三
翌日、リサはルドルフの屋敷に向かうこととなった。
ルドルフの屋敷は、リサが保護された樵夫妻――ミランとカルロッテという名だった――の森小屋から馬で一刻ほどの場所にある。
以前は違う場所の屋敷で暮らしていたルドルフだったが、亡くなった奥方との結婚の際、こちらに移ってきたそうだ。ルドルフは馬で来ていたので、リサは彼と一緒に馬に乗って移動することになった。
乗馬の経験の有無など判るわけがない。けれど、ルドルフの優しい気遣いに、馬上の恐怖はほとんど感じられない。背中を大きな胸が支えてくれていたせいもある。
ゆっくりとした行程をとってくれたから、屋敷に到着したのは、太陽が天頂をすぎた時間になっていた。
馬に揺られながらのリサの視界に、眩しい陽光に照らされて緑の芝に佇む、豪奢な館が現れてきた。
迫りくるその大きさに、リサは口をぽかんと開いてしまう。
「あの……、いまさら訊くのは失礼かもしれませんが」
「ん? なんだ?」
昨日からともに過ごしているせいか、ルドルフの口調はかなり砕けていた。
「あれが、ルドルフさまのお屋敷なんでしょうか?」
「ああ。少し古いが、リサの部屋くらいは用意できる」
「……」
まさかとは思ったが、本当にあの大きな建造物が彼の屋敷だとは。
「あの。ルドルフさまはいったい、どういった方なんですか?」
馬が歩むごと視界を占めてくる建物は、少なくとも地上四階、端から端まで走ると息が切れてしまうほどの大きさだった。この屋敷をなんでもないことのように『リサの部屋くらい』と言えてしまうルドルフの素性は、いったいなんなのか。
「このあたりの領主をしてる。一応男爵と呼ばれてはいるが、頭に『貧乏』がいつもついているから、大層なものじゃない。気にするな」
「気にするな、って……」
見る間に大きくなる屋敷は、建物だけでなく庭もきちんと手入れされている。これだけの大きさのものをちゃんと管理していけるのは、それなりの財力があるからだ。リサの思う『貧乏』と、貴族である彼の『貧乏』は、まったく違うものらしい。
ルドルフの好意に甘えて来てしまった自分の浅はかさを、いまになって後悔する。
貴族さまというのは、やはり自分とは基準が違うのだ。
これでは、思い出せるものも、思い出せない気がする。
(『基準』……、『やはり』?)
自分の思考の流れに、ふとリサは考えを立ち止まらせる。
貴族は自分と違う基準を持っていると感じたというのは、少なくとも自分はこんな立派な身分ではなかったことを示しているのではないのか。
「わたし……、貴族では、なかったはずです」
「どうして?」
頭上から穏やかな声が降ってくる。
「気後れが、してて。わたし、こんな立派なお屋敷で暮らしたことなんて、きっとありません」
「どうかな。記憶がないからかもしれないよ?」
ルドルフはまるで答えを知っているかのような言葉を返してきた。
「そうでしょうか……」
頭の中に残る記憶だけではなく、身体が違和感を覚えている。
背中を見上げると、思った以上に近い場所に、ルドルフのほのかな笑顔があった。彼はなにも、不安を感じていなさそうだった。
「大丈夫。屋敷で暮らしていけば、なくした記憶も戻ってくるよ」
「どうして、そんな自信があるんですか?」
近い距離にルドルフの顔がある。なのに、こちらに向けられる視線を逃れようという思いは、不思議となかった。
「主が導いてくださった運命だからだよ」
「……」
まるで口説くかのような熱い言葉に、リサの胸の中で、いろんな思いが絡まり合う。ルドルフの言葉は、名前以外のすべてをなくしたリサにはよすがに思えてくる。だがその一方で、言葉のままをなにも考えずに受け取るべきではないと警告する自分もいる。
ルドルフの言葉を信じたいという自分と、信じてはいけないという自分。
それは、記憶をなくしているからなのか、もともとの自分自身が持っていた警戒心からなのか、リサには判らない。
ルドルフの言葉を嬉しく感じてしまう自分を、流されてはいけないとリサは叱咤した。
「わたしがルドルフさまに助けられたのは偶然にすぎません。ルドルフさまは男爵さまですから、お名前に聞き覚えがあっただけです。主のお導きでは、きっとありません」
「どうかな。素直に目の前の現実に飛び込んでみる勇気も、時には必要だよ」
言って、リサの腰に後ろからまわされるルドルフの腕に、力がこめられる。
大きな身体を持つルドルフにふさわしい、太くてがっしりとした腕。出逢ってまだ二日目。なのに、彼にこうして支えられるのは嫌ではなかった。
「自分の素性を、知りたいとは思わないの?」
「思います、もちろんです」
「だったら、飛び込んでみればいい。屋敷での生活がそれでも違うと感じるのであれば、かえってそこから記憶の糸口を見つけられるかもしれないだろう?」
「それは……そうですけど……」
ルドルフの言うように、消去法で見つかるものもあるのかもしれない。
「前向きに考えていけばいい。なんとかなると」
「……」
なんとかなると気軽に思えるほど、目の前の屋敷は気軽なものではない。リサの胸によぎった不安に気付いたのか、ルドルフはぽんぽんと優しく頭に手を載せてきた。
「生活様式に気後れを感じてしまうのなら、むしろそれを楽しめばいい。知らない暮らし方を堂々と楽しめるいい機会じゃないか」
だろ? と無邪気にもルドルフは悪戯っ子のような笑みを見せてくる。
(確かに……)
どれほど深く思い悩んでも、ここまで来たら、もうなるようにしかならない。気後れしたとしても、眼前の光景に飛び込むしかない。
(それに)
あまりにも不思議すぎてルドルフに言えない思いがあった。
目の前に広がる広大な屋敷。この光景。〝ルドルフ〟の屋敷に足を踏み入れるという現実。
なにも覚えていないのに、この現実をずっと待ち望んでいた自分が、気持ちの片隅に見え隠れしている。
(わたしはきっと、ルドルフさまのお屋敷に行きたいと考えていたんだわ)
理由は判らないけれど。
だからこそ、ルドルフの名前に引っかかるものがあったのだ。
自分は、ルドルフとなんらかの縁があるのかもしれない。
それがどんなものなのかはまったく思い出せないが、直接的ではないにしろ、なにか関わりがあった―――はず。
なにもないと思っていた自分の過去。
そこにぽっと現れた〝ルドルフ〟の存在が、どうしてだか、うっすらと怖くもある。
自分は、いったい誰なのだろう。
優しい眼差しで見つめてくれるルドルフと、いったいどんな関わりがあったのだろう。
いい予感など、ない。
彼との関わりは、失くした記憶を手繰り寄せる点では喜ばしいはずなのに、どういうわけか、罪悪感をしか呼び起こさない。
思い出したくない。思い出さないほうがいい。
自分の中で誰かが警告をしている。それは記憶の底に眠るもうひとりの自分なのか、それともまったく別の存在なのかは判らない。
リサはきゅっと唇を引き結び、ひとつ唾を呑み込んだ。
警告をするのは何故なのか理由は判らない。ただたんに、一歩を踏み出す際の怯えなだけということもある。
(一歩を、踏み出していかなくちゃ)
記憶が戻る戻らないではなく、彼と一緒に世界を見てみたい。
最終的に背中を押したのは、そんな強い思いだった。