わがままな婚約者が変わってしまった。
エイドリアン・ヘリオトブルーが自分の婚約者について話そうとすると、一言では言い表せられないだろう。
それほどまでに魅力的で、ぷくっと膨らんだ頬や、わがままを言う時に上がる口角がぴくぴくしている様子などが、とてもかわいらしい婚約者だった。
だけど、そんな婚約者が変わってしまった。
幼い頃から散々わがままを口にして、エイドリアンをはじめとして使用人や両親すら翻弄していた婚約者が、ある日突然大人しくなったのだ。
エイドリアンの婚約者エスターシャ・ピオニードは、高位の貴族らしく周囲の人間から高慢で傲慢な令嬢として知られている。初対面の相手には見下すことからはじめて、自ら挨拶をすることなく、王族であり従弟の王太子にすら笑顔を見せずに突き放す。
そんな様子を見て、周囲の人々はエスターシャのことを「わがまま姫」と呼んでいた。
これは確か八歳の頃だ。
エスターシャの誕生日パーティーで、彼女は飲んでいたジュースをどこかの令嬢のドレスに浴びせかけた。エイドリアンも近くに居てそれを見ていたのだけれど、彼女はジュースを浴びせかけた相手に対して、「あなたにはそんなドレス似合わなくってよ。それよりももっといいドレスにしてあげる」と三日月形にゆがめた口角をぴくぴくさせながら別室に移動した。
その様子を見ていた他の子供たちは、エスターシャの言動にびっくりして、その出来事があってから彼女とは距離をとるようになった。
そしてこれは確か十一歳の頃だっただろうか。
ある日突然、首都のヘリオトブルーの邸宅にやってきたエスターシャは、領地にある雑草みたいな花がたくさんほしいと言い出した。喚くような物言いに、父はいい顔をしなかったものの、エイドリアンはほかでもない婚約者が頼んでいるのだからと、父にお願いして雑草みたいな花をたくさん摘んで彼女に渡した。
彼女はなぜか頬をぷくっと膨らませて、「こんなのべつに要らないんだけど」とぼやき、エイドリアンに直接感謝の言葉を伝えることはしなかった。
そしてこれは同じ歳のことだ。
エスターシャは、港町から見える海を平民が簡単に見られるなんてゆるせないとか言い出して、高い防波堤を作るように父である公爵に頼んだという。
ピオニード公爵は少し困ったような顔をしたものの、従弟である王太子がエスターシャの言葉に賛同したことから、防波堤を作ることにした。
これにより一部の平民の間で不満が出たというが、エスターシャは耳を貸すことをしなかった。
「わがまま姫」
社交界や平民の間でそう囁かれている彼女が変わったのは、十八歳の頃。
学園の卒業パーティを一か月後に控えた時のことだった。
いつもわがままばかりだったエスターシャが、それまでわがまま三昧をしていたのが嘘かのように、大人しくなったのだ。
パーティでは初対面の相手にも丁寧に接して相手を動揺させたり、いままで迷惑をかけてきた相手に謝罪をして、謝罪を受けた人々が皆一様にあんぐりと大口を開けて呆けた顔になったり。
かくいうエイドリアンも、あんぐりと大口を開けて呆けたくなったひとりだ。
それまで「伯爵子息が私の婚約者なんて相応しくないわ」とか、「こんなお茶飲みたくないわ」とか、「いますぐあのスイーツを買ってきて。いま話題のやつよ? わかるでしょう」とか。
エイドリアンと目を合わすのも嫌だというように逸らしたり、婚約者として一緒にデートするときにあっちこっちに振り回したり、忙しい時に突然の要求を突き付けてきたりしてきたのに、それらのすべてを謝罪してきた。
ヘリオトブルー家は騎士を多く輩出してきていて、気質的に寡黙な男性が多い。エイドリアンもその一人で、いくらエスターシャにわがままを言われても、ましてや無理な要求をされても、淡々とこなしていたからか周囲の人には「変わっているのね」と言われたりしていた。
だから表情にこそ出なかったものの、内心エイドリアンはエスターシャが変わったことに、ショックを受けていた。
(わがままなところもかわいくって愛おしかったのに、どうして変わってしまったんだ?)
