想いづる
折って。たたんで。ひらいて。一枚の正方形が一羽の鶴になる。そっと息を吹きかけたらくすぐったげに頭を揺らした。
ふしぎ。子どものころ以来なのに折りかたおぼえてた。ちょっとぶかっこうな赤い鶴。ね。おまえはそばにいてくれる? 無愛想で目つきが悪くてわがままな大食らいの代わりに。
寝っころがったら。こてん。手のひらの鶴も首をかしげながらたおれた。
丁寧に清めたばかりの部屋を見上げる。必要最低限の家具や家電。殺風景だとヤツに言われたけど自分ではよくわからない。ただ、小さな折り鶴の赤が目立つくらいには色みはないらしい。
部屋のまんなかのコタツ兼食卓は、ばあちゃんと暮らしてたころからのもの。
勉強机も兼ねてたからあちこちキズだらけで小さいころこっそり脚に貼ったネコのシールもそのまま。住む場所は変わってもどうしてかこれだけは手離せずにいる。
炊飯器から炊きあがり完了の合図。ごはんの甘い匂いを嗅ぐと頬がゆるむのはどうしてなんだろう。
夕飯の献立は。お買い得だった塩サバ、野菜いろいろのお味噌汁、大根の酢の物。昨夜の残りのカボチャの煮物。サバはわたしの好物だから、はやく来ないとなくなるぞ。
小さなコタツに大きな身体。あぐらをかけばはみ出して。大の男がおままごとでもしてるみたいなアンバランスさ。思い出しては笑ってしまう。
夜にだけやってくる男は。わたしが作ったごはんを食べにここへ来る。
夕飯どきだったり夜食のような時間だったり。いつもふらりとあらわれては、急に悪いなとか今度はいつ来るとか旨いも不味いもなしに黙々と(もぐもぐと?)食べる。
最低限の世辞も感謝も口にしないヤツに、もう二度と来るなと言ってもいっこうにこりる様子がない。
だいたい女性のひとり暮らしの部屋に無遠慮に上がりこむこと自体どうなんだ。 ……わたしも迂闊だったけど。
いきがかりだった。
部屋へ上げたのも、自分のせいで負わせてしまったケガを応急処置するためだった。いま思えば大した傷ではなかったのに、当時のテンパり過ぎてた自分が憎い。
そのとき、朝食の残りのお味噌汁の入った子鍋をじっとにらみつけてたから温めなおして出してみた。お椀一杯ぶん。くずれた具がほんのすこし。ただそれだけを男はじっくり味わいながら一滴も残すことなく飲みほした。
ただ、それだけ。
自分の作ったものを家族以外に食べさせたのが、男がはじめてだったというだけ。
どうせこれっきりと思っていた夜は三週間後に再びやってくる。
――腹がへった。
――知るかそんなの。
友人でも家族でもない他人の家に非常識きわまりない時間に訪れて食事の無心とはなにごとか。
やっかいなヤツに関わってしまったかも。なにか難癖でもつけられてメンドーなことになったら。いや、すでにメンドーか。お味噌汁なんてふるまった自分の軽率さを猛省しても、もはや遅し。
丁重にまわれ右をうながしても帰らない。駅前にある夜中までやってる居酒屋までの道順を教えてあげても帰らない。はっきりと、帰れこのヤローと言っても玄関前から動こうとしない。
結果、折れた。ご近所を気にして小声で戦うことに疲れたとも言う。男のほうはそれが当然だとでもいうようにさっさとコタツを前に陣取った。
その姿を見、激しいまでの虚脱感を訴えてくる身体にムチ打ち、片づけたばかりの台所に立った。
明日のお弁当用にしようと思ってた夕飯の残りと、わざわざ作ってやったお味噌汁。米はなし(自分のために死守)。食べたら帰れとっとと帰れのオーラを背負ったわたしを気にもせず。お味噌汁をひと口。またひと口。
食べられないほど苦労してるようには見えないけど。身なりと懐事情は必ずしもイコールじゃないし、な。
ああ。これはきっと面倒見の良かったばあちゃんと、ひとが善すぎた母さんの遺伝子のせいなんだ。うん。ここはふたりに責任を押しつけてしまおう。 ……ごめんなさい。
つづくときは一週間と空けずに来たり。そうかと思えば季節が次へ移るほど姿を見せなかったり。切れそうで切れない来訪。来るほうも来るほうだけど、受け入れるわたしもわたしだと最近、思う。
女ばかりで育ったからか「男」は、怖い。「壊す」力を、持っているから。
ヤツが来るようになってひとつつけ加えた。それは「宇宙人」。コミュニケーションの難儀さは宇宙人とでも思わなければやってられない。
ある夜。男は封筒をよこしてきた。なかを改めればけっこうな額のお金が入っていて食費の足しにしろと言う。キレた。
――ざけんな。あんたに恵んでもらう義理なんかない。だいたい金もってんならよそへ行きやがれっ。
ポカン。わたしの剣幕に男は完全にあっけにとられていた。
お金のせいで。いろんなひとに頭を下げるばあちゃんを見てきた。あの背中は忘れない。お金がないということがどういうことなのか、も。
