色の亡者の物語【無常堂夜話9】
『三大欲求』について議論をする戻子と鏡子。ソラに話を聞きに行った帰り、戻子をへんな感覚が襲う。5日も学校を休んだ戻子を心配した鏡子が家を訪ねてみると、そこには何かに憑かれたように快感をむさぼる戻子がいた。いったい戻子に何が起こったのか?
【おことわり】
今回は話の都合上、少しセクシャルな表現を含みます。戻子ちゃんには、いつものキャライメージには似合わない描写を行っています。その点ご理解の上、お読みいただければ幸いです。
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起・『三大欲求の中では最弱』って人もいる
「……鏡子、どうして人間には三大欲求ってのがあるんだろうね?」
私がそうつぶやくと、鏡子が驚いて立ち上がり、私のおでこに手を当てて訊いて来る。
「な、なんやねん戻子。熱でもあるんか?」
私、一条戻子と貴家鏡子は、N県にあるS大学の人文学部1年生だ。
入学から1年が経とうとし、2年生に上がれるかどうかは後期試験の結果次第だが、十分単位も足りてるし、必修科目もクリア確定なので、そんなに心配はしていない。
ただ、2月に入って、やたらと周囲で目に付くのが、男女のつがいだった。
「いや、そこは『つがい』やのうて『カップル』とか言うてやりぃ? で、それが1行目の発言とどうつながるんや?」
私は、目の前に置かれたパスタを見ると、学食を見回す。鏡子もそれにつられてぐるりと回りを見る。どの席でも、男子と女子が仲睦まじく座って昼食を食べている。
中には、女子から「あーん」してもらって鼻の下を伸ばしている恥ずかしい男子もいて、私や鏡子は思わず目を逸らした。なんか、見ていてこっちが居た堪れなくなる。
「……夏休み前から気にはなっとったんやけど、このガッコ、カップル率高うないか?」
牛丼をがっつきながら鏡子が言う。それは私も同意する。
考えてみれば、2年の油川春弓先輩も法学部の山本先輩を従えているし、同じクラスでも何組かカップルが出来上がっている。
「……うん。クリスマス辺りから急にみんなそわそわし始めたよね? なんでだろ?」
私が言うと、鏡子はにまぁ~っと笑って、
「そりゃあ、ぼっちでクリスマスなんて、苦しみますの最たるもんやからやろ?」
そう言う。私には理解不能だ。
「……別にひとりでクリスマス祝ってもおかしくないんじゃない? 私は毎年鏡子と一緒だから分からないけれど、ノブさんとかどうなんだろ?」
「あ~。ノブさんは毎年、男ひっかけ損なった梅ちゃん准教授の相手させられとるらしいで? そんなやから、去年のクリスマスにはルーン文字の研究って名目でアイルランドに行っとったんやな」
そうだったんだ。とすると、三大欲求って必要なものであるらしいけど、平和を乱すものでもあるんじゃないかしら? だいたい、個人で考えると三大欲求にも優先度があるし。
「食欲は理解可能。だっておいしいもの食べると幸せだし、食べないと死んじゃうから」
「せやな、おいしいもんは人生最高のスパイスやで。おいしいもん食べて、ぐっすり寝て、戻子とイチャコラしたら、うちは最高や!」
鏡子が目を輝かせて、そんな恥ずかしいことを大声で言う。考えてみれば、鏡子は(本人は気にしているが)低身長で可愛いし、茶髪じゃあるけれどポニテが似合うし、何より明るくて元気っ子だから、今まで彼氏がいなかったことが、いっそ不思議ではあった。
「でも、睡眠欲が最強かなぁ。お腹が少々減ってても、眠気には敵わないもん。一日8時間の睡眠、これって私的には絶対不可侵のマイルールだなぁ」
私が言うと、鏡子はうなずいて、
「うんうん、うちだって寝るのは好きや♡ ただ、戻子よりも短くても平気やな。睡眠は6時間あれば十分や。問題は長さやのうて質やで」
そう言う。まあ、私的にはちょっと異端じゃあるけれど、寝ることを大事にしているって点では同志だ。
「……となるとやな、残りの欲求って、個人的なレベルで考えると必要なんか?」
急に鏡子が真面目くさって言う。確かに、二人にとって『三大欲求の中では最弱』の欲求には『種の存続』という大目的があるとは言っても、個人レベルで考えると『知らんがな』って人もいるわけで……。
「……ということで、ソラさんはどうなのかなって思ったの」
私と鏡子は『無常堂』という骨董屋さんで、店主のソラさんにそう訊く。ソラさんは磨いていたアンティークのランプを危うく落っことしそうになり、
「おっと! はぁ~、危なかった……で、ぼくの三大欲求の優先順位が知りたいと?」
苦笑いしながらランプのホヤを取り付ける。
「空様の場合は、何より知識欲が優先しませんか?」
そう言いながら、店の奥にある座敷から、着物にエプロンといういでたちの若い女性が現れる。『無常堂』の店員さんで、確か名前は瀬緒里さんとか言ったっけ。
この『無常堂』は、ノスタルジーを感じさせる広場にあって、外観もレトロな雰囲気のものだ。古い板壁、歪んだガラスがはまった玄関の引き戸、セメントみたいな瓦に色褪せた帆布製の庇……極めつけは『無常堂』と彫られた素朴な立て看板だ。
「うん。ソラさんが知識欲旺盛で勉強家なんは、ここにある古書を見れば分かるねんけど、うちらが問題にしとんはあくまで三大欲求や。ソラさん人間離れしとんから、まさか三大欲求はないなんて言わへんやろな?」
鏡子が訊くと、ソラさんは微笑んで、
「さすがにそこまで解脱はしていないかなぁ。食欲や睡眠欲がないと生きていけないし」
そう言う。そう言われると、なんかうまくかわされた気持ちになる。
「あのっ、ソラさんっていったいお幾つなんですか?」
私は、『雨竜島』の調査で初めて会った時から抱えていた疑問をぶつけてみる。もっと早く訊くもんなんだろうけれど、なぜか今までそのタイミングを逃していたのだ。
ソラさんは目をぱちくりして、
「え? ぼくですか? 今年25ですけど。教えていませんでしたっけ?」
そう言う。いや、訊いてもいませんでしたが、とにかく想像していたよりずっと若かったのにはびっくりした。
「え!? それホンマなん? 20くらいサバ読んでへん?」
鏡子が失礼千万なことを言う。でもまあ、丸顔で童顔ではあるものの、天然パーマの髪の毛はそのほとんどが白髪だったから、年齢不詳だったことには違いない。
ソラさんは引きつった笑顔で、
「はは……まあ、白髪が多いし、こんな仕事をしているから、年齢不詳とはよく言われるけれど。瀬緒里さん、ぼくって40代に見えるのかなぁ? ちょっとショックだ」
そう瀬緒里さんに訊く。彼女はアンティークの陶磁器で紅茶を淹れながら、
「お店の中に座ってばかりだからじゃないですか? たまには月詠神社の方まで散歩されてみては?」
そう言うと、私たちの前にティーカップを置く。これは手厳しい。聞き方によっては『40代に見える』と肯定しているようにも解釈できる。
瀬緒里さんから明確な否定の言葉が得られなかったソラさんは、
「……じゃ、お客さんも来ないし、ちょっと神社まで行ってみますよ。
瀬緒里さん、周や樟葉が来たら、品物を受け取っておいてくれませんか? 仕入れ代はいつもの所に置いています」
そう言うと、肩を落としてそそくさと店を出て行った。
「あっ、ソラさん!……しもうた、ソラさんの優先順位訊きそびれた」
鏡子がソラさんを呼び止めようとお店を飛び出したが、すでにその姿はなかったらしい。すごすごと戻って来る鏡子に、瀬緒里さんが教えてくれる。
「空様は、いたって普通の男性ですよ? 三大欲求もそれなりにありますが、私が知る限りでは、全部同じくらいです。
ただ、三大欲求全てを合わせても、知識欲の10分の1くらいにしかならないようですが」
えっ? 今この人、『全部同じくらい』って断言した!?……そんなことまで知っているなんて、瀬緒里さんって絶対ただの店員さんじゃないよね?
