旧字を使うこと自体は別にいいんですが……なんていうちょっとした愚痴
國、應、學、壽、龍……。
見たことがあって、大抵は読むこともできるでしょう。
できるでしょうが……、人名なり施設名なりの固有名詞でない限り、使うことなんてそうそうありませんよね?
それは当然で、というのもこれらが「旧字体」——戦後すぐまで使われた古い文字——であるからです。
例えば最初に挙げた字は——
國…「国」の旧字。
應…「応」の旧字。
學…「学」の旧字。
壽…「寿」の旧字。
龍…「竜」の旧字。
——というように、一部は「人名用漢字」として残っています(國、龍の他には廣、邊、眞など)が、多くは既に廃れてしまっています。
「漢検」では準一級以上で旧字が出題対象に入りますから、読める人は読めるでしょう。
台湾で使われる繁体字もかなり旧字体と同じものが多いので、これに親しんだことのある方も読めるものは少なくないでしょう。
しかし例えばここで「辯」や「臺」なんて字を見せられたなら、ヒントもなしに読める人は一般に多くないはずです。
しかしこれらの旧字は、かつての正書体であったこともあって "古めかしさ" であったり "(時として厨二的な)格好のよさ" があります。
だからこそ作品のタイトルに使われたり、作中固有の用語に使われたりというものを稀に見ることがあるわけです。
そうした使い方は個人の表現なので問題なく受け入れられるのですが……、
通常の文章に目的なく混ぜ込むのは、私個人としてはやめていただきたいなと思います。
というのも、特別他の字は旧字体になっていない中で「一字だけ」作中一貫して旧字体であるという作品を、稀に……稀にではあるのですが見かけるのです。
「專門」であったり「氣分」であったりという具合に、"他は旧字にされていないのに" その一字だけが "作中一貫して" 旧字にされているという作品を見かけるのです。
より明確に例を挙げると、
「今にも落ちてきそうな暗雲が、見るだに禍々しい城の上に立ちこめている。吹き荒ぶ強風と轟く雷鳴——……、雨が降っていないのが無氣味さをいっそう強めている。
恐怖がないとは言わない。それでも、此処で退くわけにはいかない。此処で退けば、今までの努力の全てが無駄になってしまうから————
だから私達は、勇氣を振り絞らなくちゃいけない。
大きな圧迫感に氣分を悪くしながらも、私達は草木の一本たりとも生えない不毛の地を、少しずつ……、少しずつ、前に向かって進んでいった」
というように、旧字にする必要がそもそもなく、旧字にできる文字が他にいくつもある(簡単に出力できるものだけで「強」「処」「圧」「悪」があります)のに、何故か「気」だけが旧字にされているというようなものです。
旧字体は元から新字体(現在の字体)や異体字・俗字体と混ざっていたものですから、一部が旧字でないというのは許容範囲内です。
しかし「一字だけが残る」というのはおかしな話で、その不自然がどうしても拭えません。
とはいえそうした作品は極めて少数派なので、こうして論じること自体意味の大きくないものですから、とりあえず「そういうこともあるんだなぁ」というくらいに思うだけで構いません。
このような変な愚痴に付き合ってくださいまして、ありがとうございました。




