六章:王子の秘密⑤
――まるで、冷水をかけられたようだ。
急激に身体が冷えていくのを感じる。アナベルはジークハルトを見る。こちらを見る彼の目が優しいもののように思える。何も答えられずにいると、王子が言葉を続けた。
「君は母の遺したものを捜しに来た。それは私だ。そして、どうして母が君の母親に手紙を書いたのか、その理由も知った。これでもう、目的は果たせただろう」
――違う。それは間違いだ。
まだ、アナベルはフラヴィの望みを叶えていない。アナベルは膝の上で、ぎゅっと両手を握りしめる。
「……母様は、私に叶うなら自分の代わりに先代シルフィードの最期の頼みを叶えてほしいと言ったんです」
「私を代わりに守ってほしい、というものだな」
「…………はい」
「私を守るということは、この国に残るということだ」
王子を守るにはこの国に残る必要がある。
魔術の知識などは既に王子は持っている。必要なのは実際に魔術をふるえる、エマニュエルの代わりとなれる人物だ。最初にアナベルが将軍に言ったように、西方の魔術機関からの援助では意味がないのだ。今後、ずっと彼の側にいる必要がある。――彼の命が尽きるまで。
それはいったい何年後だ。何十年後だ。
彼の身の安全を考えれば、一時的でも魔術機関へ戻るのは危険だ。どんなに急いでも往復には四ヶ月もかかるのだ。ジークハルトの身に何かあっても、遠い西方から駆けつけた頃には全てが終わっている。それが意味をするのは、二度と魔術機関へ帰ることが難しいということ。フラヴィにも会えなくなる可能性が高いということだ。
「君に、その覚悟はあるか?」
アナベルは王子の問いに答えられなかった。
だって、そんな覚悟はない。
アナベルはフラヴィに頼まれたからこの国に来ただけだ。ちょっとしたお使い感覚だった。二ヶ月半かけてエーレハイデへ旅し、二週間ほど滞在。その後、また二ヶ月かけて魔術機関に戻る。たった半年の期間だ。短くはないが、ちょっと長い旅行みたいなもの。だから、アナベルはこの国に来た。
一生、この地にいるつもりなんて毛頭ない。フラヴィとジークハルトを天秤にかけた場合、どちらが重いかなんて考えるまでもない。フラヴィがいる場所が、アナベルの居場所だ。決して、こんな東方の国ではない。
アナベルが何も言えずにいると、ジークハルトは困ったように笑った。それから、アナベルに近づくと、優しく頭を撫でてくれた。
「すまない。意地悪な質問をしたな。どちらにせよ、私は君をここに引き止める気はない。この国に残るのは良くない。君の身が危険だ。……私はこれ以上、私のために何かを犠牲にしたくない」
「――いいんですか」
人間は利己的な生き物で、自身の利益のためなら何だって犠牲にする。ずっと、アナベルはそう思っていた。なのに、彼は自分の身より、アナベルの身を案じている。
「下手したら、あなた死んでしまうんですよ」
「私は軍人だ。それも元から覚悟の上だ」
こちらの声は震えているのに、ジークハルトの声は平静を保っている。それが居た堪れなくて、思わずアナベルは勢いのまま提案を口にした。
「一緒に、西方に行きませんか」
ジークハルトが驚いたようにこちらを見つめている。アナベルも自分が口にした提案を信じられずに、でも、感情のまま話し続けた。
「この国を出れば、確かに他の魔術師と出くわす可能性はあがります。でも、魔術機関の――母様の庇護下なら安全に暮らすことが出来ますよ。魔術機関がある島の近くには、魔術機関の関係者が住む領地があるんです。そこには魔術師の素質がない者が大勢住んでいます。そこは魔術機関の保護下にあるだけで、普通の街と変わりません。魔術師だったらあの街に住めませんが、あなたは魔術師じゃないので問題ありません。きっと、あなたならあの街でも上手くやっていけると思うんです」
悪くない提案だと思った。エマニュエルの望みも、フラヴィの頼みも叶えられる。ジークハルトも危険な目に遭わない。
なのに、アナベルが言葉を重ねれば重ねるほど、彼はどこか悲しそうな目をしていく。
「もし、魔術機関のお膝元というのが気に入らないのであれば、母様がきっと、近隣の国で良い場所がないか探してくれます。西方は広いんです。あんまり魔術機関から離れられると困りますけど、きっとあなたが気に入る場所があります」
「ベル」
「だから」と続けようとしたアナベルの言葉を、王子は遮った。
――続く言葉を聞かなくても、返答は分かっていた。
自身の身より、縁もゆかりもないアナベルの身を心配するようなお人好しだ。とてもじゃないが、我が身可愛さに自分自身を優先するとは思えなかった。
「私はこの国を離れるつもりはない。この国を守るのが私の使命だ」
王子が手を握ってくる。
先ほど手袋を外した右手は、硬い。アナベルの手とは全然違う。彼は強くなるために、どれだけ剣を握ってきたのだろう。