だって食欲や睡眠欲については、一緒に仕事しているのなら何となく分かるだろうけれど、その、せ、〇欲については、実践しないと分かんないだろうし……。
鏡子も固まっている。恐らく私と同じ結論に達しているのだろう。
やがて鏡子は、顔を赤くしながらおずおずと訊く。
「あのぅ、瀬緒里はん。つかぬこと訊くけど、瀬緒里はんはソラさんと、ええことしたことあるんか?」
……おずおずとド直球で訊いた。
「ええこと? もしかして夜の営みのことでしょうか?」
瀬緒里さんが火の玉ストライクを投げ返す。ひょっとしたらこの人、天然かもしれない。
私たちが顔を赤くして黙っていると、瀬緒里さんは至極普通に答えてくれた。
「もしそうだったら、普通の女性は答えませんよね? ですから私もお答えを控えさせていただきます」
『無常堂』で美味しいお茶と駄菓子をいただいた私たちは、商店街に出た途端、何か虚しい感情に襲われた。二人ともずっと『三大欲求』のことで盛り上がっていたけれど、何故だか急に、
(私、何やっているんだろう? わざわざソラさんの所まで行って、かなり際どい話なんかして。きっとソラさんや瀬緒里さんからは、『変な子』だって思われたに違いないわ)
そんな考えが浮かんできたのだ。これがいわゆる『素に戻った』っていう状態なのかもしれない。
「……うちら、何やってんやろな?」
鏡子もぽつりとつぶやく。午後からの私たちの行動は、何かいつもと違っていたことを、彼女も感じているに違いない。つぶやきの声から、彼女にとっては珍しく、自己嫌悪の感情が読み取れた。
考えてみれば、うら若き19・20歳の女の子が、言うに事欠いて『三大欲求』……私たちの興味は、主にせ、〇欲にあることは明々白々だったに違いない……について人目も憚らず、羞恥の色も見せずに男性と話すなんて、ちょっと考えたら普通はあり得ない。
そうさせてしまった何かがあった……そう思いたいのだが、いかんせん午前中の講義にも、午後のバイトでも、そんなことを示唆するものはなかった。
ただ私は、周囲のカップルたちの存在が、急に気になって、疎ましく思えてしまったことが気にはなった。
考え込む私に、鏡子が真剣な顔で言う。
「……なあ戻子。うちら今日おかしかった、そう思わへんか?
特に戻子はそうや。いつもなら恋愛に関することや、ましてやカップルをコケにするようなことなんて、口が裂けても言わへんもん。
ひょっとしたら、戻子も欲求不満が溜まっとんのかもしれへんけど」
「それはない……と思う……」
大体私は、昔から恋愛に対してあまり興味がなかった。小学校から高校にかけて、他の女の子たちが恋やデートやおしゃれについて話の花を咲かせていても、ぜんぜんついていけなかったし、そもそも興味もなかった。
恋やデートに時間を使うくらいだったら鏡子と遊んでいた方が楽しかったし、おしゃれにお金を使うんだったら本を買って読んでいた方が幸せだった。
ただ私が、『それはない!』と胸を張って断言できなかったのは……まぁ、できたらできたで悲しいものはあるが……何か胸の奥、というよりヘンなところが疼き、急に熱っぽくなってきたからだった。『火照る』ってこういう感じなのかもしれない。
「どないしたんや戻子? 何や顔が赤いで?」
私の顔色を見た鏡子が、心配そうに言う。私はできるだけいつもどおりに笑い、
「う、うん。ちょっと考えすぎて、知恵熱が出ちゃったかな? 今日は早く帰って寝るね?」
そう言うと、鏡子は送っていくと言ってくれたが、私はそれを断って急ぎ足で自分のアパートに戻った。一刻も早く一人になって、ここには書けないようなところをまさぐりたい……私は、私の身体が私のものではなくなったような感覚に襲われていた。とにかく早くこの火照りを何とかしたかったのだ。
部屋に入ると、私は鍵を閉め、チェーンをかける。そしてすぐさま洋服を脱ぎ捨て、お風呂に飛び込んだ。
熱いお湯につかると、相対的に火照りは感じなくなる。一息ついた私は、リラックスするために深呼吸をする。
胸の中でもやもやしたものが消えていく。その感覚に私は少しホッとしていた。
けれど、身体を洗っているとき、突然それはぶり返してきた。ボディブラシがいけなかったのかもしれない。
胸を洗う時、びくっとした感覚が襲い、下腹部が熱くなる。なぜか手が自分の意識とは関係なく、胸のつぼみをつまむ。ぞくぞくっとした、気持ちいい震えが背中から腰に伝う。
その気持ちよさに誘われるように、両手で両方のつぼみをつまみ、転がし、少し引っ張る。そのたびに、違う気持ちよさが背中を伝い、甘いため息が漏れる。
私は頭が真っ白になってきた。秘めたところからは何かトロっとしたものが流れ出している。無意識に私はシャワーを最も強くして、その部分にお湯をかける。敏感な部分が反応し、頭の中で何かが弾けたような感覚がして、私はお風呂の床にぺたりと座り込んだ。
そして、バスタブの縁にもたれかかる。右手は胸のつぼみをつまんだまま、左手が知らず知らずのうちに秘めた部分に伸び、自分でもてあそび始めた。
私の呼吸が浅く、速くなってくる。声を出すのは何とか我慢した。声を上げてしまったら、もはや自分を抑えられなくなってしまいそうで怖かった。
私は、心のどこかで、
(こんなの私じゃない!)
