一
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
彼女がいたのは四阿の内側。屋根がなければ雪に埋もれてしまっていただろう。それほどに、彼女がいた場所とは打って変わって、ここへ至るまでの道は雪が深い。自分がつけた足跡の上を辿り、男は森の木々を抜けていく。
荒い息は、彼の歩みとともに白く背中に流れては消える。
しかし、彼女の口元からは白く色付くまでもない弱々しい緩やかな空気が、わだかまっては男が一歩足を踏み出すごとに消えゆくばかり。
生きている。
男の胸は、ただそのことだけでいっぱいになっていた。
生きている。
―――リサ。
女を抱き締める腕に力をこめ、自分の頬を冷たいままの彼女のそれに重ねる。
神にどれだけ感謝しても足りないくらいだ。
ああ、リサ。
よかった。
生きている。
ところどころ獣の大きな足跡を残す深い雪の中を男は進む。道の先が開けてくると、そこに一軒の小ぢんまりとした小屋が見えてきた。屋根の真ん中から突き出ている煙突からは、白く細い煙が立ち上っている。
急げ。
男は彼女を抱え直し、雪の中をゆく足をいっそう大きく踏み出していった。
森小屋では、樵として暮らしている夫婦が待っていた。
「見つかりましたか」
戸口で雪を払う気配があったからだろう、戸を開けると、男の母親ほどの年齢の女性が駆け寄ってきた。
「あぁ……、早くこちらへ」
男が返事をする前に、女性は彼が抱える女の姿に安堵の息を漏らし、すぐに室内へと案内した。
森小屋内は、暖炉の火によって充分にあたためられている。男は案内されるまま、暖炉の前に敷かれた敷布の上にゆっくりと腰を下ろした。抱きかかえている女の顔はいまだ青白いものの、先程よりはしっかりとした呼吸を繰り返している。頬に貼りついた黒髪をそっと取り、冷えきった額に唇を落とす。
冷たい。だが、生きている。
ぎゅっと強く閉じられた男のまぶたの奥で、さまざまなの想いが駆けめぐる。
「怪我などは、大丈夫でしたか?」
急くような声が、背後からかかる。
「ああ。大丈夫だった。リアラが、守ってくれた」
「リアラさまが……」
感極まり、女性は声を震わせる。暖炉の番をしていた髭面の男性が毛布を持ってきて、武骨な声で口を開く。
「お館さま。では、わたしたちはあちらにおりますので。いきなり手先や足先を急激にあたためたりはしないようになさいませ。急に起こすことはせず、静かに横のまま眠らせてください。ひと肌で身体の中心からあたためるんです。お互いの体温を馴染ませるようにしてあたためて差し上げてください」
「判った」
男は、自分に言い聞かせるように頷きを返した。
「ルドルフさまもあたたまってくださいまし。少しお酒を入れてあります」
処置の方法を男性から教えてもらっていると、女性が木をくりぬいて作ったコップになみなみと注がれたミルクを差し出してくれた。
「ありがとう。すまない、世話をかける」
指先まで冷えきった男―――ルドルフに、女性は眼差しを深くする。
「なにかあれば呼んでくださいね。さ、早く奥方さまを」
「―――ああ。あぁ、美味しい」
ミルクを口に含んで喉に流すと、自分の身体がどれだけ凍りついていたのか思い知らされる。
ミルクの熱さに生きていることを実感する。ひと口ひと口飲んでいる間に、樵夫妻は奥の寝室へと身を隠してくれていた。
用意されていた手拭いは、暖炉の火にあたためられどれも乾燥していて心地よい。
ルドルフは手拭いを取ると、女の顔を優しく拭う。顔を拭い、髪を拭き、雪に濡れた服を脱がして身体を拭いていく。自分も服を脱いで身体を拭く。ふたりとも下着姿となって、あたたかな毛布にくるまった。