封筒の中身はわたしの月給数ヶ月分はありそうだった。これほどの大金を他人にポンとさし出す神経が理解できない。
身の丈にあった生活をする。多くを望まない。だれにも迷惑はかけないように。それだけでいい。
余裕のある生活じゃない。やろうというのだからもらっておくほうが利口かもしれない。でもイヤだった。
――いちど出したモンはひっこめられん。いらんなら捨てろ。
――捨てられるか。
このお金の攻防はそれからしばらく続き、結局まだウチのタンスに置かれたままになっている。自分のものではないけど留守中気になってしかたないので金庫を買おうか悩んでる。それを男にグチったら鼻で笑われた。だれのせいだと。ムカつく宇宙人め。
外からの音に反応して身体を起こす。玄関の向こうの気配に耳をすまし――ちがう。うちにじゃない。ちがう。笑える。だからいやなんだ。だから……。
また、沈んだ。
鶴に添い寝をするように。
いつからだったろう。言うほど面倒じゃなくなったのは。
家でだれかとごはんを食べる。だれかの声を聞く。
いつからだったろう。
気持ちの端っこで待つようになったのは。
わたしも。ヤツも。饒舌じゃない。ぽつりぽつり話すのは目のまえの料理のことが多くて。煮つけた魚の名前を漢字で書けるかとか。ばあちゃんのゴボウの笹がきは神業だったとか。くだらなくてどうでもいい、わたしがこぼした言葉に男は短くても言葉で返す。
――卵が入った味噌汁はじめて食った。
――ササガキ?
辛いの好きなのか。白味噌は苦手らしい。ささいな気づきがひとつひとつ重なっていく。
図々しく上がりこむくせに上がってしまえば静かで。口調はそっけなく。それでも機嫌の良い悪いがうっすらと感じられるようになってきた。わたしの感じるものが当たっているか自信はないけど。
なにも聞かない。
なにも知らない。
自分のことを話たくないからひとのことも詮索しない。そのツケだろうか。なんて危ないことしてるんだろう。どんな人間かもわからないのに。でも。
ヤバイな。そう思ったときにはだいたいもう越えてしまっているのかもしれない。
お椀を置いたら。手をとられた。そんなことはいままでではじめてだった。反射的に腕をひくけどヤツは離してくれない。あかぎれをおこしてる指先を見られるのは恥ずかしいのに。
固くて熱い手。息ができない。男の目が。わたしの息の根を止めようとする。
不自然な長さの見つめ合いは男が味噌汁をすする音でたち切られた。いつの間にか手も解放されていた。男がわたしにふれたのはそのときだけ。
指をそっと噛む。
静かな時間がつづくとたまらなくなる。ヤツがあらわれるまえはずっとそうだったはずが。
じっとしていたくなくて、しなきゃいけないこと、したいことをならべて順番に片づけていった。それもいつか終われば、もうあとは思い出してばかり。バカみたい。
ひと月以上、顔を見ないなんてザラなのに。もっと長くあいだがあいたときだって。ひとつ不安にかられるとそればかりになって、気づけば抜け出せなくなる。
さりげなく身につけた装飾品は、わたしから見てもかなりの質の高さだろうと思う。それらを軽々と着こなした立ち居振る舞いは堂々として。
最初から。ウチのコタツが似合うひとじゃなかった。
息をはきながら起きあがって着ていたものすべて脱ぎ捨てた。シャワーを浴びたらふだんより丁寧に化粧をしていく。
勝負の前には身なりを整える。
幼稚園でケンカした男の子に帽子を取り返しにいくまえも。高校受験のときも。ばあちゃんはそう言った。
しっかり仕上げて、おろしたてのスカートで決めればわたしだってそう悪くはないと言いきかせてみる。
外へ出たからってもちろん会える保証なんてない。だけど。あのひとを思いながら折った鶴といっしょに。おまえがいてくれたら。
ヒールを玄関に置いたときインターフォンが鳴った。 ……心あたりはひとりしかいない。チェーンを解く手がふるえる。やっぱりけっこう、気がちっちゃいな、わたし。
男の身体について夜の冷気もすべりこんでくる。
黒。髪も目も。寒色系のスーツ。背の高さもだけど色みもあいまって狭い玄関じゃおさまりきらない。
たぶん見た目より若いのだろうと思う。わたしとおなじくらいかも。でも、落ち着きはらった態度と物言いのせいでずっと年上に見える。目が合った。手をきつくにぎった。はじめて会った夜も怖かったっけ。
「えらくめかしこんでるな」
ほかに言いかたないのか。でもいまのわたしはすこぶる機嫌が良いので不問にしてやろう。ヤツは足元のヒールを見ながら。
「どこにいく」
そんなの決まってる。
「すきなひとのところ」
届けたいものがあるから。
男はゆるく腕をくんだ姿勢でドアにもたれた。舐め見もされて、カンジ悪いんですけど。もしや退路を絶たれた?
