離婚届に印鑑を捺したら和寿が泣いた
佐々木印刷株式会社の営業フロアは今日も忙しない。コピー機が次々と資料を吐き出し、熱を持った排気音を立てている。パソコンのキーボードから乾いたタッチ音が絶え間なく響き渡り、フロア全体を緊張感で満たしていた。
ひっきりなしに電話が鳴り響く中、誰かの声が飛ぶ。「おい!飯田!6番に外線!」鋭い呼びかけに、俺は即座に反応した。「了解!」素早い動きで受話器を手に取り、ボタンを押し込む。耳に当てる瞬間、忙しない一日がまた一つ深まっていくのを感じた。
営業マンである俺の日常業務は、朝から晩まで慌ただしく回っている。営業フロアに着くなりコピー機で提案資料を大量に印刷し、昨日の見積もりをパソコンで修正する。電話が鳴り響く中、外線対応や上司への報告をこなしながら、カバンにサンプルと名刺を詰め込む。
ホワイトボードの赤いマグネットを「営業中」にずらし、後輩の有松から「今日は忘れなかったっすね」とニヤニヤされる。「うるせえ」と返し、鏡で髪を整えネクタイを締め直す。そこから外回りが本番だ。
得意先を何件も回り、印刷物の仕様をヒアリングし、新規開拓では飛び込みでアポイントを取り、値引き交渉や納期調整に頭を悩ませる。夕方戻れば見積書作成と翌日の準備。残業でデータをまとめ、ようやく帰宅する頃にはクタクタだ。それでも明日も同じループが待っている。
そんな俺の癒しは、妻・奈美の存在だ。彼女とはこの佐々木印刷の営業フロアで出会い、遅くまで続く残業を何度も重ねるうちに、自然と親しい仲になっていった。あの頃は資料を並べての打ち合わせが、いつしか二人だけの時間になっていた。
疲れ果ててマンションに帰ると、廊下に ふんわりとカレーの香りが漂ってくる。ひと足先に帰宅した奈美が作ってくれた手作りカレーは、ルーから具材まで丁寧に煮込まれていて絶品だ。一口食べれば、今日の忙しない営業フロアの喧騒が、まるで遠い出来事のように溶けていく。彼女の笑顔と温かい味が、俺の毎日の支えになっている。
「ただいま」
「お帰りなさい!和寿さん!」
奈美は新婚の頃と少しも変わらず、明るく愛らしい笑顔で俺を迎えてくれる。俺は玄関でカバンを放り出すと、そのまま彼女の細い腰を引き寄せた。柔らかな体温が伝わってくる。疲れなど一瞬で吹き飛ぶように、熱い口付けをその柔らかい唇に落とす。奈美は少し照れながらも、俺の背中にそっと手を回して応えてくれた。
今日の営業フロアの喧騒、電話の音、資料の山が、すべて遠のいていく。彼女の甘い香りと温もりが、俺の心を優しく包み込む。この瞬間だけは、忙しない毎日のすべてを忘れられる、かけがえのない癒しの時間だった。
ただ、俺たちの間にはどうしても埋められない溝があった。不妊で、子供ができないのだ。
結婚当初は「そのうち自然に授かるだろう」と軽く考えていたが、月日が経つにつれその気配は一向にない。
まず奈美がマタニティクリニックで検査を受けた。毎月の排卵も順調で、ホルモン値も問題なく、子宮や卵巣も正常だった。すべてが整っているはずなのに、妊娠の兆候は訪れない。
結局、問題は俺の方にあった。精液検査の結果、運動率が極端に低く、数が少ないと医師に告げられた。あの冷たい診察室で聞いた言葉は、今も胸に重くのしかかっている。
奈美は優しく「二人で頑張ろう」と笑ってくれたが、俺は自分の無力さを痛いほど感じずにはいられなかった。それでも毎晩、彼女の温もりにすがるように抱きしめながら、静かに希望を繋いでいる。
佐々木印刷株式会社の営業フロアで、奈美と出会ったのは三年前の秋だった。
新入社員として配属された彼女は、総務部から営業サポートに回され、毎日資料のコピーや見積書の入力に追われていた。俺は当時すでに中堅で、外回りから戻るたびデスクに山積みの書類を押しつけ、「これ、今日中に頼む」とぶっきらぼうに言っていた。奈美は小さく「はい」と答えながらも、決して手を抜かず、夜遅くまで残って仕上げてくれた。
ある残業の夜、フロアに残っていたのは俺と彼女だけになった。コピー機のモーター音だけが響く中、俺がため息をつくと、奈美がそっと温かいコーヒーを差し出してきた。
「係長、いつもお疲れ様です」
その一言と、疲れた顔で微笑む彼女の瞳が、妙に胸に刺さった。それから少しずつ会話が増え、仕事の愚痴をこぼし合ううちに、互いの距離が縮まっていった。
納期に追われる深夜、二人でコンビニ弁当を分け合いながら笑った夜もあった。あの頃の彼女はまだ二十代前半で、栗色の髪を肩に流し、営業フロアの蛍光灯の下でも清潔感のある笑顔を絶やさなかった。
やがて残業後の帰り道を一緒に歩くようになり、駅前の居酒屋で軽く飲む関係になった。仕事の話からプライベートの話へ。彼女の優しさと、俺の不器用さを埋めてくれるような穏やかさに惹かれ、気づけば本気で想うようになっていた。
プロポーズしたのは、初めて二人で旅行した温泉旅館の部屋で。奈美は涙を浮かべて「はい」と答えてくれた。あの瞬間、この忙しない営業フロアが、俺たちを結びつけた運命の場所になったのだ。
奈美は、穏やかで優しい性格の持ち主だ。営業フロアで出会った頃から、どんなに忙しい時でも決して声を荒げず、誰に対しても丁寧で思いやりのある対応をしていた。俺が苛立って資料を乱暴に置くと、静かに拾い上げて「大丈夫ですよ、係長」と微笑みながらフォローしてくれる。そんな彼女の柔らかい気遣いが、荒々しい営業の空気を和らげてくれていた。
家ではさらにその性格が際立つ。手作りカレーを煮込みながら「今日はどんな一日だった?」と自然に聞いてくれ、俺の愚痴を最後までじっくり聞いてくれる。決して自分の不満を先に口にせず、俺の疲れを優先してマッサージをしてくれたり、肩を揉んでくれたりする。
子供ができないことが分かってからも、決して俺を責めたり悲観的な顔を見せたりせず、「二人でいるだけで十分幸せだよ」と明るく言ってくれる。その強さと優しさが、俺の心の支えになっている。
