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蓼虫(たでむし)とミートボール - 中」


 金曜日の夜21時半。「ひさ屋」としての営業が終わると、ひとみはまた料理動画の撮影を始める。

 このごろは、その目と鼻の先のカウンターに快活な青年が座るようになった。

 事情を知った父もそれを快く承諾してくれた。

 最初は小動物のように縮こまっていた彼も、1ヶ月するとそのカウンターで宿題をやるまでになった。

「何の勉強してんの?」

 ひとみがチチチチと、ガスコンロの火加減を合わせながら尋ねた。

「数Ⅱです」

 海斗はペンを持った手で頭をポリポリ掻きながら答えた。

「数学か。懐かしいね。何も覚えてないけど」

「ずっと昔のことですもんね」

「やかましいな」

 ひとみは、ちょっと前まで気の毒なほどに気を遣っていた彼が、嫌味を言ってくれることがこの上なく嬉しかった。

 今日のフライパンでは、大ぶりな鱈と二枚貝とミニトマトが蒸らされている。

 海斗は、その鱈の上のマイクを指差しながら、「てか」と続けた。

「今、話しちゃって大丈夫なんですか」

「もう煮るシーンは撮り終わったからね。もう何もすることないし」

「そうですか」

 海斗は、神経の向く先をまた宿題に戻した。

 静かな店では、鱈を煮込む音と海斗が必死にシャーペンを走らせる音、遠くで騒ぐ華金大学生達の声が聞こえる。

 ひとみは、胸の器に少しずつスープが満たされるような温かい調和を感じていた。

 それから数分が経ち、ガラス蓋からフライパンを覗くと、中の貝が無防備に殻を開けている。完成の合図だ。

 ひとみは蓋を開け、スープを大匙で少し取り出して味見した。上々だ。

「はい。宿題しまって」

 そう言ったひとみは、おたまで2人分のアクアパッツァを綺麗によそい、出来合いのサラダとバケットを並べた。

 そして、それをまた舐め回すように撮影する。その様を、海斗が気味悪そうに眺めることまで決まっていた。

 ひとみもこの時間に、海斗と食事を取るようになった。

 1人分よりも2人分作る方が絵面もいいし、実用的なレシピになる。そして何より、ひとみが誰かと食事を取りたかった。

「いただきます」

「いただきます」

 海斗はまずメインのアクアパッツァから手をつけた。

「どう?」

 ひとみは間髪入れず感想を求める。

「……柔らかいです」

「それから?」

「……温かいです」

「味は?」

 海斗は黙ったまま首を横に振る。

「そうか」

 もちろんひとみも良い返事は期待していない。それでも、彼が味覚を取り戻せたらと望みを持っていた。

「君には、このミニトマトの酸味もわからないんだな」

 ひとみは真っ赤なミニトマトをフォークを持ち上げて言う。

 青年は「すみません」と言いかけるので、ひとみはそれを遮ってまた質問をする。

「そういえばさ、君家ではどうしてたの? お母さんのご飯とか」

「あぁ、親はいないんですよね」

 海斗は表情ひとつ変えずに言った。

 ひとみは小さく「そっか」と返す。

「小さい時にいなくなっちゃったみたいで」

 味覚の話の時と同様に、まだ高校生の彼は慣れた口振りで暗いことを話す。それが一層、ひとみの胸を抉っていた。

「なんか婆ちゃんは知ってるみたいですけど」


 彼は、会話の間間 (あいだあいだ)でどんどん食事を進める。

「あんま喋りたくなさそうだし、そこまでして聞きたくもないかなって」

 ひとみは手を止めたまま「そっか」と繰り返すことしかできなかった。

 それから、サッカー青年は今日もチーターのように素早く食事を終え、ひとみは少し残すことにした。

「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした」

 食事を終えると、海斗はせめてものと、片付けを手伝ってくれた。

「君、明日も昼は部活?」

 ひとみは食器を次々と洗って海斗に渡し、拭いてもらった。

「そう、ですね」

 この道10年のひとみとは当然手際が全く違うので、海斗はその流れを止めないよう必死で食器の水滴を拭いていた。

「じゃあ、弁当でも作って持っていってあげるよ」

 海斗は驚きながら「いやいや」と断る。

「悪いですよ。ただでさえいつも夜いただいてるのに」

「いいからいいから。はい、洗い済みのやつ溜まってきたよ」

 そうひとみが押し切って、予定を取り付けた。

「……じゃあ、お願いします」

「任せなさい」

 ひとみは大きく、海斗は小さく笑った。


 そして、朝が来た。

 夜行性のひとみは、朝10時の光を久しぶりに拝んだ。

 父も「槍が降るのか」とつまらない常套句を投げた。

 ひとみは眠たい目を擦りながら、海斗に渡す弁当の準備に取り掛かった。

 彼は部活の時、どんな環境で食べるのだろう。きっと机がなくとも食べやすいものがいいだろう。

 鶏の照り焼きに卵焼き、昨日の残りのミニトマト。

 ひとみも弁当を作ることは初めてだったので、一般的に血気盛んな男子高校生が好きそうなモノを手探りに作っては詰めていった。

 それから、海斗のことを考えながら大きめのおにぎりを2つ握った。

 味も分からない彼は、何を思いながら食事をしているのだろう。全てが()だとか高野豆腐みたいに感じるのだろうか。それとも、彼にとっての食事は、生命の維持のためだけの行為で、点滴を打ち続けることと等しいのだろうか。

