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9/13




 日一日と経るごと、吸い込む息や頬を撫でる空気は冷たくなっていく。窓の向こうの木々の葉も、色付きはらりと地へとその身を落とすようになった。あれ以来足を運んでいない屋敷の西側にあるハサージュの海は、きっといまでは枯れ果てているのだろう。

 季節は冬。

 凍えるほどに冷たい風が吹くこともある。

 秋から冬へと、リサは季節をまたいでこの屋敷に世話になっている。

 かたかたと風が窓を揺らす音をぼんやり聞きながら、ついさきほど仕事に出かけたルドルフを思った。

 夜が明けてすぐ、彼は屋敷をあとにした。寒い冬の朝だ。コートやマフラーをしっかり着込んだルドルフは、玄関ホールでリサを緩やかに抱き締めてくれた。

 厚着していなければ、もっと体温を感じることができるのに。

 気持ちのどこかで寂しさを覚えながらも、そっとくちづけをくれるルドルフに、不満など言えるはずもない。

 そう。―――くちづけは、してくれるのに。

 唇が離れる瞬間、いつも無意識に伸びてしまう指先。ルドルフに気付かれるより先になんとか誤魔化してはいるものの、どうしてこの先に進むことを急にやめてしまったのか、―――問えないでいる。

 いまも身体には、(ほの)かな力で抱き締められた感触が名残惜しく残っている。

 どうして、いままでのように力をこめてくれないのだろう。

 優しく抱き締めてくれることがかえって苦しい。ルドルフのぬくもりを思い返すしかないからこそ、いっそう虚しくなる。

 窓の向こうのルドルフの影が、小さくなって消えていく。

 彼の豹変は、頭の中によみがえってきたあの声に気付かれたからなのか、それとも、

(他に、誰か好きなひとができたのかもしれない)

 領主としての仕事は多岐にわたっている。

 その、どこかで、リサにはない魅力を持った誰かと出逢ってしまったのかもしれない。

(だって……まだ、正式に結婚してるわけじゃないし)

 使用人たちはリサのことを『奥さま』と呼んではくれるが、法律上は婚約者ですらない。国王の許可を待っているだけの、宙に浮いた中途半端な立場だ。

 誰だって、記憶を失くした心許ない女より、過去をしっかりと持った女性のほうが安心する。

(ルドルフさま……)

 本当に、他に好きなひとができたのだろうか。

 だから、帰りは遅くなるから先に休んでいてもいいと、昨日の夕食時、口にしたのだろうか。そんなこと、言われたことなどなかったのに。

 頭の中が、どろどろとした黒いなにかでいっぱいになる。

(嫌だ)

 嫉妬の醜い触手に絡みつかれる自分は、浅ましい。

 なに不自由なく生活できるだけでも、ありがたいことなのに。

 なのに―――。

 ルドルフが欲しい。

 彼が、欲しかった。

 自分だけを見つめて欲しい。

 他の誰も、その眼に入れて欲しくない。

 どうして急に抱いてくれなくなったの?

 なにがあったの?

 どうして?

 本当に、

(好きなひとができたの……?)

 ルドルフの心の中に他の女性がいるなんて、信じたくない、考えたくもない。

 自分の立っている場所が、顔の見えないその女性にじわじわと侵蝕され、追いつめられている。

 気持ちが離れていってしまったのは、記憶がないから?

 それでも、それなりにはいい関係だと思っていたのに。

 どうして。

 眉間にしわが深く刻まれているのが自分でも判る。

 どうして。

 そこまで考えたとき、リサは己の皮肉な矛盾に気付いてしまう。

 これは、正真正銘〝正妻〟であるリアラだけが抱ける悩みではないのか。

 リサではない。

〝正妻〟にしか許されない苦しみだ。

 冷静に考えるまでもない。自分がいるのはリアラの側ではなく、〝相手の女性〟と同じ場所だ。

 相手の女性を責める資格も、ルドルフを非難する資格もない。最初から、なにひとつとしてない。

 自分はリアラの場所に乗り込んできて、その場所を奪おうとしている。

 相手の女性と、同じではないか。

 ルドルフの心の中の女性に負の感情を抱くなど、なんて烏滸がましいのだろう。自分を棚に上げて、滑稽ですらある。

 なにを生意気にも思い違いをしていたのか。

 なにを思い上がっていたのか。

 結婚の許可は、いまだ下りてはいない。

 ルドルフの気持ちひとつで捨てられる立場なのは、相手の女性と変わらないのだ。

 離れたくない。

 捨てられたくない。

 もし、―――もしもいまでもリアラが生きていたら、自分とルドルフはどんな関係を築いていただろう。

 そんな疑念が生まれた。

(そんなの)

 改めて問うのも莫迦げている。

 リアラがいる限り、ルドルフがリサに男としての眼差しを送ることなどありえない。

 だから、リアラが妬ましさに苦しむこともありえない。

 リアラ。

 ルドルフの、妻だった女性。

(あなたなら、どうしますか?)