ただ、芯はしっかりしていて、仕事の面では意外と几帳面で責任感が強い。総務から営業サポートに回された時も、ミスを恐れて何度も確認を繰り返していた姿を覚えている。表向きは柔らかく見えても、内面には静かな強さを持った女性だ。
不妊治療の過程は、俺たちの心に深い影を落としている。毎月のタイミング法では、排卵日が近づくたびに「今度こそ」という淡い期待と、結果が出なかった時の静かな落胆が繰り返された。
奈美は表面上いつも優しく笑っているが、基礎体温表を眺める横顔が少しずつ疲れを帯びていくのが分かった。
人工授精に進んだ頃からは、クリニックの待合室で他の夫婦や妊婦さんを見かけるたび、胸が締め付けられるような嫉妬と無力感に襲われるようになった。
俺自身は精液検査の結果を知った日から、自分を責める気持ちが強くなった。奈美に申し訳ないという思いが、毎晩彼女を抱きしめるときに込み上げてくる。
治療費がかさむことへの罪悪感、仕事の忙しさで通院に付き添えない日への苛立ち、そして「男として機能していない」という自己否定が、心の底に澱のように溜まっていく。
それでも奈美は決して俺を責めず、「一緒にいるだけでいいよ」と言う。その言葉が優しければ優しいほど、俺の胸は痛む。治療を続けるほどに、二人の間に見えない溝が少しずつ深まっている気がしてならない。
夜、暗い部屋で天井を見つめながら、子供のいない未来を想像しては、静かに息を詰める日々が続いている。
奈美の感情的苦痛は、表向きの優しさの奥に静かに、しかし深く根を張っていた。毎月、基礎体温表を付けながら「今日は排卵日」と微笑む彼女の声には、すでに小さな震えが混じっていた。
人工授精の日、クリニックのベッドで脚を開き、冷たい器具を入れられるたび、彼女は唇を噛んで耐えていた。帰宅後のシャワーで、俺に気づかれないよう一人で泣いているのを、何度か聞いた。治療を重ねるごとに、彼女の笑顔は少しずつ薄れ、夜中にトイレに立つふりをして、洗面所で肩を震わせている姿を目撃したこともある。
「ごめんね、私の体が…」
自分を責める言葉を、俺に聞かせまいと必死で飲み込んでいるのが分かった。
周囲の友人や同僚が次々と妊娠・出産の報告をするたび、奈美は「おめでとう」と明るく返しながら、家に帰るとソファにうずくまって膝を抱え、声を殺して泣いていた。
赤ちゃんの服やベビー用品の広告を見るだけで、胸が張り裂けそうになるらしい。それでも彼女は俺の前では決して弱音を吐かない。
「二人でいるだけで幸せだよ」
その言葉の裏で、毎晩布団の中で静かに涙を流している。子供を授かれない自分が「女として不完全」だと感じ、俺に申し訳ないという罪悪感と、将来への深い不安が、彼女の心をじわじわと蝕んでいるのだった。
俺は不妊治療を少しでも前進させようと、できる限りのことを始めた。
有酸素運動が精子に良いと聞けば、マンションのエレベーターは使わず、毎日何階分もの階段を上り下りした。息が上がるたび「これで少しでも良くなるなら」と自分を奮い立たせた。サプリメントを欠かさず飲み、漢方薬も続け、煙草はきっぱり禁煙し、酒は嗜む程度に抑えた。仕事のストレスでつい飲み過ぎそうになる夜も、奈美の顔を思い浮かべてグラスを置いた。
奈美も自分のできることを精一杯やっていた。
精力がつくと言われる牡蠣やニラ、アボカドを積極的に食卓に並べ、毎食のようにそれらを祈るような気持ちで口にした。料理をしながら「今日も頑張ろうね」と小さく呟く彼女の横顔は、優しいのにどこか切なかった。二人で食卓を囲む時間は、治療の重圧の中で唯一、ほのかに温かい瞬間だった。
それでも結果が出ない日々が続くたび、互いの努力が空回りしているような虚しさだけが、静かに胸の奥に積もっていった。
治療努力の心理的負担は、想像以上に重く、毎日の生活に染みついていた。
俺は階段を上るたび、息が切れるほどに自分を追い込みながら「これで少しでも精子が良くなるはずだ」と言い聞かせていたが、同時に「もしこれでもダメだったら」という不安が常に付きまとった。
サプリメントを飲む手も、漢方薬を煎じる湯気を見つめる目も、ただのルーティンではなく「これが最後の希望かもしれない」という切迫感に支配されていた。禁煙や飲酒を控える夜、仕事のストレスでどうしても欲しくなる酒を我慢するたび、自己嫌悪と苛立ちが募った。努力しているはずなのに結果が出ない現実が、俺の男としての価値を少しずつ削り取っていくようだった。
奈美も同じだった。牡蠣やニラ、アボカドを並べる食卓は、明るく見せようとする努力そのものだったが、彼女の心の中では「私がもっと頑張らなければ」という罪悪感と「これを食べてもまたダメだったら」という諦めが交錯していた。
祈るような気持ちで一口ずつ口にする姿は、愛情ではなく義務感に変わりつつある自分への失望を隠していた。
二人で努力を共有しているはずなのに、互いの負担を気遣うあまり、本音をぶつけ合えなくなっていた。治療を続けていくほど、希望は薄れ、ただ「頑張っている」という事実だけが、俺たちを疲弊させ続けていた。
「次は大丈夫よ」
「また、頑張ろうね」
「元気出して」
その繰り返し。奈美の半ば諦めたような笑顔に、慰めの言葉に押しつぶされそうになっていたその時、中途採用で一人の女性が営業部に配属されてきた。
名前は成田莉子。新入社員とはいえ、彼女は二十五歳という落ち着いた大人の女性という印象だった。声のトーンは低めで、ゆったりとしていて、営業フロアの喧騒の中でも耳に心地よく響いた。
目が特に印象的で、吸い込まれそうな深い黒い瞳をしていた。まっすぐこちらを見つめられると、思わず言葉を詰まらせてしまうほどだった。
奈美とは正反対の、静かで少しミステリアスな雰囲気。初めて挨拶を交わした瞬間、正直、俺はドキッとした。胸の奥がざわつくような感覚が一瞬走り、すぐに自分を叱りつけた。妻がいるのに、何を考えているんだと。
