八
それから数日後、リサは男爵夫人となる者として部屋を移ることとなった。使用人たちの態度には、困惑している様子がありありとあった。
最初に感じたのとは違って、決してリサを責めているわけではない。正妻の地位を約束されてもなお常と変わらず高飛車にならない彼女に、純粋に戸惑っているようだった。
気持ちでは受け入れているけれど、頭では『これで大丈夫なのか』と自問を繰り返している。そんな感じだった。実際、親しくなった使用人のステラが、『どう対応すればいいのか、実はみんなもまだ戸惑っているんです』と、こっそり教えてくれた。
苦笑を返すしかない。
リサ自身、これでいいのかと毎日自分に問うてばかりだ。
リサはどこかの令嬢だとルドルフは言っていた。どの家出身なのかまでは判らないとも。
彼女をコルディク館に連れてきたのは、出自をある程度推測したからだろう。それなりの家出身だから、コルディク館で暮らせば記憶をよみがえらせるきっかけを摑めるかもしれないと考えたに違いない。
彼の思いやりは判らないでもないが、リサにはむしろ、次第にこの館にやんわりと閉じ込められているような気がしていた。
記憶を取り戻したい。
けれど―――、彼が求めているものはリサが求めるものとどこかずれているような居心地の悪さを感じるときがある。
良くしてもらいながらそう思うのはいけないことだろうが、気付かないふりができないのは、ともに過ごす時間が増えていくぶん、すれ違う互いの意識が見えてきたからだ。
屋敷から出るなと言われているわけではない。監視の目があるわけでもない。ルドルフに連れられて庭を軽く散策することもある。遠出をしたことはないが、それはたんにする理由もなければ、ルドルフから誘われることもないというだけ。リサの自由を阻むものは、なにひとつとしてない。
だから、閉じ込められているわけではない―――のだけれど、外出に誘われないのは意図的なのだろうかと、不意にリサの胸にひやりとしたものが忍び込んでくるのもまた事実だった。
考えてしまうと、不安に沈められそうなことばかりが頭をよぎる。
館を訪れる客人と顔を合わせたことがない。客人がいるのかすら判らない。少なくともここに来てからの数週間、誰とも会っていない。
それは、はたして普通のことなのか。正式な女主人ではないから、わざと遠ざけているのでは?
(ううん、違う。違う)
時折襲われる仄昏い思考を、頭を強く振って遠く追いやる。
客人はいるのだろう。ただ、リサとは関係がないひとだから、紹介される必要がなかっただけ。
外出だって、どこかに行きたいと主張をすれば、ルドルフは快諾してくれるに違いない。ただリサ自身が、あやふやな自分の存在が怖くて一歩を踏み出せないだけ。ルドルフはそれに気付いていて、だから強い態度で外出を促そうとしないのだ。
『答えはおのずと出てくる』と言っていたように、ルドルフは自然に時を経ることで記憶が戻るのを待っているように見える。
だが、自分自身が動けば一足飛びに記憶が戻ってくるのでは、という焦燥感も確かにある。
記憶がないせいで生まれるもやもやとした不安や歯痒さから、いますぐにでも抜け出せるかもしれない。
自分から、動けば……。
ぞくりとした。
―――この世界を、切り拓いていいのだろうか?
前向きな気持ちが湧き起ころうとした瞬間、裏側から冷たい思いが斬り込んできた。このまま淡く閉鎖的な空間に甘えていればいいのだと、誰かが気持ちの切り替わりの隙をついて囁く。
ルドルフに守られているいまの状態は、とても心地がいい。なにを心配することもない。自分の記憶や強引気味なルドルフに不安がないわけではないけれど、それでも使用人たちも含めて皆は好ましく思ってくれている。下手に動いてその関係を壊す必要があるのかと、誰かが―――もうひとりの自分が問いかけてくる。
知らなくてもいい真実もあるのではないのか。
いまある幸せを壊してまで真相を究明すべきなのか?
敢えて知らないふりに徹することも、必要なのでは?
行動を起こしたその先に、記憶を取り戻すなにかを見つけられるかもしれない。頭の中ではそう判っている。けれど、気持ちは、―――前に進むのが怖い。記憶が戻ることがすべての終焉を意味していたとしたら。
「……」
こんなことばかりだ。
気持ちが上向きになるといつもなにかにぶつかって、まったく反対の気持ちが湧き起こってくる。
どうすればいいのだろう。言われるまま、ただルドルフの妻の座にいてもいいのだろうか。
本当に?