 あなたなら、どう乗り越えますか。

 そう問うたとき、リサは気付いてしまう。

 どうして、頭を占めるのはリアラのことなのか。

 敵うはずもないのに、比べたい気持ちがあるのだろうか。

 ルドルフの想いびとへの嫉妬や自分への失望よりも強く、リアラならどうしていたか、怒っただろうか呆れただろうか気になっているだなんて、おかしい。

 肖像画の中でしか知らない彼女。きっと彼女なら、気丈に普段どおりを装い、なんでもない顔をしたに違いない。

 たとえルドルフの新しい恋人―――リサと対面することがあっても、引け目に思うこともなく毅然と応対ができるはず。

 男爵夫人に相応しく、凛々しくまっすぐ立ち続けるひとだ。

 あの肖像画が、物語っている。

(わたしには無理。泣きわめいて、ルドルフさまを困らせてしまうだけ)

 どうして、命を落としてしまったのか。

 リアラが生きてさえいれば、この引き()れる胸の痛みに苦しまずにすんだのに。

 気持ちの隙間をついて、そんなどうすることもできない莫迦げた思いが胸をよぎる。

 窓に映り込む部屋が目に入り、リサは呼ばれた気がして背後をゆるりと振り返った。

 気のせいかと何気なく思ったとき、部屋から滲み出るリアラの気配を肌が感じ、ぞくりとした。

(もしかして……?)

 この部屋が、そうさせている……?

 男爵夫人の部屋―――リアラの過ごした部屋。

 まさかとは思うものの、リサは、こくりと唾を呑み込んだ。

 リアラはここで読書をし、刺繍をし、―――ルドルフに愛され、そして、ここでまさに命を終えたと聞く。

 部屋のそこここにリアラの息遣いが残っているのだ。なにかあるたびに彼女に思いがいくのは当然なのかもしれない。

 リアラの中に、

(わたしはリアラさまの中にいるんだ……)

 まるでリアラに呑み込まれてしまったかのような錯覚に陥る。

 一瞬のめまいのあと、リサの耳にふと、すぐ間近から彼女の甘い喘ぎ声が聞こえてきた。

 一気にそれははっきりとした狂おしい声となって、耳に忍び込んできた。

(やだ、なに……? ―――やめて)

 両手で耳を塞ぎ、艶めかしい喘ぎ声を防ごうにも、指の間から髪の隙間から、まるで嘲笑うかのように彼女の声が流れ込んでくる。

(やめて!)

 たまらず椅子から立ち上がり、両手を振って声を払う。視界に飛び込んでくるのは、リアラが使った寝台。リアラが触れた壁紙やカーテン、書棚、扉。

 リアラ。リアラ。リアラ。

 目を開いたそこに飛び込んでくる光景すべてにリアラが刻み込まれている。微笑むリアラの姿、愛を受け声にならない声をほとばしらせるリアラの息遣いが目の前に迫ってきて、くらりと足がよろめいた。

「あ……」

 唐突に、ひとつの事実―――現実に行き当たる。

 ここは、リサではない、リアラの場所だ。

 部屋がリアラを求めているのではない。最初から、ここはリアラだけの場所だったのだ。

 あまりにも当たり前すぎる事実に、身体の内側から自分が瓦解していくのを感じた。

『ルドルフさま』

 聞いたことのない透明な声が、ルドルフを甘えて呼ぶ。

(やめて)

『ルドルフさま……』

 それはまた別の女性の声にもなって、幾度も艶めいた吐息をもらしてゆく。

 気のせい? 考えすぎ?

