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 壁や調度の燭台で揺れるたくさんの明かり。とろりとした濃密な明かりは、夕闇に沈んだばかりの食堂室をどこか妖しく満たしている。

 いつもならルドルフとリサの他に給仕する者が部屋にいるのだが、この日は執事を除いて何故か誰の姿もなかった。

 細やかな木目の象嵌が施されているテーブルには、既に皿が並べられていた。給仕する者がたったひとりでも滞りなく食事が進められるよう、あたたかさに特別な配慮の必要のないメニューばかりだった。

 執事は音もなく、主人たちの邪魔にならないよう影となって給仕を進める。

 なんだか、いつもと違う気がする。

 空気に混じる仄かな違和感に、リサはほんの少しだけ、居心地の悪さを感じた。

 どこがどう違うのかまでは判らない。だが、肌に感じる空気の厚みが、いつもよりも濃厚な気がした。静寂が、背中にのしかかってきている。

「あの」

 女性側から口を開くのはあまりよろしくない気がしないでもなかったが、まとわりつく空気の感触に、なにか言わずにはいられなかった。

 ルドルフは気にした素振りも見せず、どうかしたのかと、ただ片眉をついと上げる。

「あの。今日は、ダニロヴィさんだけなのはどうしてなんですか?」

 ダニロヴィとは、執事の名である。

 問われ、ルドルフは壁際に控えていた執事ダニロヴィに、視界に入れないまでも視線をちらりとやる。

「―――気に入らない?」

「あ、いえ……」

 いつもよりも薄暗さを感じる照明と静寂さ。どこか淫靡で(なま)めかしくもある。こちらに時折ちらりと流れてくるルドルフの眼差しは意味ありげで、卓上に飾られている花はいつもと違って豪華だ。リサには、見えない〝なにか〟を無意識的な圧力をともなって示されている気がしてならない。

 リサの問いにはっきりとした答えを返さないルドルフ。

(わたしの記憶は、見えない〝なにか〟を知ってるのかしら)

 記憶さえあれば、簡単にそれを見つけられるのかもしれないが。

 目の前に示されているひとつひとつの物が、なにかを暗示している。塞がれた記憶に呼びかけているのか、記憶など関係なく〝なにか〟などなにもなくただこちらの思い込みなのか、それともまったく違う意味のものを示唆しているのか。

 表情に出さないよう注意しながら、答えはなんなのかとリサは懸命に頭の中を掘り返す。

 だが、どれだけ考えても、なにも見つけられない。

「難しい顔をしてる。……大丈夫?」

 いつの間にか沈黙していたらしい。

 示されている〝なにか〟―――。

 やはり、この濃密な雰囲気からまず思い浮かぶのはひとつしかなく、リサ自身ももはや認めざるを得ない。

 女。

 ルドルフは、リサに対して〝女〟として好意を抱いている。

 異性から好意を抱かれるのは嬉しいことなのだろう。実際、ルドルフから好かれていると自覚した瞬間、胸が熱く沸き立った。

 だが、素直に自分の胸に収めることができない。

 ルドルフには愛する妻がいる。正確には『いた』という過去形だけれど、彼の中ではリアラはいまだ生きている―――はず。

 こうもあけすけに彼が己の気持ちを見せてくる真相がどうしても判らなかった。

 判らないから、認めづらい。

 なにかがあるのでは。

 いや、なにもないのかもしれない。

 示されているのは男として寄せる好意ではなく、たんに、記憶を呼び起こすなんらかの手段なだけ。安易に寄りかかるべきではないと、頭の中でもうひとりの自分が警鐘を鳴らす。

 俯いてしまうリサに、ルドルフは困ったように少し笑んで見せた。

「本当のことを言うと、今日は、亡くなった前の妻と初めて出逢った日でね」

 妻。―――リアラ。

 彼女のことが頭をよぎっただけに、彼の口からこぼれた名に、鼓動がどくんと強く胸を叩いた。

 今日が亡き妻と出逢った日だということを、何故彼は教えるのだろう。もちろん、彼にとって特別な日なのだろうけれど、わざわざ見せつける真似をしなくてもいいだろうに。

 返す言葉を選びあぐね、リサは苦い表情を浮かべないよう気をつけながら、ただ小さく頷きを返す。

 ルドルフは、リサを通り越した向こう、遠いどこかに視線を流した。

「あの日、カラスティアの花が咲いていて、甘い香りが庭には漂っていた」

 言って、テーブルの上に飾られている花の一輪に触れる。やや厚みを帯びた花弁が幾重にも重なっていて、一枚一枚は薄い色をしているが、重なっているためその中心部分はほんのりと赤い。