そう叫びながらも、あまりの気持ちよさに身体が痙攣し、気が遠くなってしまう。
しばらくして気が付いた私は、だるい身体を引きずってお風呂から出る。なんとか身体を拭き、パジャマに着替える。
しかし、バスタオルで胸を拭いた時、パジャマの布がこすれた時、ちょっとしたことで私はさっきの快感を思い出し、布団の中で何度も何度も恥ずかしい行為を続けてしまった。
最早この快楽からは抜け出しようがない……その夜から、私の地獄が、思い出すと叫びだしたくなるほど恥ずかしい地獄が始まってしまったのだ。
★ ★ ★ ★ ★
承・病と障りの境界線
「戻子~、居らへんのか~?」
鏡子は、戻子の部屋の前で声をかける。呼び鈴を何度鳴らしても、ドアを叩いても、そして何度呼び掛けても反応がない。さすがに鏡子は心配になってきた。
「戻子ー。もう5日も学校に来てへんねんでー? 梅ちゃんも心配しているさかい、顔だけでも見せてんか~?」
鏡子はのんびりした声でそう言いながら、周囲を確認し、部屋の中の気配を探る。
家が武道場であり、法神流剣術の免許者でもある彼女は、戻子が確かに部屋にいること、呼吸が浅く速いこと、そして何か呻き声のようなものが聞こえることを察知した。
(……これ、ひょっとしたら戻子、何や病気ちゃうんか? ほっといてええわけないな)
状況からそう判断した鏡子は、急いで管理人室に向かう。ここの管理人は気のいいおばちゃんや。それにうちや戻子のこと、我が子のように可愛がってくれとる。助けてくれるに違いない。
案の定、管理人のおばちゃんは、鏡子が血相変えてやって来て部屋の様子を話したら、
「それは大変。私が責任持つから、一緒に戻子ちゃんの部屋に入ってちょうだい。
そうだ、先に救急車を呼んでおいた方がいいかも」
そう言って、救急車を手配したうえで、戻子の部屋をマスターキーで開錠した。
「戻子、だいじょうぶ!? 苦しいんか?」
鏡子はドアを開けるのももどかしい様子で、靴を脱いで戻子の部屋にすっ飛んでいく。寝室のドア越しに、戻子が慌てた声で、
「き、鏡子!? ちょ、ちょっと待って。私がいいって言うまで入らないで」
そう言いながら、何かわたわたしている。
鏡子は、戻子の声に元気がないことを察して、さらに心配が募る。部屋の中には戻子の気配しかないことを確認して、
「戻子、だいじょうぶか? 何やっとるんや?」
戻子がいいと言う前にドアを開けて……そして固まった。
「……れい、こ?」
鏡子は茫然とした顔で戻子に話しかける。戻子の方は、ベッドに転がったまま下着を着ようとしていた。
「き、鏡子のばかっ!」
戻子は恥ずかしさからか、そう叫んで布団を頭から引き被る。
だが、その腕や背中を見て、戻子がかなりやせたことを見て取った鏡子は、ゆっくりと部屋に入り、
「バカでかまへん! 連絡もせぇへんと講義もバイトもすっぽかして、みんなどれだけ戻子のこと心配した思うてるねん!?」
そう一喝した後、ベッドの横に腰かけて、優しい声で訊く。
「ちらっと見たら、ずいぶん痩せとるんやないか? ご飯食べれへんのか?」
戻子は布団の中で、ふるふると首を振る。そして、小さい声で答えた。
「お腹は減ってる……でも、食べようとして動くと……あぁん……」
鏡子はドキッとした顔をして戻子を見る。最後の声が、あまりにも艶めかしかったからだ。まるで快感に悶えているかのように。
「……戻子、正直に答えてや? うちの知らん間に男とええことした?」
鏡子がずばりと聞くと、戻子はそれにも首を振る。
「それはない。だって私、まだそんなことに興味ない。でも、なんか、へんなの……あぁんっ……」
鏡子は訳が分からずに固まっている。とりあえず戻子がきっぱり否定するからには、男から無理やり、とかではなさそうだ……鏡子はそう考えて少し安心する。
「……ひょっとしたら、何かの病気かもしれへん」
鏡子はそう考えてとりあえず自分を落ち着かせる。間のいいことに、管理人のおばちゃんが呼んでくれた救急車が到着した。
「戻子、服着れるか? ひょっとしたら、その恥ずかしい症状は何かの病気かもしれへんから、病院行ってみよ、な?」
鏡子が言うと、戻子は素直にうなずき、刺激に反応し快感に喘ぎながら下着をつけ、服を着た。そしてうるんだ目で鏡子に言う。
「……ありがと。私も病院に行きたかったけれど、途中で変な声が出たり、悶え狂ったりしたら淫乱な女だと思われちゃうって怖かったの」
そう言って笑う戻子の顔はやせこけ、目の下にはクマができていた。しかし、まだ男を知らないにしては、その笑顔は妖艶で、艶めかしくさえある。鏡子はこの時点で、
(戻子、もしかしたら何かに取り憑かれとんのかもしれへん。女でこないなこと判る人ゆうたら武田先輩やな。一度、戻子のことを相談してみよ)
そう思ったらしい。
やがてやってきた救急車に、戻子と一緒に乗り込んだ鏡子は、戻子の診察や検査が終わり、病室に運び込まれるまで一緒にいた。
「着替えどないする? おとんやおかんに連絡したろか?」
鏡子がそう言うと、戻子は少し考えていたが、
「そうだね。どうせ入院することは知られちゃうから、誤解を生まないよう何でも知っていてもらった方がいいね? ごめん、鏡子、何から何までお世話になるね?」
点滴が効いているのか、普段どおり話す戻子だが、鏡子は何か得体の知れないものが彼女の身体に寄生しているような錯覚に襲われ、ちょっと目を逸らして答えた。
「親友やろ? 気にせんでええねん。それより早う良うならんと、梅ちゃんやノブさんが寂しがっとるで?」
「うん。ありがとう」
鏡子は、恥ずかしそうにうつむく戻子に、にかりと笑いかけると病室を出た。
「……で、わたくしに、戻子ちゃんに何か変なものが憑いていないかを視てほしいっていうわけね?」
鏡子は『心霊研究部』のサークルボックスにいた、黒髪で癖っ毛の女性、武田彩に声をかけ、戻子が陥っている状況が普通じゃないこと、戻子のために口が堅い人にしか頼れないことを説明し、協力を願う。
「せや、あんなん絶対戻子やない。きっとどこかで、何かに取り憑かれとるんや」
真剣な顔で言う鏡子に、彩は困ったような顔で
「……でも、普段まじめで奥手な子ほど、そんな知識を手に入れたらハマっちゃうとも聞くわ。お医者さんの診断を聞いてからでも遅くはないんじゃないかしら?」
そう言う。だが鏡子は譲らなかった。
「戻子は確かに真面目やし、興味を持ったもんはとことん突き詰める性格や。けど、小6の時ある事件が起こって、それ以来あないなことには嫌悪感しか感じてへんねん。
うち、戻子がトラウマを乗り越えて快感を感じとるんやったら祝福してもやるけど、戻子の顔には恐怖や嫌悪が混じっとった。
お願いや先輩! 戻子を視てやってぇな。祓う方はうちが何とかするんで」
鏡子の真剣な顔をじっと見ていた彩は、一言、
「……祓う方はわたくしが空さんにお願いしてみるわ。ちょっと待ってて?」
そう言うと、スマホを取り出して『無常堂』に電話を架ける。彩は鏡子を安心させるためか、スピーカーモードに切り替えた。
しばらく呼び出し音が鳴った後、
『ありがとうございます、無常堂です』
物静かで鈴の音のような声が聞こえる。電話に出たのは瀬緒里という店員(?)らしい。
「あ、瀬緒里さんですか?」
彩が言うと、電話の向こうで瀬緒里がクスリと笑い、
『月宮の坊にご用事ですね? そちらには鏡子さんもおいでですよね?』
そう言った後、何も聞かずに真剣な声で、
