13話 逢瀬
身体に馴染む、心臓まで揺らす地響き。
芝混じりの土塊を蹴り上げながら、サラブレッドたちが目の前を駆け抜けていく。
夢を見ていることに気づいたのは、ここが府中の競馬場で、自分はフェリスだったからだ。
「フェリス」
大歓声の最中にあって、その声ははっきりと耳に届いた。
話しかけてきたのは、隣にいた女だった。
女の頭からいつまでも滴り落ちる、やけに鮮やかな赤い泥のせいで顔は分からなかった。それでも、よく知ったその声は誰とも間違えようがない。
■■───前世の、自分だ。
「うるさくてすまん。でも、ここ、どうしても見せたくてさ」
片手を額の前に掲げて、どうやら、照れ笑いしているようだ。
■■は視線をターフに戻すと、いつの間にか持っていた場内販売のドリンクを飲んだ。
「馬、好きになってくれてありがとう」
「おかしなことを。私があなただったときから、何も変わっていません」
気がつくとフェリスの手元にも、透明なプラスチック容器に入った飲み物があった。
奢り、と■■が言う。夢の中で奢られても、と思いつつフェリスはストローを咥えた。
「馬を好きだった自分を、思い出しただけです」
フェリスがそう言うと、■■はぶんぶんと激しく手を振って否定した。
「いや、違うよ?」
全然違う、と彼女は繰り返し言う。前方では、大画面モニターが先ほどのレースのリプレイ映像を流していた。
「君は最初から君で、私だったことはないよ」
彼女の抽象的すぎる言葉に、フェリスは眉をひそめた。
■■は頭を乱暴に掻いて、言葉を選んでいるようだった。
「クソ、分かりにくいな! つまり───」
自分の血で真っ赤に汚れた手を残念そうに眺めて、彼女は呟いた。
「魂の根っこが同じなだけの、まったく違う世界に生きてる別人同士なのだよ、我々はね。それを前世や来世と呼ぶのかもしれないが」
フェリスが持つ■■の記憶は、本を読んだときのような記録でしかなく、実際に見たり、過ごしたりした事実があるのではない。些細な違いだが、そこには大きな断絶があると■■は言った。
「難しい問題だ。私の主観的な記憶すべてを持っている君が、実のところ私ではない。哲学か?」
早口でまくし立てた彼女は、一人でくすくすと笑っていた。
「まあ、何が言いたいかっつーと、私は別に君の人生を乗っ取りたい訳じゃないし、逆に私の一生も君のもんじゃないってこと」
君の家族は間違いなく「君」の家族で、君の友人は間違いなく「君」の友人だ。
その言葉に、フェリスは何故だか目頭がぎゅうと熱くなった。
おかしなことだ。当たり前のことを言われただけなのに。
「あ、友だちいねえか!」
フェリスは無言で■■の頭をはたきつけた。
大げさに頭を押さえた彼女は、わざとらしくフェリスへ指を突きつけて叫ぶ。
「今のお前は、記憶で知ってるだけの、競馬の幻影を追ってんだぜ! 勘違いすんなよな!」
それから数秒の間を置き、我慢ができなくなったように、くしゃりと笑う。
「まあ、だからこうして、夢の中だけでも見せたかったんだけど」
彼女の穏やかな声は、フェリスに奇妙なくすぐったさを覚えさせた。
もし、二人で向こうの世界に生まれていたら、こんな感じの姉妹だったのかもしれない、とフェリスは思った。
そう思えば、自分たちは別人なのだと分かる。
「……ありがとう」
「こっちこそ」
そう言うと、彼女は踵を返す。別れの挨拶か、軽く右手を挙げた。
うだるような熱の中の、けれどすがすがしい夏空に響く、初めて聞いた蝉の声。
フェリスが振り返る前に、彼女は人混みの中へ消えていった。
「あ、もう一度言うか。馬、好きになってくれてありがとう。───頑張れよ」




