「漢字のネットワーク」を拡張するために……
久しぶりに戻って来ました。
まあ、年が明けても忙しいのですがね……。
今回は、漢字をより "上手に" 扱うための考え方を紹介します。
漢字が得意な人と、漢字が苦手な人。
両者の最たる違いとは何なのでしょう?
読書量?
……いいえ、確かに重要な違いではあるでしょうが、読書せずとも漢字が得意な人はいます。
文系かどうか?
……いいえ、何方にも得意な人と苦手な人がいます。
天性の才能?
…………そんな物で成功しているのは一握りです。
では何か。私は「漢字の体系化の度合い」だと思います。
言い換えると、「漢字のネットワークの大きさ」です。
漢字が苦手だという人は、漢字が得意だという人に比べて、熟語を「熟語という塊」として認識しています。
例えば「〜以外」と「意外」の違いを訊かれた時、漢字が苦手な人は「〜以外」は「〜でない他の物」、「意外」は「予想していない事」という様に、熟語を "直接" 意味と結び付けて説明します。
なので、何故「〜以外」は「〜でない他の物」という意味なのかと訊かれた時に、答える事ができません。
つまり、「〜以外」=「〜でない他の物」という等式が頭の中にあるけれども、その等式を証明する事はできないのです。
対して漢字が得意な人は、直接の結び付きとは別に「〜は以ての外として」と「意識の外」という様に "熟語を分解して" 説明できるか、もしくはこの道筋を自分で見つけられます。
併し何故、この様な事ができるのでしょうか?
答えは、「漢字が得意な人」の中には大きな「漢字のネットワーク」が広がっているからです。
そしてこの「漢字のネットワーク」は、「漢字が苦手な人」も持っていて、基本的には誰でも大きくする事ができます。
では何故「漢字が苦手な人」の「漢字のネットワーク」は、「漢字が得意な人」の物程の大きさにならないのでしょうか?
漢字が苦手な人に多い経験として、「漢字の読みや熟語の意味を他人によく訊ねていた」だとか、「辞書で調べたとしても、漢字の読みや熟語の意味が判った時点で満足していた」という事が挙げられます。
ここで「前者に該当する漢字が苦手な人」は、「後者に該当する漢字が苦手な人」か「漢字が得意な人」に漢字の読みや熟語の意味を訊きます。
すると、訊かれた側の人には二つの選択肢が生じます。
一択目が「必要最小限の情報で答える」という物で、二択目が「自分が知る限りの有効そうな情報で答える」という物です。
「後者に該当する漢字が苦手な人」にとって、一択目と二択目は同義です。
「漢字が得意な人」も多くの場合、手短に済む上に「知識を自慢している」と思われる心配が少ないために、一択目を選びます。
ですがこの方法は "その場凌ぎの解決方法" に過ぎません。
何故ならここでの「必要最小限の情報」は、熟語と意味を直接結び付ける効果しか持たないからです。
これでは、訊ねた人は「漢字が苦手な人」のままです。
では、「漢字が得意な人」が二択目を選んだ場合は如何でしょうか?
感覚派の天才か、もしくは余程口下手な人でなければ、読みを熟語と結び付けたり、熟語を分解したりして説明ができます。
この説明というのが、「漢字が得意な人」の中にある "「漢字のネットワーク」の一部分" の説明です。
訊ねた人がこの説明を聴き流して、欲しい情報だけを抽出してしまえば、この説明は無駄になってしまいます。
併し訊ねた人がこの説明を十分に理解すれば、訊ねた人の中には「漢字のネットワーク」の一部が複製されます。
この作業が繰り返されると、断片的だった「漢字のネットワーク」が互いに結び付いて、漢字の不自由が小さくなり、「漢字が苦手な人」は「漢字が得意な人」に近づいて行くのです。
けれどもこの方法は、周りに「漢字が得意な人」がいなければ使えません。
人によっては厳しい条件です。
なので、別の方法を採りましょう。
先述の方法では、「漢字が得意な人」の「漢字のネットワーク」を移植していました。
併し一つ、説明していない事柄が存在します。
独学で「漢字が得意な人」になる人がいるという事です。
彼等は如何に漢字を習得したのでしょうか?