 そうかもしれない。けれど。

(だめ)

 いられないと強烈に思った。

 ここにいてはいけないと。

 ここは、自分がいていい場所ではない。

 おかしくなってしまう。

 いては、いけない。

 リサは震える手を叱咤してクローゼットから上着を取り出すと、逃げだすように部屋をあとにした。



 どこかに行こうと思って部屋を出たわけではなかった。

 どこもかしこも、屋敷にはリアラの影がある。

 気持ちが落ち込んだり乱れたときはいつも、あの肖像画の前に立っていた。リアラの視線に晒されることで気持ちは落ち着くのだけれど、今日ばかりはできなかった。無理だった。リアラの顔など、見たくなかった。

 行き先なんてない。足を向ける先がどこかだなんて、思うことすらできない。

 ただ勝手に身体は上着を羽織っていて、足は庭へと向いていた。

 庭へと出る扉を開けた途端、部屋から見ていた以上の冷たい風が強く吹きつけてきた。身がすくむも、この冷たさが身体の内を巣食う澱んだ感情を吹き飛ばしてくれればいいと、心の底から思った。

 冷たい風を受けながら、足の赴くままに歩を進める。

 そうして、――もしかすると最初からそのつもりだったのかもしれないが――目の前に現れたのは、ハサージュの海だった場所。

 ひと月前のあの瑞々しい緑や淡い濃淡を見せていた薄紅色の花の波は見る影もなく、枯れ果てて処分されたのだろう、耕されて白茶けた色の土がむき出しになっているばかりだった。寂しく荒涼とした有様は、あの美しい花の波があったのと同じ場所だとは思えない。

 耳元を通り過ぎる冷たい風が囁いている。

 お前の化けの皮はすぐに剥がれるのだ、と。悪魔のように低く甘く、冷酷な声で、己の現実を眼前に突きつけてくる。

 ハサージュの花の海を見たのは気のせいだったのか。そう思えてしまうほどに、目の前の光景は記憶に残るものと違い過ぎていた。

 あの日から急にリサを抱かなくなったルドルフ。

 ここで、なにか失態を犯したのだろう。リサ自身には判らない失敗がルドルフの気持ちを冷めさせ、他へと向かわせた―――。

 もう、居場所などないのだ。

 すべての終わりを、目の前の寂れた光景は告げている。

 穿ちすぎかもしれない。けれど、あまりにも寂寥(せきりょう)とした光景は、リサの思いを裏付け、卑屈にさせるは充分すぎた。

 身の内側から、いろいろなものが剝がれて落ちていく。剝がれていくものなんて、持ってないはずなのに。諦めや希望、息をすること、ここに残ること。

 なんて冷たく風は吹くのか。

 一光景ですら自分を排除しようとしている。

 遠くに見える地平線に、呑まれそうになる。

 我慢ができず、身を翻した。

 ―――わたしは、誰。

 息のできる場所が欲しい。

 助けて欲しかった。

 安心できるなにかが、縋るものが、確かなものが、なんでもいい、欲しかった。

(わたしは誰)

 自分が誰か判れば、寄る辺のない思いに怯えることもなくなる。屋敷のそこここに残るリアラの残像に怯えることもなくなる。ルドルフの女性にも、きっと怯えずにすむ。

 自分の素性が判らないから、こんなにも寂しくて心細くなってしまうのだ。

 誰かに会いたかった。

 あなたはここにいるのだと、誰かに存在を確認してもらいたかった。ここにいていいのだと、頷いてもらいたかった。

 頭を一瞬掠めたのは、やはりルドルフのことだった。だが、リサはすぐにそれを追い払う。

 ルドルフにこの鬱屈した思いを訴えても、いつものように有耶無耶に誤魔化されてしまうだけだ。いや、もしかしたら重たいと鬱陶しがられて余計に避けられてしまうかもしれない。

 頭に浮かんだのは、使用人のステラだった。彼女は、記憶がないと落ち込むリサに、時折優しい言葉をかけて慰めてくれるひとだ。

 彼女ならもしかすると、虚しく焼けついたじれったい気持ちを判ってくれるかもしれない。

 そう思うと、いてもたってもいられなくなった。

 この時間はおそらく、半地下にある使用人専用の食堂で、皆とともに朝食をとっているはず。

 細い、蜘蛛の糸のようなよすがでしかない。だが、いまのリサには彼女の存在しかなかった。

 ふらふらと風に流されそうな足取りで、ステラを求め、リサは屋敷の半地下へと足を向けた。



 ・―――×―――×―――・



 屋敷の東側一階に、半地下へと降りる階段がある。この階段を使うのは使用人のみで、本来、主人やその婚約者にあたるリサが使うことはない。けれど、リサはときどきルドルフに内緒でステラにいろいろと話を聞いてもらっていたから、使うことがある。

 だから今日もいつものように半地下への階段を降り、突き当りにある食堂へと向かったのだ。

 ―――が。

 耳に飛び込んできたその声に、食堂の少し手前で足が止まった。

「旦那さまもさ、急ぎすぎだと思うんだよね、奥さまのこと」

 誰の声なのかすぐには判らなかったが、若い男性のぼやく声に、リサの息が止まる。

「ご結婚のこと?」

「そうねぇ。急ぎすぎというか、いいのあれ? って思うことはあるけど」

 別の声に、年配の女性の声が重なる。

「それって、呼び方のことでしょ?」

「だよな。『リィ』って、おく……じゃない、前の奥さまの呼び名だろ?」

 耳に飛び込んできた誰かの発言に、腹に重たいなにかが落ちてきた。胸の内を(えぐ)り喰い破って、酷く不快な傷を刻みながら。

 ―――なに?

