二
意識を包んでいた泡が弾けるように、目が覚めた。
天井に見えるのは、木目。木材が組み合わされた知らない天井だった。目を転じると、使われていない暖炉がある。見たことのない暖炉だった。身体は、あたたかななにか―――掛布に包み込まれていた。この柔らかな掛布からすると、どうやら、自分は眠っていたらしい。
「目が覚めましたか?」
身じろぎしたことに気付いたのだろう、背中から女性の声がした。寝返りをうつと、思った以上に身体が気怠い。動いただけで、頭がずきりと痛みを返してきた。
そのまま起き上がろうとすると、
「まだ横になっていてください」
声をかけてくる女性の姿が目に入ると同時、向こうでひとりの男性が腰を上げる様子が見て取れた。
(誰……?)
何故だか妙に、その男性の存在が気を引いた。
黒髪の男性。年齢は三十歳前後くらいだろうか。思い詰めた物憂げな眼差しに、すっととおった鼻筋。厚めの唇は固く引き結ばれている。立ち上がった背は高くてがっしりとしていて、着ている服は簡素だけれど、生地や作りはいいものに思えた。
「気分は、どうですか?」
男性をじっと見つめていた彼女に、膝をついた女性が優しく尋ねてくる。
男性の母親、なのだろうか。似ていないけれど、年齢的には合いそうだ。
「あの……?」
何故、『気分はどうか』と訊かれるのだろう。どうして自分は、こんなところで眠っていたのだろう。
「頭に怪我をして、気を失っていたんですよ」
戸惑いが伝わったのか、女性は教えてくれた。
(頭に怪我?)
言われて頭部に手を遣ると、包帯が巻かれている感触が返ってきた。だから、頭痛がしていたのか。
(怪我……? いつ? わたし、どうして怪我なんて……?)
自分に問うものの、何故か答えを見つけられない。
かけられている柔らかな掛布に包帯。知らない部屋。知らない女性と、吸い込まれるように意識を持っていく男性。
怪我。
ここは、どこなのだろう。
思考を進めようとすると、何故か見えない壁にぶつかる。
「あそこでなにがあった」
自分を取り巻く現状を掘り下げようとしていると、尋問めいた厳しさを匂わせて男性が訊いてきた。
何故、そんな強い声音で訊いてくるのか。
彼のまっすぐに射る眼に、身体は縛られ動けなくなる。
「どうして倒れてたんだ」
「あの……、……、わか、判りません……」
怖いと、思った。
質問の意味が判らない。〝あそこ〟、とはどこのことなのか。
「判らないって」
「お館さま。そんなきつい言い方なさっては怯えてしまうだけです」
女性に窘められ、男性は憮然と口を閉ざす。だが、食い入る眼差しはそのままだった。
「どちらからいらしたんです? 近くの村の方ですか?」
「近くの、むら……?」
近くの村とは、なんなのか。
いったいなにを問われているのかと思う一方、問われるままに自分の出身を答えようとする―――が。
(―――……、?)
小さく、僅かに小首が傾ぐ。
(どこから……、来たの、わたし)
「誰かと一緒に森に来ていたんですか?」
無意識に瞬きを繰り返していると、更に女性が穏やかに尋ねてくる。
「誰か……と……?」
(一緒だったのかしら)
記憶を探るも、ひたすらに空虚な洞が広がるばかりでなにも見つけられない。
「あの。森って……?」
問い返されて女性は怪訝な表情を一瞬浮かべ、腰を下ろしている場所を指差した。
「ここのことですよ。ここが建っている場所」
「森……、なんですか、ここ」
はっと女性と男性は顔を見合わせ、その表情をこわばらせていく。自分の発した問いがそうさせたのは明らかだった。
「誰かに襲われたのか?」
硬い声で訊かれた。
「額の怪我だ。物盗りにでも遭ったのか?」
「襲われて……、物盗り、ですか?」
問われ、もう一度記憶を探る。ここは森だと言われたことで、そうか、森なのかとどこか納得はするものの、それ以上思い浮かぶものはなかった。
森。
ふたりの様子からすると、どうやら自分はこの森に住んでいるわけではなさそうだ。
では、この森に自分は、どうやって、なにをしに来たのだろう。
―――森? どんな? どこの?
