第一話 長い歴史の終わり
一人の初老の男が、コンクリートに腰を下ろしていた。男は残りわずかとなったタバコを惜しむかのようにゆっくりと吸っていた。男にとっては大切な娯楽だったが、それもこの一本が最後なのだ。
「…行くか。」
男は腰を浮かし、もはや燃えるところのないタバコの吸殻を踏んで火を消してからその場を去った。
男は歩いた。川と海沿いに作られた大きな都市を、いつ終わるのかとぼんやり考えながら歩きつづけた。その都市には人の気配がまるでなかった。都市全体が廃墟になったのだ。その経緯を知るものはわずか。男はそのことに思いをはせながら、大きく傾いて今にも倒れそうな巨大な建物を見上げた。
「おじさん、何してんの?」
その建物の影から突如現れた少年を、男は少し訝しげに見上げた。
「…やあ、君は誰かね?どうしてここにいる?」
男はぶっきらぼうにそう聞いた。少年はそれを気にすることなく、陽気に話した。
「俺はユンジュ!ちょっと離れたところで一家で暮らしてんだ!なあ、あんたはどうしてここにいるんだ?」
「…俺は旅をしている。ここにはその一環で立ち寄っただけだ。」
「あんた、名前は?」
「…ジンネ。」
「ジンネか、よろしくな!なあ、よかったら俺の家に寄ってかないか?」
ユンジュは明るくジンネに聞いた。しかし、ジンネはユンジュから目線を逸らした。
「…遠慮する。俺は行きたい場所があるからな。」
「そうか…なら仕方がないな。なあ、今から川まで水を汲みに行くんだけど、ジンネはそっちに行くのか?」
「そうだな…水はまだあるが、汲みに行く必要はあるだろうな。何日か前の雨でしばらくは川の水なんて飲めないような色をしていたしな。」
「じゃあ、一緒に行こう!」
少年と老人は、共に川へと向かった。
「…少年。」
「ユンジュだ。」
「そうだったな。…ユンジュ。」
「なんだ?」
「お前は、この国がなぜこうなったか知っているか?」
「国がどうなったって?」
「…知らないならいい。」
ジンネはユンジュを見ることなく、ゆっくりと歩く。
「…ジンネは知ってるのか?」
「まあ…少しは」
「教えてくれないか?」
「…知っていても、どうしようのないことだ。元には戻らない。」
ジンネはそう言うと、押し黙ってしまった。ユンジュは「なあ、なあ。」と声をかけたが、ジンネは声を出さなかった。次第にユンジュも諦めて、二人の間に沈黙が流れた。
二人は川に着くと、それぞれ持ってきた容器に水を汲んだ。ジンネの容器は口が小さく、水を入れるためにしばらくしゃがんでいた。しかし、ユンジュはその場を去らなかった。
「…少年、なぜそこにいる?」
「ユンジュだってば。…国がこうなったって、どういうことか知りたくて」
「…知らなくてもいい。」
「知りたいんだよ。」
「…そうか。俺に聞くより、親に聞いた方が早いんじゃないか?」
「あんたの口からは話してくれないのか?親は…病気で、喋るのもやっとだ。あんたからしか、聞けない。」
ジンネはユンジュを少し睨みつけるように眺めた後、溜め息を吐いてユンジュに向き直った。
「いいか。これから俺が話すのは正確かどうかは分からないことだ。決してそれを真実だと思い込まないことだな。」
ジンネは水の容器に蓋をして、それをカバンにしまいながら話し始めた。
「俺は少しばかり気になったから調べたことがある程度だが、この国は非常に古い歴史がある国だった。たくさんの国が生まれては消えてを繰り返していたが、歴史を途切れさせることは、滅ぶその時までなかったんだ。だから、俺はこの国について調べることができた。俺の国はこの国と大概の場合親しくしていて、俺の国の歴史もその国が遺していて知れることがあった。
ただ、歴史の深さから誇りが強く、時に周囲といがみ合うこともあった。…本来なら、人に優劣などないのだが、長い歴史の中では自分たちが特別だと思いたい人々が少なからずいて、この国もそうした傾向があったのか、驕り高ぶりに飲まれてしまった。気がつけばかつての栄華に縋りついて離れがたくなって、未来を見れなくなってしまっていたんだ。
そして争いが起きて、無尽蔵であるかのように人も武器も浪費した結果、滅んでしまった。人の命も、資源も、有限であるし、栄光は永遠ではない。それに気がつけなかったんだろう。」
ジンネはそう言うと、傾いた建物から目を離し、鞄を背負いながら立ち上がった。
ユンジュは話を聞いて、それを理解しようと必死なようだった。
「…俺はこれから西に向かう。お前は家族の元に帰るんだろう。お別れだ、じゃあな。」
「あ、なあジンネ!」
「…なんだ。」
「お前はどうして旅をしているんだ?」
「そうだな…ただ、若い頃の夢を叶えようとしてるだけだな。」
ジンネはそう言うと、その場をゆっくりと去った。ユンジュはその背中を見送りながら、聞いた話を繰り返し思い出していた。
ジンネは、歩きながらため息を吐いた。この国の歴史を思い出して、少しばかり気分が落ち込んでしまったのだろうか。
この国はそれこそ世界一と言われた時代も少なからずあった。しかし、歴史のいい面ばかりを見ることをやめなかった。現状を見ることもなかった。どこかで踏みとどまることか、振り返ることがあればまだ違ったのかもしれない。
栄枯盛衰とはいうが、国が亡ぶと言うことは歴史の荒波に抗う術をなくすということなのかもしれない。時に歴史が捻じ曲げられ、時に全て忘れ去られてしまう。今この国に住む人は、ここが国という単位で数えられていたことすらも知らないかもしれない。そう考えると、人はやはり滅びゆく種なのかもしれないと思える。
ジンネの足取りは一定で、ただ何も語ることはない。
陽が傾いてくるとジンネは火打石を取り出し、枯れた木を折って燃やし始めた。食べるものは二日に一度の干し肉で賄うが、今日は燻製にした魚があるのでそれを食べることにする。
「…まだ寒いな。」
ジンネの独り言は、二月の冷たい風に消えていった。