五章:――それでも④
「驚いたな。まさか、人間の子供だとは」
はじめて彼女を見た時、フラヴィはそう言った。
彼女は北部の国で魔獣の被害が出ているという話を聞いて、魔術機関から派遣された。被害に遭った村は五つ。魔獣の攻撃に抵抗し、大怪我を負った者が大勢。そして、死者も十人以上出ていた。魔獣の強さは測りきれていない。万が一を考えて、派遣されたのが『四大』であるフラヴィだった。
フラヴィは近隣の村で情報収集を行い、探知魔術を使って魔獣の棲み処を見つけた。そこは森の中の廃墟だった。慎重に棲み処に侵入したフラヴィはそこで獣でもなんでもなく、一人の子供を見つけた。
歳は五、六歳ぐらいだろうか。髪は伸びきっており、体中は垢だらけ。薄汚れた襤褸を身にまとう――何の価値もない子供だ。
子供は突然の侵入者に抵抗した。しかし、フラヴィは襲い掛かってきた子供を怪我をしないように魔術を拘束する。そして、優しい声で話しかけてきた。
「私が言っている言葉は分かるか? お前はいつからここにいるんだ?」
子供には少し言葉が分かる。でも、知っている言葉はほとんどが罵声の類だ。彼女が何を言っているのか全く理解出来なかった。
「これは困ったな。意思の疎通も取れないとは。いったい、お前の親は何をしていたんだ。村人たちの話も全然とも全然違うじゃないか。私はとんでもなく凶暴な魔獣がいると聞いて来たんだぞ」
村人は誰もが魔獣を化け物だと言っていた。それほど大きくないとかは説明してくれたが、何の動物に似ているかは教えてくれなかった。
魔術の素養がある子供となれば、それは魔術機関にとって討伐対象ではなく、保護対象になる。おそらくそれを避けるために彼らは魔獣の正体が人間であることを教えてなかったのだろう。
ひとまず廃墟の探索はすませておいたほうがいいと判断し、フラヴィは廃墟を歩き出した。いくつかある部屋の一室から、異臭が漂ってきていた。その正体を確認しようとフラヴィはその部屋に向かう。
それまで唸るだけで大人しかった子供が、フラヴィが向かった先に気づいて突然叫び声をあげた。
フラヴィが反応する間もなかった。力づくで拘束魔術を解いた子供はフラヴィの脇を駆け抜け、彼女が入ろうとした部屋に飛び込む。いったい何事だと、子供の後から部屋に入ったフラヴィは――絶句した。
その部屋には腐って蠅のたかった食料が大量に積まれていた。その中央に横になっているのは、魔獣と呼ばれた子供より更に小さな子供の遺体。――それも死後数ヵ月は経っている。ほとんど白骨化と同じ状態だ。
子供はその骨を守るようにこちらを睨みつけ、『殺す』『死ね』と意味も理解出来ない罵倒を威嚇のために叫ぶ。
フラヴィは涙を堪えるように深く俯いた。
「――この子はお前のきょうだいか?」
フラヴィの質問に子供は答えない。答えられない。
フラヴィは子供に近寄る。
無理やり拘束魔術を解いたため、もう子供はボロボロだ。フラヴィに襲いかかる気力も残っていない。――それでも、子供は死んだ妹を守ろうとしたのだ。
フラヴィは子供の前に膝をつき、その頭を撫でた。
「よく、頑張ったな」
彼女はそう言って、子供を抱きしめて泣いた。
子供はとても汚かった。ひどい異臭も放っていた。でも、彼女はそんなことをまったく気にする素振りもなく、彼女を抱きしめてくれた。フラヴィは妹の遺体を埋め、簡単な墓を作ってくれた。その後、子供を背負って、村に戻った。
魔獣を殺さず、生かして戻ってきた魔術師を村の人々は批難した。誰もが子供に憎悪の視線を向ける。だが、フラヴィは毅然とした態度を取った。
「この子は私が連れて帰ります。これでもう、あなたたちの村に被害がなくなるんだ。別に問題はないでしょう?」
「そういう問題じゃねえよ。コイツのせいでどれだけの人間が怪我を負ったと思ってる! 死んだ奴もいるんだぞ!」
そう言って、掴みかかってきた大男をフラヴィは魔術でなぎ倒し、子供の身なりを最低限整えると村を出ていこうとした。
去り際、「話が違うぞ。謝礼は渡せんからな」という村長に、フラヴィはキレて「そんなはした金はいらん!」と村長も殴り倒していた。
魔術機関に戻る道中でフラヴィは泥だらけの子供を綺麗にし、怪我を治療し、髪を切り、新しい衣服を与えてくれた。
「自分の名前は憶えているか?」
フラヴィの質問にやはり、子供は答えられなかった。
質問の意味が通じていないことを察したフラヴィは質問の仕方を変えた。「何と呼ばれていた」と訊ねられて、ようやく子供はいくつかの単語を口にした。
それを聞いた途端、フラヴィはこれ以上なく顔をしかめた。「それは名前じゃない」と頭を抱えた。
「では、新しい名前をつけよう。私はこういうのが得意じゃないんだ。何がいいかな。やっぱり女の子らしい可愛い名前がいい」
そう言って、フラヴィは本屋で本を買った。難しい顔で本を見つめていた彼女を子供は見上げる。
