婚約破棄された地味令嬢、辺境でパン屋を開いたら氷の英雄の胃袋を掴みました
きらびやかなシャンデリアの光が、ガラスの靴や貴婦人たちの宝石に反射して、痛いほどに眩しい。高価な香水の香りと、楽しげな談笑の声。
王宮で開催された春の夜会は、まさに国の繁栄を象徴するような華やかさの絶頂にあった。
その中心で、エミリア・ローゼンはただ静かに、婚約者である第一王子レオナルドの傍らに寄り添っていた。
身にまとっているのは、レオナルドから指定された、彩度の低い、まるでおばあ様が着るような焦げ茶色のドレスだ。
「目立つな」「私を引き立てろ」という彼の言葉を忠実に守った結果だった。エミリア自身、生来の焦げ茶色の髪と琥珀色の瞳を、とりたてて美しいと思ったことはない。だからこそ、公爵令嬢としての義務を果たすために、他の血の滲むような努力で補ってきたのだ。
政治学、歴史、高度な外交マナー、他国との交渉術。
人前に立つのが苦手な内向的な性格を押さえつけ、十年間、ただ彼を支える未来の王妃となるために、すべての青春を捧げてきた。
しかし。
「――エミリア・ローゼン。君との婚約は、今日限りで破棄する」
レオナルドの冷徹な声が、華やかな音楽を叩き切るように響き渡った。
楽団の音色がピタリと止まり、周囲の貴族たちが一斉にこちらを振り向く。静まり返った会場の中で、壇上に立つレオナルドは、エミリアではなく、その隣に立つ派手なピンク色のドレスを着た男爵令嬢マリアの腰を、見せつけるように抱き寄せた。
「殿下……? それは、どういう……」
「言葉通りの意味さ。君との退屈な婚姻関係を終わらせると言っているんだ」
レオナルドは、どこか「自分は正しい決断をした」と言わんばかりの、義務を果たしたかのような傲慢な笑みを浮かべた。
「君は地味すぎるんだよ。何をさせても面白みがない。王妃として、我が国の顔として華がなさすぎる。男を立てることもせず、いつも裏で小難しそうな書類ばかり睨みつけて。見ろ、隣に立つマリアの方が、よほど僕を敬い、引き立ててくれるパートナーにふさわしい。王とは、国とは、常に華やかで威厳に満ちているべきなんだ。君のような陰気な女を連れていては、僕の、そしてこの国の格が下がる」
彼は本気でそう信じていた。
女は男の後ろで笑顔を咲かせていればいい。王政とは、自分が輝かしいスポットライトを浴びる舞台なのだと。エミリアが夜も眠らずに処理していた膨大な予算書や、他国との水面下の交渉など、王子の輝きに比べれば「できて当然の、地味な雑用」としか思っていなかったのだ。
マリアが、扇子で口元を隠しながらくすくすと勝ち誇った笑い声を漏らす。
それを合図にしたかのように、周囲の貴族たちからも、遠慮のない嘲笑と囁き声が広がっていった。
「確かに、いつもあの方のドレスは地味でしたものね」
「王家にはふさわしくないわ」
「十年間も婚約者でいて、浮いた話の一つも流せないなんて、女としての魅力がないのよ」
胸の奥が、冷たい刃で滅多刺しにされるような感覚だった。
地味なドレスを選ばせたのは誰だったか。夜会で目立たぬよう、一歩引いて他の貴族たちの根回しに奔走させていたのは誰だったか。外交の席でレオナルドが失言するたび、裏で頭を下げて回っていたのは誰だったか。
泣きたかった。その場に崩れ落ちて、大声で叫びたかった。
けれど、十年間叩き込まれた「気品」の呪縛が、エミリアの背筋を無理やり伸ばさせた。ここで取り乱せば、それこそローゼン公爵家の、そして自分自身のプライドが完全に死んでしまう。
エミリアはぎゅっと拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込む痛みに耐えながら、深く、深く頭を下げた。
「……承知いたしました。レオナルド殿下、そしてマリア様。お二人の前途に、幸多からんことを」