「え、そうなの?」

 なにも知らなさそうな声が誰かに訊く。そうよ、とまた別の声。

「奥さまはなにもご存じないようだけど、『リィ』っていうのは前の奥さまの愛称なのよ」

「えええええ。なに、そうなの? やだちょっと、気持ち悪いって、怖いって」

 おののく声が響いてきた。

 胸が、鼓動を重ねるごとに痛みを訴えている。手の先、足の感覚がない。全身が、心臓の鼓動だけになっている。

 なに。

 どういうこと。

 聞き間違いかと発言内容を思い返そうにも、それは意識に再度のぼらせるだけで嫌悪を催す強烈な威力を持った音の連なりになっていて、思考は全力で拒絶してくる。

 悲鳴は出なかっただろうか。自分の息遣いは、聞かれていないだろうか。

 息遣い? いま、自分は息をしている?

 身体が、動かない。

 ただただ、食堂から漏れ聞こえる会話に耳をそばだてるしかできなかった。

 ゆっくりとひとつずつ、耳が拾った単語を見つめる。

『リィ』―――リアラの呼び名……。

(わたし、……リアラさまじゃない……)

 脳裏に自分に与えられた部屋がよみがえる。

 リアラだらけの、部屋。

「旦那さまはさ、奥さまが前の奥さまの生まれ変わりって信じてるんだよ」

 使用人専用の食堂は音がよく響く。食器が触れ合う音などを間に挟みながらも、彼らの会話はひたすらに他人事として、柔らかに反響しながら聞こえてくる。

「生まれ変わり? まさか。だってもしもホントに生まれ変わってるんならまだ小っちゃい子どもでしょ」

「そうだけど、よ」

 自分でも口にした内容が荒唐無稽なことだと判っているのだろう、若者は最初こそ意気込むも、しおしおと声音は(しぼ)んでいく。

「―――わたし……、あれ? って感じたことは、ある」

 数瞬の沈黙を置いて聞こえてきた声に、背筋が冷えた。

 母親ほどの年齢だろう女性の穏やかなその声は、ステラのものだった。

 思いもかけない人物の発言に、リサは乾いた唾をわななく喉へと押し流す。

「生まれ変わりというほどじゃないんだけど、ほら。ふとした表情というか、目の配り方というか、声もときどき、前の奥さまに似てる気がするときがあるの」

「ステラは一番奥さまと親しいからなぁ。―――マジでそう思う?」

「似てるひとなんてどこにでもいるんでしょうけど、あれ? って感じることはあるわ。生まれ変わりとまではいかなくても、旦那さまもなにかを感じてああお呼びしてしまうんじゃないかしら」

「―――ねえ」

 また別の声が神妙に話に割って入ってきた。

「奥さまって、記憶がないんでしょう? もしも。もしもよ? 実は前の奥さまだってことは……」

「ないないない。それはないよ」

「だったらもっと年を取ってなくちゃ」

「髪や目の色もだけど、顔かたちだって全然違うし」

 周囲のみんなが半ば笑いながら否定をする。

「今日だって、前の奥さまが亡くなった日にちだから、旦那さまはわざわざ墓所に出掛けておいでなのよ? 奥さまが前の奥さまと同一人物だったら、そんなことしないでしょ?」

(え?)

 その発言に、まばたこうとしていた目が、見開かれる。

(―――亡くなった、日にち? 墓所って、今日は仕事だからってルドルフさまは)

 前日にそう言って出掛けたはず。

 仕事では、なかった……?

 嘘を、つかれた?

「そうよ。同一人物だって言うんなら、じゃあ毎月のように墓所にお参りに行くのはどこの誰のところなの、ってなるじゃないの」

「エレイナったら、不謹慎に聞こえちゃうわよ」

「あらま、そうよね。ごめんごめん」

 エレイナと呼ばれた女性のからからとした笑い声が聞こえた。

 その笑いに、リサの喉に息がひゅっと戻ってきた。

 冷たい空気が、冷たい身体に沁み込んでいく。

 ルドルフは、嘘をついていた……?