彼が言うように、自分は誰かに襲われたのだろうか。
では、その『誰か』とは、誰なのか。被害は、―――それだけなのか。金銭や貴重品、そして、自分自身。頭は痛むものの、それ以外に身体が感じる違和感は―――ない。ほっとできても、それで状況が打開されたわけではない。
「誰……、判らない……」
物盗りに襲われてしまったのだとしても、自分が何故この森にいたのかという目的が説明できない。
頭の中が真っ黒なものに呑み込まれていて、なにも引き出せなかった。
「名はなんという。どこから来た」
まっすぐに斬り込んできた言葉に、じわじわと侵蝕してきた不安がいっそうかきたてられていく。
「名前は……、リサ……」
思い出そうとする前に、自然に口がそう答えていた。発したばかりのその名に、ああそうだ自分の名前はリサだったと納得をし、安堵をする。
覚えているものが、少なくともひとつはある。
けれど。
どこから来たのか。
『リサ』である自分は、どこからどうやってなにをしにここに来たのか。
それが、―――判らない。
後に続けるべき言葉を告げようとしても、喉を震わせ声にできるものを見つけられない。
どんな音を紡げばいいのか、どんな音の地名があるのかすら見当もつかない。
頭の中のすべてを引っ繰り返してみるが、摑みどころのない虚無の嵐が吹き荒れて、宙を掻くばかり。
呆然と、男性と女性を見遣ることしかできなかった。
「リサさん。どこから、ここに来たの?」
優しく言い含めるように女性は重ねて問う。急かそうとはせず、いたわってくれる雰囲気に、目の奥が熱くなる。
「あの……、あの、すみません、判らない……」
ふたりの眼差しが、揺らぐ。
「どこから来たのかとか、―――判らない、んです」
再び、彼らは顔を見合わせた。
「ここがどこなのかは、判るか」
「えっと……、森……」
「どこの森だ?」
「……」
リサは言葉を詰まらせる。
(ああ……、全然、判らない)
なにも、見えない。
知らず、掛布を摑む手に力が入る。
落ち着かなければと、リサは自分に言い聞かせる。気持ちを落ち着かせれば、きっと名前のように思い出せるはずだ。
深呼吸を繰り返し、まぶたを伏せてリサは記憶を探る。空っぽだろうとなんだろうと、手掛かりくらいはあるはず。あって欲しい。
「『リサ』というのは、愛称なのか? 名字なのか?」
懸命に自分の記憶を探すリサに痺れをきらしたのか、男性は別のことを訊いてきた。
だが、この問いもまたリサにとっては困難を極めるものだった。
リサという、音の響き。
この音の連なりが自分を示しているのは、おそらく間違いはない。けれどそれが愛称なのか名字なのか、はたまた洗礼名なのか、そこまで踏み込まれると一気に答えは霧散して見えなくなってしまう。
「『リサ』が名前なのは、たぶん、確かです」
〝たぶん〟と〝確か〟を一緒に使うのはおかしいとは思う。けれど、『たぶん確か』だとしか言いようがなかった。
男性はためらいのようなものを見せ、口を開く。
「では……、『リアラ』という名に、聞き覚えは?」
女性がはっと男性を見上げる。その視線を受けたまま、彼はリサを見つめこむ。
「リアラ、ですか……?」
言われるままリサは自分自身を探ってみる。食い入るような眼差しからすると、おそらく〝リアラ〟という名前を持つ人物は、彼にとって大切な存在なのだろう。
(リアラ……、リアラ……)
どんな僅かな引っかかりも見逃さないよう慎重に自身に問う。だが、聞き覚えも違和感も懐かしさも、なにも感じられない。
小さく首を振ると、気落ちした表情と吐息が返ってきた。
「『ルドルフ』という名は?」
半ば諦めながらも呟かれたその響きが、するりと胸の内を撫で降りていく。優しく手で撫でていくような確かな感触に、リサは眼差しを上げた。
もう一度、その音の連なりを聞きたいと思った。
「ルドルフだ。ルドルフ・マトゥーシュ」
「ルドルフ……マトゥーシュ……」
この音の響きは、耳が覚えている気がする。この音を、おそらく口にしたことがある。
リサは、ひとつ頷きを返した。
「聞いたことが、ある気がします」
途端、男性の眼差しに力がこもる。そのあまりの強さに、一瞬めまいをおぼえた。
「わたしの名だ」
はっきりと言い切った男性に、やはりそうかと思う自分がいた。
「わたしの名前に、心当たりはあるんだな」
「心当たり、というか、聞いたことがあるような、懐かしいような……」
「―――そうか」
男性―――ルドルフは、深い笑みを湛えて首肯する。喜びを噛み締めているのか、穏やかな空気が滲み出ていた。どうして彼の名に聞き覚えがあるだけで、こんなにも嬉しそうな顔をするのだろう。
自分のことを、このひとは知っているのだろうか。
(いいえ、だって)
素性を訊いてきたではないか。リサのことを知らないからこそ、尋ねたのだ。
ルドルフの笑みの意味が判らずどう反応すればいいのかちらりと女性を窺ったとき、ふたりの向こう側にある扉が開き、誰かが入ってきた。
ルドルフの父親―――女性の夫だろうか。朴訥な雰囲気の男性はたっぷりと髭を蓄えているせいか、不思議と安心感を抱かせる。身体つきはしっかりしていて、力仕事をしているように思えた。怪我をしているのか右足を軽く引いている。
その男性が、ルドルフに気付き気さくな笑みを浮かべた。
「おや、お館さま。今日はずいぶんゆっくりですな」
「今日は特別だ」
ルドルフはかけられた声に振り返ってそう答えた。
ふたりのやりとりに、リサはおやと感じた。
(お館さま……? 親子じゃ、ないの……?)
