一章:王宮魔術師の着任③
その言葉にアナベルは顔色を真っ青に変えた。
「なんて、恐ろしいことを言うんですか、あなたは!」
「いや、俺も好き好んで頼りたくはないけどさ。いざとなったらって話だよ」
アナベルは唸り声はあげる。
出来れば、ユストゥスに止められるなんて事態にはなりたくない。どんな手段で止めようとされるかが分からなくて怖い。
ディートリヒが「まあ、それは置いといて」と無理やり話題を変える。――そもそも、ユストゥスのことを言いだしたのは彼自身であるが。
「そういうわけだから、アナベルちゃんの軍服を作らないとね。いつまでも魔術機関の制服じゃいられないしね。あとは普段着もかな。洋服、他に持ってきてないでしょ?」
アナベルは頷く。
そもそも、魔術機関では常に制服だから普段着という概念がない。アナベルも部屋着とそれ以外は一着余所行き用の服を持っていただけだ。前回も今回も魔術機関の制服以外の着替えは持ってきていない。
「仕立て屋を呼んで採寸が必要だね。あとは生活必需品の用意に、皆との顔合わせと……やることはいっぱいだね」
「ひとまず、今日は改めて将軍との顔合わせを行う。あとは軍に入るにあたって、最低限の説明と書類に署名をしてもらいたい」
「ええええ、そんなのまた今度じゃ駄目なんですか」
出来れば、今日はまだゆっくり休みたい。
しかし、ジークハルトは「駄目だ」と即答した。
「テオバルトとアロイスはともかく、ニクラスには早めに挨拶しておいたほうがいい。あとで小言を言われるようになるぞ。そもそも相性が良くなさそうなのに、必要以上に波風を立たせる行動は控えるべきだ」
「ちょっと! 顔を合わせる前から不吉なことを言わないでください!」
ニクラスというのは王城にいるアナベルがまだ会っていない三人目の将軍のことだろう。確か、三ヶ月前の事件のときに大怪我をしたというのは聞いた。どんな人物なのかは知らない。
ジークハルトはディートリヒを見る。
「ニクラスと上手くやれると思うか?」
「……いやー、無理じゃない? 絶対、ニクラス将軍の発言にアナベルちゃん怒るって」
ニクラスの発言に怒る。
その発言でイメージする人物像はユストゥスのように胡散臭い腹黒い人物だ。ああいうタイプなら確かにアナベルも仲良くするのは難しいと思う。
ジークハルトは再びアナベルをじっと見つめる。
「ニクラスも悪い奴じゃないんだ」
「あなたの言う『悪い奴』ってあんまり信用出来なさそうなんですけど。あの、あなたの思う悪い奴って何ですか?」
ジークハルトは考えこむように黙り込んだ。
「…………私利私欲のために悪事を働く者とかか?」
「それは当たり前です! あなたは犯罪を起こす人間以外は善良な人間だと思ってるんですか!」
「善良かは知らないが、誰にでも長所はあるだろう。人間はどうしても欠点ばかりに目が行きがちだが、それよりは相手の良さを認め――」
「ああ、もうこの人ヤダ! 副官さん、どうやったらこんな箱入りで人間が育つんですか!」
「どうしてだろうね。一緒に育ったけど、俺も分からないや」
人の良いところはジークハルトの美徳だろうが、さすがにここまで来ると心配になってくる。そのうち怪しい壺とか買わされないだろうか。嘘の身の上話をされたら騙されそうな気がする。周囲に誰かがいれば止められるだろうからきっと大丈夫なのだろうが、彼はきっと王子じゃなかったら人の良さが原因で死んでいてもおかしくない気がする。
アナベルが頭を抱えて、テーブルに突っ伏す。
「それだ」
突然、何かに気づいたようにジークハルトが声をあげた。アナベルを机に突っ伏したまま、顔だけ少し上げる。
「……『それだ』って、何がですか?」
「前から思っていたが――アナベル。君は私たちの名前を覚えているか?」
ジークハルトの指摘にアナベルは再び顔を伏せた。顔をあげなくても、ジークハルトとディートリヒから視線が注がれているのが分かる。
「ええ、もちろん。もちろん覚えていますとも。…………ジークハルト・なんちゃら・エーレハイデ王子殿下とディートリヒ・なんちゃら・なんちゃらさんです」
「……ああ、ファーストネームしか覚えてないんだね。まあ、ミドルネームは覚えなくてもいいけどさ。王家分家(俺んち)の家名ぐらいは覚えておいたほうがいいよ。今後のためにね」
人名を覚えるのは本当に苦手だ。
二人のファーストネームは頻繁に誰かが呼んでいるのを耳にしている。ジークハルトのファミリーネームはそのまま国名なので覚えている。しかし、それ以外は全然駄目だ。正直、さっき話題にあがった相性の悪そうだという将軍の名前ももう忘れた。
しかし、ジークハルトは「そうじゃない」とキッパリ言った。
「おい。私は今まで君が誰かの名前を呼んだことを聞いたことがないぞ」
アナベルは黙秘する。ディートリヒも「ああ、確かに」と頷く。
「俺はともかく、ジークやヴィクトリアのことも名前で呼んだことないね。『王子』とか『侍女さん』って呼んでた」
「だろう? アナベル。私の名前を呼んでみろ」
「…………王子殿下」
「敬称じゃなくて名前だ。普通に呼んでみろ」
「…………出来ません」
「アナベル」