「リサ……」
ルドルフと比べると、リサの身体は潰れてしまうほどにか弱くて、小さい。
素肌同士が触れ合うと、身震いするほど彼女の身体は芯まで冷えきっていた。こんな小さな身体のどこに、命を極限で守るぬくもりが保たれていたのか。奇跡とも思える彼女の弱い呼吸に、ルドルフはひたすらに縋るしかない。
「戻ってこい。戻ってきてくれ」
彼女をかき抱き、己の体温を素肌越しに伝えていく。リサの冷たさを貰い、こちらの熱を分け与える。
リサが戻ってきてくれたら、すべてを謝ろう。そうして、最初からやり直すのだ。
自分の愚かさを、詫びたかった。
一番欲していたのは誰でもない、リサ自身なのだと彼女に深く深く伝えたかった。
「リサ……」
自分は凍えようが、冷えきってしまおうが構わない。
リサが助かるのなら、それでいい。
ルドルフは天に懸命に祈りながら、リサをかき抱き続けた。
暖炉の火が、ぱちぱちと時折音をたてながら、ふたりの様子を見守り続けていた―――。
話は、二ヵ月ほどさかのぼる―――。
・―――×―――×―――・
ルドルフ・マトゥーシュは、西大陸の中東部に位置する国、スヴァトバルクの地方領主だった。身分こそ男爵でも、実情は貴族らしい生活とは程遠い一貧乏地方領主でしかない。
年齢は三十を超えてはいるが、独身だった。とはいえ、かつては妻と呼ぶ女性が存在した。
その女性の名は、リアラ。
隣接する同じ貧乏領主の一人娘であり、両親を亡くした彼女の所領の管理を任される名目で、政略的に結婚をした相手だった。
リアラは代々続いた自家の所領を奪われたと、幼馴染みだったがゆえの反動なのかルドルフを強く恨んで反発していたが、次第に頑なな反抗心も打ち解けて、数年後には仲睦まじい夫婦として皆から祝福されるようになった。
だが、幸福な時間は続かない。
リアラのお腹に子どもが宿ったと判明したのとほぼ同じ頃、彼女の身体に異変が見られたのだ。最初は胃の腑のあたりの違和感だった。違和感は次第に、手で押さえると感じられるしこりのようなものへと変わっていく。
子が大きくなるよりも速く、リアラの胃の腑のしこりは成長をし、一方で彼女の身体はげっそりと痩せ細った。
子どもの命を助けたい。
ただその一心でリアラは薬を飲むことを拒み、痩せてはならないと思い詰め、ひたすらにものを食べ続けた。吐いては食べ、食べては吐き。そのなにかに憑りつかれたような差し迫った形相は、周囲の者たちを慄然とさせた。
もうやめてくれと、ルドルフはリアラに懇願をした。
子どもは諦めよう。お前の命が大切なんだ、と。
だが、リアラはどうしてもルドルフの言葉を聞けなかった。この子をなにがなんでも守りたかった。産んであげたかった。お腹の子は、リアラのすべてだった。
彼女が頑迷に子を産むことに執着しようと―――なにもかもは虚しく崩れていく。
病気が判って、ひとつの季節が過ぎようとした頃。
彼女はがりがりに痩せ細ったまま、ルドルフに看取られ天に召されていった。お腹の子とともに。
独り取り残されたルドルフの悲しみは深く、何年も何年も暗い出口のない闇に囚われ続けた。
顔からは生気が抜け落ち、所領の管理も周囲の助けを借りてなんとか切り抜けているぎりぎりの状態となった。
このままでは領地経営どころではない、お館さまがだめになってしまう。
後添えが必要だ。
誰からともなく、そんな囁きが流れ出していた。
けれど―――、ルドルフは決して首を縦には振らなかった。
どれだけの年月が経とうとも、ルドルフにとってリアラの死は常に己とともにあるものだったし、彼自身、彼女の死を乗り越えようという意思を持たなかった。
ルドルフの魂はリアラの死とともに、彼女の墓の下に埋められてしまっている。
