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 枯れ果てた木々の枝。その向こうに、暗い雲が垂れこめていた。

 吸い込む息は喉を焼くほどに冷たく乾いていて、浅く吐き出す息は、凍りついた霧のように白い。

 リサは、厚く積もった枯葉を踏み砕きながら森を彷徨(さまよ)っていた。

 どこともなくふらつくその足が、ゆるりと止まる。

「……」

 声にならない吐息が、こぼれ落ちた。

 木々の間から現れたのは、初めて見る石造りの四阿(あずまや)だった。

 いや―――、初めて見るはずなのに、どこかあたたかな懐かしさがある。

 ここがどこなのか判らない。気付いたら、森の中にいた。

 身体が、ぶるりと震えた。

 冬の森を歩くにはどう考えても薄すぎる上着。

 目的があったとは思えないのに、足は勝手にここに向かっていた。

 それがなんの意味を持っているのかなんて、どうだってよかった。

 リサにはもう、自分の意思も考えもなにもかもが判らない。

 なにもかもすべてには意味がなく、なにをどう思おうとも、どうこうできるわけでもないのだ。

 ひっそりと木々に囲まれ佇んでいる四阿。

 屋根と柱だけの建物の真ん中に、一基の墓がある。

 そこだけが枯葉もほとんどなく、墓石はくすみひとつない。

 ぽつんと佇む白い石の前に、瑞々しい花束がひとつ供えられていた。目に飛び込んできたその花の色彩に、ここがリアラの墓所であると、リサは何故だか判ってしまう。

(亡くなった日だからルドルフさまがって、誰かが)

 ルドルフが墓所に来たのは、本当のことだったのか。

 薄い紅色の花が幾本も纏められて置いてある。ハサージュではないが、同じような色をしている。

 そうか、と、すとんと思った。

 リアラは、薄紅の色が好きなのだ、と。

(だからルドルフさまはハサージュの花を見せたのね……)

 屋敷の西側に作られたハサージュの花畑。きっとリアラは、ハサージュが好きだったのだろう。見渡すかぎりのハサージュの海を見れば、リアラとしての記憶が戻るとでも思ったのだろうか。

 ルドルフは、リサが失ったのはリアラとしての記憶なのだと本当に信じていたのだろうか。

 見た目も年齢も明らかに違うのに。

 ステラが感じたように、もしかするとどこか似通っているところがあったのかもしれない。それに縋って、リサをリアラだと信じていた。

 リサを見ながら、その向こうに亡き妻の姿を見つめていた。

(ばかみたい)

 傍から見たらおかしいとしか思えないルドルフの言動。

 彼が愛していたのは、愛したのは、リサではなくあくまでリアラだったのだ。

 そこにあったのは、少し考えれば判るだろう、ありえない思考回路だ、とか、そういう当たり前に出てくるような問題ではなかった。

 最初からルドルフが求めていたのは、見つめていたのはリアラだった。その事実だけが厳然としてあったのだ。

 滑稽だった。

 それでいて、別の女性に奪われるなど。

 自分が愚かしくて、情けなくて。

 あの墓石の下に眠る女性には、決して勝つことはないのだ。永遠に。

 口元に嘲笑を浮かべ、リサは墓石に一歩近付く。

 だが、凍えた足に力が入りきらず、くらりと膝からよろめいてしまう。

 崩れ落ちるのを避けようと数歩よろめいて、咄嗟に伸ばした手が冷たい墓石に触れた。

 ―――瞬間。

「ッ!」

 身体中の血が、逆流するかのように沸き立ち、一気に全身を駆け抜けた。

 乱暴に身体中を掻き乱され、気持ちが悪いとしか言い様のないほどに肌は引き()れ縮み上がる。

 脳裏に様々な光景が怒濤の勢いでひらめいていく。どれだけ探しても見つからなかった見えない壁が現れては開き、奔流のようにさまざまな事象が容赦なく押し寄せてくる。

 すべてが、一瞬だった。

 こいねがい求めても手がかりすらなかった記憶の入口が、墓石に触れた指先が鍵となって、目の前に切り落とされてきた。

 追いつけない。押し流される。

 後頭部を強く殴られたわけでもないのに、その衝撃にたまらず膝をついた。ルドルフの置いた花束が、音をたてて潰される。

「う……」

 欠けているピースの存在自体判らなかったのに、(ひび)割れていた(ひず)みのすべて、失われていた自分を構成していた過去の隅々にまで、怒濤のように流れ込んできた事象が導かれるように填め込まれていく。