それ以来、莉子は営業サポートとして資料作成や顧客リストの整理を担当し、俺のデスク近くに座るようになった。仕事の指示を出すたび、彼女の黒い瞳が静かに俺を捉える。奈美の柔らかい笑顔とは違う、どこか引きつけるような視線に、俺は無意識に目を逸らしてしまうことが増えていた。忙しない営業フロアの中で、莉子の存在は、予想外の波紋を静かに広げ始めていた。
「営業の飯田奈美さんって、係長の奥様なんですか?」
成田莉子の黒い瞳が、食い入るように俺を見つめてきた。静かな声の中に、探るような響きがあった。思わず目を逸らしながら、俺は小さく頷いた。
「……ああ、そうなんだ」
そう答えると、莉子は柔らかく微笑みながら「社内恋愛なんですね、羨ましい」と言い、デスクに置いた俺の小指に、そっと自分の指を重ねてきた。
その瞬間、冷たい指先から電流のような感覚が走り、背筋がぞくりと震えた。慌てて手を引こうとしたが、彼女の黒い瞳がまだ俺を捉えたまま離れない。心臓の音が急に大きくなり、営業フロアの喧騒が一瞬遠のいた気がした。
莉子はすぐに指を離し、何事もなかったように資料をまとめ始めたが、俺の胸の中には、言いようのないざわめきが残っていた。奈美の優しい笑顔が脳裏に浮かぶのに、さっきの感触が妙に生々しく蘇ってくる。
俺は動揺を悟られないよう、慌てて話題を変えるように彼女から漂う甘い香りに言及した。
「成田さん、いい匂いだね」
すると莉子はフッと口の端だけで微笑み、黒い瞳を細めながらゆっくりと答えた。
「……薔薇なんです」
赤い唇がわずかに開き、彼女は小さく舌なめずりをした。その湿った仕草に、俺の視線が一瞬釘付けになる。喉が乾き、声が上ずった。
「そ、そうか……薔薇、いい匂いだね」
「ありがとうございます」
莉子は穏やかに礼を言いながらも、視線を外さず、俺の顔をじっと見つめていた。デスクの上の空気が急に重くなり、営業フロアの喧騒が遠く感じられた。
さっき触れた小指の感触と、甘い薔薇の香りが混じり合い、胸の奥で不穏なざわめきが広がっていく。奈美の優しい顔が頭に浮かぶのに、なぜか体が熱を帯びて離れられなかった。この予期せぬ緊張感が、俺の日常に静かに亀裂を入れ始めていた。
昼休憩になり、俺はデスクに弁当箱を広げた。不妊治療を考慮した奈美の愛妻弁当は、緑黄色野菜の煮物と五穀米が中心で、彩りは地味で質素だった。毎日これを食べていると、味気なさを感じてしまう。
そこへ成田莉子が小さな弁当箱を手に、柔らかく微笑みながら近づいてきた。
「係長、作りすぎちゃったので、食べて下さい」
中身を見た瞬間、俺は唾を飲み込んだ。赤いウィンナー、香ばしい鶏の唐揚げ、コロッケまで入っている。治療のために長らく控えていた揚げ物ばかりだった。甘い匂いが鼻をくすぐり、理性が揺らぐ。
「じゃあ、遠慮なく頂こうかな」
俺はチラリと奈美のデスクを見て、彼女がまだ戻っていないことを素早く確認した。
莉子の弁当を一口食べた瞬間、久しぶりの唐揚げのジューシーさとサクサクした衣の食感が口いっぱいに広がった。禁断の味が体に染み渡り、箸が止まらなくなった。罪悪感が胸をよぎるのに、箸は勝手に動き、気づけば半分以上を平らげていた。
莉子は黒い瞳で静かに俺を見つめ、満足げに微笑んでいた。その視線と甘い薔薇の香りが、昼休憩のデスクに微かな緊張を漂わせる。
それから度々、成田莉子は手作り弁当を持参するようになった。赤いウィンナー、鶏の唐揚げ、コロッケにエビフライまで、色鮮やかな禁断の味が弁当箱いっぱいに詰まっていた。一口食べると、油の旨味と香ばしさが五臓六腿に染み渡り、治療のために我慢していた欲求が一気に解き放たれるようだった。
奈美の愛妻弁当は相変わらず地味で質素な五穀米と野菜中心のものだったが、莉子の弁当を食べた後ではどうしても味気なく感じてしまう。
食べきれなかった奈美の弁当を、誰も見ていない隙にゴミ箱に押し込みながら、内心で「すまん……」と何度も謝ったこともあった。
罪悪感が胸を刺すのに、莉子の弁当の誘惑には抗えなかった。莉子は毎回黒い瞳で静かに俺を見つめ、「お口に合いましたか?」と低く甘い声で尋ねてくる。その視線と甘い薔薇の香りが、昼休憩のデスクに微かな背徳感を漂わせ、俺の心を少しずつ乱し始めていた。
奈美への申し訳なさが募る一方で、莉子の存在が営業フロアの日常に、危険な甘さを加えていくのを感じていた。
莉子はいつも穏やかな笑みを浮かべながら、黒い瞳で俺の反応を静かに観察していた。彼女の過去を少しずつ探るうちに、意外な事実が浮かび上がってきた。
莉子は前職で大手広告代理店に勤めていたが、上司とのトラブルで心を病み、半年で退社したという噂があった。入社面接では「新しい環境で落ち着いて働きたい」とだけ答え、詳細は一切語らない。
独身で、プライベートを一切明かさない彼女の背景には、どこか影のようなものが感じられた。営業フロアでは常に落ち着いた大人の女性として振る舞っているが、その黒い瞳の奥には、過去の傷を隠したような冷たい光が時折よぎる気がした。
そんな莉子の謎めいた過去を知るにつれ、俺は彼女に引き寄せられる自分を抑えきれなくなっていた。弁当を渡す指先が、時折俺の手に触れる感触が、甘い薔薇の香りとともに心を乱していく。
いつもご馳走になっている礼にと、俺は成田莉子をお茶に誘った。大学生でもあるまいし、喫茶店というのも間抜けな話だが、いきなり部下とアルコールというのも気まずいだろうと思ったからだ。莉子は黒い瞳を少し細めて微笑み、「嬉しいです。ぜひ」と低く柔らかい声で答えた。
仕事が終わった後、会社近くの静かな喫茶店に入ると、彼女は薔薇の香りをまとったまま向かいの席に腰を下ろした。コーヒーカップを手に、穏やかな視線を俺に向けてくる。奈美には「営業先で急な接待があって少し遅れる」と、短いメッセージを入れた。