『月宮の坊が、あなた方との縁を一度だけ繋ぐそうです。すぐにこちらにおいでください』
そう言って電話を切った。
「……切られちゃった……」
茫然とする彩とは対照的に、鏡子は生気を蘇らせて言った。
「やたっ! 先輩、うちと一緒に『無常堂』に来てんか? 今なら戻子がおらんでもあの店に行けるはずやわ!」
その言葉にうなずいた彩は、鏡子と共に駆けだした。
「この辺から行けるはずやけど……」
商店街に着いた二人は、『無常堂』へと続くはずの路地を探し回るが、なかなか見つからない。こんな場面で堪え性がない鏡子が、癇癪玉を破裂させようとした時、
「話を聞かせてもらいましょう。瀬緒里さんから『無常堂で話を聞いている暇はないかもしれません』って言われたので、急遽こっちに来たよ」
と、いつもに似合わず少し焦った顔のソラが、瀬緒里と共に立っていた。
瀬緒里は、二人の顔を見るとにこりと笑って、
「戻子さんに纏わりついている気配、あなたには見えているでしょう?『見鬼』さん」
そう彩に言うと、彩はうなずいて、
「……生霊が1体と得体の知れないものが2体……うち1体は妖ですが、残りの1体からは悪い感情が読み取れないんですが?」
そう答える。
瀬緒里は薄く笑ってうなずくと、
「よくできました。生霊についてはあなたに対応してもらいましょうか。生霊が放っている妖は我が背が対応し、残りの道祖神は私が説得いたします」
そう言い、ソラを振り返って、
「では月宮の坊、『大事な』戻子さんを助けて差し上げてください。それと……」
そう棘のある声で言うと、ソラさんの耳元で何かささやいた。
困惑しているソラさんは、瀬緒里さんから何を言われたのかは知らないが、
「……それは解っています。あんまり心配しないでください」
そう、苦笑いして言うと、私たちに
「では、まず生霊を飛ばしている人から対応しましょうか」
そう言うと、四人で喫茶店に入り、対応を協議し始めた。
鏡子たちがそうやって動いてくれているのをぜんぜん知らない私は、入院3日目に激しい発作を起こした。
その様子は、ちょうど看病に来ていた母や妹がドン引きするほどだった。最初に異変に気付いた妹の清香は、
「お、おねえちゃん?……」
私があられもない格好で喘ぐのを見て完全にフリーズし、廊下から聞こえる看護師の足音でハッと我に返ってドアを開け、
「看護師さん、お姉ちゃんが発作です!」
そう言うと、看護師さんは慌てて私の個室に入って来て状況を確認し、
「処置を始めるまで、鍵を閉めてお姉さんが誰にも見られないようにしてあげてね」
という看護師さんの言葉に従って、私の尊厳を守ってくれたらしい。
動転した清香や母に告げられたのは、『持続性性喚起症候群の疑い』だった。
ただ、お医者さんとしては、症状が代表的な症例と食い違う部分もあり、一応、ホルモンバランスや脳の疾患も視野に入れている……とのことだったらしい。
「このままじゃ、戻子を家に連れて帰るしかないわね」
「え? でもお姉ちゃん、勉強のことあんなに楽しそうに話していたのに」
私は睡眠剤が入っている(と聞かされていた)点滴のせいで、うつらうつらしていたが、清香と母が深刻な顔でそんな話をしていたのを、断片的に覚えている。
そこに、私にとって一番会いたい、でもこんな姿を一番見られたくない相手……ソラさんがお見舞いにやって来てくれた。梅ちゃん准教授や瀬緒里さんも一緒だった。
「……病状が酷くならなければいいですが。彼女は優秀だから、1か月や2か月学業から離れていても、すぐに追いつきますよ」
黒髪ショートで青い目をした学会の異端児、梅ちゃん准教授からそう言われて、母も妹も少し安心したようだった。もちろん私は眠っていたが、後からそう聞かされて面はゆい思いをしたものだ。
ソラさんのことは梅ちゃんが、自分の研究仲間で大学の非常勤講師だと説明してくれたらしい。おかげで後から清香に、
「お姉ちゃん、化野先生を紹介して♡」
と、かなりしつこくお願いされることになるのは後日談だ。
瀬緒里さんは終始、優しい目で私を見つめていて、時々鋭い視線を窓の外に向けていたが、不思議なことにソラさんたちのお見舞い以降、私の体調は徐々に快方へと向かい始めるようになった。
一方、『無常堂』に帰った後、何か考え込んでいるソラをジト目で見た瀬緒里は、
「我が背は女子に人気がございますね? 戻子さんの妹さんも、我が背にポーッとした目を向けていましたよ?」
そう、棘のある声で言う。ソラは困った顔をして頭を振り、
「……そう責めないでくださいよ。いつか彼女たちにも真実を説明する時が来ますから」
そう言うと、瀬緒里は氷のような微笑を浮かべて、
「私は我が背を信じて月宮の里から出てきました。でも、出て来て失敗だったと思う反面、やっぱり我が背の隣にいることを選んで正解だったとも思います」
そう言うと、ソラにしなだれかかりながら言った。
「我が背に他の女が近付くのを見るのは辛いです。里にいて知らないでいればよかったと思います。でも、一緒に居れば他の女が我が背に近付くのを邪魔できるので、やはり出てきてよかったとも思います」
「何か怖いな。瀬緒里さんって、そんなに独占欲が強かったっけ?」
ソラが言うと、瀬緒里はにんまりと笑ってささやいた。
「神は嫉妬深いのです。それに、こんな私にしたのは我が背ですよ?」
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転・過ぎたるは猶及ばざるが如し
僕は、ずっと彼女を見ていた。入学式の時からずっとだ。彼女を一目見た時、僕は運命の相手と出会ったと確信した。
さらさらの長い漆黒の髪、眉を隠す程度の前髪、白い顔に頬は桜色に映えて、鳶色の瞳を持つ目は切れ長で涼し気、笑った時に桃色の唇から見える白い歯。
体型だって、胸は大きくも小さくもなく、そして健康的なすらりとした手足。入学式の時のダークスーツも良かったが、普段のTシャツに綿パンという格好も、自然体の彼女に似合っていた。
彼女は、いつも小柄で金髪ポニテの女と一緒にいた。こっちは男勝りで、どうやら彼女の親友らしい。関西弁でしゃべる、気のいい女性だと思えなくもないが、少なくとも僕の好みじゃない。
僕は、分厚い六法全書を見てため息をつく。彼女と同じ人文学部に入ればよかったと思った。だが、法曹界に身を投じて、困っている人を救いたいという夢は諦めきれない。
「……頑張って勉強して、司法修習生を卒業したら、彼女に告白するんだ」
僕は自分の目標をとりあえずそこに定めた。
しかし、僕はふと不安になる。あれだけ可愛らしくて素敵な女性だ。他の男も目を付けるに違いない。そうなったら、陰キャで不細工で、勉強しか取り柄がない僕みたいな男なんて、目に留めてもくれないだろう……。
僕は鏡に映った自分を見る。ぼさぼさの濃い茶髪、黒縁眼鏡の奥でおどおどしている瞳、そしてだらしないお腹。体重計に乗るのは、僕にとって苦痛だった。170センチ90キロ……これは薬の副作用だから仕方ないとは言っても、僕にとっては一番のコンプレックスだった。
何とか僕の思いを伝えたい……でも、僕なんかが告白しても、彼女はきっと困惑してしまうだろう。断られるのは心が痛いが、それより彼女のことだ、僕を傷付けまいと悩むに違いない。彼女にそんな気を遣わせるくらいなら、黙っていた方がいい。
僕は毎日の講義を受けながら、お昼には学食や喫茶店で彼女の姿を探した。彼女はいつも親友と一緒にいた。たまには先輩らしき男性や女性といるのを見かけるようになったのは、秋も深くなってきた頃だった。