そう悩んでいた矢先のことだ。
卒業間近のパーティで、エスターシャに控室に来るように伝えられた。
そんな彼女が口にしたのは、信じたくないことだった。
「私との婚約を解消してほしいの。もちろん、私の瑕疵でいいから」
「……な、なぜだ」
絞り出した声は、やけに渇いていた。
ビクッとエスターシャは体を震わせて、エイドリアンから視線を逸らすと言いにくそうに答える。
「ほかに、好きな方ができたの。相手も、私のことを好きだと言ってくれているの。それにいままで、私のわがままであなたを傷つけたり、迷惑をかけたりしたわ。だから、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないのよ。もうヘリオトブルー伯爵には話を済ませているから、私との婚約解消を受け入れてほしいの」
他に好きな人ができた。
婚約解消。
前まで自信満々にわがまま三昧をしていたエスターシャが打って変わって、しおらしく気弱そうに伝えてくるその言葉が、ぐるぐるとエイドリアンの脳内で回る。
好きな人というのは、最近よく一緒にいるのを見かける、あの男のことだろうか。
金髪碧眼の貴公子にして、エスターシャの従弟。
そしてこの国の王太子でもある、クリフォード。
高貴な身分であるクリフォードが相手なら、エイドリアンは身を引かざるを得ないだろう。
だけどそんなこと――そんなことは、絶対に嫌だ。
「俺は、婚約を解消したくない」
「……もう伯爵にも、お父様にもお伝えしたわ。だから、無理よ」
これはもう決定事項なんだ。
そう思うと、エイドリアンはいままで感じたことのない感情が内側から湧き出てくることに気づいた。
激しい感情だ。胸を圧迫するほど苦しくって、剣の稽古で父親にボコボコにされたときよりも、はるかに痛い。
痛くて痛くて、目の前がぼんやりとする。
「……嫌だ。どうして、婚約解消なんて、しなければいけないんだ」
エスターシャは目を大きく見開いて、エイドリアンを見た。
「……リアン、泣いてるの?」
泣いてる?
頬に手をやると、濡れていた。
なるほど俺は泣けたのかと、エイドリアンは自分の変化に気づく。
泣いたのは何年振りだろうか。物心ついた時には、厳しい剣の修行を耐えるために、泣くことすら許されなかった。
だから目の奥が熱くなるのも、胸が苦しくなるのも、ほとんど経験がない。
(俺は、エスターシャと離れるのが悲しいんだ)
「リアン、ごめんなさい。あなたを傷つけるつもりは、なかったの」
「……なら、婚約解消はやめてくれないか」
「そ、それは……」
またエスターシャが目を逸らす。その口は言い淀んでいるようで、前みたいに口角がぴくぴくしたりしていない。
それに寂しさを覚える。
エスターシャがわがままを言わなくなってからもそうだ。
胸の大事なところがぽっかりと開いてしまったような、虚しさまでも感じている。
「……無理よ」
「どうして?」
「私は……あ、あなたのこと愛していないもの」
エイドリアンは思わず目を見開く。
目を床に逸らしながらも、口元に笑みを浮かべるエスターシャ。
その口角が、ぴくぴくと動いていたからだ。
「それに、私みたいなわがままな女、本当は嫌いでしょう? リアンは優しいから傍にいてくれるだけで、心の中では婚約解消してくれてよかったって思っているはずだわ」
「そんなことない」
「これからも、あなたに迷惑をかけ続けるわけにはいかないの」
「迷惑ならいくらでもかけてくれたって、構わないんだ。俺は、そんなエスターのことも好きだから」
「――え?」
エスターシャの桜色の瞳が、やっとエイドリアンを認めた。
そのことに湧き上がってくるのが嬉しさだ。
『わがまま姫』
そう呼ばれている彼女が、本当は心優しさを隠しているということをエイドリアンは知っていた。
彼女はただ、わがままを演じていただけ。
「十歳の頃、エスターがジュースを掛けた令嬢がいただろう?」
エスターシャの肩が震える。
もしかしたら糾弾されるのを怖れているのかもしれない。
「彼女は時代遅れの古びたドレスを着ていた。家が貧しく、名ばかりの貴族だったから、母親のお古のドレスを何回も繕って着ることしかできなかったんだ。それで貴族の子供たちにバカにされていたらしい。そこでエスターは彼女にジュースを掛けて、自分のドレスを一着譲ってあげたんだよね」
