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 ルドルフの屋敷――屋敷のある地名からコルディク館と呼ぶらしい――での生活は、『代官の元に連れられた身元不明者』のものではなく、『主人の客人』以上の丁寧なもてなしの日々だった。

 貴族の生活様式など知らないだろうに、食事の作法も風呂の作法もなんなくこなす自分に、リサはうすら寒いものを感じた。

 作法を知っているではなく、身についていた、としか言いようがなかったからだ。

 自分でも判らない。自分が判らない。

 自分はいったい、何者なのか。

 生活習慣を覚えていたのはありがたいけれど、貴族ではないと確信した直後にその生活に馴染んでいる矛盾が、自分を突き崩すように足元からじわりじわりと侵蝕してくる。

 いったい自分は、なにを覚えていてなにを忘れてしまっているのか。その判断自体ができない。

 コルディク館に勤める使用人たちは最初こそリサの存在に眉を(ひそ)める者もあったが、客人以上の待遇を受けても決して偉ぶらない態度、どころか、彼らに対してねぎらう様子を見せさえすることから、すぐに皆のわだかまりは氷解していく。

 なによりも、リサを館に招いてからのルドルフの様子が一変したことが大きい。

 魂を置き去りにしたと言えば聞こえはいいが、実際は腑抜けていたルドルフの眼に力が(みなぎ)り、指示を出す声にも張りが戻り、積極的に領地経営に精を出すようになったのだ。館の主人が生き生きしていれば、そこで働く者たちにもやる気は湧いてくる。

 リサが館にやって来て十日ほどでこの変貌ぶりだ。館の者たちはリサの存在を認めざるを得なかった。

 とはいうものの、そういった実際の裏事情はリサには伏せられていたのでなにひとつ知る由もなかった。使用人たちの態度が和らぎ、好意的に接してくれるようになったことを嬉しいと彼女は純粋に感じていた。彼らからの好意は、記憶をなくして寄る辺のない自分に、ここにいてもいいのだという安心感をもたらしていた。

 ただ、―――悩ましいことはある。

 ルドルフのことだった。

 日一日が過ぎるごと艶っぽさを色濃くさせるルドルフに、リサの気持ちは不意を突かれては揺さぶられる。

 最初こそ気のせいと思っていたまっすぐな眼差しは、どう考えても〝記憶を失った客人〟に対して情熱的過ぎた。

 この眼差しは、ルドルフにとっては普通なのかもしれない。世間一般の男性のごくごく当たり前な仕草なのかもしれない。

 基準となる記憶がないから、男性が見せる表情の真意を読み取る経験の積み重ね自体、あるかどうかが判らない。あったとしても覚えていない。自分が感じた直感、思いは、果たして的を射たものなのか、なにもかもが判断できなかった。

 気のせいかもしれない。都合のいい勘違いなのかもしれない。リサを心配しているからこそ、親身になってくれているのだ。それを、好意と勘違いしそうになっているだけ。

 そう、リサは自分に言い聞かせていた。

 けれど―――。

 ふとした瞬間に差し伸べられる手。その、心の奥底まで見通す深い眼差し。なにかの拍子に振り返ると、ずっと見つめていていたのか、甘やかな表情とぶつかったのは数えきれない。庭を並んで歩くとき、廊下をともに行くとき、彼の手は必ずと言っていいほど当たり前のようにリサの腰にまわされる。

(奥さまを亡くされているのに)

 出逢ってまだ日が浅いのに。

 ルドルフがなにを思って親密に接してくるのかが判らない。

 なにも深い意味はないのかもしれない。

 考えようによっては思い込みだとも取れるのだけれど、彼に触れる頻度が高まってくるたび、自分がすべき対応に悩んでしまう。

 彼が、何年も前に妻を亡くして憔悴の日々を送っていたことは、どこからともなくリサの耳に入ってきていた。

 リアラという名の亡き妻のこと。

 最初に、聞き覚えはないかと訊かれた名前だ。

 ルドルフは彼女を想い続けていて、森の墓所に毎月のように通っているのだという。館の中も、リアラの好む仕様になっているらしい。彼女が好んだように、いまでも窓辺に飾る花は一輪挿しにして華美になりすぎないよう各部屋徹底されているし、カーテンや調度品、壁紙の色合いも、目にうるさくならないように、どの部屋もやんわりと落ち着いている。

 その、リアラに囲まれた館の中で寄せられるルドルフの甘い態度。

 ルドルフは、身体を近付けすぎなのではないのか。そのことを本人に伝えるべきだろうか。

(でも……)

 イヤではなかった。

 ルドルフに触れられるのは、ちっともイヤじゃなかった。前妻の存在がそこかしこに感じられる場所で見つめられ、触れられるのが、むしろ後ろめたいと感じる。その思いのほうが強かった。

 そんな浅ましい自分の気持ちは、やっかいで恐ろしくもある。

 なにも覚えていないから、それを言い訳にしてただ為されるがまま流されるしかない。やんわりとではあっても、拒絶をするべき頃合いを、リサはなかなか読み取れない。

 記憶が戻ればすべて解決するのだろうか。

 そうして解決すると同時、なにもかもが泡沫(うたかた)のように儚く消え去ってしまうのだろうか。

 ―――消えて欲しくなんかない。

 答えが欲しい。

 記憶が、欲しい。

(いいえ)