彼女はどんどん変わっていく。友だちも増え、ますます綺麗になっている。僕はとうとう我慢が出来なくなって、彼女の姿をこっそりと撮影した。
幸い、僕にはバードウォッチングという趣味もあり、構内でも珍しい鳥を見かけるたびにカメラに収めていたので、そんなに不自然じゃなかった。
「……戻子さん……」
僕は四つ切に拡大した彼女の写真をパネルにして、毎夜毎夜語りかける。想像の中の彼女は優しく、そして清楚だった。
ある日、僕は気晴らしに晩冬の野鳥を撮影しに、大学近くの里山に入った。ここには本州でも珍しい鳥を見ることができ、お気に入りの場所でもあった。
午前中を撮影に費やした僕は、山道を降りる途中、石碑を見つけた。今まで何度も通った道なのに、なぜその時まで気が付かなかったのか不思議だったが、カワラヒワがとまっていたので見つけられたのだろう。
「これは、なんだ?」
僕はその石碑に近付いて、表面をよく観察する。高さ50センチほどの石碑は苔にまみれ、側面や背面に刻まれている文字は読めなかったが、表面に浮き彫りにされている二人の人物は、辛うじて判別できた。
僕はその人物が取っているポーズを見て、思わず二度見した。そして確かに二人が抱き合い、キスを交わしているのを見て顔を赤くしながらつぶやいた。
「……これ、何だ?」
とりあえず僕はその石碑を写真に収め、戻ってから調べてみることにした。後から考えると、これがそもそもの問題の発端だったことになる。
調べてみると、あの石碑は道祖神を祀ったものだと分かった。ついでに、村の境などに置かれて道を塞ぐ『塞の神』であり、地蔵尊などが置かれることがあることや、そこに浮き彫りされた神様が男女でちょっと叡智なポーズが多いのは、『塞の神』が『塞ぐ』意味を持っているからだという説があることも。
「塞ぐ……かぁ……」
僕はパソコンの画面を見ながらそうつぶやき、パネルで笑っている戻子さんを見つめる。
(塞ぐ……戻子さんのくちびるを僕のくちびるで『塞ぐ』……そして、戻子さんの(自主規制)を、僕の(自主規制)で、『塞ぐ』……)
僕は思わず連想ゲーム的にそんなことを考えてしまった。
(い、いいい、いかんいかん。戻子さんは僕の女神さまだ。僕なんかがふしだらな連想で汚していい存在じゃない)
僕は卑猥な方向の妄想に、ちょっとでも戻子さんを登場させてしまったことを恥じて、彼女に深く謝りながら眠りについた。
その夜、僕は夢を見た。
夢の中で、戻子さんは親友の女の子と楽しそうに話している。いつもの光景だった。
しかし、彼女が話している内容は、いつもと少し違っていた。
いつもなら、講義の話や民俗学の話、先輩たちの話やおいしいお店の話などが話題に上っているはずだが、その時の夢に限って、『人間の三大欲求』について、何か議論しているようだった。
『私は、睡眠欲が一番かな。1日8時間の睡眠、これが私の絶対不可侵のマイルールだよ』
彼女は笑ってそう言う。そうだろう、僕の女神さまに性欲なんてあるはずがない。
だが、僕の心の中で、何かがつぶやいた。
『若いの、女神様とて子を生すためにはそう言うことも致すものだ。それが摂理というもの。妄想は良いが、過度な神聖視は幻滅を生むぞ』
僕は慌てて周囲を見回す。何よりも今の声が、戻子さんたちに聞かれてしまうことを恐れていた。夢の中なのに……。
『あの娘たちが、ああいった話をするのは何故だと思う? 無意識下に抑圧されたその手の欲求が、ああいう話をさせるのだ。
お前もそうだ。若い者がまぐわいに興味があるのは当然。隠す必要も、恥じる必要もないものなのだがな』
その声はそう言う。僕は戻子さんの清らかさを酷く馬鹿にされた気がして、思わず怒鳴った。
「彼女はそんな女性じゃない! 彼女はきっと、一人の相手に想いを捧げ続けてくれるような女性だ!」
するとその声は、物分かりが悪い僕に教え諭すように言う。
『ふむ、あの女子は、お前の言うように貞潔で清楚な女性かもしれん。
だが、その心根の在り方と満たされ方は別物だぞ? その証拠に……』
その声と同時に、街を歩く戻子さんの隣に和装の女性が姿を現した。
何者だろうと警戒して彼女を睨みつける僕の前で、波打つ紫の髪を持つ美女はゆっくりとその顔を戻子さんのうなじに近付け、吐息を吹きかける。戻子さんがビクリとするのが見えた。
「戻子さんに何をする!?」
僕が叫びながらその女性に飛び掛かろうとすると、その女性は僕の方を向いて、妖艶な笑顔で語りかけた。
『現実を教えてあげるのよ。男神が手を出すより、女神であるわらわが悦ばせる図の方がよいであろう?』
そう言うと、戻子さんを背中から抱きしめ、首筋に唇を這わせ始める。戻子さんの顔が戸惑いの表情を浮かべ、耳が赤くなっていくのが分かった。
「やめろ! 彼女を汚すな!」
僕はそう叫んで、何とか身体を動かそうとするが、何かに抑えつけられたように一歩も動けなくなっている。
顔を赤くして、身体を小刻みに震わせている戻子さんは、
『ちょっと考えすぎて、知恵熱が出ちゃったかな? 今日は早く帰って寝るね?』
親友さんにそう言うと、彼女の『送っていく』という言葉を断り、急ぎ足で自分のアパートに戻って行った。
『……どうしちゃったんだろ、私』
戻子さんは部屋に入ると、すぐに錠を下ろしてチェーンもかける。
さすがに防犯意識が高いなと感心していると、彼女は突然洋服を脱ぎだした。
僕はすぐに目を閉じる。たとえ夢でも、彼女の裸体を覗き見るなど、彼女を冒涜するような真似はできない。
ザブンという水音がして、彼女がお風呂に入ったことが分かる。
だが僕は、さっきの女性が一緒に部屋に入って来ていたことを思い出し、すぐに風呂場に向かった。今度こそ、彼女を守らなければ。
そして僕は、更衣室のドアを開けたところで固まってしまった。あの女が、戻子さんの背中から抱き着き、不届きにも彼女の胸に手を伸ばしているではないか。
彼女の裸は、女の身体に隠れて見えなかったが、肩越しに戻子さんが喘いでいる顔が見え、僕は頭が真っ白になる。
(やめろ、僕の女神さまを汚すのはやめろ……)
僕はこぶしを握りしめながら、戻子さんが自分の秘めた部分にシャワーをかけて喘ぐ様や、自分で触って昇天する場面を見せつけられて、涙を流してしまっていた。
「やめてくれ!」
僕は自分の声で目覚めた。枕が濡れている。衝撃的な夢だったが、それよりもそんな夢に反応して下着を汚していたことに、僕は自己嫌悪と罪悪感を覚えた。
「……あれは夢だ、あれは夢だ、あれは夢だ。戻子さんはあんな女性じゃない」
僕は自分に言い聞かせて、なんとか講義には出席した。
だが、その日は戻子さんの姿は見えず、親友さんは一人で昼食を食べていた。
(違う講義なのかな? 珍しいこともあるもんだ)
僕はその時そう思ったが、次の日も、また次の日も、親友さんはぽつねんと一人で食事をしている。僕は何だか嫌な予感がした。
考えてみれば、僕はあれから毎日、戻子さんが悶える夢を見ている。
もちろん、裸などは一切見えないが、彼女がパジャマ姿で切なそうに喘ぐ姿や、その息遣い、そしてことが終わった後のふぅっという甘い吐息……すべてが夢にしてはあまりにリアルだった。
それに、彼女の姿がだんだんと鮮明になってきているし、食事も睡眠も摂れないのか、彼女はやせて、目の下に隈もでき始めた。
(……これは……僕が見ているのは夢ではなく、彼女の現実なのではないか?)