 懐かしげな表情をしている。きっとこの花が、カラスティアなのだろう。

 胸に、もやもやとしたものが広がる。

 過去の話なんて、聞きたくなかった。

「たくさんの花の間に無防備に寝転んでいて、驚いたな」

 リサにはない過去。それを思い出しながらの口ぶりに、胸の内に広がったものがちりちりと引き()れた。

「そんな大切な日なのに、わたしがここに同席してよかったのですか?」

「だからこそだ。どんな些細なものにも思い出が絡んでいたりする。普段はなかなか気付かないものだけれど、思いもかけない出来事が繋がっている。リィにもきっと、記憶の底に大切なひとが眠っているはず。これがきっかけとなってくれればいいと思っていたのだが、どうやら嫌な思いをさせてしまったみたいだ」

「あ……。いいえ。すみません」

 ルドルフはわざとリサの気持ちを逆撫でたのかもしれない。前妻に関わることではあったが、常と違うことを行うことで、記憶を刺激しようとしてくれたのだ。その真意に気付こうともせず、思い上がった自分に恥ずかしくなる。

 リサの記憶が戻ればいいと、彼なりに考えてくれていたのに。

「気にしなくていい。なにかのきっかけさえ摑めれば、記憶も戻ってくる」

「そうだと……いいんですけど……」

 コルディク館に来て、数週間が経った。それだけの時間が経っているのに記憶は見失ったままで、手を伸ばしても宙を掻くばかり。そこになにかがあるのに、なにも見つけることも手繰り寄せることもできない。歯痒さが募る日々に、苛立たしさに襲われることも増えていた。

「思い悩んでばかりいても、前に進めるわけでもない。穏やかに朗らかに毎日を過ごすうちに、ぽんと戻ってくるかもしれないよ」

「そうは、おっしゃいますが」

「硬い口調もなし。リィとわたしは、対等でいいんだから」

「いいえ、畏れ多いことです。もしわたしがルドルフさまと敵対する立場の人間だったらどうするんです。もしくは、ルドルフさまが軽蔑するような人間だったら」

「そんなことを気にしていたのか?」

 軽く目を(みは)るルドルフ。その反応に、リサは口をつぐんでしまう。

 まるで、リサの懸念など微塵も怖れていないかのようで。

 リサの記憶を重要視していないともとれた。

 本当は、リサが誰なのか知っているのでは? だから己の正体に怖れるリサを、柔らかく深い眼差しで満たしていけるのだ。

 だからこそ、いまのようにリサの発言に驚きをすら感じるのではないのか。

「リィは、リィだよ。記憶が戻って己を恥じるような存在ではないはずだ」

「どうしてそう言い切れるんですか」

 わたしの正体を知っているのですか?