はっとエスターシャが目を見張る。
これはその時の男爵令嬢本人から聞いた話だけれど、彼女はエスターシャに感謝していた。彼女が目を光らせてくれたおかげで他の令嬢たちから意地悪をされることもなくなり、家の事業もエスターシャの助けがあって軌道に乗り、学園に通えるまでになった。
そして十一歳の時も。
「ヘリオトブルーの領地にある雑草のような花を、たくさんねだった時もそうだ」
あの花は実は薬になる花だったらしく、彼女はこっそり薬剤師にその花を託して、薬を作っていた。
そしてその薬は、十三歳の頃に、王都で一時的に流行った疫病の特効薬だった。
その薬のおかげで疫病は広がるのは免れて、その薬剤師は報奨金を手に入れて娘を学園に通わせることができた。
「そして防波堤。あれは画期的な発明だった」
港の景観が悪くなって、人々の間からは不満の声が上がったけれど、いまから約三年前――学園に入学する前に、別の大陸で起きた地震により、大きな津波が港に到達した。
もし防波堤がなければ、津波により甚大な被害が出ていただろう。
だからいまでは平民の間では、防波堤はなくてはならないものになっている。
「みんなはエスターのことをわがまま姫だというけれど、君は本当は素直で優しい人なんだ」
その証拠に、彼女がわがままを口にするとき、いつも口角をぴくぴくさせている。
エイドリアンは幼い頃から彼女の傍にいて、その様子をいつも見守ってきた。
わがままを言っている彼女も愛らしく、素直になれないながらもいつも差出人不明の手紙で謝罪をしてくる彼女も愛おしく。
それにエイドリアンだけではない。エイドリアンの両親や、エスターシャの両親――それから、彼女が助けた男爵令嬢や落ちぶれる直前だった薬剤師も、彼女が本当は優しい人だってことを知っている。
「エスターは、無理難題だけは口にしなかった。俺は君のわがまま――いや、願いを叶えられるだけで幸せだったんだ」
「リアン……」
エスターシャが小さな声で名前を呼ぶ。
「どうして、嘘を吐いてまで俺と婚約解消をしようとしているのかはわからない。だけど、俺が君を――エスターのことを心の底から大切で愛おしく思っていることを知ってほしい」
「……で、でも、リアン。私といたら、あなたは破滅するかもしれないの。……それに、前にヒロイン――じゃなくって、男爵令嬢のクリスタ嬢と一緒にいたでしょう?」
「クリスタ嬢というと、君が八歳の時に助けたあの令嬢のことか?」
そういえば彼女の様子が変わったのは、一カ月前に男爵令嬢であるクリスタから話しかけられた後だった気がする。
クリスタは向上心が高い令嬢で、将来有望な騎士を一目見たいと近づいてきて、少し話をした。その時に彼女は助けてくれたエスターシャのことを褒めちぎっていて、婚約者であるエイドリアンのことを羨ましいと口にしていたっけ。
彼女はエスターシャのおかげで気兼ねなく学園に通えることができていて、その恩返しのためにも将来は高官になって、この国に貢献したいと豪語していたことを思い出す。
「エイドリアンはクリスタ嬢とお話ししている時、とても楽しそうだったわ。だから、きっと私から離れて行くと思ったの」
「クリスタ嬢とは、君の話をしていただけだ」
「私の?」
「ああ、クリスタ嬢は君のファンだから」
「ファン? ヒロインが、私の?」
先ほどから口にしているヒロインという言葉が気になったが、エイドリアンは優しく微笑みかける。いつも強張ってばかりいた顔が、彼女の前だと柔らかくなる気がする。
「ファン一号として、とても誇らしいよ。君のことを理解してくれる人が、他にもいることが」
目を逸らしているエスターシャの赤い髪に隠れた耳が、ほんのりと色づいている。
「だから、エスターシャ、俺との婚約を解消しないでほしい」
いま一度、エイドリアンは自分の願いを彼女に伝える。
「そ、それは……む、むりよ。ほかに、好きな人ができた、もの」
もごもごと呟く声に、張りはなかった。
彼女の言葉に、最初ほどに動揺はしていない。
彼女はわがままを口にするために見栄を張って笑う時は、いつも口角がぴくぴくしている。
それはさっきもそうだった。「あなたのこと愛していないの」と言っていた時、彼女は口元に笑みを浮かべていて、その口角はぴくぴくと動いていた。