僕はそんな恐れを抱いたが、最初の夢を見てから1週間後、ついに決定的な出来事が起こってしまった。
その夜の夢の中では、彼女は病院に入院していた。僕は入り口の側に立ち、彼女の横顔を眺めていたのだが、急に彼女は喘ぎだし、服を脱ぎ始めた。
僕は目をしっかりとつぶった。彼女を汚してはならない、これは僕のあいつらへのささやかな抵抗だった。
だが、その日は違った。彼女が何かを言っている。僕は思わず目を開けた。そして見てしまった。全裸の彼女にあの女がのしかかり、彼女の身体を撫でまくり、彼女を凌辱しているのを。その女は僕を見てニヤリと笑い、
『お前の願望をかなえてやるよ。あたしはお前の生霊が変化した夢魔だからね』
そう言うと、僕の姿になって彼女に向き直る。
『ああん……』
彼女はあられもない格好で髪を振り乱しながら、そんなつぶやきを発している。
そして、
『ああ~っ』
背中をのけぞらせて、小さな声で絶頂に達し、ふぅっと息を吐いて身体の力を抜いた。
だが、その手はまるで身体の上にいる何者かに抱き着くように、まだ宙を抱き、とろんとした目で身体をひくつかせている。
そしてそんな状態でありながらも、彼女の手は次の快感を求めて自分の胸に伸び、そして彼女は再び喘ぎ声を漏らし始める。
その時、
『……お、おねえちゃん?』
ドアが開いて、戻子さんによく似た女の子が入って来て、その様子を見て固まった。
……僕はそこで目が覚めた。全身が嫌な汗でぬれている。まさか、戻子さんは本当にあんな目にあっているのか? そしてその元凶は僕なのか?
そんなふうに考えたら、僕はいてもたってもいられなくなった。
恥ずかしいなんて言っている場合じゃない、迷惑だろうかなんて考えている場合でもない。僕は戻子さんの親友さんに、戻子さんの現状を聞かねばならない。そして僕が見ている夢が本当に起こっていることなら、僕は僕自身を始末することで彼女に謝罪せねばならない。
僕は大学に行くと、親友さんを探した。彼女は小柄で癖っ毛の女性と学内を歩いていた。そんな彼女を見つけると、僕は思い切って話しかける。
「すみません。一条戻子さんのお友だちですよね?」
親友さんとその連れが僕を振り返る。するとお連れさんが一瞬びっくりした顔をして、
「……あなたね、生霊を飛ばしていたのは。わたくしたちも戻子さんの件で話があるの。
ちょっと顔を貸してくださらない?」
僕に怒りの表情を見せてそう告げた。
★ ★ ★ ★ ★
結・道祖神と『見鬼』
「まずは、あんたの名前を教えてもらおうやないか」
鏡子は、自分と彩に話しかけて来た男を、『心霊研究部』のサークルボックスに連れてくると、開口一番そう言った。
男は、黒縁眼鏡の奥で気の弱そうな眼をしばたたかせていたが、
「こちらも暇じゃありませんの。早く自己紹介してくださらないかしら?」
彩が睨みつけるようにしてそう言うと、
「……巫守人。法学部1年生です」
小さな声で答えた。
そこにいた天然パーマで白髪だらけの若い男が、丸顔に笑みを浮かべて守人に訊く。
「巫君、君は自覚していなかっただろうが、一条さんは君の生霊に取り憑かれているんだ。
どういった思いで彼女に生霊を付ける羽目になったか、答えてほしい。
もちろん、嘘はつかないでくれ。でないと一条さんも君も救えなくなる」
すると守人は、すがるような眼でその男を見て、必死に頼み込む。
「れ、戻子さんを助けてくださるんですか!? 僕のことはどうでもいいから、彼女だけは元の清楚で可憐で、元気な姿に戻してあげてください!」
そう叫ぶように言うと、
「僕が、僕が邪な心で彼女を見ていたから、彼女はあんな目にあってしまったんでしょう?
僕だって、あんな姿の彼女は見ていられない。彼女を救うにはどうしたらいいでしょうか? 僕が死ねばいいのなら、彼女のためにすぐ死にます」
そう言って顔を覆って泣き出す。
「……空さん、この人は本当に無意識に飛ばしているみたいよ? 原因は戻子さんのことが好きだから……でしょう?」
彩が言うと、守人は首を振って、
「無自覚とはいえ、彼女に恥ずかしい思いをさせ、彼女の尊厳を汚した僕には、彼女に対する思いを述べる資格なんてありません。
罪滅ぼしの一環に、彼女を元に戻すためなら、どんなお手伝いでもします」
そう言ってソラを見つめる。真剣な瞳だった。
「分かった。先ずは君の部屋を見せてくれ。生霊を飛ばすよすがになるものと、それに便乗した妖の正体が判るかもしれないから」
ソラが優しく言うと、守人はうなずいた。
ソラと鏡子と彩は、守人に案内されて彼の部屋に行った。部屋に上がると鏡子は、
「何やこれ、キモ。戻子の写真を勝手に撮るなんて肖像権の侵害やん」
四つ切パネルで戻子が笑っているのを見て、怒ったように叫ぶ。
「あんた、法学部のくせに盗撮なんてやってええと思っとんのか!?」
「まあ、学部はどうであれ、戻子さん本人の承諾もなしにパネルにまでしてしまうのはどうかと思いますよ?