答えは単純です。彼等は漢字に "一般的な法則" を見出して、漢字の習得方法自体を体系化したのです。
「漢字のネットワーク」の移植は、脳内に散乱する漢字や熟語を、出来合いのネットワークの型に嵌め込むという作業です。
この方法で漢字が得意になるのは、ある程度ネットワークが拡大して、そこから法則を導けた時です。
その時がいつ訪れるかは判りませんし、その作業は "発見" が多いとは言えないので、学ぶ人が受動的になりかねません。
受動的ではモチベーションが低下し、飽きてしまう人も多い筈です。
対して、彼等は漢字に一定の法則を発見し、新たな漢字や熟語をその法則に基づいて分類しています。
この方法なら、移植に比べて簡単にネットワークを拡張できますし、新たな表現に相対した時の対応力も高くなります。
法則があれば、後は経験を積んで更なる法則を見つけていく許です。
端的に言うと、ネットワークの移植は「帰納法」で、彼等の方法は「演繹法」なのです。
個別の事象が夥しくある漢字では、演繹法が使える方が早いのは当然です。
では、彼等が一般的な前提として用いている考え方の "中枢" を紹介します。
「熟語は個々の漢字から、単一の字は部分や熟語から」という物です。
「熟語は個々の漢字から」というのは、「以外」と「以ての外」が好例で、熟語を分解する事で深い理解を身に付けられます。
他には「熟語」を「使い熟された連語」としたり、「漢字」を「漢王朝で使われた字」としたり、「好例」を「好い例え」や「好ましい例え」としたり、「分解」を「分けたり解いたりする事」としたり、「理解」を「理を解する事」や「論理を了解すること」とする例があります。
対して「単一の字は部分や熟語から」というのは、例えば「屯ろする」という読めない表現を目にした際に、「駐屯」の「屯」だから「駐屯する」と似た意味だと考えたり、「春眠暁を覚えず 処処啼鳥を聞く」の「啼」が読めなかった時に、「帝」は「テイ」と読むからこれも「テイ」かなと考えたりする事です。
この方法の利点は、漢字を調べる際の有力な手段になる事です。
「屯ろする」や「啼鳥」の読みが判らないのでは、音訓索引は使えませんし、電子機器の検索欄に入力する事さえできません。
(電子媒体で見かけたならコピー&ペーストで如何にかなりますが、書籍で見たなら手がありません)
「屯」を「駐屯」や「屯田兵」と結び付け、「啼」を「帝」と結び付けられれば、その道筋から円滑に漢字を調べる事ができるのです。
「感」を「カン」と読むのは「咸」が「カン」という読みを持つからであるとも推測でき、「憤懣」の「懣」の読みを「㒼」(「満」の旁の旧字体) から導き出す事もできます。
この考え方を使っていくと、「餞を贈る」を起点に、「戔」は「銭」や「便箋」の「箋」や「桟橋」の「桟」の旁の旧字体で、「戈」を二つ重ねた物だから、「餞」は「はなむけ」の他に「セン」「サン」の何方かの読みを持つのだろうと予測でき、且つ「餞別」の「餞」だから「セン」だと判断可能です。
さらに「戦」を「セン」と読むのは「戈」を含んでいるからだとも判り、「繊維」の「繊」や「殱滅」の「殱」を「セン」と読む理由も同じであるとまで考えられます。
(勿論、「餞」「銭」「箋」「戦」「繊」「殱」から「戈」の読みを推量する事も可能です)
ここまで深く考えるには「漢字のネットワーク」が十分大きくなくてはなりませんが、逆に言えば「漢字のネットワーク」を大きくすれば、連想ゲームの要領で自在に漢字を操る事ができます。
「熟語は個々の漢字から、単一の字は部分や熟語から」
これは、漢字をより身近にしてくれる考え方なのです。




