疲
三題噺もどき―ろっぴゃくよんじゅうに。
ぱさ―と何かが落ちる音がした。
何かと視線をやれば、気に入って使っていたグローブが床に転がっていた。
もう三月だから使わないだろうと思っていたのだけど、突然冷えが続く日があったりして、出しておいたのだ。
今週もまた温かくはなるようだが、月末になれば冷えるらしい。勘弁してほしいものだな。
「……」
落ちたものをそのままにしておくと、面倒なことになるのだけど。
それを拾いに立ち上がる気力すらなくなる程に、今日は疲労が溜まりに溜まっていた。
昨日の分の仕事を終わらせて、先方に送ったところで、ついでにこれもと頼まれたのだが。
それがもう、どうにも面倒な依頼だったもので。久方ぶりに頭かを抱えながら仕事をしている。今までのがそうではなかったわけではないが、ここまでなのは久しぶりだ。
「……」
緊急ではない分、時間はあるが、さっさと終わらせるに越したことはない。
そう思ってさっさと手を付けたはいいものの……どうにも。うまくいかない。
グローブが落ちた音に気付いたということは、それだけ集中が途切れているということにもなるわけで。集中が切れているこの状態でこの仕事をしても、効率悪くなるだけなのは分かっているのだけど。
「……っふぅ」
漏れた溜息もそのままに、ぼうっと眺めていたグローブから視線をそらし、パソコンと再度向き合う。……向き合ったところで、何も進まないのだけど。
なんでこう、こういう時に限ってこんなに調子が乗らないんだろうな。あまりこういうことがないから、調子が乗らないときの対処法というモノがないのだ。
「……」
そのまま、だらだらと戻るのを待つしかない。
が、待っているそんな時間はないので、やるしかないと言い聞かせながら、効率の悪いことをしていると分かっていながら、やっている。
「……」
キーボードに置かれた指は、全く動く気配もない。
マウスには手を添えているだけで、力も入らない。
繁盛期ゆえに根詰めていたのは分かっているが、こんな一気に疲労が来るとは思ってもいなかったな……。これでも他の人に比べたらそこまでなはずだと勝手におもっているが。
「……」
アイツがな、元々の蝙蝠の姿でも、めったに見せてくれない猫の姿でも、小動物になって撫でさせでもしてくれれば、それはそれで癒しになりそうなんだけど。癒しだって立派な息抜きになるだろう。世にいる猫では邪魔をするかもしれないが、アイツはしないし。膝に座って大人しくなでさせてくれればいいのだけど。……絶対にないんだなこれが。
「……」
他の手段としたら、ちょっとしたゲームとかできるような感じだったらよかったが……。どうにも性に合わなかったり、続かなかったり、ゲームをしている方が疲れたりするもので。
それなら、散歩をするなり読書をするなりしている方が楽だと思う。
「……」
その散歩だってここ1,2週間できていないのだ。
それはもう、ストレスだって溜まるし疲れだって溜まるだろう。
人間ではないが、そのあたりは吸血鬼のこの身でも同じということだ。
「……、」
唯一の休憩時間は、従者の作る菓子に舌鼓を打つあの時間だけである。
今日もどうやらその時間が来たようだ。時計を見る気力もないが、そろそろそんな時間なのだろう。
「ご主人」
相も変わらずノックを覚えない影は、蝙蝠でも猫でもない、見慣れた小柄な少年の姿で仁王立ちしている。今日はシンプルなエプロンをしている。
今日は少々ご機嫌斜めか?
「休憩にしますよ」
「……ん」
口調が明らかに違うのも珍しい。昨日はしましょうだったのに。
今日は何が何でもというつもりだったんだろうか。そんなに疲れているように見えるのかコイツには。疲れてはいるが、そこまでだと私は思っているのだけど。疲れてはいるさ。さすがの私でも。
「……」
それとも昨日、目途がついたと言ったのに全くだったのを怒っているんだろうか。
仕方ないと言うのは分かっているはずなんだが。緊急でこそないものの、仕事は仕事だし。あまり口出しはしてこないから、理解しているものだと思っていたが。
「……」
「……」
無言のまま、部屋に入ってきた従者は、机の上に置かれたマグカップを手に取り、立ち上がる気配のない私の腕を引こうとする。
床に落ちたグローブに眼もくれず、こちらに来る辺り、今日はほんとにご機嫌斜めだ。
「まてまて、行くから」
「早くしてください、冷めます」
引く手の強さとは裏腹に、その声はどこか揺れていた。
冷めて困る菓子なんてないだろうに、何を焦っているんだろうな。
「……不機嫌だな?」
「いいえ、そんなことないですよ」
「……それならいいが」
「お仕事終わりそうですか」
「あぁ、多分な」
「……そうですか」
お題:猫・グローブ・ゲーム