第四話 道程の山
ジンネは徐々に増える自然に密かに喜びながら道を歩いていた。川の水よりも植物の樹液の方が安全だからだ。それに、野生動物を捕獲することもできる。肉は干して、内臓は焼いて食べるのだ。残ったものはだいたいを土に軽く埋めて去る。いつだったか体験した森林の歩き方で学んだことだった。もう何十年も前のことだったが、案外覚えているものである。
ふと、何か肉食獣の唸り声が聞こえた。ジンネは少し焦りを覚えた。ジンネは旅をしてはいるが、この環境下で生きてきたわけではない。緊張感を持つべきどころか、こんな状況そのものがほぼ初めてなのだ。
「…。」
ジンネは無言のまま、唸り声の方向を確かめようとする。しかし、唸り声はまったく近づいてこない。野獣が唸り声をあげるのは、警戒しているときだ。つまり、こちらを獲物として認識しているわけではない。ならばむやみに近づくものでもないが、ジンネはそこで少し興味を持った。あと少しして向こうが移動しないようなら、向こうに動けない理由があるのだろう。子供がいる場合は少し危ないが、怪我でもしているなら見てやれないだろうか。
しばらく待ってみたが、唸り声はあまり距離を変えずに断続的に聞こえてくる。ということは、巣穴があるか怪我をしているかのどちらかだ。
「…こっちは危害を加えるつもりはないんだ、噛んだりはしないでくれよ…。」
ジンネはそう呟きながら、茂みの向こうを窺うように身を乗り出した。
そこには、一匹の痩せた犬がいた。足がひどく傷んでいる。どうやら足を負傷し、悪化させてしまったようだ。犬は少したりとも動かない。動こうとすると足が痛むのだろう。さらに、首には革でできた輪っかがあった。どうやら飼い犬らしい。
ジンネは大きく破れた服を取り出した。ついこの前木の枝に引っ掛けて破いてしまったものだが、何かに使えると思って持ってきたのだ。その服を細く割いて、低姿勢で犬に近づく。犬の前まで来るとジンネは止まり、座ってあたりをきょろきょろと見渡した。犬に対し敵意がないことを表すつもりだったが、どれほど犬に伝わったのか、犬は唸り声を徐々におさめた。犬もさすがに疲れたのだろう。
そうするとジンネは犬の足に手を伸ばした。念のため鞄を盾代わりにしながら、患部より上をきつめに縛った。犬は一瞬暴れたが、「待て、待て、暴れるな。」とジンネが落ち着いて言うとすぐにおとなしくなった。かなり人になれているようだ。
患部を少ない水で軽く流して、布を巻いた。治療に詳しいわけではないが、土がついているのはまずいだろうと判断してのことだった。犬は大人しくなったが、このまま放置できるものでもない。ジンネは少し前に作った干し肉を犬に分け与えた。犬は肉を少し嗅ぐと、それを食料と判断して嚙みついた。少し硬そうに何度も頭を上下させて噛みついていたが、しばらくすると音を立てて噛み千切る音がした。
「さて、これからどこへ向かうか。君、家はどこだね?」
ジンネは犬のそばに座り、患部を避けてなでながら聞いた。犬は何も言わず、ジンネを見上げた。
「ああ…食事をしたら喉が渇くよなぁ。ちょっと待ってろ。」
ジンネは鞄から小鍋を取り出し、水を入れた。犬はそれを舐めるように飲む。ジンネは幼い頃近所の人が飼っていた犬を思い出した。大きかったものだから小さいジンネには少し怖く、怯えながら接していたと記憶している。
クゥーン、と犬が鳴くと、ジンネは「もういいか?」と言ってほぼ空になった鍋から残った水を捨てた。
「ふむ、向こうに煙が見えるな。君の家かもしれない。とりあえず向こうに行くが、いいかね?もちろん君も一緒だ。」
犬は理解できないのだろう、目を瞬かせた。ジンネは荷物を背負うと、犬を抱き上げた。大型犬に似合わず、非常に軽い。それだけ痩せているのだろう。それでも初老のジンネには重く感じて、足元を気にしながらよたよたと歩き始めた。
煙の出たあたりにくると、人の話し声と思われる音がした。話している内容はいまいちわからないが、少なくともここら辺に定住しているであろう空間が木々の隙間から見えた。
「ほら、もう少しだ。ここが君のいた村かね?」
ジンネは返答を期待せずに犬に問いかける。犬は鼻をひこひこと動かしながら村があるであろう方向を見つめる。
「?、ーーーー!ーー?」
村に着くと、ジンネに気がついた一人がジンネの知らない言語で話しかけてきた。犬は地面に降りたがったので、ジンネはそっと降ろしてやった。