しかし、戻子さんの魅力を切り取った、いい写真だとは思いますね」
ソラが言うと、守人は嬉しそうに笑い、鏡子と彩は渋い顔をする。
しかしソラは、鏡子が何か言うより早く、
「でも、このパネルは処分してください。このパネルが君の恋心を増幅させ、生霊にまで成長させてしまったんですから」
そう言う。守人は愕然とした顔になったが、すぐにうなずき、
「分かりました、すぐに処分します。普通に燃やしていいものでしょうか?」
ソラにそう訊く。ソラはうなずくと、ポケットから1枚お札を取り出し、
「ごめんなさいね」
そう言いながらパネルの表、戻子の額辺りに張り付ける。
「これで君の生霊への対応は済んだ。次は戻子さんに憑いている妖だが……」
そう言いながら、ソラの視線はデスクの上をさまよい……
「……石碑の写真があるはずです。見せていただけませんか?」
そう言うと、守人は驚いて、すぐに道祖神を映した写真を取り出しソラに手渡す。
ソラは写真を一瞥して、
「……道祖神様は、ただ退屈しのぎをされただけなんだな。だったら川津媛も説得しやすいだろう」
そうつぶやいて、写真を彩に手渡す。
彩は、ソラから受け取った写真を見つめ、
「……確かに。悪い気は感じられないですね」
そう言うと、写真をソラに返した。
「この写真も、処分するよ?」
「はい。データも消去します」
ソラの言葉に守人が応じると、ソラが手に持った写真は、いきなり火を発した。
「うわっ!?」
驚いてのけぞる守人に笑いかけながら、
「驚かせて済まない。でもこれが一番手っ取り早い縁の切り方だ」
そう言って写真が灰になると、窓を開けて風に散らした。
そして鏡子と彩を見て言う。
「ここはこれでいい。あとはぼくと瀬緒里さんに任せてもらおう。鏡子さんたちは、もう少し彼の話を聞いてあげてくれないか?
戻子さんに近づけていい人物かどうかは、そのうえで判断するといい」
ソラが守人の部屋から出ると、瀬緒里が待っていた。
ソラは、瀬緒里が微笑んでいるのを見て、うなずいて訊く。
「妖については、うまくいったみたいですね?」
瀬緒里はソラと並んで歩きながら、
「今の世ではストーカーというのでしょうか? 女子に未練を残して追い回している最中に事故死した男のなれの果てでした。あまりにも淫欲が強くて、私もぞっとしましたが、何とか滅しました。
ただ、私も少し影響を受けているかもしれませんので、今宵、我が背からお誘いいただけるのを待っていますね?」
そう、涼しい顔で言う。ソラはため息をつくと、
「瀬緒里さんの希望に沿えるよう努力しますね?
それで、問題は道祖神様の方です。どこにある石碑かはおおよその位置を聞いているので分かりますが、その由来などはまだ調査していませんが……」
そうすまなそうに言う。
だが瀬緒里は微笑んで首を横に振り、
「そこは大丈夫です。今から塞の神に会いに行きましょう。恐らくそう長い年月は経っていない、若い神だと思いますよ?」
そう言って、ぼんやりと身体を光らせる。その光が消えた時、二人は山道に立っており、目の前には写真で見た石碑があった。
ソラは、石碑の側面に彫られた文字を指でなぞり、
「……文化二年乙丑秋、村人ノ発願ニヨリ神ヲ祀リ以テ流行病ヲ塞グ……か」
そう読み上げると、瀬緒里は薄く笑って言った。
「あなたが神として生ったのは、今から220年前なのですね。今回は少し、悪戯が過ぎたのではないでしょうか?」
すると、
「……こりゃあどえらい別嬪さんやと思ったら、ずいぶんなおばはんか。俺様に言うこと聞かせたかったら、もっと若い娘を連れてくるんだな」
そんな声がソラの後ろから聞こえる。白いざんばら髪の男が、翠の瞳を瀬緒里に向けていた。その手に握った鎌をソラの喉元に擬している。
「……私への暴言はこの際聞かなかったことにします。我が背を離しなさい」
瀬緒里が若い神を冷たい目で見て言う。
しかしその若い神は、瀬緒里をせせら笑って、
「我が背!? なーんだ、あんた行き遅れたんで人間の婿を取ったんかいな。別嬪さんでもおばはんになると価値が下がるんだな。それか、おばはん、最初からそんなに強くはないのかな?」
そう挑発するように言う。
ところが次の瞬間、
ドサッ!「ぐえっ!?」
若い神はソラに投げ飛ばされ、地面に叩きつけられたところを佐代里に縛り上げられる。
瀬緒里は、帯から扇を抜いて顔の前に広げ、冷ややかな声で若い神に訊く。
「私は瀬織川津媛命。あなたの名を聞いておきましょうか」
若い神は牙をむいて、身体をゆするが、彼の身を縛した三匝半の羂索はびくともしない。
「わたしは月詠命様の眷属で、川津媛命様の従者と化野空様の守護を命じられている、『縛鬼誓約』龍佐代里。
悪いことは言いません。川津媛命様への暴言と、神婿様に対する無礼を詫びた方がよろしいですよ?」
佐代里が言うと、若い神はせせら笑い、さらに暴言を吐いた。
「はっ! なんで行き遅れのおばはんと不細工な人間に謝らないといかんのだ? そんなこた、俺様をぎゃふんと言わせてから言ってほしいもんだな」
「それがあなたの望みなら、そうさせていただきましょう」
瀬緒里は静かにそう言うと、
パアンッ!