(―――リサ)
自身にこう問いかけるのは、いったい求婚を受けてから何度目だろう。
(リサ。ルドルフさまは男爵さまよ。あなたの真実がはっきりしない限り、そばにいるべきじゃない。そうでしょう? 苦しいと感じるのは、妻になってはいけないと判っているからでしょう?)
窓辺にもたれて窓外を眺め遣る。窓ガラスに薄く映る自分の飾られた姿に、目をそらす。
なにかが違う。
〝貴族様〟の姿をした自分を見ると、発作のように嫌悪を感じてしまうことがある。
流されている。
ともにいたい思いに勝てなくて、強引にことを進めるルドルフに翻弄されるのを受け入れてしまっている。湧き起こる不安に、この場に留まろうとよすがを求め手を伸ばしても、激しくぶつかってくる流れの勢いに身は押し流され、指は虚しく宙を掻くばかりだ。
寄る辺なく流されてはいるが、それでも皆からは好意的に受け入れられている奇妙な現実。
受け入れられているのなら、このままでいいではないか。
―――でも。
本当に、いいのか。
そんな疑問が胸の奥に深く突き刺さっている。
疑念に気持ちが傾けば、すぐに、大丈夫これでいいのだと、意識を閉じさせようとする自分がいる。
ルドルフにすべてを任せ、流されていくのも時には必要なのだということなのか。
判らない。
いろんな感情や思いが嵐のように渦巻いて、進むべき道を隠している。
―――判らない。
すべてが、判らなかった。
直感を支える背景を、基盤となる確かなものを失っている。どうやっても気持ちに自信が持てない。自分の想いを、盲目的に信じることも突き進めることもできない。
自分の感覚は記憶がないからあやふやで、だからみんなと異なったものを感じてしまうのだ。
すべてに自信がなくて、怯えてしまう。
だから―――。
リサは、ゆるゆると目を動かした。
(だから……)
いまいる部屋―――〝男爵夫人〟の部屋の居心地も悪いと感じてしまうのだ。
本来なら、普通なら、正妻の部屋なのだから、ここで過ごせることは誇らしいと感じるのだろう。
肌がピリピリする感覚も、普通だったらないのかもしれない。もしかすると、耳を塞ぎ目を閉じてこの甘やかで柔らかな世界に浸りきっていれば、いずれは心地よくなるのかもしれない。
〝男爵夫人〟の私室。
新しく用意された部屋は、ルドルフの私室の隣にある。共通のリビングを挟んでいるから、厳密に言えば客室のように個室として用意された部屋ではない。
そして、当然ながら彼の前の妻―――リアラが使っていた部屋でもある。
〝妻〟となるのだから、〝妻〟に相応しい部屋が与えられるのは当たり前のこと。
そう判っているのに、この場所にいるのは、辛い。部屋のどこにいても胸を深く抉られるようで、息をするのも苦しい。
感じるのは、強い罪悪感。
その罪悪感が、いっそうリサの不安を煽る。煽られた不安は、意味もなく苛立たしさを引き起こし、そんな自分がいっそう情けなくなる。
どこもぬかりなく丁寧に整えられた部屋は、まったくもって他人の部屋にしか思えない。
自分のために用意されたと重々承知している。だが、それでも他人様のものとしか思えない。
新しい女主人のために一部の調度は新しく替えられてはいたが、壁紙や長椅子や寝台、バスタブなどはそのままだ。
前に使っていた女性の気配をひっそりとその身に刻みながら、それらはリサを身の内に入れていた。
部屋それ自体から、無言の圧力を受けている。
お前は、この部屋に住まうにはふさわしくないのだ。
出て行け、と。
部屋から拒絶をされなくても、そんなことは判っている。
いったい誰が愛されていた前妻の部屋を好き好んで使うと言う?