「好きな人ができた、というのは嘘だろう?」
「……っ、そんなことはっ」
「ずっと傍で見てきたから、俺にはわかる。エスター。俺は君になら、どんなわがままを言われたっていい。突き放されようが詰られようが、耐えられる」
「……り、リアン……。でも、私は悪役令嬢で」
「悪役令嬢がなにかはわからないけれど、少なくとも君には相応しくない呼称だ」
「……リアン、ごめんなさい」
桜色の瞳が、見上げてきた。その目尻には涙が滲んでいて、それがさらに彼女の魅力を増している。
「ほ、本当は、他に好きな人なんていないの。……私にはずっとあなたしかいなくて……でも、私は悪役令嬢だから。ゲームだと、リアンを巻き込んで破滅するのがエスターシャの役割で、私はそうならないように、あなたを破滅させないようにしたくって。……絶対に、好きにならないように、嫌われたようとわがままを演じていたのに……」
ポロポロと涙を流して謝罪するエスターシャ。
彼女はゆっくりと、言葉を発した。
「気づいたら、好きになってしまっていたの」
その言葉に、エイドリアンの胸の鼓動が早くなった。
「好きなの、あなたのことが」
さらにドキドキして、エスターシャをいますぐ抱きしめたい衝動に駆られる。
だけど騎士として、ここは昂然とした態度で、彼女を受け入れよう。
「俺も好きだよ、エスター」
婚約解消は、取りやめとなった。
◇◆◇
エスターシャには前世の記憶がある。
物心がついた時に、自分がゲームの世界に転生していることに気づいてしまった。
しかも転生したのは、男爵令嬢のヒロインが底辺から這い上がる、乙女ゲームに登場する悪役令嬢。
落ちぶれた男爵家の生まれである主人公が、貴族の通う学園に入学して、勉学に励みながら時にトラブルに見舞われたり、恋愛ドラマなどあったりして、それでも自分の意思を曲げずに学年上位で卒業して官僚を目指す物語だ。
エスターシャはそのゲームの悪役令嬢だった。
婚約者がいるにもかかわらず、王太子であるクリフォードに色目を使ってすり寄ったり、みんなから慕われているヒロインに嫉妬して嫌がらせをしたりする、よくいる悪役令嬢。
そのうえ、ヒロインを手にかけようとしたところを王子が庇い、王族を弑逆しようとした罪に問われて辺境に追放された後に平民に落とされる、愚かな少女。
ただ一人で破滅するだけならいい。だけど、エスターシャの場合、彼女を庇った婚約者を道づれに破滅する運命にあった。
エイドリアン・ヘリオトブルー。
紺色の髪に紫の瞳の寡黙な少年。ピオニード公爵家と懇意にしている騎士の家系で、物心がつく前からエスターシャの婚約者だった。
ゲームのエスターシャはそんな彼に不満を持っていて、いつも見下して横暴三昧で振り回していた。
だけどゲームのエイドリアンは、なぜかわからないけれどそんな彼女を庇い、一緒に辺境に追放される罪を背負った。
そんな彼に同情した。悪役令嬢が赦せなかった。
自分がエスターシャだったら、振り向いてくれない王太子ではなく、いつも傍で見守ってくれているエイドリアンを大切にしたのに。
そんなことを想っていたから、悪役令嬢エスターシャに転生していたのかもしれない。
エスターシャに転生したことに気づいてからは、エイドリアンを破滅させないように行動するようになった。
彼から嫌われるようにわがままな娘を演じて、彼に冷たくして、絶対に彼のことを好きにならないように心に誓って。
そうすれば、ゲーム通り破滅しても、彼を道ずれにしなくても済む。
そう思っていたはずなのに――。
(気づいたら、好きになってしまっていた)
絶対に、絶対に好きにならないって決めていたのに。
一カ月前に、ヒロインであるクリスタと話しているエイドリアンを見つけた時、いつも見せることのない笑みを浮かべている姿を見て、胸が締め付けられる思いがした。
その時に、気づいてしまった。
絶対に好きにならないと決めていた彼のことを、好きになってしまった自分に。
いままでわがまま三昧だったから、彼からは嫌われているだろう。
だから、本来の目的だった婚約解消を円満にするために、エスターシャは自分の身の振り方を変えることにした。
従弟であり、エスターシャの計画を知っているクリフォードの力を借りて。
