陸
「しっかりしろ!お前は向こう側には決して渡さない!」
俺は、湊音のその声にはっとした。逃げたい、死にたいという考えに染まっていた思考や、怪異たちからの誘惑を、何とか遮断する。
何とか気を取り直し、じっと閉まり切ったこの教室の戸を睨みつける。
少し待っていると、その戸が動き、見事に開け放たれた。
木戸、友永、松山は顔面を、家庭科室にいた時よりも、涙と鼻水と埃でグチャグチャにしていた。
制服も、ところどころ埃っぽい。あと、友永は丸出しのでこが、赤くなっていた。
この旧校舎は埃が積もっている所が多い。そこまで、駆け巡って全ての怪異を連れてきたのだろう。
「中まで入って来い!」
湊音に言われ、三馬鹿は俺の背後へと走り出した。
どんどん、と窓が叩かれる。見るまでもない。怪異が外にいるのだろう。
湊音に言われたことを思い出す。あいつら怪異は、俺たちが怯えると、より強力になる。
三馬鹿は、窓を全て開ける。中へ、怪異が入ってくる。
全員、俺を狙っている。旨そうな俺を。俺は、気丈に振舞う。決して、奴らに怯えないように。
震えそうになる足を叱咤する。じっと、顔を上げて、前を見据える。近くに、怪異がやってくる。
犬や猫と、人間が混ざったような、不気味な造形。湊音が言っていた、生贄に使われた犬と猫だったんだろうか。
今まで嗅いだことがない、ひどいにおい。もう、一体何のにおいかもわからない。ただ、人型の異形たちが、何体も折り重なって、俺の方へと向かってくる。
それはまるで、見たこともない黒くなっていた水晶の、黒色のように蠢いていた。
怪異たちは、目の前の餌である、俺に群がろうとしていた。ライバルにとられるまい、と我先に押し合い、牽制し合い、俺に近づいていく。だからこそ気が付かなかった。
戸の死角に立っている、狩衣姿の男の存在に。
「掛けまくも畏き、瀬織律比売と伝ふ神。
穢れを祓い、禍を流し給へ。
水の音に乗せて、罪と穢れを遠津の国へ。
祓へ給へ、清め給へ。
瀬織津比売の御名を以て、願ぎ奉る。」
凛とした湊音の声が、教室中に響き渡った。
湊音が祝詞を唱え始めた瞬間から、空気が変わり始めた。
水の中にいるような、神秘的で静かな空間。
それが俺にとっては心地よく、同時にどこか他人行儀だった。
湊音の手の中の棒が、湊音の動きに合わせてシャカシャカと鳴った。
その音はまるで、美しい女性の笑い声のように感じた。
湊音に漂っていた、神聖な雰囲気が、この教室中に広がる。
なんだか、体の中のよどんでいたものが、綺麗に押し流された感覚がした。
俺は、禍々しい気配が消えていくのに安堵するとともに、壮大な力に、圧倒された。
「「「「「「「グオオオオォォォォォ――――…………・・・」」」」」」」
怪異たちは、そんな呻き声と共に、段々と薄くなり、そしてついには消えていった。
俺たちは、そんな光景に、ただ呆然とする他なかった。
そこには、すっかり腰を抜かし、床に座りこんだ男子高校生四人と、したり顔で笑っている狩衣姿の男がいるだけだった。
夕日は、相変わらずあたりを赤く照らし、校門は何事もなかったように、学校の外と中をつないでいた。
先程までの喧騒とは違い、すっかり辺りは静まり返っていた。しかし、それを不気味には思わなかった。
帰ってきた。そんな気持ちだけが、安堵と共に心を満たしていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
翌日。
あの事件は、どこにも爪痕を残さずに終わった。あのひしゃげた校門も、家庭科室でまき散らした塩も、まだ片付けていなかった吐瀉物も、怪異を倒した後は、跡形もなく、最初からなかったかのように消え去っていた。
俺たちは、今までどこにいたのだろうか?まさか異世界……?なんて、馬鹿な考えも過ってしまったほどだ。ありえないのは分かっているが。
ただ、あれだけの衝撃を受けてもなお、壊れなかった鍵が壊れていたらしい。
それは、あの出来事が実際にあったことだ、という確証もないのに湧き上がる実感と共に、じわじわとした恐怖を俺たちに運んできた。
あとは、水晶も割れたままだった。しかし、そもそもそんな教室、事情を知っている人物しか入ったことがなかった上、湊音が昨日校長とか教頭とかに説明していたため、大きな騒ぎになることもなく、内々で済まされた。
三馬鹿は、それに対しほっとしていたが、その後、かなり長い間校長と教頭から説教をくらっていた。俺も巻き込まれたのだが、物凄く怖かった。
三馬鹿は本気で泣いていた。ざまあみろ。俺を巻き込んだ報いだ。
俺たちの怪我と言えば、擦り傷と俺が三馬鹿を殴った痕だけで、特に大きな怪我をしていなかったという事もあるのだろう。ただの喧嘩で済まされた。
クラスは、「あの仲がよかった三馬鹿が!?」と驚いていた。休み時間になって、クラスメイト達から質問攻めにされていたが、正直ざまあみろ、と思った。あれだけ巻き込まれたのだ。俺は悪くない。
親への詳しい事情説明はなかった。正直、そういう話を、信じるような人たちでもないため、頭がおかしくなったんじゃ、とか言われずに済んで、ほっとしている。普段、不満しかない学校からの采配を、ここまで感謝したことはなかった。
とは言っても、学校としてもこれが公になるのを避けたかっただけで、ただの利害の一致だ、という事もわかっているが。
だからこそ、俺はいまだに夢を見ていたんじゃないか、と考えてしまう。
だが、木戸、友永、松山も同じ体験を記憶しているし、何より水晶が割れている。旧校舎の三階、右から二番目の教室の立ち入り禁止は解かれていたし、禍々しい気配は欠片も感じなかった。
もう、現実味のない出来事の連続で、俺は何が現実で何が夢か、分からなくなっていた。
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