第三話 不思議なものさし
第三話
ものさしを使えと唐突に言われても、持て余すばかりだ。
文具ならば小学生の時からずいぶんと使ってきたが、必要に応じてであり、これの場合製図か真っ直ぐ線を引く程度の用途でしか使わなかった。
鉛筆系だったら、机の上でスピンさせて駒みたくしたり、指で弾いて消しゴムを倒すシューターゲームにしたり、今でも得意なペン回しを応用した手品を披露したり,色々やったけどな。
小学生のころを回想する。
ここで訂正だ。
中学生の頃、鉛筆で定規を弾いてぶつけて相手の定規を押し出すなんて遊びを興じていた記憶を見つけ出した。
だからといってどうと言うこともないが、やっぱり俺は全ての文具を遊び道具にしていたと断言できそうだ。
そんな風に考えている間に、絵鈴からもらった紙とペンを辞退し、ポケットから適当なものを測ろうと思い、偶然手に付いた一枚の銅貨を取り出した。
紙とペンで製図する事もないしな。なんて言うか、ものがない。
通貨はどこでも共通の単位で定まっており、その単位をビケという。例外はない。
この銅貨は10ビケ、ちょうどパンがひとつ買えるくらいの価値だ。
「ちょうどいい。コイツの直径でも測ってみるか」
とテーブルの上に、穴にすっぽり落ちないよう位置に注意して置く。
小ぶりのビスケットと勘違いしてしまいそうな円形のそれは、陽光に照らされても鈍い光沢を返すのみだった。
絵鈴がいうほど大袈裟でないにせよ、この定規でものを測るという行為に何かしらの期待はあった。
俺はそっと定規を当てる。3.6cmだった。初めて知った。だがさして関心もなく、どうでもいい事実だ。
だがその次の瞬間、異変が起きる。
俺は何かを感じ取った。そう、目の前の銅貨が文字通り手に取るように分かるのだ。
重量11.5g、構成する物質は銅93.4%・亜鉛5.7%・錫0.9%……
何だこの情報は…!
まるで自分自身が銅銭を構成する分子の一部にでもなったかのようだ。
これら詳細な情報は定規を解して俺の頭脳の中に感覚としてインプットされているのだ。
驚くべきはそれだけではなかった。
この定規を介して、銅分子を通じて、テーブルを交えて、白タイルの床を伝い、この24畳ほどの空間の立体構造が、せいぜい1200gしかないであろう俺のちっぽけな脳みそに入ってくるのだ!
意識を集中させると、さらに認識可能な範囲が拡大していく。
終いには大学のキャンパスすら飲み込みかねないので、我に返って定規を離した。
さすが俺の頭にそれだけの容量を入れるだけの自信がなかったからだ。
「どうしたの?」
定規を離した後も俺は興奮を忘れられずにいたようで、峯先が心配そうに声をかける。
「この定規凄いぞ。絵鈴も使ってみれば分かる。」
興奮した息づかいで絵鈴に定規を差し出す。さすがに説明するよりも当人に体験してもらう方が手っ取り早いと思った。
「いやよ、サッキー私をからかってるでしょ。それに…」
「それに?」
絵鈴が急に赤面したので何かあると思った。
絵鈴は短い間を置いて恐る恐る俺の持つ定規に指を指しながら言った。
「それにそのものさし、ポケットの中にしまってあったんでしょ。サッキーのことだから鼻かんだちり紙とかガムの包み紙とかと一緒にしてたのは想像に易いわ。そんな不潔なものを私に触らせようとするなんて」
いつしか絵鈴の目は残飯を貪るカラスを見るときそっくりの、侮蔑を込めた冷ややかな視線となっていた。
「評価低いな俺!」
これはこれでショックだ。俺は弁解に努める。
「これでいて俺は常に清潔を心がけているし、お前の考えるほど俺のポケットの中はカオスじゃないぞ!」
しかし必死の弁解も虚しく、依然として絵鈴の焼くような視線は止まない。
俺は耐えきれずに定規を目の前にかざし、強制的に遮断しようと試みる。
だがこの定規は透明であった。
しまった…!
(サッキーはからかいがいがあって面白いな)
ん?
(…それに…その定規は私が触れても意味がない。……じゃなくて、触れちゃいけない気がする)
すると絵鈴は驚いた顔をした。どうやら俺は意識の中に沸いたこの言葉の塊を、口に出していたようだ。二人の間に困惑が巻き起こる。
(どうしてそれを。なんでわかるの)
そうか理解した。これは峯先絵鈴の心情だ。そして俺はこの不思議な定規ごしに彼女の思考を読んだ。
いいや、ちがう。思考を読み取ったわけではない。絵鈴の心情を推し量ったのだ。
「これは……」
感嘆の言葉が口から漏れ出る。虞にも似た感情が俺の意識を支配する。
こんな道具を、人が持っていていいのだろうか!
しかし、それを理解したのち、俺は定規を今一度テーブルの上に置いた。
相変わらず透明な定規から、俺の手から離れた瞬間に不思議な何かが消えて、絵鈴の思考もぱたりと、全く読めなくなった。
絵鈴は不思議そうに髪を揺らしながら首を傾ける。右手の人差し指を顎の先端に置く動作が、俺の心のヒットポイントを何故だか無性に削ってゆく。
「どうしたのよ……それに……どうしたの?」
言葉が紡げなかったのか、同じ言葉を二回繰り返した。しかし、言わんとしていることは俺にもわかる。
「いや……これを持っているだけで、絵鈴の心情が痛いほどわかるんだ」
それを聞いて、絵鈴はほんのり顔を赤らめて、それからやはり怪訝な顔をして机の上に置かれている、見た感じ何ら変哲のない唯の上空から降ってきた光の塊の中にあった定規を眺める。
その視線は、何かを評価しているときの目そのものであって、少しだけ、怒っているときのそれに似ている。
絵鈴とは旧知の仲だが、それ故にお互いの性格を知り尽くしているため、どういうときにどういう目をするのか、大体みるだけでわかる。
訝しんでいるのが半分、そして、さっきの言葉が聞いたのだろうか、信じているのが半分と言ったところだろう。
「……」
絵鈴は、ねっとりと定規を舐めるように視たあと、暫く何も言わずに黙りこむ。
同時に、絵鈴のポケットの中で、何かを弄る音が聞こえる。
それから、目を開けたり閉じたりした後、
「駄目ね、私の羽ペンにはそんな能力はないみたい」
と、諦めたように言った。
「同じことしようとしてたのか!?」
まさかそんなことをされているとは思いもしなかった。
怖くなって、もう一度俺は定規に触れる。
定規に触れることで、もしも心が読まれていたのならば相殺できるかな、とかいう安易な考えだったのだが、
(サッキ―だけ心が読めるなんて、そんなのずるいじゃん)
「いや、出来たらいいなって、思っただけよ」
絵鈴の心情とそれから言葉が重複して二重に聞こえた。しかし、二つくらいの声なら理解することは可能だ。とくに、声が頭の中に響くように入ってくるので、よくわかる。
少しだけ、現実の声と絵鈴の心情とのギャップに心動かされ、想いがほんの一芥ほど募る。
どちらの声に対応すればいいのか、刹那ほど迷った挙句、
「そっか、それは残念だったな」
と、どうとでも受け取られるような曖昧な返事をしてしまった。
手で触れている定規は、手に持っているときと、触れていない時では、どちらも透明だが透明なのにもかかわらず色が変わって見える。
透明なのに、色が変わる、というのもなにか矛盾をはらんでいるように思えるが、フィルムのような現象か、と思えば考えられない事もない。