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蓼虫たでむしとミートボール - 下」


 開かれた戸の先にいたのは海斗だった。

 いつもの青いジャージの肩が、少し雨で濡れていた。

「お邪魔します」

 昨日ぶりだというのに、海斗の顔は見てもわかるぐらい血色が悪かった。

 この店を初めて訪れた時よりも、もっと弱っているようだった。

「こんばんは。大丈夫だった?」

 大丈夫なわけがない。ひとみは、言いながら自分でもそう思った。それなのにいつもの風を繕ってしまった。

 すると、彼はエナメルバッグから嫌というほど丁寧に畳まれたジャージを取り出した。昨日貸した父親の服だった。

「あの……すみませんでした」

 おそらく、昨夜の事態全てを含めての謝罪だったのだろう。

 ひとみは、どんな場面のどんな人の謝罪だって好きではなかった。とりわけ、こんなに辛い思いをしている青年の弱々しい声が、言葉が、トーンが、全てが嫌だった。そうさせてしまっている自分にも。

「ううん」

 ひとみはまた、いつものような声で返す。しかし、次の話題や言葉が上手く見つからなくて、暫く言い淀んで沈黙が生まれた。

 それでも、このまま帰すわけにはいかないと思って、口をついて言葉が出た。

「何か食べてく?」

 それぐらいしか、自分に出来ることはないと思った。

 海斗は小さくこくりと頷いて、いつものカウンター席に座った。

 ひとみは、やおら立ち上がり、エプロンを着て髪を後ろで結ぶ。

 冷蔵庫で季節外れの白菜と厚揚げを見つけた。業務用の炊飯器にはご飯が残っている。

 ひとみは、それらだけを取り出した。きっと食材は少ない方が良いと思ったからだ。

 海斗は何をするでもなく、少し惚けた様子でひとみの所作をじっと眺めていた。

 そこに何の言葉も生まれない。丁寧な調理音と換気扇と、少し弱くなった雨の音が店の壁に染みるように広がっていた。

 ひとみは、鍋を開けてご飯を入れ、そこにご飯の倍ぐらいの水を入れて煮た。

 そして、一口大にした厚揚げと白菜を入れたフライパンも火にかける。

 その時、海斗はゆっくりと小さな声を出した。

「今日、婆ちゃんに会ってきたんです」

「そうなんだ」

「それで、聞いたんです。親のことを」

 ひとみは、ハッとして弱い動悸がした。それから、間を置いて「うん」と返した。

「それで……何ていうか。あんまりいい親じゃなかったみたいです」

 今日の昼に、青柳から聞いたことが再放送される。それも本人の口から。

「本当に記憶にないんですけど、父はDVってやつしてたみたいで、母さんはそれでおかしくなって料理とか……」

 ひとみがふっと顔を上げると、ほとんど温度を感じない彼の瞳があった。

 どうして、この子はそんなことをつらつらと言えるのか。ひとみは不思議で辛かった。

「あのさ」

 ひとみは、耐えきれなくなって断句を投げ入れた。

「実は、私も青柳くんに聞いちゃったんだ」

「……青柳って青柳先生のことですか?」

「うん。君の親のこととさ。その、ご飯のこととか」

 わざわざ言う必要もなかったが、これ以上彼の口から続きを語らせるわけにはいかないと思った。

「そう、なんですか」

「うん。ごめんね」

 海斗は少しの間黙り込んで、「いえ」と短く返事をした。

 それから、海斗はまた、ぽつりと話を始めた。

「それで、よくミートボールを作っていたらしくて、だから、それで昨日吐いちゃったのかもって思ったんです」

 彼はまた平静を携えている。不気味なほど。

「だから、あの……ひとみさんの料理は悪くなくて、本当に俺のせいで、すみませんでした」

「君のせいなわけがないだろ!」

 ひとみは、自分の声にびっくりした。

 それでも、熱くなった目頭の勢いで、気持ちに任せて続けた。

「何でそんなこと言うの。全部他の奴らのせいでしょ!」

 海斗は、驚いたような顔をしてこちらを見つめていた。

 当然だ。こんなヒステリーなやつがいたら、誰でもそんな顔をする。

 それでも、ひとみにとって母との一番温かい思い出だったミートボールが、彼にとっては、今でも彼を傷みつける古傷や呪縛そのものだったことが本当に悔しかった。

「だから、泣いてよ。悲しんでよ。怒ってよ」

 気づけばひとみの目から涙が出ていた。

 その滲んだ視界の中で、海斗の目も潤んでいたのを見て、ひとみはふと我に返った。

「……ごめんね。こんなこと言って」

 海斗は首を強く横に振った。涙が落ちそうなほど。

 それから、震える口でぼそっと言った。

「……俺、ずっと逃げてたんですかね」

「逃げればいいじゃん」

 ひとみは、ぶっきらぼうにそう言った。しかし、それは本心だった。

「君はまだ子供なんだから。もっと元気になって、もっと強くなって、それから気が向いたらでも遅くないよ」

 ひとみは、偉そうに説法を説いている自分が急に恥ずかしくなって「なんて」と付け足した。

 それでも、海斗は赤ん坊のように真っすぐ潤んだ目でひとみの目を見ていた。

 だから、ひとみは、カウンターを挟んで海斗に手を差し出した。

「君は強くなれるさ」

 海斗はその手を取って、深く頭を下げながら。酷く冷たい、柔らかな手だった。

 ひとみは、何も言わずに微笑んで、その手を強く握っていた。

 それから、海斗は思い出すように言った。

「あ、あと、鍋……焦げてませんか」

 ひとみは大きく口を開いた。

 

 やっとテーブルに今日の献立が並んだ。

 明らかに火が入りすぎて、お餅みたいになったお粥と梅干し。

 少し焦げた厚揚げと白菜を、酒と砂糖、醤油で煮たもの。

 本当にただ、それだけだった。

「いただきます」

 2人は手と声を揃えて言った。

 海斗は、お餅みたいになったお粥をレンゲで持ち上げて口に運んだ。

「……おいしいです」

「……こんなのになっちゃったのに?」

「おいしいです」

「味もわからないのに?」

「それでも、おいしいんです」

 海斗は素直なことを言っている人の、どこまでも澄んだ目をしていた。

「そっか、ありがとう」

 ひとみは、応えるように笑って言った。

 いつか誰かと、幸福の味を分かち合える瞬間が、彼に訪れることを強く願った。

 例えそれがミートボールでなくとも、自分とでなくても構わない。

 ひとみが愛してきた、色んな食べ物の色んな幸せを、彼にも知ってほしかった。ただ、それだけだった。

 

 それから、ひとみは海斗を家まで送ることにした。

 海斗は何度か断っていたが、最後はひとみに言い通された。

 夜の雨道を2人でいくと、ちょうど帰ってきた父がタバコを咥えながら歩いていた。

 海斗はそれを見つけてぺこりと深く礼をした。

 父はタバコを口から一旦離した。

「……元気になったか」

「はい。昨日はありがとうございました」

 父はそっけなく、手をあげて身振りで返事した。

 それからまた重そうな足でずんずんと店に帰っていった。

 ひとみと海斗の間には、父の吹かしたタバコの煙が微かに匂った。

「きっと君は、タバコの苦さも分からないんだろうな」

 ひとみはニヤリと笑いながら茶化すように言う。

「……臭いのは分かります」

 海斗もおどけて笑って見せた。

おお付き合いいただきありがとうございました。

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