「お、これなんていいじゃないか」
そう言って、フラヴィはとある頁を指さす。しかし、子供には文字が読めないから、何が書いてあるかは分からなかった。
「アナベル。『愛すべき』という古代の言葉から派生して生まれた名前らしい。良い名前じゃないか、これにしよう。苗字は私のを与えよう」
フラヴィは笑った。
「今日からお前はアナベル・シャリエだ」
◆
フラヴィはアナベルに名を与えてくれた。
魔術機関の魔術師たちはアナベルの素質を知って歓迎してくれたが、当時のアナベルは人間というより動物に近い。真っ当な魔術師にするため、教育をする必要がある。しかし、アナベルの野生児っぷりに、最初優しく一つ一つのことを教えようとした魔術師たちは全員匙を投げた。唯一、忍耐強くアナベルに物事を教え続けてくれたのはフラヴィだけだった。
椅子に座ってナイフとフォークを使って食事をする方法。言葉の話し方。文字の読み方。計算の仕方。世界の常識。魔術の知識。
全部、フラヴィが教えてくれた。フラヴィがアナベルに人間の生き方を教えてくれた。
アナベルが問題を起こせば怒り、アナベルが転んで怪我をすれば心配してくれた。一緒に絵本を読み、夜には子守唄を聞かせてくれた。アナベルの話を嫌がらずに何でも聞いてくれた。
フラヴィは『四大』の一人で、すでに魔術機関で確固たる地位を築いている。そもそも彼女はそこまで権力や地位に固執していない。アナベルを養育することは彼女にとってそれほど利益がある行為ではない。むしろ、問題を起こし、その度に保護者として各所に謝罪をして回ることになるため、マイナス面の方が大きい。
フラヴィはアナベルのことを何度も何度も叱ったが、決して見捨てることはしなかった。いつだって惜しみない愛を与えてくれた。今まで誰も与えてくれなかったものをフラヴィは無償でアナベルに与えてくれた。
だから、アナベルは彼女のためなら何でもする。彼女が望めば世界だって滅ぼしてもいいと思ってる。この気持ちはアナベルにとって大切なものだ。だから、誰にも教えたくない。誰にも見られないようにこっそりと心の奥にだけしまってきた。
だけど、ジークハルトはまるでアナベルの心の奥を覗いているかのように、その気持ちを暴いていく。
「お前は人間は自分のことばかりと言っているが、お前自身は母親を大事に思っている。そこに損も得も関係ないだろう」
確かにフラヴィが死んでも、アナベルに損はない。既にアナベルは魔術機関内で自分の立ち位置を手に入れている。フラヴィの庇護を離れても、魔術機関内での生活は保障されている。むしろ、フラヴィがいなくなれば、口うるさくする人はいなくなる。いなくなった方がもしかしたら得かもしれない。
――でも、そうじゃないのだ。利益とか損失とか、そういう損得勘定を越えたところに彼女はいる。
「違うだろう」と彼は言う。
「確かにお前の言うように人間は自分の利益のために動くことも多い。そのために他のものを犠牲にすることもある。だが、それだけじゃないだろう。君もそのことを知っているはずだ」
ジークハルトの言う通りだ。
フラヴィに会って、アナベルは自分の利益以外で行動する人の存在を、他者を愛する気持ちを知った。
――でも、他の誰もアナベルに愛を与えてはくれなかった。
魔術機関でたくさんの人に出会った。
彼らは最初はアナベルと仲良くしてこようとするが、アナベルがどういう人間かを知ると徐々に離れていった。ずっと、ずっと、そんなことの繰り返しだった。誰もアナベル自身のことを好きになってくれない。自由奔放で我儘なアナベルを『変わり者』だと『厄介だ』と距離を置き、必要以上に機嫌を損ねないようにだけ注意する。誰もアナベルと仲良くなってくれなかった。友達にはなってくれなかった。
アナベル自身は価値がないのだ。故郷にいた頃の無価値な存在のままだ。
だから、アナベルは諦めた。理解してもらわなくていい。好きになってもらわなくてもいい、と。フラヴィさえいれば、アナベルは独りじゃない。だから、それ以上のことを求めるのをやめた。そうやって十年以上暮らしてきたのに、今更、遠い異国で出会った王子はその事をアナベルに思い出させる。
「ヴィクトリアは、お前はいつも楽しそうだと言っていた。そのお前があれだけ悪し様に言うんだ。魔術機関での生活が、お前にとって決していいものではなかったことぐらい分かる」
そんなことはない、と否定したかった。魔術機関での生活も自由気ままで楽しいものだった。
――一緒に食事をとる相手も、雑談する相手もフラヴィしかいなかった。学生時代は他の同級生が仲良くご飯を食べているのを一人遠くから眺めていた。課外授業で誰かと一緒に班を組むことになっても、誰もがアナベルを仲間に入れたがらなかった。
それでも、アナベルはいつも笑っていた。ずっと、心の奥底の本音を隠しながら。