 夕食時、なんでもない顔をして嘘をついていたと?

 あの笑顔の下で。

 仕事で。墓参りで。―――誰か、他の女のひとのところ。

 どこ?

 ルドルフは、いったいどこに行ったのか。

 廊下の先の食堂からは、もう別の話題が聞こえていた。食器の触れ合う音がする。

 ―――ああ、ここは、使用人たちの使う食堂の前だった。

 耳の奥で、きぃんと高い音が鳴っている。

 浅い息を繰り返し、足音を立てないようリサはゆっくりと踵を返した。

 固く冷えた長い廊下を階段へと向かう。

 壁に手をついてよろめきながら、一階への階段、その一段目に足をかけた。

 不思議と、唇は笑みを浮かべる。

(ああ……)

 力が入らない。このまま崩れてしまいそうだ。

 頭の中でさまざまなことが荒れ狂う。荒れ狂ったすべての言葉や出来事が積み重なり壁となって押し潰してきて、なにも考えられない。真っ白というより、光も闇も通さない灰色のなにかで塗り籠められてしまっている。

 いきが、苦しい。

『リィ』

 愛しげに自分を呼んでくれるルドルフの声。甘やかな眼差し。

 それらのすべてに音をたてて(ひび)が入り、割れ落ちていく。

 なにも。

 なにもない。

 なにもなかった。

 自分へと向けられていたと思っていたあの眼差し、声、手。想い。

 なにも。

 違っていたのか。

 ルドルフが見ていたのは、リサではなくリアラだったと。

(だから……)

 だから、リアラが使っていた部屋をそのまま使わせていたのか。

 だから、『リィ』と呼ばれていたのか。

 だから、―――だから一緒にリアラの肖像画の前に立とうとしなかったのか?

 リサがリアラと似ていない現実を突きつけられるから? ならば、すべての肖像画を撤去すればいいのに。そう思ったところで、リサは更に打ちのめされる。

 愛するリアラの肖像画を、どうして取り外せよう。

 目の前にある現実は見たくない。だがそれでもリサになにかを思い出させようと、肖像画を執念にも似た思いでかけ続けていたのかもしれない。

 彼の真相など、判らない。

 最初から、全部が、すべてが判らない。

 もう、どうだってよかった。

 ルドルフが見ていたのはリアラ。それが、すべての答えだ。

 そうして、リサにリアラを見ながら、彼は他の誰かを……心に住まわせている?

 リサはリアラで、なのにルドルフが見ているのは別の女性。

 そんな莫迦な話があるか。

 リサではない。

 自分の存在は、どこにもない。

 ここに、目の前にいるのに、ルドルフは決して自分を見つめてはくれないのだ。どこかから現れた女性に、持っていかれてしまった。

 道化師、という言葉が脳裏に浮かぶ。

 どこからどう見ても、自分は道化師でしかない。

『プラーシェク男爵ルドルフ・マトゥーシュを籠絡するんだ』

「!」

 おどろおどろしさをももって、冷えゆく心にあの声が囁く。

(やめて……)

 目の前で、ちかちかとなにかが明滅している。

『リィは、リィだよ。記憶が戻って己を恥じるような存在ではない』

 重たく反響しながら、ルドルフの声が聞こえる。

『いまあなたがここにいる。わたしにとっては、それが一番重要』

『口にしてしまうと、すべてが消えてしまうかも』

『あなたがすべてを思い出したとき、答えはおのずと出てくる。それまではなにも言えない。言うべきではない』

『あなたが誰なのか。知っているとも言えるし知らないとも言える』

 彼がこれまで口にしていた意味ありげな言葉が、荒れ狂い、暴れ、思考を破壊する。

 答えは既に出ていたのだ。

 彼は言っていたではないか、ずっと。

 お前は、リアラなのだ、と。

 ルドルフの声が、言葉が、すべてが、リサを削り崩す。

『結婚して欲しい』

 ―――誰と?

 目の前には、階上からの明かりに照らされる幾つもの段。

 ここはどこ。

 わたしは、誰なの。

 誰でなければならないの。

 頭の中が重たいなにかに埋め尽くされる。抑えても抑えても得体の知れないなにかが積み上がってくる。どんどんとそれは押し潰してきて、それでもまだ足りなくて容赦なく更に更にとのしかかってくる。

 たすけて。

 たすけて。



 ―――もう、なにもかもから排除されていく。




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