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 ルドルフの屋敷に足を踏み入れると、すぐに執事が迎えに出てきた。

 執事の顔色が、ルドルフに連れられ現れたリサの姿にさっと一瞬青くなる。先ほど馬丁に馬を引き渡したときも、同じような反応が見られた。

 亡くした妻の墓参りからようやく戻ってきたと思ったら、頭に包帯を巻いた見知らぬ女を連れているのだ。当然だ。

 覚悟していたものの、やはり目の前で顔色を変えられるのは胸にずしんとくるものがある。

「おかえりなさいませ旦那さま。ご帰宅が遅くなるのであれば、そのように連絡をくださいませんと非常に困ります」

 執事はすぐになんでもないことのように姿勢を正すと、ぴりりとした辛口の挨拶を投げかけてきた。

 ルドルフは苦笑を浮かべ、厭味混じりの言葉もどこ吹く風だ。

「悪かった。想定外の事態が起きて、ミランのところで世話になっていた」

 森小屋に一晩泊まるとミランに伝言を頼もうとしたのだが、あいにくミランは足を怪我していて馬に乗れず、諦めるしかなかった。

「想定外?」と、執事は次の言葉を、リサに視線をちらりと流したことで促す。

「墓で記憶をなくして倒れていた。ミランは近隣に異変を感じたことはないと言ってはいたが、万一のこともある。もしかすると、何者かに襲われたのかもしれない」

「!」

 白髪の混じる執事は、灰色の眼を大きく見開いた。

「リアラさまの墓前で襲われたと」

「彼女に記憶はないからはっきりとはしない。だが、可能性がないわけじゃない」

 大の男ふたりが真剣な顔で交わす物騒な内容に、リサは改めて背筋が寒くなった。

 誰かに襲われてこの程度の怪我ですんだのは、もしかすると途方もなく幸運だったのかもしれない。

「念のため、警邏(けいら)隊を森に向かわせる。手配を頼む」

「かしこまりました。―――こちらの御方の怪我も、改めて手当てをいたします」

「頼む」

 言って、ルドルフはリサの腰に手を遣ったまま邸内へと足を踏み入れる。

「あの……、ひとりで歩けますから支えてくださる必要は」

 気遣ってくれているとは判るものの、ここはルドルフの暮らす館だ。彼に腰を支えてもらうのははばかられる。だが、ルドルフは一向に気にせず歩を進めていく。

「慣れない馬から降りたばかりだ。頭を怪我してもいるし、遠慮はいらない」

「ですけど」

 執事のみならず、ルドルフの帰宅に集まってきた使用人たちの呆気にとられた視線が痛い。

 あれは誰だと目配せだけで囁き合っている。

 妻を亡くしたルドルフの自宅で、彼に近すぎる距離を取るのは望ましくない。リサの困惑にようやく気付いたのか、ルドルフはちらりと周囲に目を遣ると、隠そうともしない声で言い聞かせるように語る。

「リサ。あなたは墓所で記憶を失くして倒れていた。言ったろう? なにか縁があるのだと。堂々としていればいい。皆の目を気にする必要もない」

「そうはおっしゃいますが」

 ただでさえなにも覚えていない自分だ。初めて足を踏み入れる場所で敵は作りたくない。

 そう思った瞬間、はっとなった。足が止まる。

(―――〝敵〟? 敵って……、どうして敵って思ったの?)

 自分の思考の流れが、ときどき突拍子もない単語を連れてくる。もちろんそれは失くしてしまった記憶の手がかりになるのだろうけど、今回の『敵』に限っては、物騒すぎる単語だった。

(ううん、違う。きっと違う。言葉のあやよ)