送信ボタンを押した瞬間、胸に小さな罪悪感がよぎったが、莉子の落ち着いた笑顔を見ていると、その感覚はすぐに薄れていった。
会話は仕事の話から自然にプライベートへ移り、彼女の低く甘い声が耳に心地よく響く。喫茶店の柔らかな照明の下で、莉子の黒い瞳が俺をじっと捉え、時間がゆっくりと流れていくのを感じていた。
この誘いは、ただの礼のつもりだったはずなのに、心のどこかで期待のようなものが芽生え始めていた。
莉子はコーヒーカップを両手で包むように持ち、黒い瞳を少し伏せた。喫茶店の柔らかな照明が彼女の横顔を優しく照らしている。
「実は……前職は大手広告代理店にいました。毎日終電近くまで働いて、休みもほとんどなくて。ある日、上司に『お前は女のくせに甘い』って大声で怒鳴られて、会議室で泣き崩れたんです。あの瞬間、自分がどれだけ壊れやすい人間か思い知りました」
彼女の声は低く静かだったが、指先がカップの縁をなぞる動きがわずかに震えていた。
「それで半年で辞めて、半年ほど心療内科に通いました。薬を飲みながら、ただ部屋でぼんやり過ごす日々が続いて……。佐々木印刷に入ったのは、もう一度まともに働ける場所が欲しかったから。でも、まだ夜中にふと目が覚めると、あの会議室の記憶が蘇ってきて、胸が苦しくなるんです」
莉子はそこで小さく息を吐き、俺の目を見つめてきた。
「だから係長みたいに、優しくてしっかりした人が近くにいると……なんだか安心するんです。ごめんなさい、暗い話をしてしまって」
彼女の赤い唇が、寂しげに微笑んだ。甘い薔薇の香りが、テーブル越しに俺の胸を締めつけるように漂っていた。
頼られている……その言葉が、男として自信をなくしていた俺の胸を、静かに奮い立たせた。
奈美は本当に強い。治療の辛さや将来の不安を抱えながらも、決して弱音を吐かない。いつも母のように俺を優しく包み込み、「大丈夫だから」と背中を撫でてくれる。その温かさは確かに救いだったが、どこか負担にも感じていた。俺が頼りない存在になったような喪失感が、日ごとに胸の奥に重く沈んでいた。子供ができない原因が自分にあると知って以来、彼女の前で素直に弱さを晒せなくなっていた。
けれど成田莉子は違う。
喫茶店のテーブル越しに、黒い瞳で俺を見つめながら「係長みたいに優しくてしっかりした人が近くにいると安心するんです」と囁く彼女の言葉は、俺の男としてのプライドを、久しぶりに優しく刺激した。
莉子は過去の傷をさらけ出しながらも、俺に頼るような視線を向けてくる。その視線に、俺は自分がまだ必要とされているような気がした。奈美の優しさとは違う、どこか危うい甘さが、胸の奥をざわつかせていた。
納期が近づくと、営業フロアは連日の残業続きになった。コピー機の音が響き渡る中、莉子と二人きりで資料をまとめ、修正を繰り返す夜が増えた。そんな時も、奈美はいつも通り穏やかに微笑んで「お疲れ様です、お先に失礼します」と軽く会釈し、タイムカードを押して先に帰っていく。
彼女の後ろ姿がフロアから消えると、俺の肩からふっと力が抜け、自然と頬が緩んだ。莉子の前では、ありのままの自分を曝け出すことができた。
奈美の前では見せられない弱音や、治療の苛立ち、仕事のプレッシャーも、莉子には素直に吐き出せた。彼女は黒い瞳で静かに聞き、時には低く甘い声で「大変ですね……」と相槌を打ちながら、そっと俺の肩に手を置いてくれた。
甘い薔薇の香りが近くで漂うと、心の奥底まで溶かされるような安心感が広がった。
奈美の優しさは包み込む母のような温かさだったが、莉子の存在は、男として認められ、必要とされている実感を与えてくれる。残業の夜が深まるにつれ、二人の距離は静かに、しかし確実に縮まっていった。
桜の花が開く頃、新入社員として企画部に加藤希が配属された。
その子はいつも愛らしく、フロアの中央で軽やかに笑い、明るい声で周囲を和ませていた。俺がその様子を思わず微笑ましく眺めていると、すぐ後ろから莉子がファイルをデスクの上に置く音がした。
「あんな可愛らしい子がお好みですか?」
言葉尻が少し強く、いつもの低く甘い声に棘が混じっていた。黒い瞳が俺をじっと見つめ、そこにははっきりとした嫉妬の色が滲んでいた。俺は咄嗟に言葉を返した。
「彼女には婚約者がいるよ。それに……俺は成田さんといる方が落ち着く」
そう口にした瞬間、莉子の表情がふっと柔らかくなった。口の端が小さく上がり、赤い唇が満足げに弧を描く。彼女はファイルを軽く指で叩きながら、低い声で囁くように言った。
「そうですか……嬉しいです」
甘い薔薇の香りが、桜の季節の風とは違う重い甘さで俺の胸を締めつけた。奈美の優しい笑顔が脳裏に浮かぶのに、莉子の視線はますます俺を捕らえて離さなかった。
加藤希の歓迎会を兼ねて「花見」と称した飲み会が開かれることになった。桜の季節らしい、にぎやかな二次会プランだった。
奈美は生理痛が重く、青白い顔で俺のコートを軽く直しながら、「あまり飲みすぎないでね。体に気をつけて」と小さく念を押した。声が弱々しく、俺は少し胸が痛んだ。一緒に帰ろうかとも思ったが、「係長がいないと話になりませんよ!」と若手社員に背中を強く押され、結局そのまま居酒屋の暖簾をくぐった。
店内に入ると、すでに莉子が席を確保して待っていた。黒い瞳が俺を捉えると、口の端が小さく上がる。彼女の隣に座らされ、甘い薔薇の香りがすぐ近くで漂ってきた。
奈美の青白い顔が脳裏にちらつくのに、莉子がグラスを差し出しながら低く甘い声で「今日はゆっくり飲みましょうね」と囁くと、俺の心はまた少し揺らいだ。
加藤希が愛らしく笑う声が響く中、飲み会の熱気が徐々に高まっていく。俺はビールを口に運びながら、奈美への罪悪感と、莉子の視線に絡め取られるような心地よさを、同時に感じていた。
何度目の乾杯だったか、それすらも危ういほど酒が回っていた。掘り炬燵式のテーブルの下で、スラックスの太ももに柔らかな温もりがゆっくりと押しつけられた。