どうしてルドルフは、リアラが使っていた調度をそのまま残していくのか。
なにも感じないとでも思っているのだろうか。
そんなことに気付かないルドルフとは思えないから、なにか意図があるのかもしれない。
リアラが愛されただろう寝台で自分も愛を受けるというおぞましい現実。
実際にルドルフと身体を重ねてしまうとそれどころではないのだが、ふとした瞬間、自分の置かれた状況がよみがえり、ぞっと肌が粟立ってくる。
穢らわしいと、卑屈にも思えた。
本当は、嫌なのだと言いたい。
けれど、―――言えなかった。自分の中でよみがえるあの声のせいで湧き起こる後ろめたさが、いつもリサを直前で思いとどまらせる。
(もしも)
もしもあの声さえなければ。
そうすれば自分の気持ちもちゃんと伝えられるだろうし、素直に彼の胸に飛び込めた。
記憶がなくとも、ルドルフの愛情に満たされて日々を過ごすことができた。日々の中で、少しずつ自分の過去を探ることもできただろうに。
なのに―――
こんなこと。
(誰にも)
こんなこと、誰にも相談できない。
・―――×―――×―――・
廊下の奥に飾られた、前妻リアラの肖像画。
不思議な表情をしていた。幸せそうにも見えるし、緊張しているようにも、はにかんでいるようにも見える。きっと見る者の心情によって、違ってくるのかもしれない。
いまのリサには、困惑しているように見えた。
「リィ」
廊下の向こう側から、かかる声があった。
振り返らずとも判る。リサがこの場に立っている限り、決してここに並び立ってくれないひとの声だ。
「ルドルフさま」
昼食を終えて少し時間が経った頃合いだった。いつも忙しく動きまわっているルドルフだが、ここにいるということは、僅かなりともリサと過ごす時間を作れたのだろう。
「屋敷の西側に、ハサージュの花が咲いたそうだ。今日は暖かいし、見に行かないか?」
「……ハサージュ?」
聞いたことがあるようなないような音の並びだった。
「ああ。見ればきっと驚くよ」
訊くと、ハサージュとは、薄い紅色の花弁が筒状に咲く秋の花だという。ちょうどいま頃、秋も深くなり始める頃が見ごろの、一年草らしい。
ルドルフは数歩リサのほうに歩を進めるものの、やはりこちらに辿り着く前に足を止めてしまう。
「肖像画、気になる?」
「え?」
これまで訊かれたことのなかった問いが彼から投げかけられた。窓からの陽光を淡く受けたルドルフは、どこか不安げだ。
妻に迎える女性が前妻の肖像画を見つめているのだから、気にならないわけがない。
自分の行動が彼の気持ちを乱してしまっているのではと、リサは急に気が気でなくなる。
「いえ、あの。そういった意味はないんですけど」
「気になるようだったら、下げさせようか?」
「いえ。大丈夫です。このままで全然構いません」
リサは慌てて首を振った。
むしろ、外して欲しくない―――外すべきではないという気持ちがあった。
自分でも判らない。
彼女の肖像画と向き合うのは、何故か嫌ではなかった。責められている気すら時にはするのに、その無言の圧力に、不思議と気持ちはほっとするのだ。
肖像画の前になんとはなしに佇んだままでいると、数歩離れたところからの視線を感じ、はっとした。
自分はどれだけ鈍いのか。
遠まわしに、ルドルフは『そこから離れて欲しい』と訴えているのだ。
わたしこそ、ここに立つことでルドルフさまの気持ちを乱してしまっているのでは?
そう問いかけることができればいいのに、ふたりの関係に亀裂が入ってしまうのが怖くて、問うことができない。
「あの……。ルドルフさまのお時間を無駄にしてしまいました」
だから、当たり障りのない言葉を選んで、彼のもとへと向かう。
リサを見つめるルドルフに、甘やかな笑みが広がる。
「あなたのそばにいることが、どうして無駄になるという?」
ルドルフの隣に並ぶリサの腰に、ごくごく自然にルドルフの腕が絡まる。頬に、首筋に、そして唇にルドルフの柔らかなぬくもりが落ちる。
―――見られている。
リアラの肖像画は壁を向いているはずなのに、リサにはリアラが絵の中からこちらをじっと見つめているような気がした。
屋敷の外に出ると、やんわり流れている風は冷たい。
連れられたのは、初めて足を踏み入れる場所だった。
建物をまわった途端目の前に現れた光景に、リサは息を呑んだ。