その声は、震えていなかった。それだけが、エミリアに残された最後の意地だった。
振り返り、嘲笑の嵐の中を、彼女は真っ直ぐに歩いて退場した。実の親でさえも、婚約破棄された娘に価値はないとばかりに、冷たく目を逸らしていた。
その夜のうちに、エミリアは手回しの荷物だけをトランクに詰め込み、王都を去った。
公爵家にはもう、自分の居場所などない。婚約破棄された娘など、政略結婚の道具としても二線級だ。どうせ幽閉されるか、まともではない相手に嫁がされるのがオチだろう。ならば、すべてを捨てる。
馬車を乗り継ぎ、数日かけて辿り着いたのは、王国の最果て――隣国との国境に近い辺境の小さな村「ヴィルカ」だった。
そこには、数年前に亡くなった母方の祖母が遺してくれた、小さな平屋の家があった。
「ふぅ……」
埃の積もったテラスに立ち、エミリアは深く息を吸い込んだ。
王都の、あの泥濁りのような空気とは違う。澄んだ風が、緑の匂いを運んでくる。目の前には、どこまでも広がる大麦の畑と、遠くに見える壮大な山脈。
「ここで、新しく始めよう」
トランクから取り出したのは、豪華なドレスでも、宝石でもない。一冊の、古びた手帳だった。
そこには、幼い頃にこの家で祖母から教わった、パンのレシピがびっしりと書き込まれていた。
政治の教科書を開くのは大嫌いだったけれど、祖母と一緒に小麦粉をこねる時間は、エミリアにとって唯一の救いだった。
イーストのふくよかな香り。オーブンの中でぷっくりと膨らんでいく生地。焼き上がった瞬間の、パチパチという幸せな音。
パンは、裏切らない。手をかけた分だけ、素延べに美味しくなってくれる。誰かに「地味だ」と評価されることも、政治の道具にされることもない。ただ、食べた人を純粋に笑顔にするためだけに存在する。
「……パン屋を開こう」
それからのエミリアの行動は早かった。
公爵令嬢としての貯蓄を少しだけ切り崩し、家を改装して、小さなオーブンと売り場を作った。地元の農家から良質な小麦粉と、新鮮なミルク、そして濃厚なバターを仕入れる。
「お嬢ちゃん、王都から来たのかい? こんな寂しいところでパン屋なんて、物好きだねぇ。でも、応援するよ」
近所の農家の頑固オヤジ・トムからそんな言葉をかけられるたび、凍りついていたエミリアの心が、少しずつ解けていくのが分かった。
そして迎えた、開店初日。
まだ夜の帳が下りきらず、東の空がようやく白み始めた、午前五時。
エミリアは徹夜で焼き上げたパンを、手作りの木製棚に並べていた。
基本の丸パン、外はカリッと中はモチッとしたフランスパン、そして、祖母直伝のカスタードをたっぷり詰めたクリームパン。
香ばしい、甘い香りが小さな店内に満ちていく。それだけで、胸がじわんと温かくなった。
「よし、頑張ろう」
エミリアが「営業中」の小さな看板を入り口のドアに掛けた、その直後だった。
カランカラン、と静かな店内にドアベルの音が響いた。
まだ日の出前だ。こんなに早く客が来るなんて思っていなかったエミリアは、弾かれたように顔を上げた。
「いらっしゃいま――」
その言葉が、途中で凍りついた。
入ってきたのは、この小さくてのどかな村には、あまりにも不釣り合いな存在感を放つ青年だった。
背が異常に高い。エミリアが完全に見上げるほどの体躯を、上質な黒い外套で包んでいる。外套の隙間から覗くのは、鋭い仕立ての衣服と、実戦用と思しき大剣の柄。
何より目を引いたのは、その容姿だった。
朝焼けの光を浴びて、淡くきらめく銀糸のような髪。彫刻のように整った、しかし冷徹極まりない顔立ち。その涼やかな切れ込みの鋭い青い瞳が、じっとエミリアを射抜いた。
一言で言えば、死ぬほど、怖い。
戦場からそのまま歩いてきたかのような、圧倒的な威圧感と、ピリピリとした空気をまとっている。
(ひっ……! 盗賊? それとも、王都からの追手……!?)
