八章:爪牙②
その場で起きたことを正確に理解出来ていたのはミヒャエルだけだった。そして、正確に理解出来ていなくても、ジークハルトの異常に気づけたのは二クラスとヴィクトリア。しかし、このうち自身で正確にどう行動すべきか判断できたのは二クラスだけだった。
ジークハルトは突然剣を抜き、案内役の兵士に斬り掛かる。二人の間に割って入ったのは二クラスだ。ヴィクトリアは主君の乱心にとっさに身動きがとれない。
「カルツの小娘はそこの男を――お前はあの小僧を取り押さえろ!」
二クラスの指示でようやくヴィクトリアが動きだす。しかし、その時にはすでにミヒャエルは部屋の窓を開け、男が魔術の閃光を空に打ち上げていた。ヴィクトリアは男を拘束し、兵士はミヒャエルの腕を掴む。侍女服のリボンで後ろ手で動けないように手早く縛ろうとする。
「――ヴィクトリア、やめろ」
しかし、ジークハルトの発した命令にヴィクトリアは動きを止める。
王子の声音は感情の籠らない無機質なものだった。本来であれば、ジークハルトの様子がおかしいと考え、二クラスの指示に従うべきなのだが――ヴィクトリアにはそれさえもとっさに判断出来ない。二つの異なる命令のどちらに従うべきか、正しい選択をすぐに選ぶことが出来ない。
時間にすればたった二秒ほどの停止。しかし、その時間が命取りとなった。
窓から突然人影が飛び込んできた。ヴィクトリアは反応が出来ず、勢いをつけた蹴りをもろに食らってしまう。少女の体はそのまま、壁に打ちつけられる。その隣に同じように窓から飛び込んだ人影に殴られた兵士が転がる。
二クラスは窓からの侵入者二人を見て、劣勢を悟った。現れたのは二十代の男女二人だ。男の方は赤毛で、女は銀髪だ。二人とも赤い瞳をしている。
「『牙』か」
ニクラスは歯ぎしりをする。
本来であれば、『牙』二人の対処はそれほど難しくない。将軍が二人、王子とヴィクトリア。単独で『牙』の対応が出来る人間が王城に四人もいる。兵士だって大勢いるのだ。
しかし、現在の状況は想定していないものだ。ヴィクトリアは打ち所が悪かったのか、身動ぎ一つしない。もう一人の将軍はこの場にいない。そして何より、問題なのは今剣を交えているジークハルトだ。彼を傷つけるわけにはいかない。
元々表情に乏しいジークハルトの顔から本当に一切の感情が消えている。目も虚ろだ。まるで人形か、死体のようだ。――明らかに魔術の影響を受けている。
ニクラスは悪態をつく。
「クソッ! とんだ貧乏くじだ! こんなことなら稽古を断るべきだった!」
今のニクラスにはジークハルトの相手をするのが手一杯だ。『牙』の女は王子の後ろからニクラスに音もなく接近すると、懐から取り出した短剣が将軍の腹を勢いよく刺す。
ニクラスは善戦した。一対三という圧倒的不利な状況で、腹を斬られたにも関わらず倒れなかった。ジークハルトを抑え続け、騒ぎに気づいて飛び込んできた兵士たちに『牙』を対処するように命じた。
しかし、この狭い室内は俊敏な『牙』に有利だった。彼らは次々に兵士を倒していく。その上、『牙』の短剣には毒が塗ってあった。毒と失血が徐々にニクラスを弱らせていく。
ジークハルトの力に押し負けたニクラスは床に膝をついて倒れる。止めを刺そうとしたジークハルトを制止したのはミヒャエルだった。
「そんなの放っておいて、さっさと行きますよ」
ミヒャエルの言葉にジークハルトは振り返る。少年は大人びた口調で牙の二人に話しかける。
「予定が変わりました。このまま、次の段階に進みましょう」
少年がそう言うと、牙の男――『六番』がうずくまっていた魔術師を担ぎ上げる。女――『五番』は起き上がらないヴィクトリアに視線を向ける。
「『七番』は殺すべきだわ。邪魔になる」
『五番』の言葉に反対したのは『六番』だ。
「えー、可哀想じゃん! 見逃してやろうよ。同じ家族だろ」
「元でしょ。今は裏切り者だわ」
「兎が逃げたのと一緒だよ。別にいいじゃん」