ピンクや白を基調とした花の海が、屋敷の西側一帯に広がっていたのだ。
小ぶりの花弁が数枚ずつ重なり合った小さなラッパ状の花が、淡く細かな緑の葉の上に載っている。敷地の端なのだろう遙か向こうの木々にまで、たくさんのハサージュの花がピンクの濃淡となって、風に揺れて波を作っていた。
「すごい……」
花はどれも膝丈の高さに整えられていて、視界を埋めて咲いている。一斉に花開いていることからも、かなりの労力がこの花畑に費やされたのだろうと判る。
花の海を前に、リサは言葉もなくただ立ち尽くすことしかできない。
腰にまわされたルドルフの腕に誘われ、花の間の小径をゆっくりと歩む。ほんのりと、甘い香りが風に乗って鼻孔をくすぐった、そのときだった。
『ハサージュの花は―――』
「!」
香りに誘われて頭の奥でなにかが疼き、弾けるようにどこからともなく声が響いてきた。
リサの足が、ぴたりと止まる。
耳が拾った声でなかったそれは、例の声と同じものだった。
「どうした?」
突然足を止めたリサに、ルドルフは怪訝な視線を返してきた。リサはしかし衝撃をいなしきることができず、呆然とハサージュの花に視線をとどめるしかできない。
「どうした?」
よく見れば唇を震わせているリサ。声をかけたルドルフの表情が、すぐに深刻なものへと変わる。
「リサ?」
「ハサージュ、には……、黄色の花が、あります……よね?」
眉間にしわまで寄せ、震える声で問うリサ。
ルドルフは、内心ぎくりとなる。
消え入りそうなほど小さな声だったが、ルドルフの肝を冷やすには充分すぎる衝撃をもたらした。
ハサージュを知らない―――少なくとも記憶になさそうなリサの口から、目の前の花のとは違う色が出てくるとは思いもよらなかった。
記憶が、戻ってきているのか。
嫌な汗が滲む。硬くなる表情を、ルドルフは意思の力でなんとか誤魔化す。
リサの腰にまわした手に知らず力がこもってゆく。
「なにか、思い出したのか?」
「―――え?」
返ってきたルドルフの声のあまりの硬さに、リサははっと我に返った。
「確かに、ハサージュには黄色い花もある。思い出した……のではないの?」
「……あ……、いえ。すみません」
こちらを窺う硬い声は気のせいだったのか、彼の次の言葉には、微塵もぎこちなさはなかった。
真実など言えるはずもなく、リサは彼の気遣いにも、誤魔化すための謝罪しかできなかった。
だが、そんな薄っぺらな言い訳めいた態度しかとれない自分への失望も喰い尽くしてしまうほど、頭や気持ちを例の声が埋め尽くしている。
『ハサージュの花は、……によく似合ってる』
頭にこだまする声が、なにかを呼び起こそうとしている。
ぼんやりとした灰色の靄の向こうに、誰かの姿がある。その誰かはこちらに話しかけているのに、語っているのはどうやら別のひとのことだ。
別の、ひと。
風に冷やされたわけでもないのに、鳥肌がたった。
背中や腕に感じる粟立った感覚が物語るのは、失くした過去は、決して幸福に満たされたものではなかったという冷酷な現実。
あれはいったい誰なのか。いったい誰が、自分を重く、なにか削ぎ落とされた思いにさせるのか。
靄のかかった相手を怨みたいのに、どういうわけか心はそれを拒絶し、かえって靄は濃くなっていく。
あの声の主は自分にとって大切な相手なのだろうことは、気持ちの動きから想像に難くない。
忘れてはいけない相手なのか、忘れたくない相手なのか。
ルドルフにすべてを委ねようとするリサを引き止めようとしていて、だから、ふとしたときに声がよみがえって戸惑わせてくるのか。
(でも……)
リサの意識を立ちかえらせようとするそのひとは、リサを見つめているわけではなさそうだ。
自分には向けられない声と眼差し。
はっきりと姿の見えないその〝彼〟を見つめる自分。
そんな過去の自分の姿を想像しただけで、胸は引き攣れる痛みを返した。甘やかさなど、どこにもない。無情な寂しさと孤独感に襲われる。
その相手と、気持ちはすれ違っていたのだ。
(わたしは……、一方的な片想いをしていたの?)
そのひとに、ひざまずいてもらいたかったのか?
ルドルフを籠絡せよという言ったその〝彼〟。
自分を探してくれなかった〝彼〟
〝彼〟はリサの気持ちを知っていて、そのうえで、ルドルフとの関係を求めたのだろうか。
そんな酷い男を、
(わたしは、本当に想っていたの?)
