第二十話 幕引き
20話
時は遡り、俺――こと奈佐木が重力に逆らえず日干し煉瓦が敷き詰められた地面に吸い込まれるように衝突し、気を失った後だ。
印鑑を破壊した直後、一斉に羊のか弱い断末魔が響き渡った。
急いで倒れているサッキーの元に駆け寄って、印鑑の押されてある左手を見た。人差し指の第二関節にある「栗」の字がボロボロと綻んでいた。
リスキーではあったけど、ラカーフを破壊したことで効力が消えたのだ。
つまり読みは当たっていた。勝ったのだ。
それと対照に、栗瓦は羽ペンで印鑑もろとも吹き飛ばされた右手の指を、左手で押さえ込みながら、敗北の音を聞いて打ちひしがれていた。
すなわち正気に戻った羊の悲鳴と人間たちの勝ち鬨だ。
可哀想に、彼は生き残りの町民からの苛烈なリンチにあって、さらし首は唾を吐かれた末に蹴飛ばされるのであろう。
そんなことは絶対にさせない。彼は純粋な少年だ。強引にでもいい。彼を旅の仲間にしよう。心が荒んでいるなら癒していけばいい。人間は信用に足らない醜い生き物じゃないんだよ。
そう彼に手を差し伸べた時だった。
「ヒュッ」
水平に飛翔物体が掠める。一直線に栗瓦の膝に命中したそれは、深緑色のキャップの付いた大きな針だった。
すぐさまそれが飛んできた方向を見る。暗闇の中に人影が隠れるのが見えた。
それを追いかけようかとした矢先、栗瓦に異変が起こった。針の刺さった所が膨らんでいくのだ。
刺さった針を抜き取ると血が噴き出した。バックからタオルを取り出して、押さえるが滲んでいく。
明らかに異常だった。これはただの針ではなく毒針だったのだ。
そして次にラカーフを疑った。だが急速に症状の悪化する栗瓦別生の方が先決だった。
症状は迅速でブクブクの血袋はまるで生き物がうごめくように、どんどん全身に広がっていった。
栗瓦はしきりに痛みを訴えていた。急転する状況に焦った。パニクってはならないと平静を装うとする度に栗瓦の叫びがそれを妨げた。
彼をどうにかするために町の薬局で薬を手当たり次第に調達しようと考えた。彼は助からないかも知れない。その可能性の方がずっと高いが、まだ望みも捨て切れなかった。
幸い薬局の位置は分かっていた。サッキーの作戦で町中を移動していたとき見つけた。
町を走っていった。町の至る所で建物が燃えていた。
羊に対して火で戦っていたからだと思ったけど、それにしても多い。町中が火事になっている。一体生存者達はどうしているのか?その疑問は良からぬ形で分かってしまった。
男が建物に自ら火を放っているのだ。どころかそれを止めにかかった者にも火を付けた。
彼は千鳥足で狂ったように踊りながら笑い、ついに地面に倒れても手足をじたばたさせて笑い続け、いきなり静まってしまった。
彼はイカレた放火魔だった。それだけならマシだ。
だがこの放火魔は一人ではなかった。老若男女問わず、見れば至る所で同じ行動が行われているのだ。
その光景に不気味さを覚えたけど薬局へ足を早めた。この調子では薬局も無事とは言い難いからだ。
だが手遅れだった。薬局を我がものとばかりに包む炎は空へと柱を伸ばしながら、パキパキと嗤うのだった。
「残念だったね。あなたは何も出来ない。不測の事態に冷静さを失い、感情の赴くままに動いた。バカな末路」
私を囲む炎が口を揃えて嗤う。
不意にこの一連の放火を行ったであろう男の死体に注目する。
彼の首筋に栗瓦に刺さったような毒針が刺さっていたのだ。今度はキャップが黄色かった。
これによって狂乱したのだろうと確信した。そしてラカーフの仕業であるとも確信したのだ。
火の手が激しくなる前に急いで広場に戻ったら、栗瓦の全身は風船のように膨れていて、目は充血していた。
栗瓦は恐怖と苦痛のあまり絶叫していた。
ひたすらに謝った。それしかできることがないことを謝った。
そのうちに絶叫は止まった。苦悶のあまり死んだのだ。
火の手が及んできたからサッキーと彼を安全な場所まで運ぶことにした。彼をせめて埋葬してあげようと思った。その道中重力塔が起動しているのが見えた。
それで今に至る――と、絵鈴は言う。
「――そんな事、あるはず……まるで、夢物語じゃないか」
話を聞いて、俺は驚愕する。
そんな話が、あるわけない。
作られた話にしては――突飛が過ぎる。
だが――町の燦々たる光景を見て、そう断言はできない。
赤子の声と轟々と炎の燃ゆる音だけが聞こえる。焼き尽くされる民家に――死に絶えた町人。もう、この町に生きているのは、俺達だけなのではないかと思えるくらいに――全てが焼き、尽くされていた。
痛い。人の重みというのは、案外馬鹿にならない物で、いい加減腹筋の辺りが苦しくなってきた。
「そう、おそらく『毒矢使い』はこの東側の重力塔を使って逃げたのよ」
そう言ってようやく重い腰を上げてくれた。反動で俺はバネのごとく浮き上がるのだから、気持ち悪くなるったらあったもんじゃない。
羽ペンは使い勝手がいいのか悪いのか判断しにくいな。
ただ、2度も浮かされてひどい目見てる俺からしたら最悪である。
いきなりドサッと俺の背中は地面に叩きつけられる。硬い岩が俺の腿に当たって軽く激痛だ。
たった50cmとはいえ不意打ち喰らうと痛い。
「おい、絵鈴……。降ろす時ぐらい合図しろよ、変ないたずらしや……」
がって、と言おうとしたところで気付いた。
そうだった。
宙に浮いていた物が落ちるってことは絵鈴がそれに集中できなくなったと言うことだ。
今回の場合、彼女が集中を切らした原因となるのは、原形を留めぬ程に膨れ上がった血と肉の風船。皮膚は血が透けて見えそうなほど真っ赤で、びっしり出来た嚢胞からは小刻みに血の飛沫が吹き出ていた。
あまりのむごたらしさに絵鈴は口を手で塞いでいた。
ああ、だがまずいぞ絵鈴、これは破裂寸前だ。
俺は咄嗟に絵鈴に覆い被さって伏せる。
同時にグロデスクな人間爆弾は辺り一面にに血や肉片をばらまく。
その吹き飛んだ肉片の生々しい感触が背中に残る。液体が俺の纏うローブにかかるのを感じる。
その一瞬のバーストが終わって起き上がると、眉をしかめた。
俺の藍色のローブの背中はこの一帯になる草花と同様、気持ちの悪くなるほど赤黒く染まっていた。紅色なんて美しいものではない。
絵鈴は埋葬する体すら失ってしまった栗瓦という少年のために涙していた。
だが俺が涙したいのはお気に入りのローブが汚れてしまったことだった。
再び眉をしかめる。
黒くそびえる重力塔に眩い輪郭の一端がかかり、いまだに東に光を放つ塔を一瞥するかのようだった。
ああ、朝焼けが来てしまった。あの陰鬱な朱をもたらすあの空が。
だけど悲しみを越えて、あの空に立ち向かわなくてはいけない。
俺はローブを脱ぎ捨てて重力塔に歩む。
その先に青い空が待っていると信じて。
第一章が終了となります。
次回より、2章が始まります。