「やめとけ」
「ほっとけ」
お味噌汁の卵はご飯にのっけてまぜて食べる派。お箸の持ち方がきれい。最強にわがまま。ケンカが強い。たぶん。なんとなく。フツーの勤め人じゃない。
「忠告だ」
「ありがた迷惑」
自分でも自分をもてあましてる。もうこのまま出かけてしまおうか。せっかく着替えたんだし。ヤツなんか無視して。
「いっ」
視界がおかしなことになっ。
「いたいいたいたいたいっ」
お腹がっ。お腹にヤツの肩。歩くな、ひびくっ。
「ざけんな!」
「俺のだ。いつでもどこでも好きなようにする」
落ちるっ――浮遊感から覚悟した衝撃は来ず、身体は畳に無事着地を遂げた。ヒールを履こうとしたら男に肩で担がれた。馬鹿力か。コタツがいつのまにか隅へ追いやられてる。
まだ震えたままの手は男のスーツを離そうとしない。さっき。どさくさまぎれにヤツはなんて言った。片膝をついた男の胸ぐらを掴んだ。口の端にのせた笑みがムカつく。
「あんたも。俺を好きなようにすればいい」
さっそく頬をひっぱってやる。みごとに眉間がよる。痛いようにしてるからそうだろう。さっき荷物あつかいしてくれた仕返しじゃ。いいザマ。
「それだけか」
それだけなモンがあるか。言いたいことはいっぱいある。聞きたいことも。独身なのかとか。なにをしてるのかとか。だけど。
「風邪」
男の目が細まる。
「前に来たとき声がすこしかすれてた。手も。熱かったし」
汗ばんだ手をひろげたら鶴はヨレてクタってしまっていた。
小さいころ、寝こむとばあちゃんは鶴を折って枕元に置いてくれた。おまじないを添えて。
「はやく良くなりますように」
唇で唱えて。鶴に吹きこむ。
いつもは厳しいばあちゃんが折ってくれた鶴はうれしくて。熱にうなされながらもずっとなでてた。
あのとき、ふれた手から感じた熱がどうにも気がかりだった。見るかぎりいまは大丈夫そう。たいしたことがなかったならそれでいい。
「……あんた、つくづくだな」
鶴をじっと見ていた男はつぶやくように口にした。どうしてそうなる。あれ。似たようなこと前にも言われた気が。だからどうしてそこでため息。ワケわからん。こんどはわたしの眉間にシワがよる。
鶴ごと手をとられた。あのときとおなじ。でも今度は強い目をわたしに向けたまま、指を食んだ。痛いくらいのしびれが走る。噛んで、舐めて、甲に歯を立てられ。
好きにされてる。とても見ていられなくて男から無理矢理ひきはがした。でもまた腕に捕らわれて。密着する男の身体に心臓が走る。背中をさすりながらヤツは、どうどうって、わたしは馬かっ。
「とって食やしねぇよ」
いいや。とって食ってやろうって目してた。己れの顔つきの鋭さをすこしは自覚しやがれ。気づかれないように笑った。匂いに包まれるこのあったかさは。ずっとずっと、こうしていたい。
合わせた手のなかで。鶴がかさりと鳴いた。
了