視線をそっと下ろすと、莉子の細い指が赤いマニキュアを光らせながら、俺の太ももを妖しく撫でていた。指先が布地の上を滑るように動き、時折内腿のあたりを軽く押す。
甘い薔薇の香りが、酒の匂いと混じり合って鼻腔をくすぐる。周囲では加藤希の明るい笑い声と若手社員の騒ぎが響いているのに、俺の意識はテーブルの下に集中していた。莉子の黒い瞳が、グラスを傾けながら俺をじっと見つめ、口の端だけで小さく微笑んでいる。
息が少し乱れ、理性が揺らぐのを感じた。
奈美の青白い顔と「あまり飲みすぎないでね」という言葉が脳裏をよぎるのに、体は熱くなり、莉子の指の動きに抗えなくなっていた。この飲み会の喧騒の中で、俺と莉子の間にだけ、危険で甘い秘密が静かに広がり始めていた。
「酔ったみたいです……外の風に当たってきます」
莉子はグラスを静かに置くと、隣の女性社員に小さく断りを入れて席を立った。立ち上がる瞬間、俺を見上げたその瞳は誘うような流し目で、唇の端に微かな微笑みが浮かんでいた。階段を降りていくギシギシという木の軋む音が、店内の喧騒の中で妙に耳に残った。
「ちょっと様子を見てくる」
俺は吸い寄せられるように立ち上がり、財布から一万円札を2枚テーブルに置いた。「ごちになります!」ビールを掲げた若手社員の声に見送られ、俺は慌てて階段を駆け下りた。
息が少し上がっていた。
暖簾をくぐって外に出ると、夜の冷たい空気が頰を撫でた。路地に立っていた莉子が、俺の姿を見るなり嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり来てくれた」
そう言うと、彼女は迷いなく俺の腕に絡みついてきた。柔らかな胸の感触と甘い薔薇の香りが一気に押し寄せ、酒の酔いと混じり合って頭がくらくらした。莉子の黒い瞳が近くで輝き、赤い唇が俺の耳元で小さく囁く。
「係長……ここじゃ人目がありますよ」
その声は低く甘く、俺の理性の最後の糸を優しく引きちぎろうとしていた。
「よろしくお願いします」
莉子が手渡したバインダーには、一枚のメモがクリップで留められていた。
(この前のホテルで今夜どうですか?)
俺は一瞬、視線を奈美のデスクへ移した。彼女は隣に座る有松と穏やかに笑いながら、何か資料について話している。いつもの優しい横顔だった。胸がちくりと痛んだが、すぐに目を逸らした。
莉子とは最初、ただのワンナイトのつもりだった。あの飲み会の夜から始まった関係が、ここまで深まるとは思っていなかった。
しかし、あの刺激的な夜の感触、甘い薔薇の香り、黒い瞳で俺を誘う仕草……すべてが俺を虜にしていた。理性では罪悪感が渦巻くのに、体はもう彼女を求め始めていた。
俺はメモを素早く畳み、莉子を見上げて小さく頷いた。
「いいよ」
彼女は目を細めて満足げに微笑むと、唇をわずかに動かして小声で囁いた。
「ホテルのロビーで待っています」
その言葉を残し、莉子は軽く会釈をして自分のデスクに戻っていった。甘い香りがまだ鼻の奥に残っている。俺はバインダーを握る手に力を込め、奈美の笑顔を胸の奥に押し込みながら、今日も残業の夜が深まっていくのを感じていた。
終業のチャイムが鳴り、俺は少し重い足取りで奈美のデスクに向かった。
「奈美」
彼女はデスクの上を片付けながら、いつもの優しい笑顔を向けてきた。
「何?どうしたの?真剣な顔して」
俺は言葉を詰まらせ、掠れた声で言った。
「今夜のイタリアン、キャンセルできないかな。急な接待が入ったんだよ」
奈美の手が止まり、目を少し見開いた。
「ええ?もう予約しちゃってるよ?楽しみにしてたのに……」
その言葉に胸が痛んだ。隣の席に座っていた後輩の有松が、タイミング悪く鼻先を指で指しながら明るく声を上げた。
「俺、行ってもいいっすか!?」
有松は目を輝かせ、完全にノリで言っている様子だった。
奈美は困ったように小さく笑いながらも、俺の顔をじっと見つめてくる。期待と少しの寂しさが混じったその瞳に、俺は罪悪感を強く感じた。莉子がロビーで待っていることを思い浮かべながら、俺は必死で言葉を探していた。
「じゃあいいわ、私。有松くんと行ってくるから!」
奈美は不貞腐れた顔で、乱暴にカバンに私物を詰め込み始めた。いつもの優しい笑顔は消え、唇を少し尖らせた様子が痛々しかった。
「やった!楽しみっすね!」
有松は目を輝かせて立ち上がり、明らかに浮かれた声で答えた。彼が奈美に好意を抱いていることは、営業フロアの誰もが薄々気づいている。俺も知っていた。有松はいつも奈美の近くに寄り、冗談めかして声をかけ、彼女が笑うたびに嬉しそうな顔をする。
奈美は有松に向かって「じゃあ、予約の時間に間に合うように急ぎましょうか」と少し強張った笑顔を見せ、カバンを肩にかけた。
その背中はどこか寂しげで、俺の胸を鋭く刺した。莉子がロビーで待っているはずなのに、奈美の不満げな横顔を見ていると、罪悪感が一気に込み上げてきた。
「ごめん……本当に急な仕事で」と小さく呟いたが、声は届かなかった。
奈美は有松と並んでフロアを出て行き、俺はただその後ろ姿を黙って見送るしかなかった。甘い薔薇の香りが待つロビーへ向かう足が、妙に重く感じられた。
誰にも言えぬ関係が始まって、一ヶ月を過ぎる頃から莉子は明らかに大胆になった。
ある夜、残業後のホテルで彼女は俺のスマホを突然奪い上げ、LINEの表示名が「N」になっていることに不満を漏らした。
「愛しているなら『莉子』って設定して!」
そう言いながら勝手に名前を変え、俺の胸に顔を埋めてきた。
日曜日は「接待ゴルフだ」と奈美に嘘をつき、郊外のシティホテルへ遠出した。車の中で「そんなダサい服、莉子なら黒が似合うと思う!」と言われ、途中のブティックに連れ込まれた。