「すまないが、君たちの言う言葉がわからない。俺の言っている言葉がわかる人はいるかね?」
ジンネがそう言うと、村の人たちは着いてくるように、というジェスチャーをした。ジンネはそれに従った。すると一軒の家から、ジンネより少し年嵩の老人が出てきた。性別は分からない。
「旅の人、私の言葉はわかりますか」
「ええ、わかります。失礼ですが、あなたは…」
「私はこの村の一番上、ベフチャです。この村では一番上は女性がなります。」
「女性でしたか。俺の国の人とは顔立ちが違うもので。」
「クニ…あなたは、クニを知っているんですね。」
「ええ…ここは、なんという村ですか」
「この村の名前はありません。」
ジンネはベフチャが家の中に入っていくのを見て、その後を追う。しかし、家の中に入っていいものか迷って入り口で止まる。
「…もう夕方です、今日はここに泊って行ってください。リフテもあなたに助けてもらった。」
「あの犬はリフテというのですか」
ジンネはベフチャに促されて家の中に入り、草で編まれた敷物の上に座る。そこに、二つの椀を持った男が入ってきた。
「ーー、ーーー。」
「この椀の中のファオを食べてください。これはあなたのファオです。どうぞ。」
「これはこれは、ありがとうございます。わざわざ用意してもらうなんて。」
ベフチャが翻訳をしてくれる。男が渡してきた椀を受け取り、また渡されたスプーンのようなヘラをまたお辞儀しながら受け取り、ジンネは椀の中を見る。
椀の中は白っぽいスープが野菜と共に入っていた。さらに米が底の方に沈んでいる。食べてみると、柔らかすぎずしっかり味が染みている。このスープで煮ているんだろう。
「あなた、フォーを知っていますか?」
「ええ、知っています。米で作られた麺が特徴的だったと記憶しています。」
「麵を作ることは私には難しかった。私以外はそもそもフォーもわからない。だから、代わりにそのままの米を入れて似た料理を作ってみたんです。だから名前が「ファオ」。」
「なるほど…これもまたおいしいですね。」
ジンネは椀の中のものを全て食べきった。
「…あまり文化には詳しくないのですが、俺の国では全て食べきることが礼儀でしたので…」
「いえ、私は何も咎めていません。ただ、あなたが慣れない料理もおいしく食べてくれるのがうれしくてね。それに、こんな世界になってしまいました。料理は全て食べるべきです。」
ベフチャはゆっくり食べていた。どうやら、歯がもうだいぶ弱っているようだ。
「では、俺の独り言でも聞いていただけますか?」
「おや、旅のお話ですか。」
「そんなところです。」
ジンネはもうすぐ沈む日を尻目に、話し始めた。
「俺は今は一人で旅をしていますが、かつては友人ともいえる人達と共に長い距離を歩いていました。旅と言えるものではありませんでしたが…その友人たちがあまりに気がよい奴らでして。俺はだいぶ適当に生きていますから、相当支えられました。まるでこの村の人々のように、あたたかい人たちでした。
けれど…その旅がかなり過酷なものでして、俺は生き残りましたが、友人は一人、また一人と減っていきました。最後に残った友人とは帰郷できましたが、それ以外の友人は今も倒れた場所で眠っています。
まあ、お節介ですが、そいつらを訪ねて眠りの邪魔でもしながら、魂のかけらでも故郷に持ち帰ってやりたいんです。」
ベフチャはそれを聞きながらファオを食べきり、家の入口に器を置く。ジンネもそれに倣い、器を入り口付近に置く。
「こうすれば、マータフが器を取りに来てくれます。私は腰が悪く、あなたは客人なので。」
「なるほど、色々甘えてしまいましたね。」
すっかり日も暮れて、ベフチャは敷物の上に横になった。ジンネも同じように敷物の上に横になる。思えば、人がいる中で眠るのはひどく久しぶりだ。
翌朝。ジンネは日の出と共に起きた。このくらいの気候だと夜に寒さで起きることがない。ジンネは家の外で一度大きく伸びをすると、荷物を取りに再び家の中に入った。
「おや、もう行くのですか。」
「ええ、昨日ファオをくれた人にお礼を言っておいてください。俺は旅をしているので、ひとところに留まるつもりはないのです。」
ジンネはそう言って、荷物を背負って家を出た。まだ村は静かだ。
ジンネは人知れず森の奥深くへと消えた。