 どこにも隙間のない果てしなく続く滑らかな一枚の板となって、記憶が形を現していく。

「あぁ……ッ」

 髪をかきむしり、溢れる激情のまま、口からはただただ悲鳴にも似た呻き声が漏れ出でる。

 大きく見開かれた目から、滂沱と涙がこぼれ落ちた。

 あの声の主も、自分が誰なのかも、なにもかも。

 なにもかも。

 なにもかも。

 鮮明に。


 すべての答えを、身の内に嵌まったピースが告げていた。



 ・―――×―――×―――・



 きらきらと、夏の濃い光が木々の葉の間からこぼれ落ちていた。

 四阿(あずまや)の建つ中庭の芝生の上を、白い木洩れ日が透明に輝きながら踊っている。

 井戸水で冷やされた果実水をときどき飲みながら、涼しい風の通る四阿で本を読む彼女の背後から、芝生を踏む音が聞こえてきた。

 振り返ると同時、声がかけられた。

「リサ」

「ジェイフ」

 木洩れ日を受けて現れたのは、義理の兄であるジェイフだった。

 高い背丈。やや硬めの黒い髪は、緩やかに後ろへと撫でつけられている。片眼鏡をかけた彼は、眩しげに目を細めていた。その眩しさは陽光のせいでなければいいのにと、胸に小さな痛みをリサは覚える。

「こんな時間に、どうかしたんですか?」

 昼下がりのこの時間、ジェイフは仕事で忙しくしているはず。

 栞を挟んだ本を膝の上に置き、間近に立ったジェイフを振り仰ぐ。すぐに使用人が来て、ジェイフの席を整え果実水のグラスを置いてくれた。だが、すぐにはジェイフは座らない。

「お前に頼みがある」

 ジェイフは陽を背にしているので、リサにはその表情がよく見えない。ジェイフがわざわざこうやって頼みごとをしてくるなんて、初めてのことかもしれない。

「頼み? わたしにできること、ですよね?」

 だから声に戸惑いが混じってしまうのは、仕方がないことだ。

「ああ。お前にしかできない」

 言いながら、ジェイフは椅子に座るためリサの背後をまわる。

 耳の後ろから響いてきた彼の声に、どきんと胸の内が高鳴る。それが伝わらないよう、なんでもない表情を慌てて貼り付ける。

 リサにしかできないこと。そんなもの、あるのだろうか。

 なにをやっても不器用な自分だ。ここぞというところでいつもミスをしてしまう。

 そんな自分に頼みごとだなんて。

 ジェイフは、リサの正面ではなく、わざわざその隣に椅子を引き寄せて座る。その間近な距離がどれだけの威力を持っているのか、彼は知らないのだろう。

 緩やかに吹く風の様子を見遣る素振りで、さりげなくあたりの気配を窺うジェイフ。

 警戒などしなくても、ここはヒンデンシュタイン本家だ。警備体制に不備があるはずもないから、不審な人物などいるわけがないのに。

 怪訝に思うリサに、ジェイフはおもむろに口を開いた。

「お前への頼みというのは」

「はい」

 神妙な声に、自然に背筋も伸びてくる。

「プラーシェク男爵ルドルフ・マトゥーシュを籠絡して欲しい、ということだ」

 声はひそめられているものの、聞き間違えようのないくらいはっきりと強い意思がそこにはこめられていた。

「プラーシェク男爵ルドルフ・マトゥーシュ……? ―――そのひとって」

 ややして思い至ったリサに、ジェイフは頷く。

「ああ。フォウセク領主も兼任している、お前の異母姉リアラの旦那だった男だ」

「そのひとを、……ろ、籠絡?」

 頷くジェイフ。

 聞き間違いでも自分の言い間違いでもなさそうだ。

「―――」

 いったい、なにを言っているのか。

 悪夢でも見ているのだろうか。

 ろうらく。

 自分が?

 ジェイフの言葉をゆっくり噛み砕いて理解に努めるに従い、リサは、自分の心が引き裂かれていくのをまざまざと感じた。

 籠絡。

 それがどれだけ残酷な通告か、このひとは知らないのだ。

 目の前の人物は、リサが誰を想っているかなど知らない。

 一生言うつもりなんてなかったから仕方がないと言えばそうなのだけれど、それでも、あまりにも無情な言葉をジェイフは更に重ねてくる。

「あれは妻を亡くして腑抜けになっていると聞く。その隙に懐に入り、約束をひとつ取り付けてもらいたい」

「……」

 冗談を言っているようには、見えない。

「聞いているのか?」

「あ、はい。聞いてます……」

 慌てて返事をするリサに、どこか呆れた吐息をジェイフはする。

 無意識なのだろうが、ジェイフのこの突き放すような態度は、リサの気持ちをいつも凹ませる。

 また、ジェイフを失望させてしまったかもしれない。

 ジェイフは構うことなく先を続けた。

「リトレウスの鉱山が領内のどこかにあるらしいんだ。それの採掘権を、我がヒンデンシュタイン商会が独占したい」

「男爵さまから採掘権をもらえるよう、約束を取り付けてこい……ということですか?」

「ああ。まだどこも契約にまで至っていないはず。他に横取りされる前に、なんとしてでもうちが独占したい」

 リトレウスとは宝石の一種だ。青く透明に澄んだ宝石で、イヤリングや指輪などに加工されることが多い。だが、石は非常に硬く加工は熟練の職人であっても難しく、その鉱脈自体もあまり発見されていない。それゆえ、非常に珍重されている宝石でもある。

