第二十話 トウエンリッダ
頬に当たる風に目を覚ます。塩の匂いがした。風の来る方向を見ると、開かれた窓の傍にエリナが立っていた。
「エリナ? ここは?」
頭が痛い。これは寝過ぎだな。よく寝た。少し体が重い気はするが。
「起こしてしまいましたか」
エリナがゆっくりと近づいて来る。身を起こそうとして、体が思う様に動かない事に気がついた。ロギさんとの手合せで無理をし過ぎたか? このまま一生動けないって事はない……だろうが……。体を見下ろして気がついた。そりゃ動けないわけだ。重さの原因はシビルだった。シビルが俺に抱き着いて眠っていたのだ。
「シビルも疲れていたのでしょう。レックスが眠っている間付きっきりでしたから」
そうか。無理に体を起こすのをやめ、そのままベッドに横たわったままの状態を保つ。シビルを起こしてしまっては申し訳ない。俺の身を包むのは柔らかなベッド。周囲を見渡すと、ビュラン王国とは明らかに文化の違う調度品が目に入る。部屋の隅に置かれた椅子に目を閉じアストリッドが腰かけていた。どうやらアストリッドは座ったまま寝ているようだった。
「ようこそ。トウエンリッダへ」
エリナは茶目っ気のある笑顔を見せる。この時のエリナはエレナさんに本当にそっくりだった。それはエレナさんのよく見せる表情だったからだ。こういう所はやはり双子か。それにしても……、いつの間にかトウエンリッダに到着していたらしい。眠りこけている間に。
「どれくらい寝てた?」
「四日ほどですね。トウエンリッダには昨日着きました」
四日……。それは随分と寝過ごしてしまったものだな。
「んん……」
俺の胸元から声が聞こえた。目を向けると、寝ぼけまなこのシビルと目が合った。
「レックス? ……おはよう」
「ああ。おはよう」
「え? レックス?」
シビルは飛び跳ねるように起き上がると、目を見開きぐっと俺に顔を近付けた。
「もう起きないかと思ったんだよ」
シビルの目には涙が浮かんでいる。ん? デジャヴュ? つい最近も最近。同じような状況が……。
「ごめんね」
シビルに抱きしめられる。その背に柔らかく腕を回す。俺の腕はそれだけで、痛みを発した。
「ありがとう」
しばらくそうしていた。
「レックス。お腹すいたでしょう。シビルもそれくらいにして。何か持ってきます」
エリナの言葉にシビルが体を離した。その顔は真赤だった。そういえばエリナがいたんだった……。恥ずかしい……。
「じゃ、じゃあ何か持ってくるね!」
シビルはそう言って足をもつれさせながら慌てて部屋を出て行く。それほど恥ずかしかったのだろう。それに続きエリナも部屋を出……ようとして、俺の横たわるベッドへと戻ってきた。そして、ゆっくりと優しく俺を抱きしめた。シビルのときと同じように、その背に手を回す。
「ありがとう」
シビルのように長い時間ではなかった。エリナはぎゅっと少し強く抱きしめると、すぐに身を離した。そして何も言わず部屋を出て行く。エリナもまた恥ずかしかったのかもしれない。
ん?
なにやら視線を感じる。首だけ起こし視線の元を探す。いつの間に起きたのかアストリッドが、こちらを見ていた。目と目が合う。じっとこちらを見ていたかと思うと、おもむろに椅子から立ち上がり近づいて来る。
「アストリッドにも心配かけたね。ごめん」
アストリッドは小さく首肯すると、シビル、エリナと同じように俺を抱きしめる。
「……扱いは平等」
「はい……」
それだけ言うとアストリッドはすぐに部屋を出て行った。急に一人になりする事が思いつかなかった。そういえば、トウエンリッダとはどんなところだろうか? ベッドから出ようとして全身の痛みに襲われた。ふっ、と一つ息を吐き出す。なんとかベッドからはい出ると窓へと向かう。全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げ、俺に動くなと忠告してくる。動けないほどでもない。こんな痛みの中であろうと剣を持てといわれたら剣を持つだろう。さすがにロギさんもそこまで鬼ではないか。亀の歩みのような遅さでようやっと窓へとたどり着く。窓枠に手をかけ、身を持ち上げた。
眼前に広がるのは、石造りの街並みだった。それは確かに別の国に来たんだなと俺に実感させるものだった。建物の形も違うが、最も大きな違いはその色だろう。石造りなのはビュランも変わらないが、王都もガザリムも建物は白に近い灰色の石材で造られていた。だが、このトウエンリッダはどの建物も茶褐色の石材によって造られているのだ。
その茶色い街の向こう側には水平線が広がっている。そういえば、この世界に来てから初めて見る海か。茶色の街と真青な海。そのコントラストは美しかった。その眺めを堪能する。
戻ってこないな。この景色は飽きないが、さすがに遅すぎる。三人は部屋を出たきりまだ戻っていなかった。準備に時間がかかっているのだろうか? とりあえずベッドへ戻るか。四つん這いになってベッドへと戻る。情けない恰好だ。こんな間抜けな格好は、人に見せられないな……。と、そこで、こちらへと近づいて来る一つの気配に気付いた。エリナ達三人とは違う気配。エリナ達ならば最悪見られてもまだ……。だが、この気配は……。
まずい! 早く戻らないと……。気は早るが、それに反して体の動きは鈍い。急げ……。気配はすぐそこまで迫っている。扉の方を見れば扉は開け放たれていた。アストリッド……。せめて締めて行ってくれていれば……。
入口からロギさんが顔を出す。ま、間に合わなかった……。
「何をしている?」
ロギさんは俺を不思議そうに眺めた。
「いや、ちょっと……」
ロギさんは何かに気付いたようで俺へと近づいて来る。と、俺を抱きかかえベッドへと運んでくれた。
「ありがとうございます……」
「目を覚ましたと聞いてな。……儂のせいでもある。少し無理をさせすぎた」
「いえ……」
ロギさんは、部屋の隅にあるアストリッドが座っていた椅子をベッド脇に運び、それに腰かけた。ロギさんを目にすると、あの戦闘が思い出される。あれはなんだったのかと。ロギさんならばわかるのだろうか?