ゲームの通りに破滅するのだけは嫌だったから、表向きはクリフォードとは関わらないようにしていたけれど、防波堤を作る時に彼にはエスターシャの思惑を知られてしまっている。
彼は、面白そうだねと言ってエスターシャの婚約解消計画に協力してくれた。
なるべくクリフォードと親しい間がらだと周囲に想わせて、エスターシャの瑕疵で婚約を解消したように見せかける。そうすれば婚約を解消しても、エイドリアンには迷惑をかけないと、そう思ったからだったのに――。
婚約解消を告げた時、エイドリアンは嫌だと、涙を浮かべて拒否した。
しかもわがままに見せかけて助けたヒロインや、疫病の薬、それから防波堤などのエスターシャの思惑のことごとくが、見破られてしまっていた。
「みんなはエスターのことをわがまま姫だというけれど、君は本当は素直で優しい人なんだ」
そんなことまで言ってきた。
そのうえ、好きな人がいるということも嘘だと見破られて、エスターシャのことを心の底から大切で愛おしく思っていると伝えられて――。
もうエスターシャは自分の気持ちを誤魔化すことはできなくなっていた。
自分と一緒に居たらエイドリアンは破滅するかもしれないのに。
それなのに――。
一途な瞳で見つめてくる紫色の瞳。
それを見た瞬間、自分の気持ちを吐露してしまっていた。
「ほ、本当は他に好きな人なんて、いないの。……私にはずっとあなたしかいなくて……でも、私は悪役令嬢だから。ゲームだと、リアンを巻き込んで破滅するのがエスターシャの役割で、私はそうならないように、あなたを破滅させないようにしたくって。……絶対に、好きにならないように、嫌われたようとわがままを演じていたのに……」
ポロポロと目尻から涙が零れる。
目の前が滲んで、瞬きをしたらエイドリアンの紫色の瞳が視界に入って。
「好きなの、あなたのことが」
もう押さえられない言葉が、口からついてでた。
エイドリアンはいままで見せたこともない、恍惚とした幸せそうな笑みを浮かべて、エスターシャに手を差し出してきた。
「俺も好きだよ、エスター」
その言葉には温かさを秘めた真実しか感じられなくて――。
エスターシャは彼の手を取ったのだった。
一度離れようと決意したのに、結局エスターシャは彼の傍から離れることはできなかった。
これまでわがままで迷惑をかけてきたぶん、これからは彼に優しくして、自分の気持ちもなるべく素直に伝えよう。
そう決心した。
それから周囲のエスターシャたちを見る目が変わった。
従弟であるクリフォードは計画が失敗に終わったことを聞いて、「残念だけど、やっぱりね」と、こうなるのがわかっていたかのように笑みを深めた。
なるべく近寄らないようにしていたゲームのヒロインのクリスタからは、熱烈な手紙を受け取った。
落ちぶれるはずだった薬剤師の娘からもなぜかファンレターを貰った。名前を明かしていなかったはずなのに、どこから情報が漏れたのだろうかと考えて、エイドリアンの顔が脳裏を過ぎった。
そして、一番変わったのはエイドリアンだった。
いままで不愛想にも思える無表情で、エスターシャのわがままを粛々と受け入れて、無理難題にまで答えてくれた彼が、エスターシャの前で笑顔を見せるようになったのだ。
これまでは自分のことなんて興味がないと、嫌われているのかもしれないと思っていたのに。
エイドリアンの瞳からは溢れんばかりの愛情を感じ、エスコートする手からは前よりも丁寧さを覚え、それから彼の口からはいままで聞いたこともないような甘い言葉が囁かれる。
「エスター。俺はいままで、自分の気持ちを言葉や行動にして伝えてこなかったんだって、わかったんだ。だからこれからは、俺も変わることにするよ。ちゃんと好きと声に出して、君に惜しみない愛情を捧げることにする」
エスターシャの手を取って、エイドリアンはその指に口づけを落とした。
紫の瞳と、桜色の瞳が交差する時間は数秒にも満たなかったけれど、それでもそれはいままでの人生で一番しあわせな時間だった。
きっとその一番はこれからも更新され続けるだろう。そんな予感さえしていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
少しでもお楽しみいただけましたら、幸いです。