喩えばそれは、「仮令」を「例え」と間違えるようなもので……
今回は「たとえ」の話。
「たとえ」には、「例え」と「喩え」と「譬え」と「仮令」と「縦令」と「縦え」があります。
そしてこれは、ざっくりと二つに分かれるのです。
一方は「例え」と「喩え」と「譬え」に、他方は「仮令」と「縦令」と「縦え」にという具合に。
実は、前者は名詞、後者は副詞という風に、そもそも品詞から違います。
ではまず「例え」と「喩え」と「譬え」の違いから。
これらは全て名詞ですが、口語では動詞の「例える」、「喩える」、「譬える」として使うことが多いことでしょう。
ピンとこない?ならもう一工夫。「例えば」と「喩えば」と「譬えば」の形です。
では、これらの使い分けはどうでしょうか?
まずは次の2つの例文。
「タトえば、時計は12進法、コンピュータは2進法だ」
「タトえばそれは、昼の月のように朧げだった」
これに漢字を当ててみましょう。どれが当てはまりますか?
答えは、前者が「例えば」、後者が「喩えば」と「譬えば」です。
さて、単語から考えてみましょう。
まずは「例」の字ですが、これは難しくありませんね。「例文」や「例示」、「例外」などからわかるように、"何らかのものごとに対する補足的な情報"を表します。
こうした"例"の内容自体は、文章全体の中では基本、中核をなしません。説得性の獲得や、わかりやすさを加えるなどの目的で使われるだけです。
それに対して「喩」や「譬」はどうでしょうか?
「喩」に関して言えば、「比喩」に代表されるように、"何か言いたい事柄を、別の表現を用いて間接的に表す"という場合に用います。
"例"えば、「その妙を喩えるには、私の語彙はあまりに寡少であった」とか、「"奇"とか"妙"とかいう言葉は、かつてのそれとはあまりに異なっている。喩えばその変遷は、雲が雨となり、地に降って泥を成すようなものであった。まさにその扱いは"雲泥の差"である」とかいう使い方です。
さて、「譬」という字なのですが、これは知名度が圧倒的に低いです。
強いて熟語を挙げるとすれば、「譬喩」という熟語ですが、これは「比喩」と読みも用法も同じです。(他に仏教用語としての使い方はあるようですが)
この「譬え」という表記は、「喩え」に同一の意を(少なくとも現在は)持っているので、「喩え」の代用だとでも思ってください。
さて、では副詞の3つ、「仮令」と「縦令」と「縦え」についてお話ししましょう。
この3つに、使い分けはありません。使うならどれでもどうぞ。
さて、ここではこれを「たとえ」として登場させましたが、これは「たとい」という読みの転訛です。
意味的には「かりに」とか「もし」とか「よしんば」とかいう具合ですね。(因みに「よしんば」は、漢字で「縦んば/縦しんば」と書きます)
「たとえ離れ離れになったとしても、僕はキミを愛しているよ」や「たとえ世界を敵に回しても、私は私を曲げることなどないよ」なんて使い方ですね。
まあ、要するに「仮に」と置き換えられるものがこの「たとえ」です。
今回の「たとえ」に関して言えば、意味の混同は少ないと思います。(少なくとも一度漢字と結びつければ)
打ち間違いに注意って感じですね。
「たとえ」と「たとい」で分ける方法もありますが、「たとい」が通じなくなりつつあるので何とも言えません。
そもそも、「喩え」や「譬え」に関して言えば、簡単のためにわざわざ「例え」としていた時代もありますからね。
その辺りは、もう個人の自由です。