表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/13




 求婚を受け入れた次の朝早く、コルディク館を出ていく早馬があった。

 西へと向かうそれは、王都に向けてのものだ。辺境住まいとはいえ、ルドルフは紛れもなく貴族の一員。国王に対し、結婚の許可を求めるものだった。

 そのことを朝食時に知らされたリサが真っ先に感じたのは、喜ばしさよりも国の王をも巻き込んでしまう結婚に対しての怖れだった。

 改めて、ルドルフが貴族だという立場の大きさを思い知らされる。

 屋敷の使用人たちもルドルフとのことを知っているのだろうが、彼らの態度はいつもと変わらない。が、やはりどことなく(まと)っている雰囲気が常とは違っている―――気がした。

 心から祝ってくれているわけでは、ないようだ。

 もちろん表面上は穏やかに接してくれているのだが、どことなくよそよそしい。リサがルドルフとそういう関係になってゆくことに対してはなんら悪意も冷たい様子も見られなかったのだが、さすがに結婚となると状況は違うらしい。

(そうよね)

 リサ自身、勤める屋敷の主人が記憶を失くした女と結婚をすると宣言したら、かなりの勢いで引いてしまう。この勤め先は大丈夫なのかと不安に思うはず。

 いまの自分の立場は、そういうものだ。

 愛人ならば目をつぶって見逃してもらえるが、正妻は許されない。〝男爵夫人〟となるには、あまりにも素性が怪しすぎる。わたしの身元は確かです。そう声を大にして言えるだけのものがない。記憶があるはずの場所をどれだけ探っても、身元を保証してくれるような感触は僅かもない。

 自身の抱える空虚さがどれだけ深刻なものなのか、改めて痛感する。過去がなにもないなど、まるで中身のない人形だ。

 ―――好きで記憶がないわけじゃない。

(愛人だから許されるとか……、そうじゃない。そういうつもりでここに来たわけじゃない)

 記憶を取り戻せるかもしれないという望みに縋ってここに来た。

 ただ、一緒の屋敷で暮らすだけの存在だった。

 客人。もしくは同居人。

 そうして、心を奪われてしまった。それだけ。

 もし自分がどこかの令嬢だったら? ちゃんと記憶を持っていたら?

 そうしたら、違っていた……?

(諸手をあげてではないにしても、みんなの抵抗感は少なかったかもしれない)

 そうであれば、どれだけよかったことか。

(なんて……)

 もしもの話など、詮無いことだ。

 どうして記憶を失くしてしまったのだろう。

 記憶さえあれば、言い訳であったとしても、なんらかの形で現状を打破できたはず。明らかに身分が違いすぎていたなら、諦めることもできたかもしれない。

 記憶がないから、身分が釣り合っているかもしれないと期待をしてしまう。

 記憶さえあれば、こんな中途半端などっちつかずのまま、不安になることもなかっただろうに。

(記憶……)

 ふと、昨夜のルドルフの意味ありげな態度が頭を掠めた。

 いまこうして思い返してみると、やはりリサが何者なのか知っている様子だった。『記憶が戻って己を恥じるような存在ではない』と言った彼。

 確信めいた声音に、あの眼差し。

 言葉のあやでもただの希望的観測からのものではない、―――気がする。

(訊いてみよう)

 朝食を終え自室に戻ったリサは、啓示のような己の気付きに身震いする。

(そうよ)