 そう問いかけることが怖くて、核心から目をそらした言葉で真意を尋ねる。

 ルドルフは、じっとリサを見つめた。

 こめられている想いの濃さに、リサの胸は甘く粟立つ。核心を避けた問いが導く別の答えの存在に、いまになって気付いた。

 進んでいく食事は、既にデザートを迎えてしまっていた。給仕をしてくれたダニロヴィが、静かに退室していく。

 彼が閉じた食堂室の扉の音は僅かな空気の震え程度のはずなのに、大きく響いて聞こえた。

 目の前にある、果物をメインにしたデザート。これを食べ終えてしまうと、なにかが始まってしまう。

 濃密な空気と明るさを抑えた明かり。

 ふたりきりということと、ルドルフの眼差しが、リサにそう告げている。

 なにかが始まっていくのは、怖い。それが良いことであれ悪いことであれ、変化が起こる前というのは、怖れを抱かせるものなのかもしれない。

 変化に飛び込む勇気などない。だが―――、怖いけれど目の前の状況は既に避けられるはずもなく、気持ちの奥深いところで、どこか期待してもいる自分もいる。

「どうしてだと思う?」

 思わせぶりな問いが、返ってきた。

 まっすぐにこちらを見つめる瞳。逃れることのできない強さをはらむ眼に囚われて、視線を外すことができない。

 なにも、答えることができなかった。

 デザートフォークを手にしたままのリサに、ルドルフは続ける。

「過去は、どうすることもできない。いまあなたがここにいる。わたしにとっては、それが一番重要だからだ」

「わたしの……記憶は、必要ないということ、ですか?」

 デザートフォークをゆっくりと置いてリサは訊ねた。彼女の硬い声に、困ったように首を振るルドルフ。

「そういうわけじゃなくて。あなたが誰であっても、わたしにとっては大切なひとだということ」

 愛の告白のような言葉に、リサは本当に動けなくなってしまう。なにもかもが、次に起こした行動で決まってしまう気がした。だから、思考も身体も、身動きができない。

 沈黙が続いたあと、かたんと小さな音をたてて、ルドルフが椅子を引いた。

 ゆっくりと立ち上がり、テーブルの向こうから静かな歩みで近付いてくる。

 どくんと胸が、喉の奥が痛くなる。

 来ないでください。

 いま、そばに来てもらってはいけない。

 だが気持ちとは裏腹に、ただ彼の真剣な顔を見つめ返すことしかリサにはできない。

「気付いていると思う。わたしは、あなたに惹かれている」

 テーブルの縁を指でなぞりながら、ルドルフはゆっくりと歩を進める。彼の瞳には、ただひとりリサだけが映っている。

 だめ。―――とは、思えなかった。

 魔法にかけられたように動けない。

 胸の底にまで届く強い眼差しに(さら)されて、目をそらすことができない。

 リアラさまが。

 震える唇が弱々しく言葉の形に動く。精一杯の意思表示だった。

「わたしの気持ちは、判っているだろう?」

 ほんの僅かな唇の動きからリサの訴えを読み取ったのだろう。一瞬苦しげな色を眉間にひらめかせてルドルフは、しかし言い聞かせるように頷いて、言葉を落とす。

「愛している。リィ」

「!」

 決定的な言葉だった。

「正直に言おう。あなたが記憶を取り戻して離れていってしまうくらいなら、このまますべて忘れたまま閉じ込めておきたい」

 ふたりの間の距離は、一歩ぶんもない。

「思い出して欲しいという自分と、思い出して欲しくないと願う自分がいる」

 喉の奥が、熱い。

 まっすぐなルドルフの眼差しと己の心情を吐露する掠れた声。

 ルドルフはその場に、すっと片膝をついた。

 突然のことに、息を呑む。

 記憶はないはずなのに、男性が女性の前で片膝をつく行為の意味を、一瞬で理解してしまう。

 なにかが、高いところからひらひらと舞い降りてきて、透明な意識の見えなかった欠落に嵌まり込んでくる。

 この行為を知っている。

 胸の奥がざわめく。

 知っている……。

(わたしは……)

 自分は、誰かにこうしてもらうことを望んでた―――気がする。

 ちらちらと脳裏に見え隠れする事象に気を取られていたせいで、見上げてくる形となったルドルフの眼差しから数瞬意識が削がれてしまっていた。

「リィ」

 ルドルフの声に、はっと我に返る。ざわめく想いを押しこめ、理性を総動員して懸命に首を振った。

「いけません。どうか、このようなことは」

「リィ」

 たったひとこと名を紡がれただけで、それ以上を言うことができなくなる。

「わたしの妻になってもらいたい」

「……いけませんルドルフさま。記憶のない女を妻にしようなど」

 ルドルフは貴族だ。貴族が素性の明らかでない女を勝手に妻にできるのか。

 それに、

「わたしに夫がいたらどうするおつもりですか」

 記憶のない女に求婚をし、挙句の果てにその夫から訴えられたらどうするのか。

 ルドルフは膝をついたまま、表情も変えずに答える。

「あなたをここに連れて来てすぐ、素性を探らせてもらった。あなたを探している者の有無も含めて」

「!」

 彼がそんな動きをしていたなど。

 当然だろう。誰だって記憶を失くした者がいたら、素性を探ろうとする。

「だが、どれだけ探しても誰もあなたを知る者がいない。―――あなたを探している者も」

 ゆっくりと言葉は重く告げられる。リサには、突然行方をくらました妻を探す夫の存在はなかったのだ、と。

 夫だけではない。恋人も、友人も、―――家族すらもいないのだと。

 ルドルフの言葉は、静かに語られたからこそ逆に、それがはらむ真実の大きさを突きつけてくる。

 大きな穴が開いた気がした。深く、暗く、底が見えない穴が。

(わたしは……)

 ひとりきりなのか。

 姿を消した自分を探してくれるひとは、どこにもいなかったのか。

 記憶を失っただけではない。

 あっただろうはずの過去の営みすら、存在していないのかもしれない。

 誰も探している者がいない。その言葉は、記憶の有無ではなく、自身の存在自体を否定するものでもあった。

 先程の行為への憧憬も、なにもないからこその想像の産物だったのか?