「母親以外に君を愛する者も、君が愛せる相手もいなかったのなら――それは寂しかっただろうな」
彼はどこか悲しそうに呟いた。
アナベルの心にかっと炎がつく。アナベルは「違います」と感情的に叫ぶ。
「そんな訳ないじゃないですか! だって、アイツらは私自身の事なんてどうでもいいんですから。アイツらが用があるのは私の能力だけです。皆、結局自分の利益が一番なんです。自分勝手な人たちなんですよ。そんな奴等に相手にされなかったからって寂しいなんてある訳ないじゃないですか! ――あなた達だって」
アナベルは本来口にすべきことでないことをとうとう叫んでしまった。
「あなた達だって、結局、私が魔術機関から来た調査員だから良い扱いをしてくれてるだけじゃないですか!」
アナベルの声は周囲に響くほどの大きさだ。この場にいる兵士は皆、その発言を耳にしているだろう。
「美味しい食事を用意してくれるのも、温かな寝台を用意してくれるのも、優しくしてくれるのも、全部全部――この国の利益のために私の機嫌取りをしているだけじゃないですか! やってることは魔術機関の奴等と一緒です。皆皆、私の顔色ばっかり覗って、……本当は私のことなんてどうでもいい癖に」
アナベルは歯を食いしばる。
エーレハイデで出会った人々は皆、アナベルに優しくしてくれた。でも、それも結局、アナベルの立場ゆえだ。彼らはアナベルが魔術機関の調査員じゃなければ、見向きもしなかっただろう。
彼らも結局、自分の、自国の利益のために動いている。その証拠に一見友好的だった王太弟は裏ではアナベルが死んでもいいと思っていた。
「皆皆大嫌いです! 魔術機関の奴等も、私を殺そうとした奴等も、あなた達も! そんな相手に好きになってもらえなくても、私は寂しくともなんともないです! 母様さえいれば、母様だけいれば、私はそれで」
「――それでも」
ジークハルトの手がを伸びる。アナベルはそれを避けようと一歩下がるが、ジークハルトの動きの方が早かった。彼の手がアナベルの腕を掴む。
「それでも、私はお前が好きだよ」
王都から距離のあるこの場所は人の声が全然しない。川の流れる音や、木々が揺れる音、虫の声。聞こえるのは自然の音だけ。
彼の表情は感情が読みづらい。ただ、この瞬間、アナベルも彼が真剣なことは分かった。
蒼い瞳が真っすぐにアナベルを見つめる。彼は手の力を強める。
「おかしな発言をすると呆れたりもしている。ただ、好きなことは好きだと、嫌いなことは嫌いだとハッキリ言える君を好ましいと思っている。本当は傷ついてるのに、明るく振舞える強さをすごいと思う。私は君のことをどうでもいいだなんて思ってない」
ジークハルトにとってアナベルの魔術機関の調査員という肩書に価値はない。魔術師派遣に反対する彼は、アナベルに優しくしても何も得るものはない。
それでも、彼はアナベルが死なないように追い返そうとした。機密だと言った温室のハーブティーを与えてくれた。迷子になったアナベルを助けてくれた。ヴィクトリアを護衛につけてくれた。アナベルがこの国で楽しく過ごせるように観光を提案してくれた。今だって、他の兵士に任せればいいのにアナベルを捜しにきてくれた。こんなに寒いのに、上着と外套をアナベルに貸してくれた。ずぶ濡れの靴しか持っていないアナベルを背負って、代わりに歩いてくれた。
今まで冷淡にしか聞こえなかった彼の声音が妙に優しく耳に響く。
「利益だとか、見返りだとかそれこそどうでもいいことだろう。あのまま君が川に落ちて死んでいたら悲しかった。だから、君が生きていて本当に良かった」
「ベル」とジークハルトはアナベルの名を呼んだ。
「見返りなんて何もいらない。私は君が生きていてくれれば、それだけで十分だ」
アナベルの瞼から涙が零れた。
今まで、アナベルに打算も損得もなしで優しくしてくれたのはフラヴィだけだった。ジークハルトは自分の利益がないにも関わらず、アナベルの為に動いてくれた。――かつてのフラヴィと同じように。
フラヴィ以外に好きだと言ってもらえたのは生まれてはじめてだった。こんなに心配してもらえたことも。生きていたことを喜んでくれたことも。何の価値もないアナベル自身を認めてくれたことも。全部。全部。フラヴィ以外から与えられなかったもの。
アナベルはその場にしゃがみ込む。王子が掴んだ腕を持ち、支えようとしたが間に合わなかった。
涙が零れる。アナベルは幼い子供のように泣いた。母親に殴られたときも、父親に棄てられたときも、村人に石を投げられたときも、妹が死んだときも、フラヴィに助けられた時でさえ流れなかった涙が零れた。
ジークハルトは「行くぞ」と言って、再びアナベルを背負う。王都の喧騒が聞こえるようになるまでの間、周囲には若い娘の、子供のような泣き声が響いていた。




