第零話 上陸
老人は船に揺られていた。木造のいかにも手作りの船だ。舟をこぐ若い男の邪魔にならないよう、何も言わずになるべく動かないでいる。幸い、ここ十数日、この海域は大きな荒れもなく穏やかだった。
「…見えたよ。あれが対岸だ。」
「そうかい。だが見えたからと言ってここで浮かれちゃいかんのだろう。」
「わかってるね。船乗りは皆地面に足を下ろすまで気を緩めないもんさ。あんた船乗りの素質あるよ。もっと若けりゃ俺と一緒に漁をしてたかもな。」
老人はその会話を続ける気はないらしく、また黙ってしまった。船乗りもまた、舟をこぐことに集中しようとしたのか、喋るのをやめた。
それから数時間後、二人は上陸しやすい所を探していた。なにせ小さな船なので、港跡には留まれない。しかし断崖絶壁に留まるわけにもいかないので、砂浜を探しているのだ。
「ここいらは地元と勝手が違うから、よくわかんねぇや。」
「砂浜が見えたら言うから、こぐことに専念していいぞ。」
「いんや、最後まで仕事させてくれや。こっから先アンタに何があるともわからんし、ここくらいはな。…同郷のよしみだ。受け取ってくれや。」
「…わかった。だが俺も探すぞ。目はそんな良くないがな。」
老人と青年は岸を睨みつけるように砂浜を探した。しばらくそうして船を進めていると、小さな港の横にある砂浜を見つけた。陸にも問題なく上がれそうだ。
「ああ、あそこなんていいんじゃないか?」
「そうだな。足がつくようになったら降りる。そこまで近づけてくれるか。」
老人は荷物を背負い、岸が近づくのを待った。やがて安全に降りられるであろう深さまで船が来ると、老人は上着とズボンをまくって、靴を手に持って船を降りた。はずみで船が揺れたので、老人は慌てて抑えられるだけ抑えた。
「ふう、助かったよ爺さん。じゃ、俺はここで。達者でな。」
「ああ。君も頑張りたまえ。」
二人は別れた。これから先、再び会える確証もなく。老人は、もう故郷の言葉を話さない覚悟を決めた。