 血の気が引いていくのが、はっきりと判った。

「リィ。こっちを見て」

 ぼんやりと(くら)い思考に陥りそうになるリサに、穏やかな声がかかる。

「悲しませるつもりじゃないんだ。たとえあなたに夫がいたとしても、諦めるつもりはなかった」

「―――」

 深淵に落とされた気持ちが足を引っ張り、うまく考えがまわってくれない。ぐらつくリサの気持ちを受け止めるルドルフの大きく包み込む表情に、昏く沈む気持ちが、幾分(すく)い上げられていく。

「リィを手放すなんて、考えられない。奪われたくない。そばにいて欲しいから、決闘をしてでも、どんな手を使ってもあなたを守り抜くつもりだ。酷いと思うかもしれないが、縁者がいないと知ってほっとした。嬉しかった」

 言って、ルドルフは内ポケットに手を差し入れた。そこから再び現れた彼の指が摘まんでいたものに、リサの眼ははっとなる。

「結婚して欲しい」

 強く見つめてくる眼差しに息が止まる。ルドルフと、彼が摘まんでいるもの。その両方に視線をさまよわせることしかできない。

「あなたの不安もなにもかもすべて引き受けよう。リィ。わたしにあなたのこれからのすべてを、くれはしないか」

 とろりとした明かりを受けて輝く指輪。その中央に()まる透明な石は、想像もつかないほど高価なものなのだろう。

「リィ。あなたの過去をまるごと預けてくれていい。あなたが自身を恥じる存在ではないとわたしは信じてる」

「……」

「あなたがいないとダメなんだ。あなたでないと、わたしは()えられない。どうか頷いて欲しい。わたしのことを少しでも想ってくれているのなら、この指輪を受け取って欲しい」

 恋い、乞うる熱い眼差し。

 ―――ずるい。

 そう思った。

 ルドルフは知っているはず。リサが彼を憎からず想っていることを。

 そうして、記憶も後ろ盾もないリサには、彼からの申し出を断ることができないことも。

 ルドルフのまっすぐな眼を見つめ返しながら、リサは自問する。

 立っている足元から後ろ全部、過去のすべてがない自分。それでもいいと言ってくれるルドルフ。

 病気で亡くした妻を愛し続けている彼に、どうしようもなく惹きつけられている自分。

 ルドルフの想いは亡き妻にあるけれど、リサを愛しいとも感じてくれている。結婚して欲しいとも。

 ―――ルドルフの過去が欲しいわけじゃない。

 いま目の前にいるルドルフを、愛しいと感じている。

 誰かを恋しく思い、愛しく感じる心の動きは、記憶の有無など関係なく思いのすべてを揺さぶってくる。たとえ、その相手がかつて他の女性を妻にしていたとしても。その女性を、深く愛していたとしても。

 ずっと、この場面を夢に見ていた気がする。

(……あ)

 盛り上がる気持ちに、突然冷たいなにかが一滴(ひとしずく)落ちてくる。それは疑心となって、思いもよらない大きな波紋を胸に刻んできた。

(わたし……)

 気のせいでも想像でもない。

 片膝をついてもらいたかった相手は、本当にいた気がする。

 胸の奥に、焦れた想いが刻まれている。その想いが、脈動をしている。

 ルドルフではない他の誰かに、かつての自分は膝をついてもらいたかった……?

 焦れた感覚を頼りに、懸命に空虚な記憶を探る。その先に、誰かの影が見え隠れしている、気がする。

 陽炎のようなものがかかって残像でしか姿をはっきりと見ることはできないけれど、自分は、その誰かにこうしてもらいたかった、―――のだと思う。

 ルドルフではない誰かを、確かに愛しく思っていた……。

 愕然とした。

 ―――誰を?

 判らない。

 むしろ、判らなくていいのかもしれない。

 ルドルフへとこの胸が潤む高揚した気持ちは現実のもの。過去ではなくいま、確かにはっきりと感じている気持ちだ。

 過去に誰かを想っていたとしても、それは失くした記憶とともにどこかへと消え去っている。大切なのは知らない過去の想いではない。いま現実に突き動かされようとしている、彼へと惹きこまれる想いだ。

 見つけられない過去の想いにこだわって、目の前にある幸福を手放してもいいのか?