「大丈夫? 冷えてきた?」
自身を抱き締めるようにしていたリサを、ルドルフは記憶のことを敢えて問わず、やんわりと抱き寄せた。
「大丈夫です……」
ルドルフの腕は、あたたかい。
過去の自分が判らない。
いま、こうして抱き締めてくれるひとがいる。彼に惹かれているし、彼もまたリサを想ってくれている。
「大丈夫……」
リサはルドルフの胸にもたれかかり、その腕をきゅっと握り締めた。
(ルドルフさまがいるんだもの)
過去なんていらない。
辛い真実を突きつけてくるのなら、思い出したくない。思い出すべきでもない。
何度も何度もそう願っても、なのに行方不明の記憶は、こういうときに限って嘲笑うようにちらりちらりと存在をほのめかしてくる。
『黄色いハサージュの花は、……によく似合ってる。そう思わないか?』
嬉しさを隠しきれない声だった。
(やめて)
このままあの声を追ってしまうと、記憶の扉に触れてしまう。
(いや)
これ以上、なにも思い出したくない。
このまま、ルドルフとの新しい生活を始めていくのに―――。
新しい生活を。
「……」
「? どうした? 冷えてしまったのなら、屋敷に戻ろうか?」
「……」
「ん?」
逡巡している様子のリサに、ルドルフは眼差しで先を促した。決して強引ではないその仕草に、意識をする前に口を開いていた。
「記憶がないわたしに、王さまは結婚の許可を与えてくださるでしょうか。ふざけたことをって、ルドルフさまが叱責されてしまうことは……」
ルドルフは小さく驚きを見せたものの、すぐに笑みを浮かべた。
「大丈夫。ちゃんと許可は下りる」
「下りますか……?」
「ああ。なんだ、そんなことを心配していたの?」
顔を硬く曇らせていたリサにルドルフはそう勘違いをし、どこかほっとした表情を宿す。
「わたしが叱責されることもないし、反対されることもない。安心して」
「おそばに、いられますか、このまま」
国王からの許可が下りなければ、妾としてしかそばにいられない。そうなったら、いつかルドルフが正式に後妻を迎えたら、そばにはいられない。
ふと、そんな当たり前のことに気がついたのだ。
気持ちの底に途方もない孤独感が捺し残されている。お払い箱となったとき、その孤独感ははっきりとした形となって、自分は独りそれに堪えなければならないのだ。
「ああ。―――あなたが、わたしのそばにいてくれる限り」
言葉とともに、ルドルフの唇が下り、リサのそれに重なる。
それ以上の言葉を塞ぐかのように。
ルドルフは、リサの唇を食むように愛撫をする。
言葉を交わし続けることで、自分の妻となる女性の素性を偽ったのだと知られてはならない。
リアラの異母妹。
国王に結婚を申し出る書類に、リサの出自をそう記した。
教会の出生証明書は同封しなかったが、まず許可は下りる。
権力の中枢はいま継承権がどうのこうのと騒がしいらしい。そんなときに、辺境に住まう男爵の結婚相手など気にも留めないだろう。それなりに体裁が整っていて国権に関わる存在でなければ、結婚申請の許可など右から左だ。
ルドルフは、ひやりとするリサの唇を己のそれで執拗に愛撫する。リサが深くなにかを考えないよう翻弄するつもりだったのだが、薄く開いた唇の隙間から舌を差し込んで掻きまわしていると、拙いながらも応えてくれる舌の動きに、彼自身巻き込まれそうになる。
そんなルドルフの情熱的なくちづけに、リサの思いは揺さぶられていく。
彼に対する後ろめたさを抱えながらも、唇を重ねられると、大丈夫だなんとかなると楽観的な思いが生まれてくる。
このまま、不安もなにもかも、すべて絡め取ってしまって欲しい。
本当はそんなことではなんの解決にもならないと判ってはいるけれど。
「―――んッ」
息の合間に艶めいた声がこぼれた。自分のそんな声にすべてを委ねるように、リサの頭はいっそうよけなことを締め出そうと思考を停止させていく。
このまま、すべてが消えてしまえばいい。
記憶も、よみがえる声も、なにもかも。
リサは縋るように、ルドルフの身体に手をまわした。
秋の風がハサージュの彼方から流れてくる。ハサージュの甘い香りを乗せた風は、互いに求め合い抱き締めあうふたりを取り巻いてはすり抜け、屋敷の向こうへと消えていく。
この風のように、透明になって消えてしまえばいい。
記憶も過去もすべてなにもかも、風にさらわれて消えてしまえばいい。
頭の隅で、強く願った。
―――だが、幸福な思いのままですべてを消し去りたい。そう思っていたのはリサだけだったのかもしれない。
この日の夜からどういうわけか、ルドルフはリサを抱かなくなった。