 有耶無耶にしているから不安なのだ。

 ルドルフはなにか知っている。教えてもらえばきっと、この心許なさもなくなるはず。

 ―――答えを聞くのは、怖い。

 ルドルフに本当に問うてもいいのかと訊く自分がいる。

 だが、すぐに首を振る。

 怖くても、思い出せない以上、いつかははっきりさせねばならないのだ。

 彼も素性を知らなければ、ふたりで記憶を探っていけばいいだけの話。

 もしくは、

『プラーシェク男爵ルドルフ・マトゥーシュを籠絡するんだ』

 あの声のように、彼の思惑も二度と思い出さないように深く深く封印していかなければならない。



 ・―――×―――×―――・



「部屋を?」

「ああ。いつまでも客室ではおかしいだろう?」

 昼過ぎ、仕事をひと段落させたルドルフが部屋を訪れた。いま現在使っているのは客室なので、〝妻〟となるリサは別の部屋に移るべきだ、とのこと。

 コルディク館での立場が一段階上がることを示す嬉しい出来事のはずなのに、胸を占めたのは、自分の気持ちを置いたまま外堀を埋められていく不安だった。

「あの。お訊きしたいことがあるんです、けど」

 声をひそめながら、リサは背の高いルドルフを見上げる。どうした? と穏やかな眼差しが返ってくる。

 なにも疑っていないその眼が、心苦しい。彼を疑うようなことを訊かなければならない自分が、悪者に思える。

「あの……、ルドルフさまは、わたしの素性をご存じなんですか?」

 ルドルフは数度、まばたきを繰り返した。

 リサの問いの意味を、すぐには理解できなかったようだ。

 彼をソファに勧めるより先に問うてしまったのを、リサは疑念を口にしたあとで気付く。

「すみません、いきなりこんな質問を……」

「いや」

 構わないと、ルドルフはリサの勧めにソファに腰をおろす。

「どうした? なにか、言われでもしたのか?」

 優しい眼差しの中に、リサを傷付けようとした者は許さないという強い思いが見え隠れしている。

 誤解をさせたかもしれない。

 リサは慌てて首を振った。

「そうじゃないんです。そんなことは全然、ありません」

「じゃあ、どうして?」

 不安に潰されそうになりながらも、リサは勇気を振り絞る。

「ルドルフさまは、昨日、わたしが自身を恥じる存在ではないと、そう信じているとおっしゃってくださいました。でもわたしは……。どうか教えてください。わたしの素性を知っているのなら、匂わせるのではなく、はっきりと包み隠さず教えて欲しいのです」

 自分が何者なのか。記憶がない、たったそれだけのことなのに、すべてが脆く、薄い硝子細工の上に置いてけぼりにされたような心許なさが常にある。自分の居場所を、存在を、いま現在立っている場所を確かなものにしたかった。記憶さえあれば、きっともっと素直になれる。

 リサの不安を受け止めると昨晩言ったルドルフ。ならば彼の知っている真実を教えてもらいたかった。

 じっと、ルドルフはソファに身体を預け、リサを見つめた。すべてを暴いてしまうような強い眼差しは、けれどどこか寂しげにも見える。

「口にしてしまうと、すべてが消えてしまうかもしれない」

「―――え」

 思いもかけない静かな言葉だった。

「あなたがすべてを思い出したとき、答えはおのずと出てくる。それまではなにも言えない。言うべきではない」

「……」

 どういうことなのか。

 知っている、知らない。返ってくる答えは、そのふたつしかないと思っていたのに。

 事態は、自分が考えている以上に複雑に絡み合っているのか。もしくは、恐ろしいなにかが隠されているとでも?

 ルドルフの眼差しがはらむ重たさに呑まれ、リサはそれ以上答えを要求することができなくなった。

『……男爵……絡……す……だ』

(!)

 意識の奥底に押し込め、どこぞの風景へと無理やりすり替えたはずのあの声が、よみがえってくる。

『プラーシェク男爵ルドルフ・マトゥーシュを籠絡するんだ』

 突然よみがえってきた声に、ルドルフが隠している〝なにか〟は―――その言葉と関係があるのかもしれないと、そんな疑念がふと生まれた。それは小さな炎となって、胸の底で揺らめきだす。

 それが照らしている可能性。

 ルドルフは、あの声の主と関わりが、ある?

〝なにか〟を考えてするりと引きずり出されてきたあの声。失くした記憶が、見えない壁の向こうから両者の関連性を告げているのかもしれない。

 胸に痛みが走る。

 ルドルフがあの声の主を知っているということはつまり、

(ルドルフさまは、わたしを……知っている……?)

 鼓動が、速くなる。

 ならば、どうしてはっきりそう言ってくれなかったのか。何故なにも知らないふりをしているのか。

(だめ)

 ―――訊けない。

 訊いてはいけない。

 これ以上、進めない、踏み込んではいけない。

 ルドルフが知っているだろう〝なにか〟を暴いてしまうと、自分の居場所が音をたてて崩れてしまう。

 謎の声として僅かに見えた記憶は、過去を紐解く唯一の手がかりだ。強く知りたいともちろん思う。強く、切実に。

 勇気を出していま訊かなければ。

 訊くべきだ。

 だが一方で、知りたくないと叫ぶ自分もいる。知ってはいけないと。暴いてはいけない、隠しておけと懸命に訴える自分がいる。

 知りたい。でも、知りたくない。

 思い出してはいけない。

 もうひとりの自分の訴えに、けれどリサは、誤魔化しきれない(ひず)みを感じずにもいられない。

(……いいえ。いけない、わたしは)

 このままでいいわけがない。

 自分の胸の底に燈る、弱い光を見つめる。

 自分は、どんな〝自分〟でこの場所にいたいのか。

 答えは、たったひとつ。

 ルドルフのそばにいたい。堂々と、彼の隣に立てる〝自分〟でありたい。

 偽りの自分でいたくない。

 はっきりとした答えを口にしようとしないルドルフに倣おうとする思いを剥ぎ落とし、リサは自分を叱咤し、奮い立たせた。

「ルドルフさまは―――」

 なのに、続く言葉が見つからず、喉の奥が凍りついた。

 なんと訊く?

 自分の中で響くあの声を、そのまま伝えるとでも?