「そういう言い争いは後にしてください」
二人の口論をミヒャエルは止めた。
「ここまで来たら目的を完遂させることを優先しましょう。その人のことはどうでもいいでしょう。急いで王太弟を確保しましょう。体勢を立て直されたら面倒です」
ミヒャエルを先頭に五人は窓から出ていく。室内にはニクラスを始めとする倒れた人間が取り残される。
応援の兵士の中には他の者に知らせにいった者もいた。『牙』たちがいなくなった後、部屋にはまた別の兵士が衛生兵を連れてやって来た。
「私のことはいい。急ぎ伝えろ。奴らの目的は王太弟殿下だ。ヒューゲルにも伝えろ。『敵に魔術師がいる。元帥が傀儡になってる』」
衛生兵の治療を受けながら、ニクラスは指示を飛ばす。
ジークハルトが魔術に弱いことは極秘事項ではあるが、この状況では四の五の言っていられない。機密を守るよりは、一般兵にも状況を認識させることが大事だ。
ミヒャエルは急いでいた。そのせいだろう。部屋には何人もの兵士が倒れているが、全員気絶をしているか動けなくなっているだけで死んでいない。一番の重傷者は間違いなくニクラスだ。
ヴィクトリアの指がピクリと動いたのはその時だ。侍女はすくりと起き上がり、周囲を見回した。
ニクラスは舌打ちをすると、「カルツの小娘」とヴィクトリアを呼んだ。あまり時間がない。端的に命令をする。
「元帥は魔術をかけられている。今の元帥はまともじゃない。元帥の命令は全て無視をしろ」
先程はヴィクトリアも混乱していた。しかし、すでに状況は呑み込めただろう。少女は黙ってニクラスを見つめ返す。
「奴らの目的は王太弟殿下だ。とにかく、殿下をお守りしろ。後は元帥を殺すな。それ以外はどうとでもしろ。分かったか」
「はい」
「なら、行け。『牙』を追え!」
ヴィクトリアは目にもとまらぬ速さで窓から飛び出していく。先ほどまで気絶していたとは思えない機敏な動きだ。
非常に気にくわないが、ニクラスが動けない以上、今頼りになるのはもう一人の将軍を覗けばヴィクトリアだけだ。本来であればもう一人いた将軍は今は北の砦に向かっている道中だろう。
「クソッ! 何でこういうときだけいないんだ、あの筋肉達磨は!」
◆
王城への帰路。馬車の中でディートリヒは信じられなさそうに訊ねてきた。
「本当に『四大』をこの国に呼べるの?」
「『四大』をこの国の王宮魔術師にすること自体はそれほど難しくありませんよ」
アナベルは非常に不満げそうな表情を浮かべている。
「ただ、色々問題があるというか……魔術機関の上層部とこの国の間に軋轢を生まないように知恵を絞るほうがちょっと面倒ですね。私にはいい方法が思いつきません。頭の良い人の知恵が必要です。あの人、そういうの得意そうでしょう? 私の代わりに考えてもらうんです」
「難しくないって」
「本当ですよ。――分かります? 『四大』は魔術機関で最も魔力が豊富で、魔術に長けている人間のことです。単純な魔力量の差だけでいえば、数百人魔術師が集まらないと敵わないんです。……まあ、実際には魔術機関の職員には戦闘に向かない人間がいますから、千人単位は必要でしょうね。『四大』が上層部の意向を無視し、この国に来ることを了承さえすれば『四大』をこの国に招くことは簡単です。魔術機関にとっても、『四大』を止めるのは容易いことじゃないんですよ」
それこそ魔術機関の全職員を動員すれば、『四大』を止めることも不可能ではないだろう。ただ、それには大きな犠牲が出る。過大表現ではなく、本当に国が一つ消えてもおかしくない。
そういった事態は上層部も避けたいはずだ。穏便に話をまとめたいと考えるだろう。アナベルも同様の意見だ。そんなことになれば魔術機関とエーレハイデの間に決定的な軋轢が生まれる。そうした事態は避けたい。
「つまり、『四大』を説得さえすればいいってこと?」
「まあ、そういうことですね」
アナベルはそこで一度迷ったが、言葉を続けた。