 ヒンデンシュタイン商会とは、ジェイフの曽祖父が起こした会社で、先代が国で五本の指に入るほどの大会社へと大きく展開させた。おかげで、リサは貴族階級ではないものの、それに匹敵するほどの優雅な暮らしができている。

「カシェル殿が言っていた。お前の父親からフォウセク領内に鉱山があるのだと昔聞いたらしい」

 カシェルとは、リサの母親の名だ。

 母は十四年前まで、フォウセク領主である男爵の愛妾だった。どんな理由があったかは知らないけれど、男爵と別れ、その後、現在の夫ワーレイと結婚をした。当時リサは十三歳。多感な年頃に出会ったワーレイの連れ子、ジェイフにひと目で心を奪われたのは、自然の流れだったのかもしれない。

 母はフォウセク男爵と一緒にいる間、苦労をしていた。正妻に気兼ねをし、他の妾たちと無用な争いを起こさぬよう常に周囲に気を配り、一歩も二歩もあらゆることに対して控えめでいた。それが逆に気に入られたのか、男爵はよく母のもとに通っていた。ふたりの静かな睦まじさは、そばで見ているだけで幼いながらもリサを幸せな気持ちにさせた。

 その、フォウセク男爵―――父の信頼を得ていた母が話したのなら、リトレウス鉱山の話は事実なのかもしれない。

 プラーシェク男爵を、籠絡する。

 リトレウス鉱山の権利を独占するために。

 ジェイフの望みをかなえるために―――。

 自分の頑張り次第で、ジェイフは有利に事を進められるのだろう。

 プラーシェク男爵ルドルフ・マトゥーシュ。

 相手は貴族階級とはいえ男爵。そうしてリサの家は貴族相手に金貸しもしている豪商でもある。身分は違うが、婚姻を視野に入れたとしても、無謀とは言い切れない。

(籠絡、か……)

 ジェイフが望むのであれば、とも思うが、頭では判っても、異母姉の結婚相手だった人間に下心を持って近付くのは抵抗がある。それをうまく隠せる自信がないから、不安はよけいに膨らんでしまう。比べられるのは、必至だ。

 正妻の一人娘であるリアラと会ったことなどなければ、遠くから見かけたこともない。まったく接点がなかったとはいえ、異母姉はリサより四つ年上だというせいか、以前から気付けば意識をしてしまう存在だった。

 母は一度だけ見かけたことがあるらしく、「溌溂(はつらつ)とした素敵な女性よ」と、立場の違いも越えて純粋に褒めたたえていた。

 溌溂だなんて、自分と正反対ではないか。

 そんな異母姉を妻とした男性に、どう近付けというのか。まったく歯牙にもかけられないのでは?

 母親が妾をしていたのだからお前にも簡単だろうと思われているのだろうか。

 ジェイフとは十年以上一緒に暮らしてきた。

 誰かを籠絡できるほど器用ではないリサの性格やひととなりを判っているはずなのに、どうしてこんな無理難題を持ってくるのだろうと、恨めしい気持ちにもなる。

 いままでなら、きっとリサには持ってこないだろう話だ。

 いままでなら。

 ジェイフはリサを大切にしてくれていた。けれど、所詮それは〝妹として〟でしかない。リサよりも大切な存在を得てからは、明らかにいっそう意識に距離ができていた。だから、こんな話を持ってこれるのだ。

 昨年の秋、ジェイフは幼馴染の女性と結婚をした。

 綺麗に晴れ渡った青空のもと行われた結婚式で、新婦の持つ黄色いハサージュのブーケが青いドレスにとても映えていて、それ以上に妻となった彼女のこぼれ落ちる幸福な笑顔が、リサの胸に痛みを刻みつけていた。