アースカラーばかりだった俺のクローゼットは、気づけばモノトーンのシャツやジャケットで埋め尽くされ、髪型も莉子の好みで短く刈り上げられた。
変化は確かに目立つはずだった。けれど奈美はそれに全く気づかない。朝の鏡の前でネクタイを締め直す俺を見て、ただ「今日も頑張ってね」と優しく微笑むだけだった。
その無関心が、逆に胸に寂しさを呼び起こした。莉子の情熱的な愛情と、奈美の変わらぬ穏やかな優しさの間で、俺の心は静かに引き裂かれ始めていた。
シティホテルでの激しい情事に、その後のラウンジで冷えたシャンパンを傾けるのが、最近の俺たちの定番になっていた。
二ヶ月を過ぎる頃には、貯金を切り崩して莉子にブランドのピアスを贈った。彼女は喜んでくれたが、すぐに耳元で甘く囁いた。
「莉子、指輪がいい!」と拗ねるように体を寄せてくる。俺はベッドの上で慌てて土下座し、「それだけは勘弁してくれ……まだ奈美にバレたら全部終わりだ」と必死に懇願した。
そんな生活が長く続くわけもなく、金銭的に心許なくなってきた俺は、水曜のノー残業デーを利用した逢瀬を思いついた。
奈美には「今日は取引先の資料整理で少し遅くなる」とだけ伝えておいた。莉子はそれを聞くと黒い瞳を輝かせ、「楽しみにしてる」と赤い唇で微笑んだ。罪悪感と興奮が交錯する中、俺はまた一つ、奈美を裏切る道を選んでしまった。
俺は「第一管理室」の鍵を後ろ手でそっと締めた。
普段は会議や資料整理に使われる無機質な部屋で、社内での情事を行う背徳感が、いつもより興奮を掻き立てた。
莉子を壁に押しつけながらシャツのボタンをはだけ、彼女の白い肌に指を這わせる。会議テーブルに腰を下ろした莉子は、黒い瞳を潤ませ、いつもより大胆に俺の首筋に唇を押しつけてきた。スカートを捲り上げ、互いの息が荒くなる中、肌を重ね合わせるたび「ここで……係長と」という禁断の言葉が脳裏をよぎり、より強い快感をもたらした。
絶頂を迎える頃には、二人とも汗だくになっていた。莉子の柔らかな体が俺に絡みつき、低い喘ぎ声が管理室の壁に反響する。
行為の後、乱れた息を整えながら、莉子は満足げに微笑み、俺の胸に指で円を描いた。甘い薔薇の香りが汗と混じり、部屋全体を甘く満たしていた。鍵を閉めた瞬間から始まるこの危険な時間は、俺の理性に深い亀裂を入れ続けていた。
俺と莉子は、誰もいなくなった営業フロアでタイムカードを押し、そっと外へ出た。
「仕事してないのに……残業扱いですか?」
莉子は悪戯めいた視線を俺の手元に向け、低く甘い声で囁いた。黒い瞳が妖しく細められ、口の端に小さな笑みが浮かんでいる。
「社員の福利厚生だよ、ご褒美だ」
俺はそう答えて軽く笑ってみせたが、声に力はなかった。この時の俺は何もかもが麻痺し、莉子との関係に完全に溺れ切っていた。
管理室での背徳的な情事、ホテルでの逢瀬、嘘の残業申請——すべてが日常になっていた。罪悪感すら薄れ、莉子の甘い薔薇の香りと熱い肌の感触だけが、俺の世界の中心になっていた。
奈美の優しい笑顔や、愛妻弁当の味、治療のために頑張っていた日々の記憶は、遠い過去のように霞んで見えた。
タイムカードを押す指先さえも、莉子の誘うような視線に絡め取られ、俺はただ彼女の後を追うようにフロアを後にした。心のどこかで、この関係がいつか破綻する予感がしていたのに、その予感すらも甘い麻痺の中に溶けていった。
あれから三ヶ月が過ぎた。同じ会社の同じ営業フロアに、妻の奈美と不倫相手の莉子がいるという異常な緊張感は、怯えの反面、ぬるま湯のように俺の日常を甘く刺激していた。
朝、出勤して奈美の優しい「おはよう」と莉子の静かな会釈を同時に受けながら、胸の奥で奇妙な高揚感を覚えるようになった。
勤務中の莉子は分別がしっかりしていて、上司と部下の適度な距離を完璧に保っていた。資料を渡すときも、目線は穏やかで、声もいつも通り低く落ち着いている。誰も気づかない。後輩の有松も、加藤希も、ただの普通の先輩後輩として見ている。奈美さえも、何も疑っていない。
むしろ最近の俺の変化を「仕事が上手く回ってるみたいで良かったね」と素直に喜んでくれていた。
その無知が、俺の罪悪感をさらに薄めていく。管理室の鍵を閉める瞬間、タイムカードを押して莉子と一緒にフロアを後にする夜、すべてが危うい均衡の上に成り立っているのに、俺はもうその刺激なしではいられなくなっていた。奈美の温かい愛情と、莉子の危険な情熱の狭間で、俺の心は静かに、しかし確実に蝕まれ続けていた。
「ねぇ、結婚記念日っていつ?」
管理室で情事の後の甘いキスを交わしている最中、莉子が面白くなさそうな表情で俺の腕に絡みついてきた。彼女はこの関係以上を強く求めるようになっていた。
「愛してるって言って」
「莉子と奥さん、どっちが大事?」
その言葉に、俺は胸がざわついた。そろそろ潮時なのかもしれない——そんな思いがよぎった瞬間、莉子がさらに畳みかける。
「結婚記念日?」
「そう」
俺はとんでもないことをしでかすところだった。
「今日だ……!」
慌ててネクタイを締め直し、スマホを取り出した。画面には奈美からの「今日は体調が悪いのでお休みします」というメッセージが残っていた。ちょうど良かった。サプライズでケーキと薔薇の花束を買っていこう。莉子に別れを告げる前に、せめて今日だけは奈美を大切にしようと思った。
莉子は不満げに唇を尖らせたが、俺は彼女の視線を振り切り、管理室の鍵を開けた。甘い薔薇の香りがまだ体にまとわりついているのに、胸の奥では罪悪感と焦りが激しく渦巻いていた。
残業も早々に切り上げ、俺は予約していたケーキと深紅の薔薇の花束を受け取った。五千円で罪を償えるわけではないが、とにかく今日は奈美を喜ばせたいと思った。
意気揚々とタクシーの中でスマホを取り出し、花束を抱えた自分の写真を奈美にLINEで送った。「結婚記念、3周年!」とメッセージも添えて。
返事がない。