エミリアが恐怖で息を呑み、思わず一歩後退りしたその時。
銀髪の青年は、無表情のまま、じっと棚に並んだパンを見つめた。
やがて、彼は地響きのような低い、けれど酷く心地のいい声で言った。
「……焼きたてを、全部くれ」
「へ……?」
エミリアは、自分の耳を疑った。
「全部だ。そこにあるパンを、すべて包んでくれ」
「ぜ、全部ですか!? あの、今日が初日で、まだこれしか焼いていないとはいえ、三十個近くありますよ……!?」
「問題ない。足りないくらいだ」
青年は表情一つ変えず、懐からずしりと重い革袋を取り出すと、カウンターの上に置いた。
中から覗いたのは、最高純度の純金貨が数枚。
「っ!? お、お釣りが出ません! こんな大金、受け取れません!」
「釣りは不要だ。代金と、今後の手間賃だと思え」
青年はそう言うと、エミリアが慌てて大きな紙袋に詰め込んだ大量のパンを、片手でひょいと受け取った。
そして、最後に棚の端に残っていたクリームパンをじっと見つめ、それだけを別の小さな袋に分けさせた。
「……足りなければ、明日はもっと焼いてくれ。毎朝、この時間に買いに来る」
「あ、あの……!」
呼びかける声を残し、青年は黒い外套を翻して、足早に去っていった。
――それから、本当に毎朝やってきた。
「……おはよう」
「あ、アルベルトさん、おはようございます! 今日も早いですね」
開店初日のあの衝撃的な出会いから、二週間。
銀髪の青年――自らを「アルベルト」とだけ名乗った彼は、毎朝午前五時、必ず『ベーカリー・ローゼン』のドアをくぐる。
相変わらず冷徹な顔立ちで、触れたら凍りつきそうなほど鋭い青い瞳は死ぬほど怖い。
けれど、エミリアはもう怯えていなかった。なぜなら、この二週間で彼の「驚くべきポンコツぶり」を知ってしまったからだ。
「今日のラインナップだ。丸パンが四十、フランスパンが二十、 田舎風ブレッドが十、そして……」
「……(ごくり)」
アルベルトの低い声が、わずかに喉を鳴らす音をエミリアは見逃さない。
彼は氷のような無表情を保っているが、その視線は棚の一角に完全に釘付けになっていた。
「自家製カスタードの、クリームパンが十個です」
「……(ぱぁぁっ)」
表情は変わらない。変わらないのだが、エミリアには見える。彼の背後で、目に見えない巨大な犬の尻尾がちぎれんばかりにビチビチと振られているのが。
「それを、全部くれ。いや、今すぐここで二個食べさせてくれ。頼む、一刻を争うんだ」
「はいはい、お席へどうぞ。すぐお持ちしますね」
エミリアはクスリと笑いながら、焼き立てのクリームパンを皿に乗せて席へと運ぶ。
アルベルトは大きな紙袋を足元に置くと、待ちきれないとばかりにクリームパンを一つ、大きな口でパクリと咥えた。
その瞬間、彼の厳つい肩の力がすっと抜けていくのが分かった。
眉間の皺が綺麗に消え、鋭い目元がとろけるように柔らかくなる。コクのある濃厚なカスタードクリームが口いっぱいに広がる幸せを、全身で噛み締めている。
「……美味い。天国の味がする」
「ふふ、良かったです。卵を多めにして、濃厚に仕上げているんです」
「お前の作るパンは、どれも優しい味がする。……いや、お前のパン以外の食事は、もはや砂を噛んでいるようだ。現に、ここ二日間、俺はこれ以外の食事を摂っていない」