「ハサージュの花は、ミアーナによく似合ってる。そう思わないか? 薄紅よりも、やはり黄色だよな」

 あのとき―――、挙式後のパーティーで友人たちと談笑する妻ミアーナを眺めやりながら、ジェイフはリサにそうのろけてきた。

 その、甘く(とろ)けきった彼の顔を見て、愕然とした。酷い裏切りを覚えた。

 昔、ジェイフの家族になって間もない頃。薄紅色のハサージュの花で花冠を作ったことがあった。たまたま家にいたジェイフが、『綺麗じゃないか。リサは薄紅色が似合うんだな』と微笑んでくれたのだ。

 ハサージュの花の色は薄紅色が定番だから深い意味のないあいさつ程度だったのだろうが、褒められたリサにはあまりの胸の高鳴りに、一生の宝物となった言葉だった。

 だから、彼が黄色のハサージュを褒め、それを持つ新妻を見つめる緩みきった表情に、秘密を共有していたのに裏切られたような、寂しさと怒りが湧き起こってきたのだ。

 だが、腹立たしいはずなのに、隣に立つジェイフの嬉しそうな様子に、激しい怒りは掠れていく。彼が嬉しいと、情けないことに心があたたかくなるのだ。そんな自分のちぐはぐさに、リサはなにも言えなくなった。

 そんなやり場のない葛藤を覚えたのは、―――もう十ヵ月ほども前のことだ。さすがに、そのときの御しきれない気持ちの荒ぶりは収まってはいるけれど。

 収まっている? ―――違う。

 収まってなどいない。

 自分の気持ちに蓋をして、懸命にそう言い聞かせているだけ。

 いまだって、ジェイフの気配をそばに感じるだけで気持ちは彼に向かって流れ、揺れ動いているではないか。

 どうして、と。

 何故わたしの想いに気付いてくれないの。できることなら胸元を摑んで(なじ)りもしたい衝動が、胸の底で(くすぶ)っている。

「その採掘権を独占できれば、ジェイフは……、会社は楽になれるの?」

「お前はそんなこと気にしなくてもいい」

 半ば言葉尻をさらうようにしてジェイフは声を強くする。その語気の強さに、リサの肩がひくりとはねる。

「プラーシェク男爵ルドルフ・マトゥーシュを籠絡するんだ。そうして採掘権を奪え。これは、リサ、お前にしかできない」

「……はい……」

「焦らなくてもいい」

 ジェイフは眼差しを和らげる。

「時間はかかってもかまわない。確実に採掘権を手に入れてくれるのなら、無理に籠絡という形を取らなくてもいい」

 はっと顔を上げたリサに、ただ、とジェイフは続ける。

「一番自然な形を取るのなら、男爵の心を摑むほうが怪しまれない。お前には負担だろうが、受け入れてもらいたい」

 まっすぐに見つめてくるジェイフの眼差しは揺るぎない。ああ、これは自分には拒否することのできない決定事項なのだなと気付いてしまう。拒絶できる話だったとしても、ジェイフの言葉を結局は了承するのだろう、とも。

(ずっと……)

 ずっと、ジェイフを想い続けていた。義兄のジェイフ。出逢ったときから彼が誰を見ていたかなんて、痛いほど判っている。リサよりも幾つか年上のミアーナはとても清楚で、大人で、同性から見ても好きにならずにはいられないひとだ。彼女を憎めればいいのに、怨むことも嫌いになることもできない。

 決して届かない想いだと、身を引き裂かれるほどに承知している。

 彼を想っていたからこそ、他のどんな男性に惹かれることもなかった。二十七という完全に行き遅れな年齢になっても、誰かに嫁ぐなんて考えられなかった。義父(ちち)から条件のいい見合い話をどれだけ突きつけられても、頑として首を縦には振らなかった。

 振れなかった。

 ―――それが。

(いいの?)

 ジェイフのたったひと言に、頷こうとしている。

 身の内側から、黒く(ゆが)んだ欲望が滲み出ていた。煙のようにそれは揺らめき、思考を(くら)く染め上げていく。気持ちは、想いはただジェイフだけに向かっていて、それ以外が真っ黒な闇に呑まれ、見えなくなる。

 腹違いの姉の夫を籠絡することを、―――いま、受け入れようとしている。

 ジェイフのために。

 自分はどれほど愚かなのか。

 籠絡などできるわけがない。無理に決まっているのに。

 プラーシェク男爵は、亡くなった妻の異母妹に迫られるのを忌まわしいと感じるに違いない。彼が感じなくとも、使用人たちはリサの存在を受け入れられないはず。見ず知らずの女性ならまだしも、異母妹には抵抗を抱くに違いない。

 財産狙いだと―――敵として見做(みな)されるのは、目に見えている。

(いやだな)

 敵と見做されるのは、自分を否定されるみたいで逃げ出したくなる。見ず知らずの場所で暮らしても、居場所なんてないに等しいだろう。そう思うと、決して自分の益にならないこの(めい)に、逆らうべきだと声をあげる自分がいる。