そんなに具合が悪いのか?胸にわずかな不安がよぎったが、すぐに振り払った。タクシーに飛び乗り、マンションへ急ぐ間、俺は奈美の喜ぶ顔を何度も想像して胸が弾んだ。優しい笑顔で「ありがとう」と抱きついてくれる姿が浮かぶ。莉子との管理室での情事の余韻など、もう頭の片隅にもなかった。
けれど部屋のドアを開けた瞬間、重い空気が一気に俺を包み込んだ。
玄関の灯りはついているのに、いつもの温かいカレーの香りはなく、ただ冷たい沈黙だけが漂っていた。リビングの奥から、奈美の気配がする。俺は花束を握ったまま、ゆっくりと靴を脱いだ。胸の奥で、何かが大きく軋む音がした。
ダイニングテーブルには、深紅の薔薇の花束が静かに佇み、イチゴが鮮やかに散らばったホールケーキがキャンドルの揺らめく光に照らされている。
「今日はどうしたの? 有松が、奈美ちゃんが来ていたって言ってたけど」
「……あ、あぁ。ちょっと話したいことがあって」
奈美の様子がおかしい。歯切れが悪く、表情が硬い。
「資料整理をしていたんだ。で、話したいことって何?」
奈美はワイングラスの縁をなぞりながら視線をテーブルに落とした。
「……結婚記念日のお祝いのことで」
「忘れてると思った? 忘れるわけないだろ」
「そうね」
沈黙が落ちる。
「ねぇ、和寿……最近、服の趣味変わったね」
「そうかな」
奈美は服装の変化に気づいていた。いつから? 脇に汗がジワリと滲む。
「今度、買いに行こうか?」
「いや、いいよ」
即答。早すぎる返事だ。失敗した。ケーキを一口食べて視線を逸らす。
「それよりも、奈美ちゃん。LINEの返事がなかったけど」
そこまで言って俺はハッとした。莉子との情事がバレないよう、スマホはマナーモードにしていた。
「どうしたの?」
奈美は静かに聞いた。声が震えないよう、喉に力を入れる。
「マナーモードにしていたんだった」
「マナーモード? 困らないの?」
いつも通知を即確認する俺が。仕事の連絡を逃すまいとバイブまでオンにしていたのに。
「今日は記念日だからさ。邪魔されたくなくて……」
苦笑いしてフォークを弄ぶ。目がテーブルに落ちた。嘘だ。マナーモードにしたのは、管理室での行為の最中だった。通知音でばれるのを恐れて。胸の奥で冷たいものが広がる。
「そうなんだ……気遣ってくれてありがとう」
奈美は小さく微笑んだ。俺がマナーモードを解除し、通知をオンにした途端、スマホが小さく振動した。手からフォークが落ち、皿の上で鋭い音を立てる。画面の光が一瞬だけ目に映った。俺は慌てて席を立ち、指が素早くスマホを掴む。
「......ちょっとトイレ」
これでは明らかに何かを隠していると思われる。俺は焦った。足早にトイレに入り、ドアを閉めた瞬間、スマホの画面が再び振動した。慌ててロックを解除し、莉子からのLINE通話のボタンをスライドする。すると、莉子の低く甘い、しかし今は嘲るような声が響いた。
「結婚記念日おめでとう」
「やめてくれ……」
声が震えた。莉子はくすくすと笑いながら続ける。
「今、奥さんとロマンチックにお祝い中? 私とのこと、ちゃんと隠せてるの?」
俺は慌てて声を抑え、ドアに背中を預けた。ドアの向こうに、奈美の静かな視線を感じる。リビングのキャンドルの灯りが細い隙間から漏れ、足元を淡く照らしている。甘いケーキの匂いと深紅の薔薇の香りが、トイレの冷たい空気の中にまで忍び込んでくるようだった。胸の鼓動が激しくなり、スマホを握る手が汗ばむ。
莉子の声がまだ耳元で響いているのに、奈美の沈黙が背後から重くのしかかってくる。この狭い空間で、俺は二人の女の間で完全に追い詰められていた。
その日を境に、俺は微妙な違和感を覚えるようになった。言葉で言い表すことはできないが、奈美の視線が時折、以前より厳しく感じるようになった。
朝の食卓でふと目を合わせた瞬間、彼女の瞳が冷たく光るような気がして、背筋がぞくりとする。まさか莉子との関係に気がついたのかと、内心で顔色を窺うが、奈美はいつも通り穏やかに微笑み、「今日も頑張ってね」と声をかけてくる。
その気配は一切ない。
ただ、妙な違和感がマンションの部屋全体に静かに漂っていた。夜、ベッドで横になりながら奈美の寝顔を盗み見ると、彼女の眉間に小さな皺が寄っているように見える。莉子との情事の後で帰宅したときも、玄関で靴を脱ぐ俺を、キッチンから無言でじっと見つめている気がした。
言葉はないのに、空気が重く張りつめている。俺は莉子との関係を必死に隠し続けているつもりだったが、心のどこかで「もしかして……」という不安が、日に日に大きくなっていた。
この頃の奈美は体調がすぐれないのか、朝、起きられない日が続いていた。
「弁当は?」
俺が声をかけると、奈美はベッドの中で薄く目を開け、枕元の財布から千円札を抜いて差し出した。
「好きなもの……買って食べて」
声は弱々しく、以前のように不妊治療を気遣って毎朝丁寧に作っていた愛妻弁当の姿はどこにもなかった。献立にまで気を配り、笑顔で「今日も頑張ってね」と見送ってくれたあの頃が、遠い記憶のように感じられた。俺は千円札を受け取り、軽く頷いて家を出た。
昼休みには莉子の手作り弁当をデスクで平らげ、彼女がそっと手渡してくれた金でいつものホテルへ向かった。
エレベーターの中で奈美の青白い顔を思い浮かべながらも、莉子の甘い薔薇の香りと熱い肌の感触を求める自分が、そこにいた。罪悪感は確かに胸を刺すのに、足は自然とホテルの方へ進んでしまう。奈美の変化に気づきながらも、俺はただ莉子との禁断の時間に溺れ続けていた。
深夜、トイレに起きた俺は、リビングの薄暗い明かりに気づいた。
奈美がパソコンを開き、エクセルを立ち上げて真剣な表情で何かを計算していた。画面の青白い光が彼女の顔を照らし、眉間に深い皺が寄っている。
「寝ないのか? 体調は?」
声をかけると、奈美はビクッと肩を震わせ、慌ててパソコンを閉じた。蓋を閉じる音が、静かな部屋に不自然に響いた。