「ええっ!? ダメですよ、そんなの栄養失調になっちゃいます!」
驚いてお説教するエミリアに、アルベルトは少しだけ決まり悪そうに目を逸らした。
実は彼、極度の「甘党」でありながら、それ以外の食事に全く興味がないという、破壊的な偏食家だったのだ。戦場では「飲まず食わずで戦う狂戦士」などと恐れられていたらしいが、実態は「好みの味がないから飯を食うのが面倒だっただけ」という、ただの食わず嫌いである。
「お前が俺の胃袋を支配した。責任をとって、明日からも俺のためにパンを焼け。あと、昨日の社交界の書類、何が書いてあるかさっぱり分からなくて途中で破り捨てた。お前がいないと俺の領地運営は壊滅する」
「書類を破り捨てないでください! もう、お野菜のパンもセットで食べて、書類も持ってきなさい。私が読んであげますから!」
「……うむ。お前に従おう」
無表情のまま、飼い主に叱られた大型犬のように大人しくなるアルベルト。
その後ろ姿を見送りながら、エミリアは「最強なのに、放っておけない人だな」と、胸をあたたかくするのだった。
始まって一ヶ月。お店には、毎日小さなドラマがあった。
ある日は、近所の子供たちが小銭を握りしめてやってきて、エミリアが「不揃いの焼きクッキー」をおまけして大喜びされたり。
またある日は、アルベルトが「俺もパン作りを伝授してもらう」と言い出して厨房に侵入し、その圧倒的な不器用さで生地を握り潰して岩石のように硬い物体を生み出し、エミリアに「もう! アルベルトさんは座って待っててください!」と怒られてシュンとしたり。
そんなのどかな日常の中、その日は朝から激しい嵐だった。
バケツをひっくり返したような大雨が、屋根を激しく叩いている。
さすがにこの天気では客足も途絶え、エミリアは早めに店を閉めようと、一人で片付けを始めていた。
「う、格好悪いなぁ。もっと体力をつけないと……」
裏口の勝手口から、新しく届いた小麦粉の木箱を運び込もうとするのだが、雨で濡れた木箱は滑る上に、水分を吸って一段と重くなっている。
エミリアがふんぬ、と顔を真っ赤にして木箱を持ち上げようとした、その時だった。
「――危ない。下がっていろ」
「えっ!?」
突如として背後から伸びてきた逞しい腕が、エミリアの手から軽々と木箱を奪い去った。
驚いて振り返ると、そこには、濡れた黒い外套を羽織ったアルベルトが立っていた。銀髪が雨に濡れて、いつも以上に大人の色気を放っている。
「アルベルトさん!? どうしてここに……お店はもう閉めようと……」
「お前が心配で、様子を見に来た。案の定、押し潰されそうになっていたな」
アルベルトはそう言うと、重い木箱を片手でひょいひょいと持ち上げ、店内の厨房へと運び込んでいく。あっという間にすべての木箱が店内に収まった。
「あ、ありがとうございました……! あの、お礼と言ってはなんですけど、温かい紅茶でも飲んでいってください。服も濡れてしまっていますし」
「……好意に甘える」
アルベルトは外套を脱ぎ、エミリアが差し出したタオルで無造作に髪を拭いた。
厨房の奥にある小さな居住スペースのテーブル席に、アルベルトが座る。普段はエミリア一人が使っている空間なので、彼の大きな身体が入ると、急に部屋が狭くなったように感じられた。
「はい、どうぞ。アッサムの紅茶です。それと……売り切れなかったクリームパン、温め直しました」