 そう自分に言い聞かせようとする一方で、過去のどこかの時点で、確かに〝敵〟を作ってはいけないと心に決めたことがある気がした。

「リサ?」

 急に足を止めたリサに、怪訝な声が頭上から降ってくる。

「具合でも悪いのか?」

「あ、いえ。大丈夫です。あの、やはり、ひとりで大丈夫です」

「だが」

「ただでさえ頭に包帯を巻いているんです。これ以上みなさんに心配をかけたくはありません」

「―――そうか」

 数瞬考える素振りを見せて、ルドルフはひとつ頷いた。不安げな仕草だったが、腰を支えていた腕がそっと外れていく。

「無理はしてないよな?」

「そんなにヤワじゃないと思います」

 二割ほど気丈にリサは答えてみる。ルドルフの片眉が、ついと上がる。

「ヤワだから、あんなところで倒れてたのかもしれないよ?」

「……それは、そうかもしれませんが……」

「ご歓談のところ申し訳ないんですが」

 ふたりのやりとりに、別の声―――執事の声が割り込んできた。

「こちらの御方について、我々はどうお呼びすればよろしいので?」

「あ……、そうだな」

 僅かなやり取りだとはいえふたりの世界に没頭してしまった自覚があったのか、ルドルフの表情が気まずげなものになる。

「『リサ』とお呼びください」

 リサは、思案しているルドルフの答えを待たず、そう伝えた。

「リサさま、ですね」

「いえ、『さま』はいりません。とんでもないことです」

 ちらりと執事がルドルフを見る。ルドルフは不機嫌な眼差しを執事に返した。

「旦那さまによりますと、敬称は外せません。ではリサさま。怪我の手当ての用意ができましたので、どうぞこちらに」

「……」

 なんの疑問も抱いていないわけもないのに、流れるように執事はリサを促す。

 記憶はないけれど、どう考えても自分は貴族に仕える執事から『さま』付きで呼ばれるような身分ではない。敬称付きで呼ばれることに不思議と抵抗感は感じなかったが、相手の立場を考えると、身体はこそばゆさを通り越して、おぞけすら感じた。

「呼び名など、受け入れて、慣れていけばいい」

 ルドルフの声に、何故か身にまとう空気が、しゅんと収斂した気がした。収斂した空気は肌に(こす)れて、不快ともいえる違和感となってリサを締めつけた。この違和感の理由は、判らない。

 彼の発言には複雑なものがこめられている気がして、リサは無意識に反論の言葉を呑みこんだ。

 こちらを見つめる彼の眼差し。その先が、どこか自分ではない遠い存在を見ているような錯覚に一瞬襲われて、リサは自分の焦点を結ぶ場所を見失う。

 くらりとした。

 なんだろう。

 なにかが、噛み合っていない……?

 床を踏みしめる足元が、ざらりと(うごめ)いている。

 ―――自分は、誰なのか。

 ルドルフの妻の墓所で記憶を失くして倒れていた自分。

 襲われたにしては軽い傷。

 不安が、胸の底で揺らめきだす。

 本当に、自分は何者かに襲われたのだろうか。

 確かなことをルドルフは言おうとしない。もちろん、昨日の今日だからルドルフにだって真相は闇の中だろうけれど。

(ここは、……どこ?)

 記憶が戻ってくるかもしれないと(ほの)かな期待を抱いてやってきたルドルフの館。

 本当に、ここに来ても良かったのだろうか。

 足元が覚束なくなるほどの不安に、眼前の光景を見失う。

「リサさま。どうぞ、こちらに」

 執事の声が、玄関ホールに硬く響く。

「怖がる必要なんてないよ。こう見えてもうちの執事殿は、医学に精通している。安心して手当してもらうといい」

「『こう見えても』とは失敬です、旦那さま」

 軽口で答える執事。

 間近にいるのに、彼らの会話が、遠い。

 ―――ここは、どこ。

 自分がいま立っているこの場所は、本当に安全なのだろうか。

 先程感じた〝敵〟という単語。

 あれは、なにを意味しているのか。

 なにも判らない。

 なにもかもが混沌の中にあって、なにひとつ取り出すことができない。

 ミラン夫妻の様子やここまでの道中のことを思うと、ルドルフが凶悪な人物ではないことは直感で判るのだけれど、その直感自体は、信頼できるのだろうか。

 そもそも、名前以外のすべてを忘れた人間の直観は、果たして信用に値するのだろうか。

(判らない)

 なにも、なにもかもが判らない。

「さあ。とりあえずは消毒をいたしましょう。わたしの手当ては荒いらしいですが、腕は確かですよ」

 こちらに向かって伸ばされる執事の手が、視界に飛び込んできた。

 この手を取ってもいいのだろうか。

 このまま振り返って玄関から出て、なりふり構わずどこかへ逃げ出すべきではないだろうか。

 だが、何故か逃げ出す選択肢を選ぶことができなかった。

 この館にいなければ。

 そんな思いが胸にある。

 ここにいなければならない。

 不安を悟られることなく。自分の心情を見抜かれることもなく。

 ここに、いなければ―――。

「お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」

 胸の底で湧き立つ(くら)い気持ちを抑え込み、恥ずかしげな笑みを浮かべさえして、リサは執事の手を取った。

 背中に、ルドルフの視線をひたと感じながら。



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