 だが、すぐに気持ちは揺らめく残像に引きずられる。

 自分自身のことなのに、気持ちの揺れのせいで、ルドルフへの愛しさに飛び込むことができない。

『誰もあなたを知る者がいない。―――あなたを探している者も』

 突然、ルドルフの言葉が、翻弄される気持ちの隙間をついて耳によみがえってきた。悪魔が囁く甘美な言葉のように、それは萎えそうな想いに絡みつく。

 そうだ。

 かつての自分が誰かを深く愛していたのだとしても、その相手は、リサを求めてはいなかった。

 だから、誰も探してはくれないのだ。

 ルドルフは自分の欲望のために嘘をつくようなひとではない。数週間だけれど、ともに過ごしてきたから判る。彼の語ったことは真実だ、と。

 リサが過去に愛を乞うた相手は、こちらを見てはいなかったのだ。

 見てくれているのは、記憶がないにもかかわらず包み込んでくれているのは―――。

(まだ数週間しか経ってないのに)

 出逢ってたった数週間。記憶が刻まれだしてからまだ数週間しか経っていない。

 いくら熱く見つめてくれているとはいえ、飛び込んでいいのか。

 普通はどうするのだろう。数週間も経つのなら充分だとして、なにを躊躇(ためら)うこともなく求婚を受け入れるのだろうか。

 ―――判らない。

 リサは、答えとなるものを探して自分自身に問いかける。

 記憶があろうとなかろうと、過去の自分がどうであっても、ルドルフに日一日と惹かれているのは事実。

 彼を想う気持ちに嘘偽りはない。抗えないほどどうしようもない強さで惹きつけられる自分を知っている。

 惹かれているのは、紛れもない事実。

 これ以上、目をそらし続けることなんて、できない。

 自分を探してくれなかった過去の誰かに、リサは胸の内で小さく謝った。そして誰かを愛していただろう過去の自分自身にも謝罪をする。

 彼の手を取りたい。

 彼の隣で、生きていきたい。

 それは、いまのリサが確かに感じている瑞々しい想いだった。

 ダメだともうひとりの自分が言う。

 軽々しく決めてはいけない。たとえルドルフがどれだけ真剣であっても、彼はれっきとした貴族だ。今後どんな障害が現れて引き裂かれるか判らない。

 辛い思いしかしないに決まっている。

 それでもいいのか。

 なにを焦っている?

 せめて、記憶が戻るまで待ってもらうのが本来の筋ではないのか。

(待ってもらうべきよ。一時の感情で決めていい問題じゃない)

 結婚なのだ。

 ただ「付き合おう」というレベルではない。愛人でもない。ルドルフが求めているのは、正妻―――男爵夫人としての立場だ。

 記憶がない女はそこに立つべきではない。どれだけルドルフに乞われようとも断らなければならない。

 ―――そう、判っているのに。

 すぐそばから食い入るように見つめくるルドルフ。

 いけないと懸命に叱咤し引き止める自分がいる。

 なのに、リサの手は、ルドルフの手に伸びてしまう。

 怖かった。

 記憶が戻ったとき、自分を取り巻くすべてを思い出したとき、ルドルフのもとにいられる選択肢が無くなってしまうのが怖かった。

 居場所を―――ルドルフを失いたくなかった。

 失いたくないから、結婚という別の力で繋がっていたかったというのも、利己的な事実だった。

「―――!」

 指先が触れる寸前、リサの身がはっとこわばった。

『プラーシェク男爵ルドルフ・マトゥーシュを』

 突然、リサの脳裏で誰かの声が―――若い男の声がこだました。ルドルフの声ではない。もっと、彼よりも高めの声だ。

(な、に……?)

 差し出された指輪に触れる直前ためらいを見せたリサの手だったが、ルドルフのもう一方の手が彼女の手を摑み、強く引き寄せられる。

 立ち上がるルドルフと、椅子から転げるリサ。リサはルドルフに掬い上げられるように抱き締められた。

 ルドルフの広い胸板が密着して、どちらともつかない早い鼓動がどくどくと伝わってくる。

 その鼓動に重なるように、先程の声は深く響きながら頭の中でルドルフの名を繰り返していく。

(誰? 誰なの……?)

