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蓼虫(たでむし)とミートボール - 上」


 店には今日も多くの客が来ていた。

 厨房の人間の声、食器と食器が当たる音、角に置かれたテレビの声。それらが混ざり、モノラル化された音が階段を駆け上って2階にあるひとみの部屋まで届く。

 子供の時から、この空間が生と死の一番近い場所だと感じていた。


 21時を過ぎると調理音、客の声、従業員の声が順番に減っていく。

 それから数十分も経ち、店が父だけになると、ひとみは階段を降りる。

 厨房も客席も、つい先まで稼働していたとは思えないほど片付いていた。

 厨房の隅で、父が慣れた手つきで生ゴミをまとめていた。

「お疲れ様」

 ひとみはバツが悪いので、カウンターのふきんを1つ取って客の机を拭く。

 父は背を向けたまま「ああ」と言って会話が終わる。

 ゴウゴウと換気扇の低いうなり声だけが夜に響いていた。


 26年前、ひとみが生まれたのは、学生街の定食屋「ひさ屋」だった。

 小さな根城と巨大な街の中で、彼女は人並みに愛され、人並みに憎まれる人生を歩んだ。

 高校を出た後は、料理好きが高じて調理専門学校に通い、和食ではなく()()()()()()を学んだ。

 このまま当然に和食を学んで当然に店を継ぐという選択は、自分の生き方どころか死に方まで決まっているようで嫌だったし、両親もその選択を許してくれた。

 専門学校を首席で出てからは、名古屋の高級ホテルのフレンチレストランで働いていた。5年かけてやっと料理というものを理解し始めていた。

 そして、去年の秋に母が死んだ。


 全ての片付けが終わると、父は「おやすみ」と言って2階に上がる。

 終に一人ぼっちになった店の空気は、昼の喧騒と打って変わって酷く冷たく、迷子になった宇宙船のように心細い。

 ひとみは一息ついてから、調理場に不相応な三脚付きのカメラと照明、マイクを物置きから運び出す。

 それから、包丁とまな板、店の冷蔵庫に置いていた合挽肉の白色トレイと、茶色の皮に艶がある玉ねぎを取り出す。

 店仕舞いから朝までの時間、ひとみはこの深夜のキッチンを使わせてもらっていた。

 料理の調理工程を動画にして、レシピと一緒に投稿する。それが今のひとみの生業だった。

 

 母が亡くなった時、ひとみはレストランを休んで実家に戻った。

 葬儀で見た飴細工のような父の姿を見て、とても1人には出来ないと思ったからだ。

 ところが、母が死んで1週間もすると、父はまた店前に暖簾(のれん)を出した。

「サボっていたら、あの世で何言われるか分からない」と話す父の笑顔は、無理に作ったものでもなかった。

 ひとみも店を手伝おうとしたが、父はあまりひとみに頼りたくなかったようで、「気を遣わないでいい」と優しく突き放した。

 そうして、母の居場所だけがホールの中心から仏壇に移り、また「ひさ屋」は回りだした。

 

 今日はそのキッチンで()()()()()()を作ることにしていた。

 ポルペッテイとはパンやチーズを挽き肉に混ぜ、トマトソースで煮込む料理だ。平たく言えばミートボールだ。

 ミートボールは、初めて厨房に立った時、母が教えてくれた料理だった。その時作ったのは、完全に挽き肉のみを使った肉の塊だった。思い返せば、包丁を使わないからということだったのだろう。

 そんな回想をしながら、ひとみは手元を映すカメラを回してマイクを付け、調理を始めた。


 まず、パン粉30gを被るほどの牛乳で湿らせておく。それから全卵を解いて半分に分け、2分の1個の玉ねぎをみじん切りにする。

 それらと冷たい合い挽き肉300g、塩胡椒ひとつまみを1つのボウルに入れて粘りが出るまで混ぜ合わせる。

 この時、あまり長いこと肉に触れていると手の熱で脂が溶けてしまうので、素早く作業をする。

 粘り気が出てきたら2~3cm大に丸めて、油を熱したフライパンに置く。

 店で作るならこの肉団子に一度小麦粉を塗して、素揚げにする。しかし、一般家庭がそんなことをしていられるほど余裕のある時代ではないことぐらい知っている。

 肉団子がカリカリしてきたら、そこにトマト缶1つと刻んだニンニク1欠片、薄切りした残りの玉ねぎに砂糖・塩をひとつまみ入れて、最後に白ワイン10ccを加える。もちろん「ひさ屋」に白ワインだなんて()()()()()の居場所はないので、料理酒で代用する。