 果ては、味覚と同じように、悲しいことを悲しいと感じられなくなってしまっているのではないか。

 ひとみは、海斗の心情を考えるたび、行き過ぎた思慮をして調理する手が震えた。

 結局、30分ほどで見た目も味も納得のいく弁当が出来上がった。

 海斗から聞いていた部活の昼休憩まではまだ時間があった。しかし、ひとみは早い分には問題がないと考え、原付を出した。


 彼の高校はひさ屋から一番近い高校で、この店に来たことも頷けた。

 高校に着くと、グラウンドで3〜40人ほどの男子が熱心にサッカーに励んでいた。

 ひとみは、グラウンド沿いの細路地に原付を停めた。

 校内と外を遮る金網があり、その中に海斗の姿を見つけた。

 彼は選手達の中でも飛び抜けて速く、風を切ってドリブルをしていた。とても声をかけられるような雰囲気ではない。

 すると、休憩時間に入ったようで部員たちが部室の中に引き上げていった。

 ひとみがどうしたものかと考えあぐねていたら、グラウンドを歩くジャージを着た男性が、ひとみを見つけて話かけた。

「保護者の方ですか?」

「いや……保護者というかなんていうか」


  ひとみは、形容し難い関係を説明できる自信もなく、要件だけを伝えてこの場を去ろうと試みた。

「その、海斗君にお弁当を届けに来たんですけど」

「海斗に、ですか」

「はい」

「それはそれは……」

 海斗の名前を聞いた男性は、少し驚いたように目を開いた。

「私、サッカー部顧問の青柳 (あおやぎ)というんですが、海斗の担任でもありまして」

 珍しい苗字の割に、聞いたことのある響きだった。

「青柳……もしかして青柳くん?」

 青柳は、ひとみの高校の同級生だった。

 ひとみはヘルメットを外して、目を見開いて言った。

「私、わかる?布木ひとみ。高校の時の!」

「……ちょっと存じ上げませんが」

 ひとみは彼の目と反応を見て、何となく()()()()()()()()()と確信を持った。

 それから、高校の時の青柳が性格や見た目以上に口の悪い男で、よく誤解をされている人間だという思い出が蘇ってきた。

「嘘ついてるでしょ」

「……申し訳ないんですけど、念のために貴方と海斗の関係を教えてもらってもよろしいですか」

 青柳はひとみを完全に無視して言った。

 ひとみは、まともに取り合う気がないのだと諦め、自分と海斗のここ1ヶ月の関係と、この弁当箱の経緯を青柳に説明した。

 青柳は前のめりに相槌を打ち、真剣に話を聞いていた。ひとみは、「青柳くん」が一人の男性教師であるという認識をこのときにやっと持った。

「そういうことですか」

 青柳はそうつぶやきながら、目線をひとみから地面に映した。

「海斗は良い子なんですけど、家庭のこともあって少し気にかけてまして」

「……何となくは分かる」

 青柳は「ええ」と繰り返す。

「お弁当、責任を持ってお渡ししますね」

 青柳は茶番をやめないが、納得はしたようでフェンスに空いた穴から弁当箱を受け取った。

「何か海斗に伝えておくことありますか?」

「じゃあ、食べきれなかったら残して、と」

 青柳は「はは」と初めて表情を緩めた。

「捨てとけと言っておきますよ」

 高校時代の青柳の顔と声だった。

 また、選手達がグラウンドに散り始めた。

 ひとみは青柳を睨んで、また原付に跨った。

 それから、今晩は海斗にとびきり美味いものを作ってやろうと思った。


「こんばんは」

 21時半、いつも通りひさ屋に海斗が来た。

「お疲れ」

 厨房では、既にひとみが調理に取り掛かっていた。

「お弁当、ありがとうございました」