「……!」
アルベルトの目が、分かりやすく輝いた。
彼は紅茶を一口啜り、温かいクリームパンを口に運ぶ。湯気とともに広がるバニラビーンズの香りに、彼の厳つい肩の力がすっと抜けていくのが分かった。
「……生き返る。やはり、お前のパンは最高だ」
「ふふ、お疲れ様です。アルベルトさんは、どうしてそんなに私のクリームパンを気に入ってくれたんですか?」
ふと気になって尋ねると、アルベルトはカップを持つ手を止め、少しだけ視線を落とした。
「……俺は、幼い頃から『強くなること』だけを求められて育った。戦場で敵を倒し、武功を挙げ、国を守る盾となれ、と。周囲の人間は皆、俺を恐れるか、あるいは便利な道具としてしか見なかった。飯の味など、気にしたこともなかった。生きるための燃料だとしか思っていなかった。だが……一ヶ月前、この店を見つけて、お前の焼いたパンを一口食べた時、驚いたんだ。こんなに温かくて、優しい食べ物がこの世にあるのかと。お前のパンを食べると、胸の奥の凍りついた部分が、じんわりと溶けていくような気がする。……俺にとってお前のパンは、ただの食事ではなく、救いだ」
真っ直ぐな、嘘偽りのない青い瞳が、エミリアを見つめる。
その強い眼差しに、エミリアの胸は激しく高鳴った。
(私と同じだ……)
彼もまた、孤独だったのだ。求められる役割のために自分を押し殺し、誰からも本当の自分を見てもらえずにいた。
「アルベルトさん、私、これからもたくさんパンを焼きますね。あなたが、いつでもここへ帰ってこられるように」
「エミリア……」
感動したアルベルトが、思わずエミリアの手に自分の手を重ねた。
その瞬間。
「あ……」
「……ッ!?」
肌と肌が触れ合った瞬間、アルベルトの身体が、まるで落雷でも受けたかのようにビキィッ!と完全にフリーズした。
戦場では数千の敵に囲まれても眉一つ動かさない「氷の英雄」が、女の子と手が触れただけで、顔面を耳の先まで真っ赤に染めて硬直している。
「あ、あの、アルベルトさん? 大丈夫ですか?」
「す、すまない……! 俺は、その、女性に対して、このような距離で接した経験がなくて……心臓が、異常な速さで脈動している。新種の呪いか……!?」
「呪いじゃないです、ただ照れてるだけです!」
あんなに強そうで怖い人が、恋愛耐性ゼロのピュア男子だったなんて。
その愛らしいギャップに、エミリアの心は和んでいく。しかし、アルベルトのその温かい手のぬくもりが、エミリアの胸の奥底にずっと蓋をしていた「暗い感情」を、不意に呼び覚ましてしまった。
「……エミリア? どうした、急に悲しい顔をして」
「え? あ、いえ……なんでも……」
誤魔化そうとしたが、アルベルトの真っ直ぐな瞳に見つめられると、言葉が喉に詰まった。
外の激しい雨の音が、あの夜会の嘲笑の声と重なる。
「……本当は、ずっと苦しかったんです」
ぽろり、と。
一度決壊した感情は、もう止められなかった。エミリアの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