「ぎゃふんっ!?」
若い神の頭を扇で軽くひっぱたいた。だが、それだけで若い神は泡を噴いて悶絶した。
そこに、騒ぎを聞きつけたのだろう、白いひげを生やした老人がやって来る。
彼は川津媛や佐代里、ソラを見、そして泡を噴いて縛り上げられている若い神を見て、愉快そうに笑った。
「川津媛様ですな? 月詠命様のお声がかりでその愛弟子を婿にされた。わしはこの山の神で御嵩祝子命。
この乱暴者は四辻之巌命と申しまして、力はあるものの女好きと狼藉が過ぎたので封印していたものです。
麓に住まう人間が誤って封印を解いてしまったので、近隣の神々とどうしたものか相談しておりました」
そう説明し、巌命を見て微笑むと、
「悪戯癖が抜けず困った者ですが、いい薬になったことでしょう。根は真っ直ぐな若人なので、訓戒の上で在所払いといたしましょう」
そう言うと、巌命を引きずって歩き出す。
川津媛はうなずくと、老地祇に声をかけた。
「分かりました。もし、巌命が心から反省しているのなら、私の父、水分高良命を訪ねるよう、伝えてくださいませんか?」
祝子命は微笑んでうなずいた。
祝子命たちがいなくなると、川津媛はソラに駆けよって心配顔で言う。
「空様、相手は神です。投げ飛ばすなんて無茶なことをしないでください。さっきは私の寿命が縮みました」
ソラは、怒りの色を眉宇に滲ませて答えた。
「心配かけたことは謝ります。だが、瀬緒里さんのことをあれだけ悪し様に言われたら、ぼくだって腹は立ちますよ。
こんなに美しい瀬緒里さんをつかまえて、どこが『おばはん』だ、あの青二才が!」
川津媛は神の装いを解き、ソラに寄り添って微笑んだ。
「……ありがとうございます。確かに私も腹が立ちましたが、年を経ているのは事実。だからあえて怒りませんでした。
我が背がそのように怒っておいでなのを見て、私はそれですっきりしました。後は今宵が楽しみです」
私は2週間ほどで退院できた。私のストーカーのことや生霊のこと、そして妖のことは、すべてが終わってから鏡子と彩先輩が教えてくれた。
そして、私が久しぶりに講義に出た日、鏡子と彩先輩は春さんや山本先輩と共に、ぼさぼさの茶髪で黒縁眼鏡をした、小太りの男の子を連れて私のところにやって来ると、
「戻子、こいつがすべての元凶や! うちらでシバいといたけど、やっぱ戻子も文句の一つも言いたいやろ? だからここに連行して来てん。
うちらが許すさかい、煮るなり焼くなり、戻子の好きにすればええ」
そう言った。
私が何も言わずその男子を見ていると、鏡子は
「おら、早う戻子に謝らんかい! お前のせいで戻子がどれだけ恥ずかしい目に遭うた思うてんねん!? ホンマならストーカー行為で警察に突き出しとるところなんやで?」
そう言いながら、男子のお尻を蹴っ飛ばす。
山本先輩は、同じ学部の後輩がしでかした顛末を春さん経由で彩先輩から聞き、腕を組み厳しい顔で男子を睨みつけている。
その男子は、深く頭を下げて言った。
「この度は、本当に申し訳ありません。ただあなたを眺めているだけでよかったんですが、それが生霊なんて大変な事態を起こしてしまって。
僕はもう、あなたに絶対に近付きません。それに警察に自首して、大学も辞めます。それくらいしないと、あなたに済まないから」
男子の声は震えていた。その頬は赤く腫れている。
「……あなた、名前は?」
私が訊くと、男子は、口ごもりながら名乗った。
「か、巫守人です」
「その頬はどうしたの?」
私が訊くと、彼は頬を抑えて、
「親父から殴られました。法を学ぼうとする奴が、盗撮や付きまといをした挙句、相手のお嬢さんを病気にするなどとは言語道断、恥を知れ、って言われました」
そう白状する。だから私の父のもとに、相手の親御さんから謝罪の挨拶があったのか。
「なんで、私を盗撮したりしたの? 鏡子からそのことを聞いた時、さすがの私も気持ち悪いって思っちゃったわ。というより、『怖い』って気持ちが大きかったかな」
「す、すみません……」
巫くんは私の言葉に、身体を縮こめて脂汗をかいている。本当に悪いって反省している顔だった。
私はさらに訊く。
「謝ってくれるのはいいけれど、さっきの質問にも答えて? なんで私を盗撮したの?
言ってくれれば、被写体になってあげてたかもしれないじゃない?」
「そ、それは……」
巫くんはちょっと言いよどんで、目をつぶって精一杯の勇気を振り絞ったように言った。
「ぼ、僕みたいな陰キャでキモい男、相手にしてもらえないだろうし、戻子さんに告白しても気を遣わせるだけだって諦めていたんです。
でもせめて、僕だけのために笑った戻子さんの姿がほしくて……」
「……まあ、盗撮してパネルにする男やから、キモいのは確かやな」
鏡子が傷口を抉る抉る。でも巫くんは、何も言わずにうつむいていた。
「……私が気を遣うってどういうこと?」
「それは、戻子さんのことだから、僕を傷つけまいと断り方にも気を遣うだろうなって。
そんな迷惑かけたくなくて、遠くから見ているだけのつもりだったんです」
それを聞いて、鏡子は巫くんを見つめながら、
「あんた、戻子のことよう解っとるやないか。せやけど、親友としてはまだ許せへん」
そう言う。巫くんはうなずいて、私に再度頭を下げる。
「本当にすみませんでした。さっき言ったとおり、これから自首して、大学も辞めて、二度とキャンパスには戻りません。僕が言うことじゃないけれど、戻子さん、お元気で」
私は思わず言っていた。
「巫くんにも夢があるんでしょ? 私は実害と言ったら黒歴史ができたってことだけだし、辞めるまではしないでいいんじゃない? あなただって努力して大学に入ったんでしょ?」
「戻子、ちょっと甘いんやないか?」
鏡子がびっくりしたように言うけれど、こんなに正直な人なら、一回だけ許してもいいかなって思った。
「もちろん、次はないと思ってね?
それは私に対してだけじゃなく、みんなに対しても。約束してくれる?」
私がそう言うと、巫くんはガバッと土下座して言った。
「はい、約束します。ありがとうございます、女神さま」
「だから、それがキモい言うてんねん。うちが見とるからな。今度やったら腕の2・3本どころじゃすまへんで?」
私たちのやり取りを見ていた山本先輩が、厳しい声で言った。
「巫、おれは一条さんの親友であるお嬢から、お前を見ておけって言われた。真面目で正直なお前のことだ、心から改心したって信じているぞ。悩みがあったらおれに相談しろ」
そして私に笑いかけて、
「一条さん、貴家さん。こいつのことはおれが保証人になる。変なことをしたり言ったりして来たら、すぐに知らせてくれ」
そう言ってくださった。
私は笑顔でうなずき、
「分かりました。巫くん、もう変なこと考えないでね? 私や鏡子は、今まで見た目で友だちを選んできたことなんてないよ? 友だちからでいいなら、言ってくれれば別に拒んだりしなかったのに」
そう言ったら、鏡子がそれに笑って付け加えた。
「せやな。パネルに見とれて生霊飛ばされるよりはうんとええわ。
ついでに言うとな、戻子もうちも、今のところ彼氏なんて欲しくないねん。
だから戻子が『友だちから』って言うたんを誤解せんといてや?」
【無常堂夜話9~色の亡者の物語 終わり】
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ぼくはセクシャルな表現やグロテスクな表現は苦手なんですが、今回は巫くんを登場させるために、どうしても戻子ちゃんに恥ずかしい役をやってもらう必要がありました。
でも、一条戻子のキャライメージをできるだけ崩さないような描写を心がけましたが、まだオブラートに包むべきだったかと自問しているところです。
戻子ちゃんをストーキングする役割、最初は伏周くんにやってもらうつもりでしたが、彼はそんなに戻子ちゃんを崇拝するようなタイプじゃないんですよね。
また、瀬緒里さんがだんだんヤンデレ化してきていますが、そこは彼女が言うとおり、『神様は嫉妬深い』からだと思っていただければと考えます。
次回は久しぶりに樟葉&周のコンビが登場します。お楽しみに。