 そうしたら、もうあとはこのまま弱火で20分煮込むだけだ。

 

 たったこれだけで、最も手軽な幸福が得られる。

 その完璧な20分の中で、ひとみは洗い物をしながら両親のことを考えていた。

 料理の道を志してから数えきれない人に料理を振る舞ったが、親のために腕を振るった記憶はほとんどなかった。

 そんな後悔とも心残りとも言えない感情を、シンクの隅に溜まった洗剤の泡と一緒に流した。


 20分経つと、フライパンで幸福が煮詰まっている。

 味を見ながら塩で辻褄を合わせる。

 真っ白な深皿に盛ると、油の混ざったトマトソースの赤が鮮やかに際立つ。パセリを散らし、ポルペッティが出来上がった。

 皿のふちを軽く拭き、カメラを手持ちに変えて舐めるように動かす。

 撮影が終わると、ひとみはようやく1人分のポルペッティを食べる。機材やフライパンを後回しにして、熱いうちに食ってやる。それが、ある種の贖罪のようにも思っていた。

 ミートボールを噛むと肉汁が出てきて、トマトの酸味や塩気と混ざって味が広がる。自分が作ったのだから、間違いなく美味しいし、間違いなく幸せな味だった。しかし、1人で味わうには辛いほど温かすぎる。そんな料理だった。

 食べ終わると全てを元通りの「ひさ屋」に戻して、自分の部屋に戻る。そこで籠って動画を編集してアップロードする。

 ただ、そんな空っぽな日々を繰り返していた。


 母が亡くなって、初めての春がきた。

 夕方になると「ひさ屋」にも馴染んでいない茶髪の大学生や、長めの丈の学生服を青田買いした高校生の客が増えてきた。

 涙も乾くような速さで四季は回っていく。

 そう思いながら、ひとみは部屋でボロボロのノートを眺めていた。

 学生の頃から気に入った料理やレシピは全て書き残さないと気が済まなかった。そのため、ひとみのレシピノートはいつの間にか山のように増えていた。

 その山の中から、スーパーで安く手に入った()()()()()を使う料理を考えていた。

 春キャベツはどう食べたって美味しい。まだ肌寒いからスープも良いし、蒸しても甘味が増す。なんなら、そのまま食べたっていいものだ。

『春キャベツの丸齧(まるかじ)り』なんてタイトルで動画を投稿したのなら、なんて言われるのだろう。

 ひとみは、重ねた本に檸檬の爆弾を置くようなくだらない空想に花を咲かせていた。

 

 すると、夜の開店前にも関わらず、下が何やら騒がしいのに気がついた。

 ひとみが野次馬根性で降りて行ってみると、父と2人のパートが揉めるように話し合っていた。

「どうかしたんですか。クミさん」

「あらひとみちゃん」

 パートのリーダー格でもあるクミは、10年ほどの付き合いになる。

「バイトの子が急に熱出してこれなくなっちゃってねぇ」

「ひさ屋」はテーブルが6卓とカウンターが10席。店舗自体は父を含めて4人もいれば十分切り盛りできるような広さではあったが、それに勝るほど客の回転が凄まじかった。

「じゃあ私入ろうか」

 ひとみは言った。

 それを聞いた父の眉間には軽く皺が寄っていたが、クミの「ひとみちゃんありがとう!」という一声で物事の運びは全て決まっていた。


 店には今日も多くの客が来ていた。

 特に生姜焼き定食と青椒肉絲(チンジャオロース)定食は絶え間なく注文が入った。

 ひとみは、具材の下処理と皿洗いを交互に繰り返していた。メニューも工程も、昔とほとんど変わっていないので慣れたものだった。

 とはいえ、まともな立ち仕事が久方ぶりだったので、閉店30分前の21時にもなると、ひとみの体は糸の切れた操り人形のようにクタクタになっていた。

 

