第五話 旅立ちの前夜
第五話
思えば幼い頃からずっとそうだった。
父も母も俺に何かを隠している。そんな違和感を抱き始めたのはいつ頃だったか。
考えながら椅子に座る。
親子3人の夕食。そんな風に見えないほど、冷たく寂寥とした雰囲気だった。
3人はいつものごとく、同じ食卓に座って黙々と自分の皿に手を付け始める。
会話のない食卓もいつ頃からだったか覚えてないけど、この沈黙の夕食もこれで最後だ。
俺は懐の定規を、スプーンを上下させている父と母にかざす。
「母さん、父さん。俺、」
「定規を取り出して人に向けるのは止めなさい。危ないでしょ」
「あ、はい」
出鼻を挫かれたが、めげずに定規は机の下にしまいこみ、手のうちに握る。
「俺、訊きたい事があるんだ」
シン、と静まり返った我が家の食卓が、音という概念を越えて、心の面でも凍えるほどに冷え切るような感触を感じた。
触れてはいけないものに触れてしまったとき。パンドラの箱でも開けてしまったのかと、思ったくらいだ。
「何? 唐突に」
母さんが代理で答えた。俺が真剣なまなざしで見つめていても、母さんはいつも通りの生気がないというか、どこか宙を見ているような瞳だ。
いや、そうじゃないのか。どこも見ていない。俺でさえも。
「訊きたい事があって」
俺は、ゆっくり噛まないように、発言する。
定規を握っているのに、何も聞こえないどころか、俺の体温をガンガン奪ってゆく。こんなにも考えていないものなのか。これは絵鈴の心しか覗けないということだったのか!?
「いいわよ、なんでも訊きなさい」
母さんはそういう。
そう言ったところに、ドクンと、誰かの心の、心臓の揺れを感じた。
それは俺だったのかもしれない。あるいは、母さん、または父さんなのかもしれない。
俺は、本題に切り込む。
「なにか、ずっと前から思っていた」
いきなりこういう事を言うのもおかしい事なのかもしれない。しかし、俺は決意した。絵鈴のたったあれだけの説得に、心が動かされた。絵鈴が心を読む力を持っていなくて、本当によかったと、心から思った瞬間もあった。
そして、決意した。家に帰るまでの間、ずっと考えて、そして、俺は絵鈴と共にその正体を突き止めに行くことにした。あわよくば、常に朱色に染まる空を、あの青かった時代に戻そうとまで思っている。
だから、唐突でも、今言わなければいけない。
そう覚悟をして、真面目な瞳で、俺は切り込む。
「俺に、隠し事をしてないか?」
ドクン、と、誰かの鼓動の音がする。今回は聞き間違いとかじゃなく、確かにそう聞こえた。
そして、耳で聞く音も、定規を介して頭で聞く音も、どちらもシンと静まり返ったままだった状態に、二つの石が投げ込まれる様に、二つの波紋が広がっていく。
「そうね、そんなものはないわね」
(もうそろそろ、はなさなきゃいけないか……)
言葉にして聞こえたのは、母さんの声。心で聴こえた弱気な声は、父さんの声。
母さんは、どこを見ているかわからないような瞳の方向を、俺から茶碗に戻す。それで話は終わりだと、そう合図するかのように。
家では、母さんが絶対に強いとか、そういうものはないが、しかし得も言われぬ空気が広がっていた。
さすがに、ここまで言い切ってしまえば、最早あると公言したのも同然だと思う。だが、それでいてない、と言う事は、「聞くな」と、暗に意味しているのだろう。
それでも、俺は。
聞くのをやめない。
「俺さ……今度、旅に行くんだ」
唐突の旅に行くという俺の宣言で、父さんの表情が驚いたものに変わった。しかし、母さんは相変わらず表情を変えない。その瞳が、こちらを向いただけだ。
一応、実の親だよな? と、疑問に思う事もあるが、そういう人なんだと言うことで理解している。
「いきなりどうしたんだ!?」
父さんが食いついてきた。
俺は、ここぞとばかりに詳細を話していく。
「ちょっと、友達と一緒に、青い空を取り戻す、っていう俺の夢をかなえてくる。だから、誰にもこれは止めさせないんだ。だから、止めないでほしい」
若干クサいセリフも混ぜつつ、しかし凛々しいと自覚している目で、父さんの瞳をじっくり見ながら、俺は説得するように、訴えかける。
