魔法使いとどうして思う」

 どうして、なんてよく言えるわね。

「あなたが昨夜使ったのは魔法でしょ。あたしを眠らせたのは催眠術だ、なんて言い訳は聞かないわよ」

「そうか。では、言い訳はしない。私は豹の魔獣だ」

「ふぅん」

 魔獣や魔性など、魔物と呼ばれる存在にはこれまで目一杯遭ってきた。ここで告白されても、リンネに大した感動はない。魔法使いでなければ、術を使うのは魔物くらいのものだ。どちらかには違いないと思っていたリンネだから、驚くこともなかった。

「ふぅん、で済まされたか。はねっかえりなお嬢様、というのも間違ってはいないようだ」

「放っといてよ」

 大きなお世話である。

「魔獣と言っても、私は純粋の魔獣じゃない。人間の血が半分入っている。いわゆるハーフというやつだ」

「へぇ」

 精霊と魔法使いのハーフだという少年に会ったことはある。だが、魔獣と人間のハーフというタイプは初めてだ。魔獣だと教えられた時よりも、リンネはわずかに驚いた。

「だから、魔力はどんなに努力しても、人間の魔法使い程度にしかなれない。人間にも完全な魔獣にもなりきれないんだ」

 そこまで聞くと、リンネは銀の実のなる木をほしがる理由がわかった気がした。

「もしかして、あの実で魔獣の血を消したいの?」

「まさか」

 リンネの予想はあっさりと否定された。

「逆さ。もっと強い魔力が欲しいんだ。人間では持ち得ない力を」

「は? でも、あの実の力は知っているんでしょ? あれは悪い力を溶かすのよ。どうやって魔力を強くするつもりなの」

「何だ、何も知らないんだな」

 その言われ方にムッとしたが、確かに知らない。ムルヴェードルの言い方だと、あの実には他にも何か別の使い道があるらしい。

 ニルケは、そんなことは一言も言わなかった。知っていてもリンネには必要ないと思って言わなかったのか、彼も知らなかったのか。たぶん、前者だろう。

「実がなる前に、力を加えると別の作用を持つようになるんだ。あの実に私の力を注ぎ、その実を取り入れれば大きな力を使うことができる」

「そんなことができるの……」

 だが、そんなことを聞けば、なおさらあの木をムルヴェードルに渡すことはできない。

 自分の力を強くしたがるのは、何かよからぬことをしたいため、という輩が多いもの。過去の経験からして、そういう傾向が強い。ムルヴェードルの話し方だと、世のため人のためにその力を使いたい、というのではなさそうだ。

「もうきみには必要のないものだろう。庭の片隅に差していても、いつかは枯れてしまうのがオチだ。まだ有効なうちに使ってやるのが、あの木のためでもある。私に渡せ」

 言い方が次第に横柄なものになっていた。使ってやるのが木のため、などと言って正当化しているが、自分の欲望のために言っているだけだ。

「いや」

 リンネはたった一言で拒否した。ムルヴェードルは少しむっとした表情をする。

「なぜだ。あの木をどうやって手に入れたか、何に使ったかは知らない。そんなことは、俺の知ったことではないし、どうでもいいことだ。さっき、実は使ったと言ったな。そして、枝だけが残っている。使い道はもうないはずだろう。だったら、いつまでも置いておく理由はない」

「置いておく理由なんて、確かにないわよ。でも、何をしようとしているかわからない人に渡すなんていやだわ。あたしの気持ちを知って、銀色のままでいてくれた実に申し訳が立たないもの。あの木は誰にも渡さない。お断りするわ」

「せっかく力のある木が、枯れてしまっていいのか」

 今度は妙な脅しをかけてくる。

「それがあの木の運命なら仕方がないわ。あたしは過保護にならない程度に世話をしているつもりだし、それをあなたにとやかく言われる筋合いなんてないはずよ」

「どうしても渡さないと?」

「しつこいわね。仮にお金を積まれても、あたしは売る気なんてないから。あの木は、銀の実はあたしの弟を救ってくれたのよ。命の恩人みたいなものだわ。あなたみたいに、魔力向上のために欲しがる相手になんて渡せない」

 銀の実は、ラグアードを呪いから解放してくれた。ムルヴェードルが求めているのが実だろうが木だろうが、リンネにとってはあの木の存在全てが大切なのだ。

「……お前も莫迦な奴だな」

 リンネに対する呼称が「きみ」から「お前」に変わった。同時にムルヴェードルの瞳が光を帯びる。

「仕方がない。少し考える時間を与える必要がありそうだな」

 拷問するつもりかしら。それは……あまりやってほしくないけど。やっぱりお茶をぶっかけて逃げるしかないか。

 リンネが身構えると、ムルヴェードルは指を鳴らした。部屋の扉が開き、あのねこ目人間が入って来る。手には鉄製らしい長方形のカゴがあり、中に小さな灰色のネズミが一匹入っていた。

 ムルヴェードルは、そのカゴからしっぽをつまんでネズミを取り出す。

「考えが変われば長く鳴けばいい。何にしろ、お前がいなければ木は手に入らないからな」

 ムルヴェードルの声がやけに間近で聞こえる。同時に、急に視界がさかさまになった。目の前に、逆になったムルヴェードルの顔がある。どこかを掴まれているようなのだが、体験したことのない感覚だ。

 何、これ。どういうこと?

「自分の身体に戻りたければ、素直になることだ、お嬢様」

 嫌みたっぷりの言い方をされ、文句を言おうとしてリンネは自分の口からおかしな鳴き声が出たのを聞いた。

 掴まれていた手は離され、リンネは堅い床に着地する。だが、そこは床ではなかった。

 すぐ目の前に、やたらと大きなティカップがある。リンネの身体がすっぽり入りそうな大きさ。その向こうには、目を閉じて座る自分の姿。

「!」

 どうしてあたしがあそこにいるの? じゃ、ここにいるあたしは誰?

 自分の手をみる。人間の手ではない。小さな爪が生え、甲には毛が生えており……。

 リンネは自分が叫び出さなかったのが不思議なくらいだった。

「まぁ、ゆっくり考えるといい」

 勝ち誇ったような笑みを浮かべて、ムルヴェードルは部屋を出て行く。

 後には眠っているリンネの抜け殻と、自分が何者かわからないまま呆然としているリンネが残された。

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