深く深く冷たい大地の下で、妻の亡骸とともに眠り続けているのだ。
そんな永遠の冬のような彼の日々に、あるとき、ひと筋の眩しい光が差し込んできた。
秋の日のことだった。
この日はリアラが命を落とした日にちと同じ日にち、また彼女の生まれた日でもあったため、ルドルフは彼女の故郷の森にある墓をひとり訪れていた。
さくさくと、赤や黄色く色付いた葉が大地を覆う。絨毯のような深いその落ち葉を踏みしめながら、ルドルフは静かに墓へと向かう。
「……」
彼はほぼ毎月、リアラが亡くなった日にちに彼女の墓を訪れるのだが、この日は、いつもと違う光景が飛び込んできた。
リアラの墓は、森の奥に建てられた四阿にある。この森は、リアラが幼少時よく訪れた森で、彼女が一番大好きな場所だった。
その、リアラの眠る四阿に、ひとが倒れていた。
墓石に右腕をかけた状態で、倒れ込んでいる。
真っ先に感じたのは、愛しい妻を冒瀆されたという憤りだった。
過去の幸福な光景に浸りながらの足取りは、すぐに怒りに任せた荒々しいものとなって、墓石へと向かう。
「なにをして―――」
言いかけて、ルドルフは言葉を失くした。
倒れているのは若い女性。俯きがちの額から、血が流れていた。
硬く閉じられた瞼に淡い唇。緩やかにうねる黒髪は、ひと筋だけが頬にかかり、あとは背中へと流れている。白い肌は、怪我のせいなのかもともとなのか。
「……」
どうしてだかルドルフ自身も判らない。
ただ、―――突如湧き起こった不可思議な気持ちの渦に巻き込まれ、戸惑った。
己の胸の内に起こった気持ちの疼きに、わけが判らず混乱してしまう。
「リィ……」
気付けば、そう呟いていた。
『リィ』とは、リアラの愛称だ。
目の前にある墓の下でリアラは眠っていると重々承知しているのに、なのに―――すぐそこで倒れている女性が、ルドルフにはリアラに見えてならなかった。
顔も髪の色も見た目は全然違うのに、リアラとしか思えなかった。
「どうしたんだ、……リィ」
手にしていた花束も落とし、震える声で女性に駆け寄るルドルフ。
「……ん」
軽く肩を揺らすと、小さな呻き声が漏れ出た。
生きている。
知らず、ほっと安堵の吐息がこぼれた。頬をなぞるようにおそるおそるそっと顔に手を這わすと、遠い昔に捨て去ったはずの甘い痛みが胸によみがえってきた。
駆られるように、彼女を抱き寄せ、胸に抱いた。
緩やかに伝わってくるぬくもりに、ああと吐息がこぼれた。吐息の意味など、判るはずもない。
ルドルフはそのままゆっくりと立ち上がると、持ってきた花もそのままに、踵を返したのだった。
リアラの墓から少し行ったところに、墓守も兼ねている樵の家がある。その家の戸を、ルドルフは叩いた。
「ルドルフさま……? その方は……?」
リアラの墓へと出掛けたルドルフが早く戻ってきたことに扉を開けた樵の妻―――カルロッテは小さく驚き、彼の抱える女性に息を呑んだ。
「墓の前に、倒れていた」
「あの、ええと、こちらに」
カルロッテは部屋をさっと見渡し、暖炉の前に敷布を敷いた。クッションを集めて即席の寝床をつくりあげる。
女性の額から血が流れているのを見て、そのまま足を止めることなく薬を取りに行く。夫が樵という職業柄、怪我の処置は慣れている。戻ってきたカルロッテに傷の手当てを頼み、ルドルフは目を閉じたままの女性をじっと見つめる。
額の傷は、思ったよりも浅かった。頭部ということで出血量が多かったのだろう。
「ルドルフさま。この方は……?」
なにも言わず手当をしてくれたカルロッテだったが、ルドルフの表情の険しさに尋ねずにはいられなかったようだ。険しいだけでなく、瞳の底には溢れんばかりの愛しさと悲しみが揺らいでいたせいもある。
