第1話 最後の原稿と、諦めなかった60年
俺の名前は佐藤健一。
今年でちょうど60歳になるはずだった。
コンビニの夜勤を終えて、アパートの狭い部屋に戻る。時計は午前4時を回っていた。
テーブルの上には、昨日から描き続けている漫画のネームが散らばっている。鉛筆の芯はもうほとんどなくなり、消しゴムのカスが山になっている。
「もういい加減に諦めろよ、健一」
「60にもなって、いつまでそんな夢みたいなこと言ってるんだ」
「バイト生活いつまで続ける気だ? 老後の貯金とか考えてないのか?」
親戚の集まりで、友人からのLINEで、同級生の結婚式の二次会で——何度も何度も聞かされた言葉だ。
若い頃は「頑張れよ」と笑っていた奴らも、40を過ぎ、50を過ぎると、みんな同じような顔で俺を見てため息をつくようになった。
でも、俺は諦めなかった。
子供の頃から、物語を描くのが好きだった。
誰かの人生を、誰かの軌跡を、紙の上に刻み込むのが、俺にとっては生きることそのものだった。
プロになれなくてもいい。誰かに読んでもらえなくてもいい。
ただ、俺が納得するまで、俺が「これだ」と思えるまで、描き続けたかった。
だから今夜も、徹夜覚悟でペンを握る。
「もう一話……もう少しだけ……」
ストーリーは佳境に入っていた。
落ちこぼれの少年が、古びた一冊の書物と出会い、誰も信じなかった才能で世界を変えていく話。
皮肉なもんだ。俺の描いている漫画の主人公と、今の俺の状況が重なる。
指が震える。目がかすむ。
肩が重い。頭の奥がずきずきと痛む。
それでもペンを置かない。
「あと少し……あと少しで、このキャラの想いが伝わる……」
午前6時を過ぎた頃、視界が突然白くなった。
……あれ?
体が浮くような感覚。
いや、落ちるような感覚だ。
心臓が、妙にゆっくりと鼓動を打っている。
「くそ……まだ、描き足りないのに……」
最後に浮かんだのは、そんな馬鹿げた後悔だった。
俺は、過労死した。
暗闇の中で、声が響いた。
『……よくぞ、諦めなかったな。佐藤健一』
柔らかくて、どこか懐かしい女性の声。
目を開けると、そこは真っ白な空間だった。
俺の体は、なぜか10代くらいの少年の姿になっている。瘦せていて、色白で、明らかに病弱そうだった。
「おいおい……これは夢か? それとも……」
『どちらも正しく、どちらも違うわ。あなたは死んだ。そして、新しい世界に転生したのよ』
目の前に、光の粒が集まって人型のシルエットが現れる。
女神……というか、そんな感じの存在だ。
優しい笑みを浮かべているが、目が少し悪戯っぽい。
『あなたの人生は、とても珍しいものだった。60年間、誰にも理解されず、ただ物語を紡ぎ続けた。親にも、友にも、社会にも「諦めろ」と言われ続けながら、それでもペンを置かなかった。その執念……その「記録を、軌跡を、美しく刻み続けたい」という魂の叫びは、この世界の「書物」と強く共鳴したわ』
「書物……?」
『ええ。この世界では、特別な「軌跡の書」や「英雄の書」「魔導書」が存在するの。持ち主の人生、戦い、想い、成長を自動的に記録し、頁を解放していく力を持つ書物よ。
でも、頁を解放するには「才能」が必要。戦闘の才、魔力の才、血筋の才……ではなく、「書物との共鳴力」——魂の質や、物語を紡ぐ適性が必要なの』
女神は指を軽く振った。
目の前に半透明のステータス画面のようなものが浮かぶ。
【佐藤健一(転生後:名前未定)】
戦闘レベル:1
魔力:3
体力:5
……
書物解放才能:SSS(極限値)
「は? SSS?」
俺は思わず声を上げた。
『他の能力は、転生先の落ちこぼれ少年のままでほとんど底辺よ。魔力はほぼゼロに近いし、体も病弱。
