第1話 お利口さんな子供の頃
「奈々ちゃんはおとなしいのねぇ」
「この子は鉛筆と帳面さえ預けておけばお利口さんにやってるんですよ」
来客が来ると必ずこういうやりとりが聞かれた。私は3歳くらいだった。‥まだはっきり意味は分かってないものの、祖母の
「お利口さん」
と言った時のクシャリと変わる笑顔と、声が高鳴るのが心地よいというか幼いながらに、
「イイコトナンダ」と理解したので、私はなるだけノートに鉛筆で桃やら人やら書いておとなしくお利口さんに過ごしていた。
私には両親が揃っていた。父はとても優しい人だ。幼い頃の記憶は忘れてしまう人が多いようだが、私ははっきり覚えている。2歳頃に、父は私を膝にのせ微笑んで抱き締めてくれている… 今でも思い出すと胸が熱くなる。
母はさっぱりした人だか甘えさせてくれる人だ。ときどき夜中に幼い私を置いてどこかに出掛けていた。私は真っ暗い中テレビのニュース画面にむかって大声で泣いていた。…これも覚えていたようだ。 対照的な2人だが、血のつながった両親は大好きだ。
「奈々」
と言う名前も二人がつけてくれた。柔らかい包むような声で
「なな…」
と呼ばれていた。
……………………………
「%$#&%!!」
「…‥」
「奈々!起きろ!…何度言ったら分かるんだ!」
「‥ハイ」
布団を剥がされ、寒い雪下ろしの風にさらされる。冬だというのに窓は全開。しかし逆らうことはできず、黙って起きる奈々。
「起きて顔洗って、それから玄関前を掃いてこい」
…これが5歳児に言う言葉なんだろうか。他の5歳児は知らないがきっと私だけこんな目にあっているんだろう、そう思っていた。
義父は厳しい人だ。日曜日ですらこんな風に早起きを無理矢理強いられ、しかもほうきなんて小さな両手でうまく持てないにも関わらず、綺麗に清掃することを求める。そればかりではない。家には長い木目調の美しいテーブルがある。なにげなしに眺めていると、
「ほら、ぼけっとみてるもんじゃない。ほこりがあるだろう。布巾絞ってきてふけ」
私は、この家にお手伝いとして住んでいるのか。こんなことを言うのは
「血ガツナガッテイナイ」
からなのか? この家に来たのは3歳頃だ。ここの祖母が私をたいそう歓迎し可愛がってくれた。母に似ていないからだ。母にはどこかよそよそしい優しさで接していた。 来る日も来る日も帳面に綺麗な絵を描いて過ごしていた。 お菓子はもともと好きじゃないようで食べずに、
「ドウゾタベテクダサイ」
とお客さまに渡し、ジュースはこぼさずきちきち飲む。お絵描きで出た消しかすは小さくまとめてティッシュのうえに置いておく。
「なんてお利口さんなんだろう」
自分にそう言い聞かせ自分を励ましていた。 奈々は小学生になった。前から二番目だった低い身長は4年生になると後ろから2番目くらいに成長していた。
「ただ今帰りました…」
語尾下がりのやる気ない声で帰ると、祖母が
「おかえり」
と笑顔で迎え、ごった煮のおかずを出す。よそっているうち、義父と母が帰ってきた。母は義父の大工の仕事を手伝っていた。
「奈々帰ってたの。疲れたわぁ」
玄関から一段上がった所にふにゃりと座り込んだ。漂うおがくずの匂いとぼさぼさの母の髪を見て、おもわずため息をつく。
「なんで血の繋がった父さんと別れちゃったの」
…言えずただ見つめるしかない。
「なぁに、そんな悲しい顔して。ほらほらゴハンの支度しよっか」
母は美人だ。お世辞ではなく。では奈々はというと…まぁ、そこそこ普通。
…きれいな母のやる仕事じゃない。なんであんな人と結婚してしまったんだろう。
支度が整った。しばらくするとザクザクと歩いてくる嫌な雰囲気。義父が歩いてくると見えなくても分かる。今までの穏やかな気持ちが緊張へと変わっていく。