 閉店間際になり、客がひとりもいなくなると、ようやく父の手は包丁や円付鍋(えんつきなべ)から離れた。

 ひとみも粗方の食器を洗い終わって、声を出しながら大きく背伸びをした。筋肉やら骨やらが小さく悲鳴を上げているのが分かった。

「ありがとな」

 父は布巾で調理台を吹きながら、目線を変えずにボソッと言った。

 ひとみは「ううん」と短く返した。

 側から見て、自分たちが良い親子であるかどうかなど分からないが、少なくとも私たちの世界や尺度では上手くいっている。ひとみはそう感じた。

 時計の長針が下り切って、閉店時間の21時半を示す。

 「じゃあ私たち上がりますね!」

 パートの2人が、外したエプロンを律儀に畳みながら言った。

 クミはまた「ほんとにありがとね!」と言って、ひとみの右手に大きな飴玉を置いてから店を出た。ずっと昔、彼女がひとみに食べるだけで疲れるこの飴を、よく与えてくれていたことを思い出した。

 父は生ゴミの袋を捨てるついでに、タバコを買いに行った。

 ひとみは年季の入ったテーブルで、心地よい疲労に引っ張られていた。

 このまま眠ってしまおうかとすら思っていた。

 しかし、ひとみは目線の先で、戸の向こうの暖簾が風に揺れているのに気づいた。もう下さなければならないと思い、重い腰を上げた。

 その時、古びた引き戸が開いた。

「すみません」

 戸を開けたのは真っ青なジャージを着た青年だった。

 肌は浅く焼けて、キリッとした目

「あの、もうお店って閉まっちゃいますよね」

 もう閉店時間を過ぎて10分にもなる。そればかりか、店の調理道具も全て片付けてしまっていたし、父も暫くは帰ってこない。

 それでも、彼は酷く申し訳なさそうに言うので、ひとみは暖簾だけ回収して中に招いた。

 「いいよ。食ってき」


 ひとみは彼をカウンターに座らせて案を練ることにしたが、冷蔵庫を見てまずい事態に気がついた。

 賄い用の米や味噌汁残っていたが、食材のほとんどが出てしまっていて品書きにあるような料理は作れない。

 とはいえ、気まずそうにカウンターの隅に座る彼を帰すわけにもいかない。ひとみの良心も父も母もそれを許さないだろう。

 そこで、ひとみはひとつの提案を考えついた。

 「君さ」

 ひとみが声を出すと青年は野生の小獣のように驚いた。

 「ピーマン食べれる?」

 その質問は青年にとって余りに突飛なものだったようで、一瞬目を点にした。それから、少し震えた声で「大丈夫です」と返した。

 「じゃあちょっとあんま食材ないから回鍋肉でもいい?」

 彼は「はい」と言ってから、申し訳なさそうに「お願いします」と言った。

「よし!」

 ひとみは一度外した料理帽を深く被り直した。


 まず、動画に使おうと思っていた春キャベツをざく切りにした。

 次に、店の味噌汁用のネギ、既に細切りにされた青椒肉絲用のピーマンを取り出す。

 それから、生姜焼き用の薄切り肉で、切れてしまっていたカケラがこぶし大ほど集まった。若者には豚バラが好ましいだろうが、背に腹は代えられない。

 弱火のフライパンで油を熱すると、彼がこっちを見ているのに気づいた。こんな空間に1人でいる居心地の悪さは想像に容易かった。

「君高校生?」

 ひとみが間を持たせるように聞く。

「そうです」

 フライパンからネギと生姜、味噌の香りが立ってくる。

「こんな時間まで部活か?」

「そうですね。サッカーやってて」

細切れの薄切り肉を入れて中火にする。

「へぇ。ポジションはどこなの」

「フォワードやってます」

「花形じゃない。モテるでしょ」

 なんだか、自分が嫌なおばさんのような会話をしている気がした。今まで若い男を相手にするような仕事をしていないのだからそれも仕方ない。

「いや、今はどっちかっていうとミッドフィルターのが人気ですよ」

 彼は苦笑いをしながら返してくれて、外観上だけは少し場が和んだような気がした。