「あれはなんだったのでしょうか? あの時、突然、世界が白くなって……」
ロギさんは俺の自分でもよくわからない説明を、頷きながら聞いてた。
「体が自分の意志とは離れ勝手に動くような――動かされていると言ってもいい。そのような状態ではなかったか? あるべきであろう場所に剣を置く。誰かに『ここが正解だ』と誘われているような。……それをこちらの世界では『神降』と言うそうだ。まさに剣の神が自身の体に降りてきて戦っているような状態だな。剣の。いや、剣に限らず全ての物事における極意と言っていいものだ」
ふむ。神が降りてきたか。確かにそう言われればそのような感じもするが……。
「それでは納得できぬか?」
素直に頷く。どこか何か具体的にはいえないが、違う気がした。
「神が実際に降りてくるなどと、そんなもんは俺も信じてはいない。信じてもいないような物で他人を納得させられるはずもないか。……だが、そうだな。あれは、どう説明したものか」
ロギさんはしばし考え込んだ。
「全ては関わりを持っているという事だ。あの直前、世界が見えたはずだ」
世界? 真白になる前に確かに視野は広がった感じだった気がするが……。
「例えば、儂とおぬしが戦っているとする。そして儂とおぬしの間に大きな石が落ちているとしよう。踏み込む際に、その石を避けるように足を運ぶだろう? もしくはそれに足をかけ勢いをつけ飛び出すか?」
頷く。
「わかりやすい例を挙げたが、自らの意志で行動が決定されているわけではないということだ。光、音、温度、湿度。世界に存在する全ての外的要因を伴って行動というのは選択される。させられると言ってもいい」
なるほど。確かに、迷宮の中でも通路と小部屋では戦い方は違うか。隣にエリナがいるかどうかでも、戦い方は変わる。……温度や湿度まで考えた事はないが。
「つまり、それらすべてを加味すれば相手がどう動くかは自ずとわかるというわけだ。もちろん、そんな全ての要因を頭で考え計算する事などできはしない。だから儂は考えるなと言ったのだ。そのような戦い方をする相手に対する戦闘方法もあるが……それはまだ早いな。ごく普通にあの感覚にもっていけるようになってからだ」
なんとなくロギさんが言っている事はわかるような気もする。先程の「神降」などよりは納得がいく
が……。
「言っている事はわかりますが、なぜ急に出来たのか……」
「満足に動かぬ体と、回らぬ頭。極限状態に陥って初めて出来る事がある。……らしい」
なるほど。だから俺をあんなに毎日追いつめたのか……。自らを苛め抜き、追い込み続けた先にこそ真理はあるということか……。ん? らしい……? 首を傾げる。
「多くの者が極限状態で『神降』を初めて体験すると聞いた事があってな。それに、先程の説明も皆、儂の後付けだ。こういう事ではないだろうかというな。儂は初めて剣を握った時から出来ておったのでな。よくわからん」
すまんな。とロギさんは笑う。ああ、この人は……。ときどきこういう人間を見かけるな。よくわからないが、感覚だけでなんとなく出来てしまう人間。ある程度までは器用で済ませられるのだろうが、ここまで来るとあれだ。天才ってやつだ。
「それで……」
ロギさんはすぐに笑いを引込めた。
「儂が何故騎士などという物になったかだが……。もったいぶったわけではないのだがな」
そういえばそんな話もあったな。そもそもそれが、始まりだったか。
「それには儂のギフトスキルが深く関係しているのでな」
それなら話しにくいのも納得がいく。ロギさんは言葉を続けようとはしなかった。まだ話すべきか悩んでいるのだろうか? 表情からは何も読み取る事はできない。
沈黙の中、軽いノックの音が聞こえた。どうやら頭も本調子とはいかないようだ。先程も随分と近くになるまでロギさんの気配に気がつけなかった。体調に左右され過ぎるな。気をつけよう。
「どうぞ」
扉が開かれ入ってきたのはエリナ達だ。手に持つトレイの上には水差しとグラス。そして香ばしい香りを放つホットサンドが乗せられている。
「四日も食べていないので、まずは軽い物がいいだろうと……」
ベッドサイドテーブルの上にトレイを乗せると、エリナ達はすぐに部屋を出て行く。部屋の空気を察してくれたようだ。扉が閉められるのを確認しロギさんは再び口を開いた。
「……ああ。熱いうちに食べてくれ」
「すいません。それではお言葉に甘えて……」
四日間飲まず食わずだったのだ。正直言ってこのホットサンドの放つ匂いの誘惑に耐える事は難しかった。有難い。