 純粋に男爵を好きになってのことならまだしも、後ろめたい事情があるからこそよけいに、嫌われるのは避けたかった。嫌われたとしても、せめて敵扱いだけはされたくない。

 (めかけ)の娘として生まれ育った。

 母親は万事控えめに徹していたが、本宅からの―――本妻からの敵視がなかったわけではなかった。

 父親が実子として認知したのはリアラただひとりだったが、リサの存在は本妻に伝わっていたため、あの頃は血まみれのナイフやら首をちぎられた鳥の死体やらが送りつけられることがままあった。

 母が義父と結婚をし、その後、実の父親もその妻も亡くなったと聞いて、ようやく心穏やかな日々を送れるようになったというのに。

 なのに、目の前に提示されているのは、あの頃のような心を削られる日々を強要するものだ。

 男爵のところでは皆、いまでもリアラを慕っているに違いない。

 そんな難しい場所に飛び込んで、本当に大丈夫なのだろうか。

 だが、途方もない不安が渦巻いているのに、それでも気持ちは変わらないのだと硬い芯が一本通っている感触が自分の中にある。迷いを感じたとしても、結局は示された道を選ぶのだと、判っている。

 ジェイフが求めるのなら。

 ジェイフの望みなら、叶えたいと思う。

 彼はなにも言わないが、リサがこの話を受け入れてリトレウスの採掘権が手に入れば、いま以上に商会での立場を有利にできるのだろう。

 彼の、役に立ちたい。

 決して自分を見つめてはくれないジェイフ。要領が悪く不器用なせいでいつも肝心なところで失望させてしまう自分への印象がこれで変わるのなら。

(誰かのものになれば、もしかするとわたしへの見方が変わるかもしれないし……)

 後ろ暗い身勝手な下心も、頭をもたげてくる。

 自分の中を貫く気持ち。思考を締めつけてくる昏い感情。

 ゆっくりと、リサはジェイフを見つめたまま頷きを見せた。軽く目を瞠った彼に、もう一度、今度は大きく首肯をした。

 ジェイフの表情が、花開くようにほころんでいく。

(ああ……)

 まるで無防備なこの笑顔。リサが大好きな、そして初めて見たときに恋に落とされた笑顔だった。

 崩壊への第一歩なのだと気付きながらも、それでもリサは、その一歩を踏み出したいと思った。

 そうしてそれからリサは、貴族女性が身につけているべきマナーや所作を徹底的に叩き込まれた。豪商とはいえ、身分は平民でしかない。〝金持ち〟のマナーや所作と〝貴族〟のそれとは、洗練の度合いが違いすぎていて習得にはとにかく苦労をした。

 プラーシェク男爵と初めて顔を合わせる際は、身分は偽らず、リアラの腹違いの妹であると匂わせることにした。秋の収穫祭に絡めて催されるフォウセク領内での夜会に、その設定で出席するとジェイフは言った。女性一人で夜会に参加するわけにもいかないため、彼自らが付き添うのだとも。

 その言葉を聞いたとき、身が震え、不覚にも目の前が輝いた。

 ジェイフのパートナーとして夜会に出席できる。

 パートナー。

 なんて(うるわ)しい響きだろう。

 たとえ偽りの関係だとしても、たったひと時であっても、この話を受け入れなければ一生叶うことのなかった関係だ。

 いつか、いつの日か、たった一度でいいからジェイフの横に並びたい。パートナーとして自分の隣で笑んでもらいたい。そんな莫迦げたことを夢見ていた。抱くだけ虚しくなる儚い夢だと判っていたそれが、まさか現実になるだなんて。

 けれど、いざ叶うとなると現実味が湧いてこない。最初こそ心躍ったが、肝心なところでいつも失敗をしてしまうから、本当にそんな日が訪れるのだろうかと不安ばかりが膨らんでいった。

 ―――まさか、その不安が的中するとは思わなかった。

 墓石を目の前に、リサの唇に皮肉な笑みが浮かぶ。

 どうして自分は、あのときここに足を運んでしまったのだろう。

 あの秋の日。フォウセク領の村で開かれる夜会。

 想う以外の男性を籠絡しなければならない重い(めい)を下されながらも、堂々とジェイフとふたりでいられる状況に、やはりリサの気持ちは淡く色付いて、なにもかもが瑞々しく映っていた。

 ただ、浮かれながらも、心の奥底を錆びつかせる不穏な沁みも広がっていた。不安と好奇心がめまぐるしく入れ替わり、なかなか気持ちは休まらない。

 異母姉リアラは、いったいどんなひとなのか。

 溌溂(はつらつ)としているとは、母から聞いた。今回のことでそれとなく再度母に尋ねると、もうぼんやりとしか覚えておらず、美人で、眩しい笑顔をしていたとしか教えてもらえなかった。