それから少しばかり、母さんと父さんは言葉を失って、唖然としてたが、やがて母さんが、
「わかったわ、行ってきなさい。若いんだから、そのくらいがいいわね」
と、滅多に見せないような笑顔で――と言っても、口角を少し上げるだけだったが――俺の目を見て、言ってくれた。
(心配だ……心配だ……)という父さんの心の声がループでずっと聞こえるのだけれど、無視しておこう。
「心配してくれる気持ちは嬉しいけど、だからこそ、俺は聞きたい。もう一度だけ訊かせてもらう。何を隠してるんだ、父さん、母さん!」
今度は、語勢を強くして、二人の目を交互に見て、しっかりはっきり言う。
ドクン、という心臓の音が、今回は連続的に聞こえる。しかも、なかなかの速度で。
そして――。
俺の訴えが届いたのか、父さんの口が、無音と共に開く。
父さんの喉の奥から、何かを言おうとしているという声にならない声だけが、漏れてくる。
(実は……)という、心の声が遅れて聞こえる。
そんな父さんを見かねて、母さんが代弁する。
(あなたが言う覚悟をしたのなら、私は反対しないわ……はぁ)
という母さんの心の声が聞こえた後、
「実は、計秀、貴方には妹がいるわ」
と、口からそんな言葉が聞こえた。
母さんの目は、どこを見ているいつもの目とは違って、久々に見る、真面目に俺を見ているときの瞳だった。
(本当は言いたくなかったんだけれどねぇ……)
という、心の声が、さらに一層現実味を増して、俺は今、理解できない現実に身を委ねている。
「へ?」
という情けない声が、気が付いたら口から洩れていた。
「はぁ……」
俺は自室のベッドに身を委ねるように倒れこむ。ふんわりとした感触が、優しく受け止めてくれるかのようで、とても幸せな気分になる。
あの後、母さんからもたらされた言葉は未だに信じられない。
母さんも、今更何も変わらないわ、とか、信じなくても問題ないわ、とか、そういう投げやり感のある言葉ばかりを使っていたが、目は俺を見ていたし、確かに嘘はついていなかったし、細かいところは心の声で補正していたので、きっと間違ってはいないのだろう。
要約すると、こんな感じだ。
俺には妹がいて、俺が4歳の時、そして妹は0歳の時、突如として姿を消した。暫くは捜索願が出されていたが、やがて唐突に何故か取り消された、と。
簡単にまとめてしまうと、こんな感じらしい。
たしかに、いまさらどうしたって変わる事もないし、そんな幼い時のことだ。きっと覚えていないのだろう。4歳の時のことなんて、俺だって覚えていない。覚えている事と言えば、たしかに空は青かった、この位だ。
あの頃はきっと楽しかったんだろうな……。
そんな感慨に耽る間もなく、俺が訊いたことに少しだけ後悔しているときに、窓の外に手を振っている人物が見えた。
「おーい、サッキー」
女子らしいソプラノボイスで、俺のあだ名を呼ぶ友人が見える。
「なんだよ」
俺は面倒くさがって自分のベッドから立ち上がる事もせず、そのまま絵鈴を見おろす。
「明日、出発だからね! 村長にもう許可は取ってきたからね!」
「は……はぁ!?」
一瞬何を言っているのかわからなかった。
というか、今でも何言っているのかよくわからねぇ。
「いいか、朝一番の出発だよ! 覚悟しといてねー!」
(間違った、準備しとけよ、だった……まあ、サッキ―だからいっか)
言葉の後に、心の声も聞こえる。っていうか、そこは間違えるなよ。なんで喧嘩腰なんだよ。
「ちょっ、おい!」
俺が反論しようとしたのがわかったのか、絵鈴は逃げるように走って行った。っていうか、俺じゃなくたって、誰だってこんな状況じゃ反論するか。
「まったく、自由気ままだな……」
思い立ったらすぐ行動って、ほんと何なんだよ……。
そう俺は心の中で毒づくが、しかしそうやって振り回されるのも悪くないと感じる自分が、少しだけおかしかった。
少なくとも、こんな絵鈴との会話だけで、すっかり妹の事なんかは忘れて熟睡できるくらいには、俺も元気が出たという事なのだろう。
凹んでいたわけじゃないけどな。