「リィ」

 きつく抱き締めてくるルドルフ。その腕がゆるりと緩むと、間近に彼の瞳が輝いていた。そうしてそれは静かに近付いてき、ふたりの唇が重なる。

「ん……」

 触れ合うだけのくちづけも、すぐにもどかしげに深いものへと変わっていく。頭の中で響いていた男の声のことも霧散してしまうほど、情熱的なくちづけだった。

 後頭部を片手で包み込まれ、もう片方の腕が背中や腰を行き来する。その先を求めようとする艶めいた動きも、呑まれ不思議と心地よく感じてしまう。

 どれだけの時間が経ったのだろう。ほんの僅かかもしれないし、燭台の蝋燭が短くなるほどの長い時間なのかもしれない。名残惜しげにルドルフの身体が離れていく。はからずも潤んでしまった目が彼の背中の向こうに捉えた燭台の蝋燭の長さは、それほど変わっていないように見えた。

 たったそれだけの時間しか経っていないのに、途方もない時間とも思えた。

 ルドルフはおもむろにリサの左手を取り上げる。

 小さく震える薬指に、透明な石が幾つも()まる銀の指輪をするりと滑らせた。

 その冷やりとした感触に、なにかが背筋を這い上っていく。

 それは、誰かがほくそ笑んでいるかのようなうすら寒い感覚だった。

「リィ?」

 身体が僅かにわなないたことに気付いたルドルフが、怪訝な色を眼差しに乗せる。

 リサは無理やり笑みを顔に貼りつける。

「夢みたいで」

「夢じゃないよ。夢みたいだけど」

 掠れた声を囁き込み、ルドルフはそっとリサの頬を、唇を指でなぞる。そのまま再び唇を落とし、彼女の身体を優しく―――けれど力をこめて抱き締める。

「―――」

 なにかを、頭上で囁かれる。

 なんだったのかを問いかけるよりも、返事を求めない彼の様子にリサは強く目を閉じた。

 左手薬指にはまる指輪。

 世間のことなんて判らない。けれど、出逢ってまだ一ヵ月も経っていないのに、こんな素敵な指輪を短期間で用意できるものだろうか。まるでリサのためにあつらえたかのようにぴたりと馴染んでいる。

 突き詰めて考えてはいけない。余計なことを考えて、なにかあってはいけない。

 ―――なによりも、背筋の冷たい震えが止まらない。

『プラーシェク男爵ルドルフ・マトゥーシュを籠絡するんだ』

 抱き締められた瞬間、先程の声がよりはっきりとしたものとなって頭の中でよみがえったのだ。

(誰の声なの)

 失くしてしまった自分の記憶。

 怖い。

 おぞましいほどにはっきり判るのは、その声を、知っているということだった。

 あの声を知っている。耳は、あの声に親しみを持っている。

 いったい、自分はなにを抱えていたのか。

 ルドルフを愛しいと思うこの気持ちは、何者かに――おそらくはその声の持ち主によって――命ぜられ、刷り込まれた偽りの感情なのか。

(嫌)

 リサはルドルフの背中にまわした手に力をこめ、湧き起こってきた不穏な思いを懸命に退ける。

(わたしは、ルドルフさまのことが好き)

 風の音、ルドルフの声、窓を開ける音、ドアを閉じる音。思いつく限りのあらゆる音を総動員して、よみがえってきた声をかき消していく。それだけでは足りなくて、気持ちの奥深い場所へと無理やりに感情を押しこみ、たくさんの土を放り込み、なみなみと水をたたえた湖をどんと載せ、なんでもないただの一風景へと強引に印象を変えていく。

 もう二度と表面に出てこないように。

 なにも命ぜられてなどいない。そんな記憶なんてない。胸の内にあるのは、ただの風景。風景でしかない。

(誰かに命令されたわけじゃない。わたしが……、わたしがルドルフさまを愛しいと思ってるのよ)

 胸に接した耳が拾うルドルフの駆け足気味な鼓動。

 愛しいひとが、ここにいる。

 このぬくもりを、失いたくない。

 ここにいたい。

 思い出したいと強く願っていた自分の記憶。リサはこのとき初めて、封印したいと心底から思った。

 混乱する自分に向き合うこととルドルフからの申し出にいっぱいいっぱいのリサの耳は、だから再び頭上でこぼれ落ちたルドルフの言葉を拾い上げることができなかった。


 ―――おかえり、リィ。



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