「リサさん?」
ぼんやりとルドルフたちを見遣るリサに、女性が声をかけた。
「あの……、『お館さま』って……? ご家族では、ないんですか?」
そういえば、女性も彼のことを『お館さま』と呼んでいたような。
ためらいがちに訊くリサに、その場の三人はきょとんと固まる。
「親子だと思ったのか?」
ルドルフはこちらに向き直り、問う。
「お館さまの家族だなんて、畏れ多いことですよ」
「―――ええと、申し訳ないんだが彼女はいったい?」
ルドルフの背中から、男性の怪訝な顔が覗いてきた。
「墓所で怪我をして倒れていたんですって。記憶がないみたいて」
「記憶が? 墓所で倒れてたって、奥方さまの?」
「ああ」
リサを見つめながら、頷くルドルフ。
(奥方、さま……? というと、ルドルフさまは、結婚していた……)
どうしてだか胸の隅が小さく引き攣れたが、リサは気のせいにした。
ルドルフは妻を亡くし、その墓に来たときに倒れていたリサを見つけたということか。
墓所で倒れていたなど、なにも思い出せないとはいえ、なんて失礼なことをしてしまったのか。おそらく、『リアラ』というのがルドルフの亡くした妻なのだろう。
「あの……、なにも覚えてないとはいえ、とんだ失礼をしてしまって、申し訳ありません」
「謝る必要はない」
ルドルフからは、最初の怒りと衝撃などとうに消えていた。急にかしこまってしまった彼女を安心させるように言葉を続ける。
「あなたがあの場所で倒れていたのは、主の授けたもうた運命だ」
すっとルドルフの手が伸びた。横になっているリサの頬に指の背が一瞬だけ触れ、すぐに離れていく。まるで壊れものに触れるかのような恐々としたものを、リサは感じた。
「運命、ですか」
「ああ。わたしの名前に聞き覚えがあるのも、運命なんだろう」
「……」
聞き覚えがあると断言されても、実際のところはそんな気がするだけであって、はっきりと記憶に残っているわけではない。彼の名前から自分の記憶をどう引き出せるのかすらも判らないのに。
「一緒に、来て欲しい」
戸惑うばかりのリサに、彼は続けた。
「どこに帰ればいいのか、判らないんだろう?」
「それは……。そうです、けど……」
「ならば、うちに来ればいい」
「是非そうなさいませ」
返答に困るリサに、女性が背中を押す言葉をかける。
「お館さまのお屋敷なら、ここよりも不自由なく過ごせます。きっと、記憶もすぐに戻ると思いますよ」
やけに自信に満ちた声音で言われ、リサは内心たじろいだ。
どうして、ルドルフの屋敷に行けば記憶がすぐに戻るとはっきり言えるのだろう。
「よく、判らないんだが……。ここでは身元の知れない人物は、村のお代官さまのところに連れられる決まりになってるんだ。運がいいことに、お館さまはそのお代官さまでもある。大丈夫ですよ。尋問するつもりで招いてらっしゃるわけじゃない。純粋に心配しているだけですよ。ここはお館さまのお言葉に甘えてみたらどうです?」
男性も、ルドルフの屋敷を勧めてくる。
ここがどこなのか、リサにはまったく判らない。ただ、ぐるりと視線をめぐらせて見た限りでは、決して広い部屋ではないし、男性が外から直接ここに現れたことを考えると、家自体もこぢんまりしているのかもしれない。
五十代くらいの男性と女性。おそらく夫婦だろう。彼ら以外に家族がいるのかどうかは判らないけれど、ここで世話になるよりも〝お館さま〟と呼ばれたルドルフの〝屋敷〟のほうが広いのだろうし、過ごしやすいのかもしれない。ルドルフとふたりきりになる、ということは、〝お館さま〟と呼ばれるくらいなのだからないだろう。きっと使用人がいるはずだ。
記憶がないリサを厭うことなく招いてくれている。不審者として代官のもとに連れられて結局彼の屋敷に辿り着くのなら、ここでごねても同じことだ。
こんな怪しい人物を快く自宅へ招いてくれるなんて、きっと二度とないだろうめぐりあわせだ。リサだったら警戒ばかりが先に立って、むしろ追い出す選択をするのに。夫婦のどちらかが見つけたのではなく、ルドルフ自身に発見されたことがよかったのかもしれない。
リサは、ゆっくりと頷きを返した。
「あの。本当にいいんでしょうか。わたし、なにも覚えてないのに」
「構わない。来て欲しい。あなたを、ひとりにはさせたくない」
迷いのない声音に、不覚にも胸の奥で鼓動が一瞬高まった。
「わたしのためにも、来て欲しい」
乞うように見つめられる。
「どうしても気になるのなら、『代官の屋敷に行く』と思えばいい」
リサが申し訳ないと思う負担を軽くしてくれる彼の優しさに、甘えてみようという思いが生まれた。
「―――はい。一緒に、お屋敷に伺わせてください」
「そうこなくては。では一緒に帰ろう。わたしの屋敷に」
ほっと安心した笑みとともにかけられた言葉は、記憶を失ったリサにとって、あまりにももったいないものだった。