 そんなことをしたら、彼からの信頼感は消え去ってしまう。

 自分があやふやであろうがなかろうが、彼のそばにいられることそれ自体が無くなってしまうだなんて、本末転倒ではないか。

 居場所を、失ってしまう。

 いやだ。

「―――」

 いま訊かなければという理性の声を、喉が拒絶する。

「リサ?」

 唇を薄く開けたまま固まるリサに、ルドルフは怪訝な顔をする。

 失いたくない。

 嫌。

「―――もしも。……もしもわたしがひとを殺めていたとしたら……、その重圧で記憶を失くしてしまったのだとしたら、どうなさいますか?」

 数瞬の僅かな時間で見つけ出した問いを、逡巡を気取られないよう口にする。

 その可能性に不安を感じていたのは事実だった。誰かに尋ねられる内容ではないから、ひとり不安に泣いた夜が幾度もある。

 犯罪にかかわるきわどい問いだ。口にするのにためらいを見せたことは、不自然じゃない。

 できることならこの問いもしたくなかったけれど。

 じっとこちらを見つめるルドルフを、リサは硬い表情のまま見つめ返す。

 自分は多くの罪を犯していて、ルドルフを籠絡せよと命ぜられたのもなにかの犯罪の一環だとしたら。

 見限られてしまう。このまま、見捨てられてしまうかもしれない。

 ルドルフは、緊張のあまり(こぶし)を握り締めるリサの前で、ゆっくりと―――そしてはっきりと首を左右に動かす。

「あなたの素性を当たった際、近隣での重大事件についても調べている。リィが思い悩むようなことは、まったくなかった」

 嘘偽りは微塵もない声音。しっかりとした彼の声に、固まっていた意識が、じんわりと和らぐ。僅かの揺るぎもないその声と眼差しに、リサの本能が、彼の言葉は真実なのだと伝えている。

 知らずリサは、小さく息をついていた。

 それに、とルドルフは続ける。

「あくまでもこれは推測の域を出ないのだけれど、リィの出自は、低い身分ではない」

「……どうして、ですか?」

 身元を証明する物も一切持っていなかったのに、何故そう言えるのか。

 ルドルフは固く握り締められていたリサの手をすっと取った。やんわりと、指を開かれる。

「この手だよ。滑らかで荒れていない。爪も整えてある」

 言って、自分の膝の上へと引き寄せる。ぽすんと膝の上に落ちたリサの身体が、ルドルフの腕に囲われた。ルドルフの手がリサの袖口をめくりあげ、彼女の腕に触れる。心地のよい感触が全身を走り、身震いがした。

「肌もきめ細かくて、白い。細すぎる腕。労働とは縁のないことを示している」

 ひじ上まで上げられた袖から覗く赤い鬱血痕。昨夜の食事の後、彼の部屋でつけられたものだ。そのときのことを思い出し、リサの顔にかっと血がのぼる。

「どこかの令嬢であることは間違いない。ここでの暮らしも、苦労しているようには見えない」

 確かに、記憶がないのに食事などの作法は身についていて戸惑うことがない。

 ルドルフの手が、艶めかしくリサの肌を滑る。

「誰かのものに、なってもいなかった」

 昨晩のことが初めてだったのだと、言下に匂わせている。

 ルドルフは、そっとリサの首筋に唇を寄せた。あたたかな感触の直後、艶めかしく舐められる。

「ん……ッ」

「初めてのはずなのに、あなたの啼き声はどうしてこう煽ってくるのだろうね」

「そういうつもりじゃ」

 ルドルフの手が、服の上からリサの胸を揉み始める。甘い感触が湧き起こってきて、声が漏れ出る。膝の上に乗ったままの腰が、無意識に動いていた。

「ぁ……んッ」

 ルドルフはリサの胸を揉みしだきながらも、片手でボタンを外していく。(こら)えきれない吐息を漏らすリサの唇をルドルフの唇が覆い、喘ぐ隙間から熱い舌が差し込まれる。

「気になることはと言えば」

 くちづけの合間にも、深い声でルドルフは語る。

「このあたりの爵位を持つ家の中に、あなたらしき令嬢がいないということ」

 ルドルフの手が、あらわとなったリサの胸を包み込む。直接触れられた感触に、身体がびくんと小さくはねた。いつの間にかソファに仰向けとなっていて、ルドルフに覆われていた。

「あなたが誰なのか。知っているとも言えるし知らないとも言える。知りたいとも思うし、知ってはいけないとも思う」

「ん……ん……」

 身体をまさぐるルドルフの手や唇に翻弄されて、リサの思考はぼんやりしてきた。

「あなたは、リィ。それで充分……」

 ルドルフの声に、吐息に、眼差しに熱が混じっている。

 リサは、彼の欲望を抑えるすべを知らない。

 ただ、その身に愛を受ける。それ以外は。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