「十年間、必死に努力したんです。レオナルド殿下のために、国のために、苦手な社交も、膨大な書類仕事も、全部全部耐えて頑張った。なのに……彼は、私のことを『地味で無能な汚点』だって言いました。親からも見捨てられて、私には価値なんてないんだって……。私だって……私だって、本当は、もっと綺麗なピンクや青のドレスを着て、彼に『可愛いね』って、一度でいいから褒めてもらいたかった……!」
初めて口にした、醜い本音。聖女なんかじゃない。地味だと言われ続けたコンプレックスも、裏切られた傷も、本当は何も癒えてなんていなかったのだ。
泣きじゃくるエミリアを、アルベルトは戸惑うように、けれど今度はフリーズすることなく、自身の大きな腕でそっと包み込んだ。
包み込まれた胸の奥から、彼の強い心音が伝わってくる。
「……お前を地味だと、無能だと笑った奴らは、全員一物残らず節穴だ」
アルベルトの声は、静かだが、激しい怒りと深い慈愛を孕んでいた。
「俺にとっては、お前が誰よりも美しく、誰よりも尊い。お前が流したその十年の努力の血と涙を、俺は絶対に無駄にはさせない。……俺がお前を、世界で一番幸せな女にしてみせる。だから、もう泣くな。お前のその綺麗な琥珀色の瞳には、涙よりも、焼き立てのパンを見た時の笑顔の方が、よほど似合っている」
「アルベルトさん……」
彼の不器用で、けれど全力の慰めに、エミリアの胸の傷は、今度こそ本当の意味で、じわじわと温かく癒やされていくのだった。
それからさらに数週間。
常連のトムから「あの兄ちゃん、実は隣国の第二王子で『氷の英雄』って呼ばれてるアルベルト殿下だぞ!」という衝撃の事実をバラされ、エミリアが腰を抜かしたり、彼の書いた「凄まじい悪筆のファンレター」を渡されて和んだりしながら、二人の距離は確実に縮まっていった。
しかし、そんな平穏な日々は、突如として破られることになる。
アルベルトがいつものようにパンを買いに来て、店内のカウンターで新作の試食と、恋愛IQが幼児退行したような赤面トークをしていた、ある日の昼下がりのことだった。
店の前に、ヴィルカの村には絶対に似合わない、華美な装飾が施された高級馬車が止まった。
中から現れたのは、数人の護衛騎士を従えた、金髪の青年。
元婚約者――第一王子レオナルドだった。
「――おや、随分と薄汚い店だな。こんな肥溜めのような田舎で、本当にパン屋などをやっていたとは。やはり地味な女には、地べたがお似合いということか」
レオナルドは鼻で笑いながら店内に足を踏み入れた。彼の靴についた泥が、エミリアが毎朝綺麗に磨いている床を汚していく。
「レ、レオナルド殿下……!? なぜ、ここへ……」
「なぜも何も、お前を迎えに来てやったんだよ、エミリア。感謝しろ。お前がいなくなってから、王宮がどうなっているか知っているか?」
レオナルドは、これ見よがしに大きなため息をついて、自分の髪を掻き揚げた。
その顔は、以前の余裕に満ちたものとは違い、目の下にひどいクマがあり、ひどくやつれ、焦燥しきっていた。
「お前がやっていた内政書類だがね、新しく王妃に据えたマリアに見せたら、あいつは一行も読めずに『文字が小さくて頭が痛くなっちゃう!』と泣き出してしまってね! おかげで隣国への『重要な通商条約の更新日』をマリアが丸ごと見落とし、我が国の輸出入は完全にストップ! さらに、マリアが国家予算の三分の一を自分のドレスと宝石代に使い果たしたせいで、給与が未払いになった侍女や宮廷魔導具師たちが一斉にボイコットを起こして荷物をまとめて逃げ出した!