「判らない。リィの墓で倒れていたとしか」
ルドルフがどれほどリアラを愛していたのか、カルロッテは知っている。だからこそ彼がリアラの墓を大切に思っているその心情も、理解していた。
愛する妻の墓で見ず知らずの女性が倒れていたなど、気分のいいものであるはずがない。
なのに、表情は厳しいものの憤ろしさが感じられないのが不思議だった。
「見かけたことのない方ですが……」
記憶力のいい夫ならば、森の向こうの村の住人かどうか判るかもしれないが。
「わたしも、見覚えがない。―――だが、……リィなんじゃないか、と」
「え……?」
怪訝な顔が返ってきた。リアラと彼女は似ても似つかないから、当然の反応だ。リアラが亡くなった年齢くらいには見えるが、どう見ても別人だった。おかしなことを口にしたと、ルドルフ自身判っている。
「おかしいよな。でも、リィが帰ってきたって、思えて」
ルドルフは長椅子に腰掛けたまま、じっと彼女を見つめ続けていた。彼女を運び入れたときは愛しげに髪や頬に触れていたのに、いまは近付くことを怖れているのか距離を取っている。素性を知りたい気持ちと知りたくない気持ちが激しく葛藤をし、彼の眼差しには苦しみが浮かんでいる。そのことに、カルロッテはいまさらになって気付く。
ひとが誰かに惹かれるという心の動き。それは、誰にも説明がつかないものだ。自分の息子ほどの年齢の領主さまは、己の理不尽な気持ちの揺らぎに戸惑っているのだろう。
「ルドルフさまがそうお感じになられるのなら、奥方さまと縁のある方なのかもしれません」
カルロッテの慈愛に満ちた言葉に、ルドルフはようやく彼女に視線を遣った。穏やかな眼差しが、ルドルフを見つめていた。
「今日は、奥方さまがお生まれになった日でもあります。主が、慈しみを授けてくださったのかもしれません」
「―――。ああ。そうだな……」
非現実的な発言を戒めるでもなく受け入れてくれたカルロッテに、ルドルフの胸は不覚にも震える。
主は、自分を見限ってはいなかった、と。
ルドルフは、眠り続ける女性に再び目を遣った。
リアラが生きているときはもちろん、彼女が天に召されたあとも、他の女性に心動かされたことなどなかった。
なのに、素性もなにも判らないこの女性は自分の魂を鷲摑んで、奪い取るかのように苦しめてくる。
そうだ。
これは、この胸に感じる痛みは、苦しさだ。
もぎ取られた魂がいまだ己の内に残っていたことに対する罪悪と、残っていたその魂が、彼女の存在に、時の流れを思い出し息づき始めたという事実への戸惑い。その息遣いを受け入れていいのかという言葉にならない不安な気持ちを、このカルロッテは『慈しみ』という言葉ですんなりと解きほぐしてくれた。
目の前にいる眠り姫は、主が、自分に授けてくれた慈しみなのかもしれない。
前に進みたいという積極的な感情はなかったが、このままではいけないという自覚はあった。
そのきっかけに、彼女はなってくれるのだろうか。
リィ。
(お前、なのか? そう、思ってもいいのか?)
リアラが、独りきりで佇むルドルフの存在を主に伝えたのだろうか。
倒れている女を拾っただけだ。素性がどうかなど、まったく判らない。結婚しているかもしれない。子どももいるかもしれない。着用していた衣服は特別いいものではないけれど、質感から、このあたりの人々が着るものとも言い難い。
もしかすると、ルドルフとはこの出会いだけで終わってしまう人間なのかもしれない。
だが。
そうではないと、信じたかった。愛とか恋とか、そんな単語ではなかった。
彼女はリィであり、リィは彼女なのだ。
ただの出会いで終わらせてはならない。
そう、ルドルフは感じたのだった。