 薄切り肉はものの数十秒で火が入る。そこで残りの野菜を入れて強火で一気に炒める。 

 そこで店の裏の戸が開く音がした。父の「ただいま」と言う声がして、目を向けると呆気に取られた顔をした。

 ひとみは焦って「任せて」とだけ言って目配せした。すると、父は意外にも「おう」とだけ言って自分の部屋に戻っていった。

 野菜がしんなりとしたら、混ぜておいた酒、味噌、醤油をかける。一気に煙が上がり、食欲を誘う香りが空間を支配する。

 ひとみは、この回鍋肉への青年の期待を考えながら懸命に鍋を振った。

「そういや、君実家住みじゃないの?」

「いや、俺寮生だったんですけど、去年で寮潰れちゃって」

「それは気の毒だな」

 全体が同じ色で馴染んだら皿に盛る。

「それで今月から下宿してるんですけど、飯なんかもちろん作れなくて」

「なるほどね」

 野菜と肉の脂身が油で店の明かりを跳ね返している。

 見てくれは少し変でも、どこに出したって恥ずかしくない回鍋肉が出来上がった。

 メインが冷めないうちに米と味噌汁を揃えて彼の前に出した。

「お待ちどうさま」

「ありがとうございます」

 青年は頭を下げて、卓上に置かれた橋を割った。

「いただきます」

 彼はむしゃむしゃと馬みたいに気持ちよく食べ進めていた。

 自分の作った料理が皿から消えていき、底の白さが見えてくる時間が堪らなく愛しい。

「どうよ?」

「美味しいです!」

 彼は笑顔を見せてくれた。張り付いて見えるほど。

 ひとみは違和感を持った。青年の笑みがさっきの苦笑いと重なって見えたのだ。

 それでも、彼の食事の時間を奪いまいと、黙って彼をみつめていた。

 青年はあっという間に、お盆の全部を平らげた。

「ごちそうさまでした」

 そこで、ひとみは聞くことにした。

「……嫌いなものでもあった?」

 青年は「いや」と焦ったように吃った。

「あの」

「それとも単純にお口に合わなかった?」

「違うんです!」

 彼はカウンターから身を乗り上げた。


「俺、味が分からないんです」

 彼は申し訳なさそうな顔で言った。

 ひとみは、その言葉をうまく飲み込めなかった。

 この店の中だけが、時も、空気も、営みも独立して止まっているようだった。

「……味が分からないって言うのは?」

 青年は「その」と始め、なんとか言葉を紡ぎ出した。

「『味覚障害』ってやつで、だから、きっと他の人ほど食べ物の味がしないんです」

 その言葉を聞いたひとみは、彼の中の世界が酷く冷たいもののように感じてしまった。

 春風で揺れた戸が、間を埋めるように音を鳴らす。

「それはいつから?」

「……物心がつく前、からですかね」

 ひとみは彼の感情を慮ろうとして、ただ「そっか」と繰り返すことしかできなかった。

「でも、ほんとに作ってもらってありがとうございました」

 ひとみは、また若い彼に気を遣わせてしまったのが辛かった。

 それから、彼は傷の入った財布を取り出した。

 ひとみは、それを遮るように手を出して「君さ」と切り出す。

「名前なんだっけ」

「宮本です」

「名前は?」

 自分でもよくこれほどまでに馴れ馴れしいことが言えるなと思った。

「海斗です」

「海斗さ」

 ひとみは、青年の黒い瞳に初めてじっと焦点を当てた。

「毎日、私の料理食べにきてよ」

 海斗は海の真ん中に放り出されたように驚いていた。

「お代はいらないからさ」

 間を嫌ったひとみが、付け足すように言った。

「……でも、俺多分いつも今日ぐらい遅いですよ」

「寧ろそっちの方が都合良いよ」

 海斗は腑に落ちた様子でもなかったが、なんとか飲み込んだようで「お願いします」と小さくお辞儀した。

 こうして、ひとみと海斗の奇妙な関係が始まった。

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