今や王宮はゴミ屋敷で、食事すらまともに出てこないんだ!」
それは、想像を絶する無能の極みだった。
すべて、エミリアが裏で完璧に管理し、根回しをしていたからこそ成り立っていたことなのだ。
「だから提案だ、エミリア。王都へ戻れ。お前のあの地味だが実用的な事務能力だけは、まぁ、認めてやらんこともない。マリアは側室に格下げし、お前を再び正妃の座に戻してやる。これで文句はないだろう? お前も、こんな泥臭いパン屋をやるより、僕の役に立てる方が幸せだろう? さあ、ありがたく僕の手を取るがいい!」
彼は本気でそう思っていた。
自分はどこまでも正しく、慈悲深く、エミリアを「救ってやる」のだと。その歪んだ特権意識と愚かさに、エミリアは心底から呆れ果てた。
十年前のエミリアなら、逆らえずにその手を握ってしまっていたかもしれない。
けれど、今のエミリアは違う。自分の価値を、傷跡ごと真っ直ぐに愛してくれる人を知っている。
「――お断りいたします」
「……は?」
レオナルドの顔が、信じられないものを見たかのように歪んだ。
「今、何と言った? この僕の慈悲を断るというのか? おい、勘違いするなよ! お前のような地味な女、僕が拾ってやらなければ一生行き遅れの――」
「違うな」
地を傷つけるような、圧倒的な低い声が、店内に響き渡った。
レオナルドがビクリと肩を揺らし、声のした方を振り返る。
そこには、店の奥の影からゆっくりと立ち上がる、一人の大男の姿があった。
黒い外套を脱ぎ捨て、露わになったのは、ヴァルハイト帝国の公式軍服。そして、その胸元に輝くのは、皇族の証である『狂狼』の紋章。
「な、なんだお前は……! いや、その紋章は……まさか、ヴァルハイト帝国の……!?」
レオナルドの顔から、一気に血の気が引いていく。
いくら一国の第一王子とはいえ、大陸最強の軍事大国の「氷の英雄」が相手では、国家ごと消し飛ばされかねない。
アルベルトは、静かな怒気を全身から放ちながら、一歩、また一歩と歩みを進めた。彼が歩くたび、室内の空気が物理的に冷え込んでいく。
アルベルトはエミリアの前に立ちはだかるようにして、彼女を背中に隠した。
「アルベルト様……」
「大丈夫だ、エミリア。こんな矮小な羽虫の羽音など、気にする必要はない」
アルベルトは冷徹な青い瞳で、レオナルドをゴミでも見るかのように見下ろした。
「なぜ隣国の王子が、こんなところに……! いや、エミリア! お前、まさかこの男と……!」
「貴様がその汚い口で、彼女の名を呼ぶな」
アルベルトがそっと剣の柄に手をかける。そのわずかな動作だけで、レオナルドの護衛騎士たちは恐怖のあまりその場にへたり込んだ。
「彼女の価値を理解できず、地味だと罵り、その努力を踏みにじって捨てた無能が、今更どの面を下げて戻ってきた。外交の更新日すら管理できない愚か者が、彼女を再び都合のいい奴隷にするつもりか。お前が『雑用』と切り捨てた彼女の能力は、我が帝国であれば国家最高顧問レベルの至宝だ。貴様のような人を見る目のない愚王に、彼女を返すわけがないだろう」
アルベルトは一気にまくしたてると、最後にレオナルドに向けて、絶対的な威圧を放った。
「彼女はもう、お前のものではない。――今後は、私の妃になる人だ。これ以上、私の婚約者に付きまとうのであれば――ヴァルハイト帝国は、貴国に対して相応の『対応』をせねばならなくなるが、構わないな?」
「ひっ……! あ、あああ……!」
それは、事実上の宣戦布告だった。
レオナルドは完全に腰を抜かし、涙目になりながら、護衛の騎士たちにしがみついた。
「お、覚えていろ……! こんな田舎女、こっちから願い下げだ! 帰るぞ、お前たち!」
レオナルドたちは、命からがらという様子で馬車に飛び乗り、大慌てで王都の方向へと逃げ帰っていった。
なお、この後レオナルドの国は、エミリアを失ったことによる深刻な人材不足と、アルベルトによる経済的制裁によって完全に財政破綻し、レオナルドとマリアは王籍を剥奪されて借金まみれの平民に落ちぶれた。