 半分血が繋がっている自分のこれからの行動を、リアラはどう思うだろう。

 ジェイフによると、夜会が行われる村の背後の森に、リアラの墓はあるらしい。

 プラーシェク男爵に会う前に墓に行って、墓石越しにでもいい、許しを乞いたかった。

 それに、リアラの墓を見れば、プラーシェク男爵が亡き妻をどう想っているのか伝わってくるかもしれないとも思った。リアラの墓参りにいったん思いが至ると、もうどうしてもすべきだと気持ちは強く固まっていく。

 ジェイフにリアラの墓参りを訊いてみると、諸手をあげてというわけではなかったが、頷いてくれた。村の裏手にあるとはいっても、滞在する宿から森まではそれなりの距離がある。「お前はそそっかしいから足を痛めるに決まっている」と、ジェイフは仏頂面ながらも馬を出してくれた。

 男爵との話に頷いてから、幸運がめぐってきているのかと、正直めまいがした。

 ジェイフと一緒に馬に乗れるだなんて想像もしてなかった。罰が当たるにしても、どうかジェイフと別れたあとにして欲しいと、真剣に神に祈ったほどだ。

 村の背後にある森の地面は、色とりどりの葉で埋め尽くされていた。

 さくさくと馬の歩むリズムと共に、ジェイフの胸が背中に触れる。横乗りのリサが落ちないよう手綱を持つ彼の腕に囲まれて、リサはただじっと進む先に目を遣ることしかできない。いざ彼とともに馬に乗ってみると、緊張で頭はいっぱいいっぱいになってしまう。

 胸の高鳴りが聞こえていないだろうか。顔に血はのぼっていないだろうか。挙動は不審になってないだろうか。息をする方法すらいちいち考えなければならないほど、密着するジェイフを意識してしまう。

 ふたりともなにを話すでもなく無言のまま、だから馬が落葉を踏む音だけしか聞こえない。しばらくして、もう少し行ったところに墓所があるとジェイフが教えてくれたとき、リサは勇気を振り絞って間近の彼を見上げた。

「あの。ここで、降ろしてもらえば」

「え?」

「ここから先は、ひとりで行くから」

 さすがに、墓石の前まで馬で乗りつけるのは気が引けた。そう伝えると、

「だがひとりでって、大丈夫なのか?」

 思いきり信用していない顔が返ってくる。

 本当は、馬云々は取ってつけた言い訳でしかなかった。あれ以上ジェイフと密着していたら想いに気付かれてしまう。後ろ暗い計画が控えているこの状況で、よけいなことに思い煩いたくなかった。

 そしてなにより、義理とはいえ兄だ。恋情を気付かれて軽蔑されるのも、どうでもいいと無関心な態度を取られるのも怖かった。

「ここをまっすぐ行けば、右手に見えるんでしょう?」

「そうだが……」

 ジェイフは、不安な色を隠さない。

 ―――あのとき。

 心配するジェイフの言うとおり、彼と一緒に墓所まで行けば、運命は変わっていた。



 落葉が降り積もる森の小径(こみち)をひとり歩くリサ。

 ともすれば地面は落葉に隠されて、道を見失いそうになる。薄い道の痕跡を辿りながらようやく木々の向こうに墓所の建物を目の前にしたときだった。

 何故か熱い(しずく)がぽたりと身体の内側に落ちてきて、その感触の、一瞬後。急に潰されるように胸が痛みを訴えた。

(え。え……?)

 いきなりのことに訳が判らず混乱する。

 きつく収縮しながら胸を焼く痛みに、息がとまった。

 目の前が、ちかちかと明滅する。

 潰される―――ではなかった。

 胸の奥底で静かに(うごめ)いていたなにかが、墓所を目にした途端、解放されて激しい勢いで弾けてきたのだ。弾けたそれは無数の矢となって胸の内側に刺さり、貫き、自らを誤魔化し唯々諾々となっていた言い訳だらけの身体を突き抜けていく。

(あぁ……!)