 記憶が戻らなくてもいいから、確かななにかが欲しい。

 このまま彼の好意を受け続け、コルディク館にいてもいいのだという、安心感が欲しかった。

 ―――なのに、なにも欲しくない。

 自分の気持ちすら、判らなくなっている。

 どうすべきなのか。

 なにも欲しくない。

 けれど、心細い思いを抱え続けるのは、苦しい。

 この日もリサは自分自身に葛藤しながら一日を終え、客間で眠りに就くのだった。



 ・―――×―――×―――・



 毎日は、リサの思いなど斟酌することもなく、日が昇ればいつしか黄昏となり、そのあとに訪れる夜は、月や星が天を行く動きとともに朝を連れてくる。

 コルディク館の主人であるルドルフ。彼は朝食をリサとともに食べることを望み、食堂室でその日の予定を満ちたりた声音で語りながら、生き生きと充実した表情と見せる。

 その溌溂(はつらつ)としたてらいのない眼差しは、リサには眩しかった。

 彼の力のある瞳に見つめられると、胸の底が心地よくざわめいて全身が華やいでくる。見つめ返すには勇気がとてもいって、視線が絡み合うと身体の芯が甘く震えた。

 日々強くなるばかりの自分の波立った心の動きに、そのたびごとに振りまわされる。

 ここは、前妻のいた場所。

 彼の好意を素直に受け入れるべきか、悩んでいいのかどうかそれ自体が判らない中途半端な思いに、リサは立ち位置を見失いそうになる。

 過去の記憶がない事実は、あまりにも重たい。

〝リサ〟という呼び名だけしか覚えていない自分が、貴族階級であるルドルフの気まぐれな――かもしれない――優しさにすべてを委ねるわけにはいかない。それくらいはわきまえているつもりだ。

 記憶が戻るまで世話になっているだけ。記憶を取り戻すためだけにここにいるだけ。

 本当にただの気まぐれなら、もしかすると、逆に気持ちは割り切れるのかもしれない。

 遊びなのか。それとも自分の姿かたちのどこかに前妻リアラの面影を見つけて、ただ思い出に縋って懐かしんでいるだけなのか。

「……」

 二階の廊下にかけられた肖像画を見上げ、リサは自分とは全然似ていないその相手に、胸の内で問いかけずにはいられない。

(ルドルフさまはどうして、わたしを必要以上に気遣ってくださるの? どうか教えてくださいリアラさま)

 わたしは、どうすれば。

 ルドルフの態度を、そのまま受け取ってもいいのだろうか。それとも、深みにはまらないうちに、ここを出て行くべきか。

 ―――でも、どこへ?

 金の髪を持つ額縁の向こう側の女性は、ただやんわりと微笑みを返すばかり。

 自分には、コルディク館以外、居場所がない。

 ここでじっと、揺らぐことなく記憶が戻る時を待つしかないのだ。

「リィ」

 突然の声に、リサの肩がぴくりとはねた。

 この数日、どういうきっかけだったのか覚えていないのだが、ルドルフはリサのことを『リィ』と呼ぶようになっていた。

 甘く愛しげに『リィ』と呼ばれるのは、イヤではなかった。彼の想いのすべてが流れてくるのが判るから、特別な存在なのだと優越感を覚える。ただ、どこか遠くすれ違う感触が、気になるといえば気になった。

「どうしたの。もう夕食が始まる頃合いだよ」

 階段付近で立ち止まったまま、ルドルフはそう呼びかけてくる。

「あの……、はい」

 ルドルフのもとへ一歩踏み出そうとしたとき、唐突に脳裏をひとつの事実が駆け抜けた。

 廊下の奥にかけられている亡き妻の肖像画。

 そういえば、リサがこの前に足を止めているとき、ルドルフは決して近くには寄ってはこない。それ以外ならするりと腰に腕を絡めてくるというのに、いまのように距離を置いてこちらを窺うだけだ。

(―――違う)

 はたと気付く。

(ここだけじゃない)

 思い返してみると、他の場所にかけられたリアラの絵の前にも、ルドルフは近付こうとしない。

 近付こうとしない、という単語が頭をよぎったとき、そうではないと更に思う。近付こうとしないのではなく、視界に入れようとしないのだ。

(どうして?)

 喪失に憔悴して領主の務めにも支障をきたしていたというのに、どうしてそんな愛しいリアラの姿を見ようとしないのだろう。

 視界に入るのが苦しいのなら、いっそのこと絵を下げるという手もあるのに、この館のそこかしこにリアラの肖像画はかかったままだ。

 いたるところに妻の肖像画を掲げたまま、ルドルフは目をそらし続けている。

 何故。

 どうして。

 疑問が、頭の中で積み上がっていく。

 先に逝ってしまった妻を許しきれていないのか。

 狂おしいほどまでに愛しいのに、気持ちが満たされない現実に、歯痒く(いきどお)ろしいのかもしれない。

 逢いたいのに逢えない。

 逢えないから、姿を見るのも苦しい。

 けれど―――逢いたくて。

 ルドルフは、そんな危うい均衡の上にいるのかもしれない。

 そんな中に招かれてしまった自分に、リサは思っていた以上の深い闇がコルディク館を―――ルドルフを覆っているのかもしれないと、いまになって思い至った。

 ミランとカルロッテが諸手を上げてコルディク館を勧めたのは、この闇を払う風となってもらいたかったからなのか、それともいっそ堕ちるなら闇の奥底までともに堕ちてしまえという思惑があってのことなのか。

 彼らの真意もルドルフの真意も判るはずもない。自分がなんのためにここに来たのかその意味すら見失いそうになっているのに。

「リィ?」

 数瞬動きを止めてしまったリサに、もう一度ルドルフの声がかかる。

「いま、参ります」

 リサはなにもなかったかのように装い、廊下の向こうで待つルドルフのもとへと足を向ける。

 真実や事実がなんであれ、リサにできることはなにもない。

 彼の真意を見失なったとしても、ルドルフに縋るしか道はないのだから。



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