一章:祭典のはじまり④
アナベルはこっそりとジークハルトの正面に回り込み、彼の顔を覗き込む。目を閉じたジークハルトの眉間には、これ以上なく皺が寄せられていた。
「……えっと、お疲れ様でしたね」
ねぎらいの言葉をかける。ジークハルトの目が開き、視線があった。それから、もう一度溜息をつかれた。
「お茶が入りました」
「お疲れ。ジーク」
ヴィクトリアが声をかける。来賓から姿が見えないよう、衝立の奥に隠れていた彼女の手元には人数分のティーカップがある。彼女から二つカップを受け取ったディートリヒがその一つをジークハルトに手渡す。もう一方はアナベルにくれた。
「どうぞ。アナベルちゃんも」
「どーも」
差し出されたものをアナベルは有難く頂戴した。
すっかり足の疲れてしまったアナベルは衝立の奥に置かれていた椅子を引っ張り出す。ジークハルトの傍に椅子を置くと、そこに腰かけ、一服し始める。先にカップに口をつけていたジークハルトに、ディートリヒが提案をした。
「次からご令嬢の同伴は断ろうか」
また、同じようなことをされては面倒くさかろう。彼の提案はもっともだと思う。
しかし、ジークハルトは首を横に振った。
「わざわざやって来てくれている。非礼はできない」
――ジークハルトのほうが偉いんだから、非礼もなにもないだろう。
副官の言うように丁重にお断りをすればいいのに。本当に生真面目だと、アナベルは呆れてしまった。同時にこうも真面目だと精神的な負担が大きくはないかと心配にもなる。
(――そうです)
ふと、ある考えをひらめく。
アナベルは一気に紅茶を飲み干した。勢いよく立ち上がり、座面にカップを置くと、ポケットを探り始めた。
「じゃじゃーん! ジークにいいものをあげます!」
場違いな声をあげ、アナベルは取り出したものをジークハルトの手に無理やり握らせた。突然の行動に面食らったのか、ジークハルトは少し身を引く。それからアナベルから押しつけられたものに視線を落とした。
「……なんだ、これは」
「飴ですよ。知らないんですか?」
アナベルが渡したのは、包み紙に入った飴玉だ。
「疲れたときは甘い物を食べるといいってリーゼが言ってましたよ! それについては私も大賛成ですね! こないだ、王都に下りたときに二リーブルほど買って来たんですよ」
そう言って、アナベルは同じものをポケットからもう一個取り出す。自分の口に放り込むと、口いっぱいに甘い味が広がった。
先日のお茶会のあと、アナベルたちは王都を回ることになった。そのとき、見つけた飴屋で買って来たのだ。リーゼロッテは患者用にと飴を持ち歩いている。彼女を見習ってアナベルも飴を持ち歩くことにしたのだ。もっとも、アナベルは自分用だが。
「私の非常食用なんですが、特別にジークにも分けてあげます。はい、ヴィーカちゃんにも」
なかなか外出の機会のないアナベルにとっては貴重な飴だ。今のジークハルトにも必要なものだろう。ついでにアナベルはヴィクトリアにも飴を渡す。その様子を見て、ディートリヒがボソリと呟く。
「二リーブルって飴を買う単位じゃないよね」
「そんなこと言うディート副官にはあげませんよ!」
本当に彼は余計な一言が多い。この流れでディートリヒにもあげていいと思っていたが、やめておくことにした。特に欲しいとは思っていないのだろう。ディートリヒは困ったように笑うだけだった。
そのとき、ヴィクトリアが口を開いた。
「ディートリヒ様。召し上がりますか?」
ヴィクトリアは先ほどもらったばかりの飴をディートリヒに差し出した。彼女の行動にアナベルも、ディートリヒも仰天した。
「ありがとう。でも、気持ちだけでいいよ。それはヴィクトリアがアナベルちゃんに貰ったものでしょう」
ディートリヒは苦笑を浮かべる。その言葉にヴィクトリアは素直に頷いた。飴をポケットにしまう。
「分かりました」
本来であれば、何の変哲もないやり取り。しかし、アナベルは違和感を覚えた。
ヴィクトリアは能動的に動くことは出来ない。基本的に命令に従うだけだ。細かく指示を出さずとも、『護衛をしろ』や『侍女の仕事をしろ』と大枠の命令さえすれば、その範疇であればある程度自己判断が出来る。だが、今の彼女の能動的な行動は、彼女が受けている命令のどれとも違うような気がする。
アナベルがそんなことを考えていると、ジークハルトが飴玉の包み紙を開け始めた。黄色の丸い飴玉を口に入れる。そのことに気づいたアナベルはジークハルトに笑顔を向けた。
「どうですか! 疲れも吹き飛ぶでしょう!」
ジークハルトの瞳がこちらを向く。呆れられているような気がするのは気のせいだろうか。またツッコミでもいれられるかと思ったが、違った。
「そうだな」
ジークハルトは僅かに頬を緩ませる。苦笑、あるいは失笑に近かったが、笑わせられた。そのことにアナベルは安堵する。
「ヴィーカちゃん、ヴィーカちゃん。お茶のお代わりをもらえますか!」
「うん」
満足したアナベルはヴィクトリアにカップを差し出した。彼女はカップを受け取ると、また紅茶を入れ始める。
ゆっくりとした時間が流れる。しかし、それも一時的なものだ。休憩が終わったら、また謁見を再開される。
何人もの官僚が挨拶に来た。午前中と同じように、それらをやり過ごし、時折休憩を挟む。数えきれないほどの謁見を終えた頃には時刻は夕方に近づいていた。
最後の来賓の挨拶が終わる。初老の男性が応接室を出ていくと、ディートリヒが口を開いた。
「これで今日の仕事は終わりだよ」
「やったあああ!」
その言葉に、アナベルは両手を挙げて喜んだ。
「ああ、これで自由です!」
「お疲れ様」
ディートリヒが苦笑いを浮かべる。ジークハルトも疲労を隠し切れない様子だ。椅子の背もたれに体重を預けている。
「これで堅苦しい挨拶はおしまい。まだ会ってない軍関係者は、明日の会議でまとめて顔合わせをするから。今日みたいなのはもう終わりだから、安心してね」
「よかったです。また、明日も同じことをやると言われたら、どう逃げ出そうか作戦を立てるところでした」
ディートリヒの表情が引きつる。それを無視し、アナベルは椅子から立ち上がったジークハルトに近づいた。胸を張ってみせた。
「見ましたか! 見事なすまし顔だったでしょう。言われたとおり出来ましたよ、私!」
謁見中、ジークハルトがこちらを振り返ることは一度もなかった。見たかと言われても、きちんとアナベルの様子を見れていないだろう。
ジークハルトは黙って副官を振り返る。ディートリヒは苦笑を浮かべながらも頷いてくれる。ジークハルトは少しだけ破顔をした。
「よくやった」
ジークハルトに褒めてもらえたことでアナベルは非常に満足だった。足の痛みを辛抱した甲斐があったというものだ。まだ、晩餐会や戴冠の儀など、いくつかのイベントは残っているものの、一日かける仕事はない。今日の謁見ほど疲れることはないだろう。一つの山場を乗り越えたと、アナベルは充実感に満ちていた。
その晩、アナベルは朝までぐっすりと眠ることが出来た。――そして、騒動が起きたのはその翌日のことであった。