未だ顔をあげず、名前もきちんと呼ばないアナベルに業を煮やしたジークハルトは強い語調で名前を呼ぶ。
「顔をあげるんだ」
そう言って、ジークハルトはアナベルの顔を覗きこもうとし――その前に、勢いよく立ち上がったアナベルが脱兎のごとく寝台に潜り込んだ。ジークハルトもディートリヒも突然のことに満足に反応が出来なかった。ただ、目の前にいたジークハルトだけはアナベルの顔が真っ赤に染まっているのが一瞬だが確かに見えた。
アナベルはシーツを被ったまま叫ぶ。
「普通にって、普通に呼ぶってどう呼べばいいんですか!」
二人の言う通りだ。
確かにアナベルは一度も誰かの名前を呼んだことがない。それはエーレハイデだけじゃない。魔術機関でもだ。基本的にアナベルは他人の名前を覚え、呼ぶようなことをしてこなかった。
「私には分かりません。誰かの名前なんて呼ばなくても、覚えなくても今まで問題なかったんです。普通の呼び方ってどうすればいいんですか」
魔術学院の低学年だった頃、一瞬友達が出来たことがある。そのとき、アナベルはその子のことを「〇〇ちゃん」と呼んでいた。だが、そういう風に彼女たちのことを呼んでいたのは本当に一瞬のことで、彼女たちがアナベルと距離を置く様になってからはまた名前を呼ばないようになった。それ以降も基本的に「あなた」とか役職名で呼べば事足りていた。それだけ、アナベルはフラヴィ以外とまともな人間関係を築かずにこの歳になってしまったのだ。
今更、普通の呼び方なんて分からない。ジークハルトを「あなた」や「王子」以外にどう呼べばいいのか分からない。
アナベルが蓑虫になっていると、寝台が沈む。誰かが寝台に、アナベルのすぐ横に腰かけたのだ。それが誰かなんて見なくても分かる。彼はアナベルの背を優しく撫でる。
「好きに呼んでくれていい。だが、私は呼び捨てで呼んでもらえたら嬉しい」
好きに呼んでいいと言いながら注文をつけるのはどういうことだと思う。
しかし、好きな呼び方が分からないアナベルにはその言葉の方が助かった。
「ジーク、ハルト」
アナベルはポツリと呟く。胸の中で何度も名前を繰り返す。しかし、何だかしっくり来ない。
「ジークハルトって名前は長すぎだと思います」
「なら、ジークと呼んでくれ」
「…………ジーク」
ディートリヒやテオバルトと同じ呼び方だ。確かにこちらの方がしっくり来る。名前が長いと呼びにくい。
アナベルはそっとシーツの陰から顔を覗かせる。隣に座るジークハルトの顔を見上げると、彼は微笑んでいた。優しげで、どこか嬉しそうな満足そうな笑顔だ。思わずアナベルはもう一度シーツに顔を隠してしまう。
――そういう表情は卑怯だ。
まるでアナベルに名前を呼んでもらえて嬉しがってるように見える。ジークハルトは色んな人に名前を呼んでもらっている。別に今更アナベルが名前で呼んだって喜ぶことではないだろう。大したことじゃないはずのに。
アナベルが悶々としている間もジークハルトは背中を撫でてくれる。扉がノックされ、「失礼致します」とヴィクトリアが戻ってきたのはそのときだ。
ヴィクトリアは部屋の主の姿が消えた代わりに寝台に現れた蓑虫とその隣にいるジークハルトの姿に気づくと、数度瞬きをする。
部屋の置き物に徹していたディートリヒは不思議そうな様子のヴィクトリアを見る。そして、彼女の背中を押して部屋を出て行こうとした。
「ヴィクトリア。俺たちお邪魔みたいだから、向こう行ってようか」
「何がですか! 別にそういうんじゃないですって」
シーツから出たアナベルは抗議として手近にあった枕をディートリヒに向かって投げる。しかし、距離があったため、枕は彼の足元に落ちた。ヴィクトリアが枕を拾いあげ、埃を払う。
「ちょうど良かった。ヴィクトリア、こっちに来てくれるか」
ジークハルトは一連のやり取りなんてなかったかのようにヴィクトリアに話しかける。従順な侍女は命令通り、寝台に近寄ってくる。
「アナベル。ヴィクトリアのこともちゃんと名前で呼べ。今後は他の侍女との接点も出来るだろう。今の呼び方では不都合が出てくる」
アナベルはヴィクトリアを見上げる。彼女の顔からは何の感情も窺えない。
「……ヴィクトリアも長いです」
「なら、ヴィーカだな」
「ヴィーカ」
今まで役職とはいえ、さん付けして呼んでいたのを愛称呼び捨ては違和感がある。
アナベルは少し考えて口を開いた。
「じゃあ、ヴィーカちゃんですね。……そう呼んでもいいですか?」
ヴィクトリアは一度瞬きをしてから、頷いてくれた。ジークハルトの視線はディートリヒに向く。
「いや、俺は今まで通り『副官さん』とか『そこの人』でいいよ」
「そうもいかないだろう。ディートリヒはディーとか、ディートと呼ばれることもあるな」
「じゃあ、ディート副官で」
さんづけも呼び捨てもしっくりこなかったので、役職をつけて呼ぶことにした。
一通り、呼び名と決めたところでジークハルトは寝台から立ち上がる。
「これから王子と呼んでも、私は反応しないからな」
「……分かりました」
ジークハルトが手を差し伸べてくる。アナベルは少し躊躇したものの、彼の手を借りて寝台から下りた。