「幼い頃は将来国王としてこの国を守るよう言い聞かされてきた。王位が継げないと分かってからは、代わりに軍人としてこの国を守ることを決めた。いつか戦場で命を落とすことはとっくに覚悟をしている」
「王子に生まれたのは、あなた自身が望んでのことではないじゃないですか! 国を守れなんて、周囲が勝手にあなたに押しつけてきたエゴですよ。そんなことのために命をかけてもいいんですか」
生まれは自分では決められない。アナベルがあの北部の貧しい国で生まれてしまったのと同じように、ジークハルトが王子として生まれたのは彼が望んだことじゃない。
今まで、魔術機関はアナベルに『こうあるべき』という理想を押しつけてきた。その理想通りに振舞わないアナベルを認めてこなかった。でも、アナベルは他人の都合で自分自身の意思を曲げることをしたくなかった。
王子は幼少期に教えられたまま、大人になってもエーレハイデを守ろうとしている。そんなのはきっと間違っている。自分自身のために生きることこそ、重要ではないのか。
なのに、王子は「違う」と否定した。
「確かに最初、私がこの国を守ろうと思ったのはそう教育されたからかもしれない。だが、今、剣を取り続けることを決めたのは、私自身で決めたことだ」
――それはなぜだ。
「私はこの国が好きだ。人々が好きだ。君の暮らしていた西方と違って、決して豊かではないかもしれない。でも、ここには多くの人が生きている。彼らには一人一人自分の人生があって、どれ一つとっても全く同じものなんて存在しない。その一つ一つがとても尊いものだ。だから、それを守りたいと思う。――君の言うとおり、西方でも私は生活していけるかもしれない。だけど、私はここがいい。この国の皆を守りたい。君が母親を愛しているように、私もこの国を愛している」
分からない。分からない。王子が何でそんなことを言うのか分からない。
どうしたら、分け隔てなく他人を愛することが出来るのだ。どうしたら、そうも強くあれるのか。アナベルにはちっとも分からない。
分かるのは今までの皆の言葉が嘘ではなかったということだ。
ハーゲンの。テオバルトの。ヴィクトリアの。ヴァネサの。彼らが言った、王子を評する言葉は何一つ偽りではなかったのだ。
彼の愛情はこの国の全てに向けられている。そして、少しだけかもしれないが、同様の感情をアナベルにも向けてくれているのだ。
「『あなたの娘が、エマニュエル・ロワの願いを叶える必要はない。遠い異国まで来てくれた、その想いだけで充分だ』、と。……君の母親にそう伝えてくれるか」
おそらく、その言葉を伝えれば、フラヴィも何も言わないだろう。親友の忘れ形見を心配する気持ちはあるだろうが、養女を犠牲にしてまで親友の願いを優先はしない。フラヴィはそういう人だ。
そもそも、ジークハルトが死ぬかどうかはまだ分からない。彼はそもそも強いと聞く。本人には魔術が効くが、周囲には魔術が効かない者も多い。お互いに協力し合えば、スエーヴィルの魔術師も倒すことが出来るかもしれない。
スエーヴィルの王宮魔術師の実力も不明ではあるが、強い相手とも考えにくい。西方から来たということはその魔術師は魔術機関の脱走者か、はぐれ者かどちらかだ。アナベルが魔術機関に来て以降、脱走した魔術機関の魔術師も数人いる。しかし、どれもアナベルの記憶にも残らないほど、大した能力のない三流ばかりだった。もし、はぐれ者であれば、もっと魔術の知識にかける。先代シルフィードから魔術の知識を教わったジークハルトでも十分対抗策が練ることは可能だろう。
アナベルが何もしなくても――何も出来なくても、彼の未来は明るいものかもしれない。それでも、と思う。それでも、本当にこれでいいんだろうか。何もせずに帰っていいのだろうか。
「…………私」
アナベルはやっとの思いで口を開く。
「母様の役に立ちたかったんです」
母にいつも迷惑をかけてばかりだった。何も恩を返せていなかった。だから、今回、フラヴィに頼まれ事をして本当に嬉しかったのだ。
出来るだけ、母の想いに応えたいと思った。アナベルに出来ることはまだある。でも、アナベル自身に覚悟がない。そんなのあるわけない。これまで生きてくる中でそんなものは必要はなかった。
何かのために、自分の想いを犠牲にするべきなのか。そんなこと、考えたこともなかった。アナベルにとっては自分がどうしたいかが一番で、それ以外は全部どうでもいいことだった。それでいいと思っていた。
「いいんだ。その気持ちだけで十分だ。きっと、君の母親はそう言うと思う」
なのに、今こんなに悔しいのはなぜだろう。アナベルが泣き止むまで、王子は何も言わずにただそこにいてくれた。
◆
部屋の奥から聞こえるのは少女のすすり泣く声だ。本棚にもたれかかりながら二人のやり取りを盗み聞いていたユストゥスは、そっと研究室を後にした。
温室の階段を上ると、複雑そうな表情のディートリヒがこちらを見る。
「ご苦労だったね」
ユストゥスは笑みを浮かべ、ディートリヒの肩を叩くと自身の執務室へと戻っていった。