 なにかが、聞こえる。

 なにかが、ある。

 すべての矢に貫かれて真っ白になった中、なにもなくなったそこに、小さななにかが浮かび上がる。

 泣いている、誰かだ。

(あ……)

 違うのだと、声が聞こえた。

 自分の中でもうひとりの自分がぽつねんと泣いていた。

「!」

 なんてことをしてしまったのか。

 急激に自分が見えてきて、リサは凍りついた。

 違う。

 違う。

 嫌なのは、敵視されたくないとかそういうことじゃない。

 そうじゃなかった。

 ―――違う。

 ジェイフと離ればなれになるのが、嫌なのだ。

 それだけなのに。

 ジェイフでなければ嫌。

 どんな理由であれ、ジェイフ以外の男性と結婚をするのは嫌だ。彼以外のひとと結婚するなんてどうしても嫌。絶対に。考えられない。考えたくもない。

 一緒にいたいのは、見つめてもらいたいのは、そばにいて欲しいのはジェイフだけ。

 ジェイフだけなのに。

 莫迦だ。

 なんて自分は莫迦だったのだろう。

 母の連れ子――加えて正式に認知をされていなかった子――という自分の背景が、これまでずっと引け目を感じさせていたのは事実。

 自分の希望を呑み込むことは、意識することもなく身についていた癖だった。

 だから、ジェイフのことも少しずつ最初から諦めて、いまさら、こんなぎりぎりのときになって、愚かにも途方もない悔恨の念に締め上げられてしまっている。

 連れ子だからと無意識に言い訳をして、ミアーナと対等の場所に立とうとしなかった。義兄と義妹という〝家族〟という離れることのない繋がりを失いたくなくて、それを頼みにずっと気持ちを抑え、口を閉ざし続けてきた。

 でも、身体が求めているのは、気持ちが渇望しているのは、全身全霊で乞うているのは、ジェイフだけだった。

〝家族〟ではない、ジェイフだった。

 法律で決められた〝家族〟に縋るばかりで、その枠組みを壊してでもふたりの仲を切り開いていきたいという気概を抱けなかった自分が、猛烈に呪わしい。

 こっぴどく振られてでもいい、自分の未来に挑むべきだった。

 なにを怖がっていたのだろう。

 過去に戻れるのなら、この話が来る前の自分に言いたかった。ジェイフが結婚する前の自分に言いたい。

 伝えられる時に、想いは伝えなさい、と。

 莫迦だ。

 立場を失くそうと、軽蔑されようと嫌われようとも、そうすれば身を引き裂かれるほどの狂おしさに苦しまなくてもすむのだから。

 ジェイフに気に入られたいから他の誰かのものになろうだなんて、どうかしていた。

 いったい、なにを血迷っていたのか。

 (なじ)られ、怒鳴られ、軽蔑されてもよかった。

 ジェイフへの想いはなににも代えがたい宝物だ。自分自身であっても、―――自分自身だからこそ、このガラス細工のような透明な想いを踏みにじってはならなかった。

 なんてことをしてしまったのか。

 いまさらになって、リサは(おのれ)の下した決断の愚かしさに、激しく後悔に襲われた。

 どれだけ後悔をしても、どうすることもできない。

 もう、戻れない。

 すべては明日の夜会に向かって走り出しているのだから。

 目の前の墓が、視界に戻ってくる。

(―――リアラさま)

 胸は熱く震え、けれど凍えきっていて、なにかに(すが)らずにはいられなかった。

 目の前にある墓で眠る存在。

 お門違いではある。だがリサには、もう彼女しかいなかった。

(男爵さまと結婚なさるとき、他に好きなひとはいましたか? もしいたのなら、どうやって、……どうやってこの気持ちを言い聞かせたんですか)

 わななく足で、よろりとリサは一歩墓へと歩み寄る。

 教えて欲しかった。

 答えが欲しかった。

 好きなひとを捨て、会ったこともないひとをかどわかす未来など選びたくない。かといって、嫌だと駄々をこねてすべてをなかったことに、いまさらできるわけもない。

 いまが―――いまここにたったひとりきり落葉の中、存在だけを知る異母姉の墓と向かい合っているいまだけが、なにもかもから解き放たれ、素になれる唯一の時間だった。

 ジェイフのもとにずっといたい。

 この気持ちが叶わなくとも、ずっとずっとジェイフを見つめ続けていたい。

 誰のものになることもなく。

(そんなこと……)

 できるわけもない。

 墓石を見つめている間にも、時の流れを知らせるかのように木々の枝からはらりはらりと枯葉が落ちてくる。

 早くジェイフのもとに戻らなければ、さすがに怪しまれてしまう。

(でも……!)

 いやだった。

 逃げられるものなら、逃げ出したい。

 このままここで、世界でたったひとりきりになったとしてもジェイフのことだけを想っていたい。

 莫迦だ。本当に本当に、自分は莫迦だ。

 他の誰かに抱かれるなんて、ありえない。まして義理姉の元夫だ。鳥肌が立つほど気持ちが悪い。おぞましくて、考えるだけで吐き気がする。

「たすけて、リアラさま」

 唇から、渇いた言葉が落ちた。

 たすけて、お義姉(ねえ)さま。

 前にも後ろにも進めない。

 どうすればいい?