「お粗末さまでした」

 海斗は、パンパンのエナメルバッグから弁当箱を取り出した。

「色んなおかずが入ってて嬉しかったです。これ、洗っときますね」

「お、ありがとう。優男(やさおとこ)だね」

「……そんな言葉、多分今誰も使わないですよ」

 もちろんしょうがないことではあるが、味の感想が無いのを寂しく感じた。

 海斗はシンクに移動し、律儀に弁当の容器を洗い出した。

 ひとみは、慣れた手つきで合い挽き肉を丸めていた。

「そういえば、今日撮影してないですね」

 海斗は不思議そうに聞いた。

「今日のは、1回作った料理だからね。ま、たまにはこういう日もね」

「へぇ、今日は何ですか」


「今日は()()()()()()だよ」

「ポルペッティ、って何ですか」

 海斗は一層、怪訝そうな顔をした。

「まぁ、要はミートボールだよ」

「……なんでわざわざよく分からない言い方するんですか」

「さぁ。イタリア人に聞いて」

 海斗は笑いながら洗い終えた容器の水滴を布で拭く。

 チチチチと響き、フライパンの火が点いた。

「俺、あんまミートボールって食ったことないかもしれないです」

 海斗がカウンターに戻りながら言った。

 ひとみは「ほんとに?」と返した。

「初めて食べるミートボールが私のだなんて贅沢だな」

「いや、記憶にないだけかもですけど」

 ひとみは「そっか」と言って、ミートボールを火にかける。

「ま、私の一番の得意料理だから期待しててよ」

 海斗は「はい」と嬉しそうに言った。

 

「おまちどうさま」

 寸分の狂いもない、完全無欠のポルペッティが出来上がった。店内中に幸せの匂いが充満している。

「いただきます」

「いただきます」

 2人の声はほぼ重なった。

 海斗は早速ミートボールに箸を伸ばした。

 ひとみは、ほんの一握りの期待をもって彼の顔色を窺った。それぐらい、自分にとってポルペッティは自信のある料理だった。

 すると、その期待とは真反対に、彼の顔はみるみる青ざめていった。

「ちょっと、すみません」

 彼はガタンと椅子から倒れ、床に四つん這いになった。

 全身の毛が逆立ち、昼間学校で見たのとは全く異なる意味合いの脂汗が吹き出ている。

 ひとみはすぐに立ち上がって彼の背中を(さす)る。

「どうしたの! 大丈夫!?」

 海斗の瞳孔は完全に開いている。

 音に気づいてか、2階から父も来て「どうした!」と叫んだ。

 その瞬間、彼の口から少量の吐瀉物が床にばら撒かれた。

 ひとみは、それが自分にかかるのも躊躇せず「大丈夫、大丈夫」と繰り返して、海斗の背中を摩り続けた。

 父は、必死の剣幕で厨房から袋と水を持ってきた。

 「救急車、呼ぶか?」

 海斗は、必死に息を整えながら、父に手のひらを向けた。

 「だ、大丈夫です」

 青年は、ひとみの手の中で、涙をいっぱいに溜めて、小さく「ごめんなさいごめんなさい」と繰り返し震えていた。


 窓から見える電線の向こうで、東の空が明らむ。朝が来た。

 ひとみはほとんど眠ることもできず、偏頭痛を抱えながらゆっくり体を起こした。

 彼女の頭の中では、何度も何度も昨晩の映像が流れていた。

 海斗が落ち着いてから、彼を家の風呂に入れ、少し大きめの父のジャージと大きめのおにぎりを2つ渡して帰らせた。

 そのどこを切り取っても、苦しむ海斗の顔が断片的に明滅する。

 彼の嘔吐はアレルギーだったのか、体調が悪かったのか、それとももっとずっと考えられないような複雑な何かが原因だったのか。

 ひとみはそんな堂々巡りを、夜を越えて続けていた。

 

