第一話 日常の朱
第一話
陽がさんさんと降り注ぎ、どこまでも続く、透き通ったような青空が白い綿雲を浮かべていた。その青い空の下には一面緑色の草原が広がっていた。
草原は陽光を反射させて艶やかに輝きながら、微風に合わせてゆらゆらと動いていて、風が強く吹くと一斉に煽られ、サーと爽やかな波のように倒れる。
その原っぱの中央で俺は仰向けで、心地よい風を全身に受けながら、青い空をぼんやりと眺めている。
その向こうにあるものまで見透かしてしまうかのようにじっと凝視していた。
風に流された草が波打つ音より他に何も聞こえない。
静寂と安逸の約束された心地よさがそこにはあった。
いや、耳を澄ますと風が草を切る音に紛れて小さく断続的に聞こえる。
少女の声だ。それもどこか懐かしい響きだ。
よく聞こえないはずなのに俺の名前を呼んでいるような気がした。
その時だった。
俺の視界と青空を暗雲が遮る。
声も聞こえなくなり、草も風も止まっていた。
その塊のおとす影が俺に覆い被さり、太陽までもが包み隠されたとき、空間は色彩の全てを失った。
俺は悟った。
「ああ、そうか、またか」
俺の視界は暗転する。
「またこの夢…」
目覚めの悪い朝だった。一体何度この朝を繰り返してきたことか。
寝起きの気力がだらしなさに僅差で打ち勝ち、俺は力なく薄いブランケットから這い上がり、ベットから自立する。
次いでカーテンを開けて窓から空を覗く。いつも通りの朱だった。
この色は日の出のせいではない。
いつからそうなったのか知らないが、空は朱に染まっているものと世の中相場は決まっているらしい。
もっとも俺の生まれて間もない頃は、みんな青い空を見上げながら普通に暮らしていたそうだ。
だが俺は物心付いたときから空の色が変わったこと以上に、それに何の疑問も持たない人々が不思議でたまらなかった。
何故だか俺は青かった空に無性に恋い焦がれていた。夢にまで見るくらいなのだから。
そうして何も変わらないはずのその薄明でオレンジがかった空を、合わない焦点で眺めていると、キラリと小さな輝きが見えた。
俺はその光を注視する。光はとても小さかったが鋭い輝きを持っていた。
それがゆっくりと降下しているのがわかった。
直下にあるのは町の広場だ。
俺は急に好奇心に駆り立てられ、玄関につるされている藍色のローブだけ羽織るとパジャマ姿のまま外へ飛び出していった。
まだニワトリも鳴かない早朝。
日は地平線の向こうで気恥ずかしそうにこちら側を窺っていた。
そのまばゆい視線で未だ寝静まる町をほのかに照らす。
俺はただ、閑散とした日干し煉瓦の街道を走った。
その淋しさが気温とも連動しているのか、肌寒く、出る息も白く上がりつつある。
だが俺は肌触りも踊る寝癖すらも意に介さず、舞い降りる光を追い求めて夢中で走った。
そして息を切らしながら、ようやく広場の入り口までたどり着いた時、もうその光は俺の身長2つ分のところまで来ていた。
光るその物体は手のひらに収まりそうな大きさで、まるで落ち葉のようにフワフワとゆっくり下降してくる。
広場はというと、昼間バルコニーで服を干す主婦も、威勢のいい売り文句が飛び交う屋台も不在。ただ中央に井戸がポツンと侘びしく構えている。
そしてその井戸の底めがけて光は落下しようとしていた。
俺はすかさず底まで駆け寄り、それが井戸の中に入る、すんでの所で掴む。
すると指の隙間からこぼれる強烈な光が閃光となり、手に電撃が走った。俺は目を瞑ったがその手は握りしめたままにしておく。
手のひらから熱い感触が消え去ったあと、俺は目と手を両方開き、その物体の正体と出会った。
それは、15cm定規。
あまりにも不思議な体験だった。
その後家に帰って、これも夢でないことを確認すべく、寝る。
そしてニワトリの鳴き声に覚まされ、やはり朱に染まった空を見上げた。
手には定規がしっかりと握られていて。
どうやら夢でなかったらしい。
俺はそのまま、普段の日常通り、朝食を両親と取り、大学へと歩を進める。
例の定規もポケットに納めて。