「うん……ちょっと、明日の家計簿を確認してただけ」
その声は平静を装っていたが、どこか硬い。異変はそれだけではなかった。
数日後、奈美が新しい香水を買ってきた。手首に軽く擦り付けると、ふわりと上品な薔薇の香りが立ち上った。莉子の甘く濃厚な薔薇とは違う、ワンランク上の、洗練された深みのある香りだった。
「珍しいな」
俺が言うと、奈美は優しく微笑み、目を細めて答えた。
「素敵でしょう?」
その笑顔は穏やかだったが、瞳の奥にこれまで見たことのない冷たい光が一瞬よぎった気がした。俺は胸の奥がざわつくのを感じながら、ただ曖昧に頷くしかなかった。奈美の変化は静かに、しかし確実に進んでいた。
莉子がミネラルウォーターのペットボトルを傾けながら、ベッドの上でゆっくり振り向いた。マットレスが軋む音が、狭いホテル部屋に響いた。
「奥さん、私たちのこと気づいたかも……」
俺は後頭部を殴られたような衝撃を受けた。体が一瞬固まる。
「女の直感は鋭いわよ。特に同じフロアで毎日顔を合わせていれば、手に取るようにわかるでしょう」
莉子は低く甘い声で続け、黒い瞳を細めた。
「……どうして」
「香水。私と同じ薔薇の香水をつけてきたでしょう?」
俺は思わず唾を飲み込んだ。喉がからからに乾く。
「ぐ、偶然だろう……」
「あれは宣戦布告よ。私、知ってるわって」
莉子は赤い唇をわずかに歪めて微笑んだ。指先で俺の胸を軽く突きながら、囁くように言った。
「奥さん、静かに怒ってる。匂いで私を挑発してるのよ。あなた、どうするつもり?」
部屋の空気が一気に重くなった。甘い薔薇の香りが、二人の間に淀むように漂う。俺は言葉を失い、天井を見つめたまま、胸の奥で激しい動悸を感じていた。奈美の冷たい視線と莉子の嘲るような瞳が、同時に俺を追い詰めていく気がした。
けれど先に追い詰められたのは莉子だった。どこから漏れたのかは分からないが、莉子がホテルから出てきたところを見たという噂が、社内に一気に広がった。若手社員たちは肩を落とし、給湯室の女性社員たちはあることないこと囁き合った。
その中で最も衝撃的だったのは、前の勤務先で上司とのトラブルが不倫関係の発覚によるものだったという話だった。ある残業後の管理室で、俺は直接聞いた。
「莉子、本当なのか?」
「……本当よ」
莉子の声は低く、震えていた。
「俺とのことは遊びだったのか」
その言葉を聞いた瞬間、莉子は大きく手を振りかぶり、俺の頬を鋭く叩いた。パチンという乾いた音が部屋に響く。
「和寿こそ!遊びだったでしょう!」
彼女の黒い瞳には大粒の涙が溢れ、頰を伝って落ちていた。唇を強く噛みしめ、肩を小刻みに震わせながら、莉子は俺を睨みつけた。甘い薔薇の香りが、いつになく苦く感じられた。俺は頰の熱を押さえ、言葉を失った。莉子が初めて見せる本気の感情に、胸が激しくざわついた。
莉子は営業フロアで、興味と好奇の視線に晒されるようになった。
給湯室では小声の囁きが絶えず、彼女が通り過ぎるたび、視線が背中に突き刺さる。俺も、いつ「あのホテルから出てきた男」が自分だと発覚するかと気が気ではなく、莉子とは自然と距離を取った。
資料の受け渡しも最小限にし、目も合わせないようにした。
怯える日々が続き、息が詰まるような毎日だった。不意に奈美と視線が合うと、彼女はニコリともせず、冷たく視線を逸らした。
「……まさか、知っている?」
マンションに戻っても、会話らしい会話はほとんどなくなった。夕食の席で怯えたような目で奈美を見ると、彼女は静かにワイングラスを傾け、勝ち誇ったような薄い笑みを浮かべた。その笑みには、優しさのかけらもなく、冷たい勝利の色が浮かんでいた。俺はフォークを持つ手が震えるのを抑えられなかった。莉子との関係が、ゆっくりと、しかし確実に俺の日常を崩壊させ始めていた。
莉子が営業フロアから姿を消した。好奇の視線と陰口に耐えられなくなったのか、有給休暇を取って俺の目の前からいなくなった。
朝、出勤しても彼女のデスクは空いたまま。甘い薔薇の香りも、もう漂ってこない。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、突然内線電話が鳴った。課長からだ。
「部長の部屋に来るように」
動悸が一気に激しくなり、喉がからからに渇いた。受話器を置く手が小刻みに震える。「部長に呼ばれた。ちょっと行ってくる」小声で隣のデスクに声を掛け、立ち上がると、椅子の軋む音がフロアに異様に大きく響いた。
足が重く、廊下を歩くたび心臓の音が耳に鳴り響く。莉子との関係が、ついに明るみに出たのか。
部長の厳しい顔が脳裏に浮かび、冷や汗が背中を伝う。ドアの前に立ち、深呼吸をしてノックする。手がまだ震えていた。この瞬間、俺の不倫の代償が、ようやく訪れようとしていた。
「社内不適切関係および経費不正に関する通報」
一通のメールが人事部と部長の元に届いた。
差出人はフリーメールで、誰なのかはわからない。フロアの誰かが、俺と莉子の関係に気づいていたのだ。
「これは事実かね?」
部長の鋭い視線が俺を射抜く。ゴクリと喉が鳴った。もう、言い逃れはできない。「事実かと聞いているんだ」部長の低く怒りに満ちた声が、重く響く。足が震え、握った拳は汗でびっしょりだった。
「……事実……です」
言葉を絞り出すと、部長は大きな溜め息をついた。
「君のような真面目な人間が、残念だよ」
その一言が胸に突き刺さった。部長は静かに続けた。
「当面、自宅待機を命じる。調査が終わるまで出社を控えろ」
俺は頷くことすらできず、ただうつむいたまま部長室を後にした。足取りはふらつき、営業フロアに戻る廊下が果てしなく長く感じられた。
莉子はもういない。奈美の冷たい視線が脳裏に浮かぶ。今、すべてが崩れ落ちようとしていた。
お読みいただきありがとうございます
こちらは離婚届に印鑑を捺したら夫が泣いた SS ストーリーです