 10時ごろ、着替えて1階に降りると、父が卓に新聞を広げ茶を啜っていた。

「おはよう」

「……おはよう」

 昨日の延長戦で起きているひとみとは対照的に、父は朝に居た。

 静かな朝に、鳥の高い声と父の新聞を捲る音だけが聞こえる。

 沈黙の続きで、父は湯呑みを置いて言った。

「あの子の服、洗って干しておいたぞ」

「ありがとう」

 父はまた湯呑みをゆっくり持ち上げる。

「あの子、昨日体調が悪かったのか」

「そんな感じでもなかったけど……分からないや」

 ひとみは弱い声で返す。

「もしかしたら、腐ってたのかもな」

「……ごめん」

 父のキャッチボールに付き合えるほど、ひとみに余裕はなかった。

 ひとみは店の扉前に50リットルのゴミ袋を見つけた。

 その一番上には、昨日海斗の戻したものが三重の袋に入って置かれている。

 彼の苦しみみたいに、強く頑丈に包まっていた。

 ひとみは、それを見てから深い息を1つして、原付の鍵を強く握って言った。

「行ってくる」

 父はさっきとは全く違うトーンで「そうか」と言った。

「ついでにそれ、捨ててきてくれ」

 

 原付で駆けると、住宅街を抜ける風が酷く冷たく感じられた。

 向かった先は昨日と同じ、高校のグラウンドだった。

 高校に着くと、昨日と同じ青色のサッカーユニフォーム達が練習に励んでいた。

 ひとみは集団を見渡したが、その中に海斗の姿はなかった。

 暫く探していると、ひとみは海斗ではなく、電光タイマーを抱えて歩く青柳を見つけた。

「青柳くん!」

「……こんにちは」

 青柳は露骨に嫌そうな顔をした。

「海斗君は、いないですかね」

 青柳はそれまでの芝居めいた顔をやめ、驚いた様子で「え、えぇ」と言った。

「私も今朝、海斗から電話で連絡が来て」

「……そうなんですか」

「てっきりご存知かと思っていました」

 グラウンドのサッカー男子達が声を上げながらダッシュを始めた。

「あいつ今まで休んだことなんかないんで」

 そう続ける青柳の顔は、本当に誰かを心配をしている人間の強張り方をしていた。

 ひとみはそれを見て、昨夜の海斗について打ち明けることを決めた。

「実は昨日さ、海斗君が夜吐いちゃって」

「……吐いた?」

「そう。いつもみたいに晩御飯食べたら急に全部戻しちゃって」

 話が進むにつれて、青柳の眉間にどんどん皺が寄っていく。ひとみが話し終えても、彼は口を開かなかった。

「そうか……」

 青柳の声色は重々しく沈んでいた。

 それから、青柳は左手で顎を触りながら考える仕草をしていた。

「今から、少しお時間よろしいですか」

「う、うん」

「ありがとうございます。少々お待ちください」

 すると、青柳先生は腕にキャプテンマークを付けた選手を呼び出し、指示を出した。


 それが終わると、青柳は学校の古びた門を開け、ひとみを校舎の中の相談室に案内した。

 そこは小さな机と椅子が数脚置いてあるだけの質素な部屋だった。

 その名の通り、生徒が少人数で相談をする部屋だった。

「座れ」

 青柳は、部屋に入るとがらっと人が変わった。

 言葉遣いも声のトーンも顔つきすらも、高校の時の青柳に戻ったようだった。

「お、元に戻ったじゃん」

「そんなことは今どうでもいい」

「こっちの方が話しやすいからいいや」

「世間話をするために呼んだんじゃない」

 青柳の顔は、今までに見たことがないほど真面目だった。

 2人は、部屋の真ん中にある長机を2つ挟んで腰掛けた。

「それで、海斗のことだけど」

 青柳は、改まった形で話を始めた。

 窓から、ほとんど花を落とした桜と、それを暗ます分厚い雲が見えた。

「実は、ちょっと前に海斗の婆さんと面談をして」

「そうなんだ」

 昔めったに目を合わせなかった彼は、ひとみの目だけをじっと見つめて話した。

「そこで、海斗の家族っていうか、両親について話してもらったんどけど」