でも、書物解放才能だけは……あなたの60年間の執念が、この世界のルールをぶち破るほど高くなったわ。普通の人間では、せいぜい才能値30〜60程度。天才と呼ばれる者でも70前後が限界。
あなたは最初から90を超えている。ほぼ神域ね』
「待て待て……つまり、俺は弱いままだが、本(書物)を開く才能だけはチートってことか?」
『その通り。歴代の勇者や英雄たちが残した「勇者の書」すら、あなたの才能があれば、早い段階で高い解放レベルに到達できるはずよ。
ページが開けば、過去の英雄たちが使っていたスキルや魔法、技が記録から解放され、あなたが使えるようになるわ』
女神はくすくすと笑った。
『ただし、注意して。才能が高すぎると、書物は「本物の軌跡」を求めてくる。凡庸な毎日では頁は開かない。困難を乗り越え、感情を燃やし、ドラマチックな人生を歩まなければ……書はあなたを認めないかもしれない』
「ふん……それでいい。
俺は60年、凡庸な毎日なんか送ってこなかった。
誰も読まない漫画を、ただ自分の納得のために描き続けた。
今度こそ、本物の『物語』を、俺自身が生きて、記録できるなら……悪くない」
俺は自然と口元が緩むのを感じた。
『では、行ってらっしゃい。新しい人生を、思う存分、描きなさい。
あなたの「諦めなかった執念」が、どのような軌跡を紡ぐのか……私も楽しみにしているわ』
光が強くなり、意識が遠のく。
最後に、女神の声が優しく響いた。
『おめでとう、佐藤健一。
あなたは、ようやく「読まれる物語」の側に立てるかもしれない』
目が覚めると、そこは見知らぬ木造の小屋の中だった。
体は軽い……いや、軽すぎる。
手足が細く、胸が苦しい。息をするだけで少しゼェゼェいう。
鏡代わりの水桶に映った顔は、14〜15歳くらいの瘦せた少年。
髪はぼさぼさで、服は粗末な麻のシャツ。明らかにこの村の最底辺、病弱児だ。
「……ははっ。完全に弱者転生じゃねえか」
立ち上がろうとして、ふらつく。
魔力は本当にほとんど感じない。ステータスで言うなら、ゴミ以下だ。
でも、胸の奥に熱いものが残っている。
60年。
諦めろと言われ続けた日々。
夜通し机に向かい、原稿を描き続けた指の痛み。
それが、今、俺の中に確かに生きている。
小屋の隅に、古びた木箱があった。
埃をかぶったその中に、一冊の分厚い本が眠っている。
革表紙はところどころ傷だらけで、金具は錆びている。
でも、なぜか——触れた瞬間、俺の指が震えた。
【勇者の書】
本の表紙に、淡い光の文字が浮かび上がる。
同時に、頭の中に声が響いた。
『……お前か。
俺の新たな持ち主は。
ふむ……才能の値が、異常に高いな。
解放レベル……既に15を超えているとは。
面白い。弱い体で、よくぞ俺を目覚めさせた』
書物が、俺に向かって語りかけてきた。
俺は思わず笑った。
「ようこそ、相棒。
俺は佐藤健一……いや、今は違う名前になるんだろうが。
60年、夢を追い続けた男だ。
お前が記録したい『本物の軌跡』ってやつを、一緒に作っていこうぜ。
諦めなかったこの執念……無駄じゃなかったって、証明してやる」
古い書物が、かすかに——まるで喜ぶように——ページの端を震わせた。
外から、村の喧騒が聞こえてくる。
誰かが叫んでいる。「魔物が近くの森に出たぞ!」と。
俺はゆっくりと立ち上がり、勇者の書を胸に抱いた。
戦闘レベルは1。
体は弱い。
魔力はゴミ以下。
でも、書物の解放才能だけはSSS。
「さて……まずは、このページを開いてみるか」
弱者の俺が、
諦めなかった60年の執念で、
英雄の軌跡を、次々と解放していく物語が——
今、始まろうとしていた。
(第1話 終わり)