自分たちがどれほど恵まれていたのかを、冷え切った牢の中で一生後悔することになるが、それはまた別の話である
「ふぅ……。騒がせてすまなかったな、エミリア」
アルベルトは剣から手を離すと、いつもの無表情に戻り、エミリアを振り返った。
けれど。
「あの……アルベルト様」
「なんだ」
「さっきの、あの……『私の妃』っていうのは、その……レオナルド殿下を追い払うための、お芝居、ですよね……?」
エミリアが顔を真っ赤にしながら尋ねると、アルベルトはふい、と不自然に顔を背けた。
見れば、彼の耳の端どころか、首筋まで真っ赤に染まっている。相変わらずの恋愛耐性ゼロモード、いや、完全に幼児退行した大型犬状態だ。
「……半分は、そうだ。奴を合法的に排除するには、それが一番手っ取り早かった」
「やっぱり、そうですよね。ありがとうございます、助かりま――」
「だが、もう半分は、俺の本心だ」
アルベルトは再びエミリアに向き直ると、彼女の両手を、自身の大きな手でそっと包み込んだ。
その手が、微かに震えている。
「俺は、お前を帝国に連れていきたい。お前を他の男に渡したくないし、お前の焼くパンを、お前のあの優しい笑顔を、一生俺の隣で独占したい。……俺の生涯の伴侶になってほしい」
「アルベルトさん……」
「俺は字も汚いし、お前がいないと飯もまともに食えないし、社交に出れば三分で相手を威圧して決裂させるポンコツだが……それでも、お前を一生守ると誓う。お前の事務能力で、俺の領地を、俺を助けてほしい。……俺の、お嫁さんになってくれ」
エミリアの目から、今度は嬉し涙がこぼれ落ちた。
昔は、「お前など必要ない」と言われた。
けれど今は、こんなにも愛おしい人が、自分のすべてを必要だと言ってくれている。
「――はい。喜んで、お受けいたします。アルベルト」
その瞬間、アルベルトの顔に、これまでに見たこともないような、深く、そして愛おしそうな笑みが浮かんだ。
数ヶ月後。
ヴァルハイト帝国のまばゆい宮廷の晩餐会を終えたエミリアは、帝国の広大な城下町にいた。
そこに新しくオープンした『王妃のベーカリー・ローゼン帝国本店』の前には、今や朝の五時から、城下町の住民や宮廷の騎士たちによる、地平線の彼方まで続くような大行列ができていた。
「おい、今日も王妃様のクリームパン、買えるかな!?」
「あの『氷の英雄』が毎朝十個買い占めるって噂の伝説のパンだろ? 絶対に食べたい!」
店内では、琥珀色の美しいエプロンドレスをまとったエミリアが、元気にパンを並べている。王都での厳しい教育は、今や見事な店舗経営能力として昇華され、彼女は帝国で最も愛される「パン屋の王妃」となっていた。
「……エミリア」
カランカラン、とドアベルが鳴り、店の裏口から、これまた特注の「エプロン姿」を身にまとったアルベルトが入ってきた。大国の王子でありながら、彼は今や、毎朝厨房に侵入してはエミリアの助手をするのが日課だ。
「アルベルト、おはようございます。今日も早いですね」
「ああ。だが、俺はもう、昨日の宮廷の高級料理のせいで胃が限界だ。……今すぐお前のパンを補給しないと、俺は栄養失調で倒れる。あと、今日の外交書類、お前が隣にいてくれないと緊張して相手の全権大使を殴りそうだった」
「もう、極端なんですから! 書類はあとで一緒に見ましょう。はい、これ、あなたのために特別に焼いた、焼き立てのクリームパンです」
「……(ぱぁぁっ)」
アルベルトは嬉しそうにパンを受け取ると、いつものようにパクリと咥えた。
その瞬間、彼の冷徹な顔立ちが、世界中の誰よりも甘く、幸せそうに緩む。
「……美味い。一生分、おかわりを要求する」
「はいはい、わかってますよ。私の可愛い王子様」
エミリアが微笑みながら、彼の大きな手をギュッと握りしめる。
地味だと捨てられた令嬢は、辺境の小さなオーブンから、世界で一番温かくて、最高に甘い幸福を、その手で掴み取ったのだった。
(おわり)