 ひとみが「うん」と言うと、青柳の顔がさらに強張った。

「あいつの父親は、頻繁に家庭内暴力を振るっていたみたいなんだ」

 雲が完全に陽を覆って、部屋が急激に暗くなった。

 さっきまで聞こえていた部活少年たちの声も耳に入ってこなくなった。

 ひとみは何の反応も取ることが出来ず、青柳は話を続けた。

「それで、小学校の時には離婚をしたんだけど、母親はその影響で病んだみたいで」

 青柳の話はどんどん進んでいく。ひとみは、そのどれもが全く飲み込めないでいる。

「自分の子供、海斗について異常な愛情を持つようになったらしい」

「……異常っていうのは」

 ひとみは聞きたくもないことを、それでも知りたいことを、震える口で尋ねた。

 青柳は「その」と一度言葉に詰まり、軽く目を伏せた。

「反抗的なことをすると、海斗の首を絞めたり」

 青柳はもう一度目線を上げてひとみを見つめ直す。

「果ては、自分の作った食べ物に体の一部を入れたり」

 ひとみは青柳が一音一音を発するたび、脈が乱れるような感覚になった。次第に息をする肩が上がる。

 それを見て、青柳が「大丈夫か」と声を掛けた。

 ひとみは窓の向こうを見てなんとか呼吸を整えた。

「ごめん」

 青柳は「いや」と言って、要約するように続けた。 

「だから、もしかしたらそのことと昨日の出来事が関係あるかもしれないと思って」

 青柳は来る時に持ってきたクリップボードを持って立ち上がった。

「一応、伝えた」

 ひとみは、昨日の海斗を思い出していた。

 味覚障害のことを告白する時、彼が見せたあの弱々しい表情を。

「うん……ありがとう」

 青柳は、引き戸に手を掛けたまま立ち止まった。

「あと」

「何?」

「海斗はお前を信頼してると思うぞ」

「うん」

「じゃあさっきのとこから勝手に帰れ」

 青柳は、それだけ言って部屋を出ていった。

 その後ろ姿は、立派な1人の高校教師の背中だった。


 校舎を出ると、暗い雲がまだ雨を我慢したまま流れていた。

 ひとみは、原付に乗り、青柳との会話を思い返した。

 海斗が自分を信用してくれているなら、それは嬉しいことだ。

 でも、それと自分が海斗にしてあげられることは何も繋がらない。

 ひとみはヘルメットを深く被り直した。

 暫く走り続け、ひとみは自宅に着いた。

 原付を裏に停めて、勝手口から店に入ると、まだ昼前なのに客でいっぱいだった。

 邪魔にならないように自室に上ってベッドに倒れ込む。

 それから、自慢の料理ノートのうち、昨日のポルペッティのページを開いた。

 海斗の母親のトラウマと、昨日の料理に繋がりがあるとしたら。ミートボールに自分の「何か」を入れていたのだろう。

 それを考えるだけで、気分が悪くなった。

 何より、それらの行動の裏付けに愛情があるのが辛くて酷くて堪らない。

 そんなマグマを抱えたまま、ひとみは暫くぶりの眠りに落ちた。


 雨音で目を覚ますと、辺りは真っ暗になっていた。

 スマートフォンを見ると、午後9時過ぎだった。

 ひとみは急いで起き上がり、適当に身なりだけを整えた。

 下の店に向かうと、もう客もパートさんも帰っており、父の姿だけがあった。

「彼、今日は来るのか」

「……どうだろう」

 父は「そうか」と、また決まって返して言った。

 それから、父はタバコを買うついにで、漫画の立ち読みに出かけた。

 ひとみは、暫く1階の店で待つことにした。

 海斗は今日来るのだろうか。もし来たら何て言えばいいのだろうか。

 彼女は机に打ち伏して、そんなことばかり考えていた。

 ポツポツと鳴っていた雨音が少し大きくなる。昼に見たあの雲が悪さをしているのだろう。

 いっそこの雨にでも打たれてこようかとひとみは立ち上がった。

 その時、店の引き戸を弱くノックする音が聞こえた。

ミートボールって美味しいですよね。

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