 いったい、どうすれば?

 愚かなわたしに教えてください。

 リアラに縋るのは噴飯ものだとは判ってはいる。

 義理姉からすれば、自分の夫をかどわかそうと画策しながらなにを言うのかと、逆に強く(なじ)りたいだろう。

 それでも、誰にも相談できない。もう、目の前にその日は、その時は迫っている。

「いやだ……、いやだよ、リアラさま……。―――!」

 更に一歩を踏み出したとき、足先がなにかを引っかけた。いま思えば、あれは僅かな地面のくぼみだったのだろう。

 バランスを崩したリサの手は宙を泳ぐが、身体を支えるなどできるはずもなく、そのまま引き寄せられるように墓石へと身体は落ちていく。庇う腕も間に合わず、頭をしたたかにぶつけた。

 額への鋭い衝撃と同時、視界いっぱいに火花が散って、―――そこまでだった。


 次に気がついたときには、記憶に連なるすべての道筋を手放してしまった。



 ・―――×―――×―――・



(―――ああ……!)

 怒濤のように、すべての情景がよみがえり押し寄せてきた。

 ようやく繋がった記憶に、リサは両手で顔を覆った。

 あのあと、ジェイフがどうしたのかはもちろん判るはずもない。

 不思議なのは、ジェイフのことを考えると熱く胸が疼いていたのに、いまは微塵も気持ちが揺れもしないことだった。

 ただ、ルドルフのことだけ。

 胸を熱く満たすのはただ、ルドルフの笑顔や困った顔、彼の低く艶のある声、優しく自分の秘めた場所に触れる肌のことばかりだった。

 けれど。

 胸に、昏い色をした傷が生まれていく。

 そのすべては、リサに向けられたものではなかった。

 リサの向こうにいる、異母姉リアラを見つめてのことだった。

「リアラさま……!」

 憎い。

 憎かった。

 母をして『溌溂(はつらつ)とした素敵な女性』と評されたリアラ。自分とは正反対のひと。

 どうしてルドルフはそんな正反対な自分にリアラを見たのか。

 肖像画を見ても、似ているとは到底思えない。母だって、リサと似ているとはひと言も言わなかった。

(わたしは)

 誰でもなかった。

 ジェイフもルドルフも、見つめていたのは別の女性。別の女性を、愛し抜いている。

 莫迦みたいだ。いいや、本当に莫迦だ。

 なんの取り柄もない自分。愛されたいと望んでその野望に加担し、愛されていると勘違いをして滑稽な己に気付かないなど。

 独り、愚かに無様な姿を晒していた。

「あぁ……」

 あたりは既に薄闇となっていた。空気はきんと凍え、白い吐息は重たく落ちて、虚しいばかりの薄闇に呑まれていく。墓石も、床も、肌も、なにもかもが痛いほどに冷たい。まるで、すべてから拒絶されているかのようだ。

 すべてから、拒絶されているのだ。

 ―――もう、どうでもよかった。

 なにもかもから拒絶されているのなら、もうこのまま、消えてなくなってしまえばいい。

 そんな思いが生まれると、いよいよ本当にどうでもよくなった。

 リアラの墓所で倒れ込む資格なんてない。

 頭では思っても、震える身体には、気付けば力が入ってくれない。

 寒さのせいなのか、引きずり込まれてしまった諦念のせいなのか、―――そんな理由など、リサにはどうだってよかった。

 この場所で眠ってしまっては、ルドルフは怒るだろうか。愛しい妻を穢したと怒るだろうか。それとも、腹立たしさを抱えながらもいままでのように心配してくれるだろうか。

 ふふと、リサの口元が僅かに綻ぶ。

 そんなわけない。

 ルドルフにとってリアラは、やはり彼のすべてなのだ。

 この場所を穢してはならない。

(ごめんなさい)

 どこかに行かなければと強く思うのに、ひどく疲れてしまって、どうやっても身体は動いてくれない。

 だから、自分はダメなのだ。

 肝心なところで、いつも失敗してしまう。

(ごめんなさい、ルドルフさま)

 なんだか、本当に身体が重たい。緩く木々の間を流れる風がのしかかってくる。風に絡みつかれるたび身体は鉛のように重く(きし)み、墓所の整えられた床からたくさんの見えない手がリサを摑んできて、暗黒の地中へと引きずり込んでいく。

 眠たい。

 痺れさえ感じるその感覚はどこか甘美で、心地よい。

「ああ……」

 声にもならない吐息が落ちた。

 このまま、もう目を閉じてもいいだろうか。

(ごめんなさいルドルフさま)

 あなたの愛する女性の墓所を穢してしまって、本当にごめんなさい。



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