一章:幕開け①
「以上が事件の概要です」
その一報をジークハルトの執務室に届けたのは、将軍副官のヴァルトラウトだった。
話を聞き終えたジークハルトが難しい表情を浮かべるのを、アナベルはソファからぼんやりと見つめていた。
昨日、ヴァルムハーフェンでとある死体が見つかった。
それはここより北――町外れの海岸沿いにある民家でのことだ。その家には老夫婦が住んでおり、見つかった遺体のうち二つは彼らのものだった。三人目は、見回り中の軍の二等兵だったという。
見つかった遺体の三つのうち老夫の死因は老衰。これは特に事件性はない。問題は残りの二つだ。
老婦は胸を複数回刺されており、寝台は血に染まっていたという。惨状は目を覆いたくなるほどだったらしい。殺害に使用されたと思われる刃物は現場から見つかっていない。
そして、二等兵の死因は不明。外傷もなく、まるで眠るように亡くなっていたという。原因となりそうな病歴もなく、解剖からも死因を解明できなかったそうだ。原因不明の突然死、というのが正しい表現だろう。
「あの家で何が起きたのか、それはまだ調査中です。並行して、事件について情報を公表し、警戒態勢を敷きました。老夫婦が誰かとトラブルになっていたという話もなく、無差別犯の可能性も考えられます。一刻も早く犯人確保を目指します」
「分かった。また何か分かれば報告してくれ」
ジークハルトはそう答えてから、考え込むように口元に手を当てる。
「王都への帰還は少し遅らせたほうがいいだろうか」
それは町の不穏な空気を考えれば当然の判断だろう。
上官の言葉にアーダルベルトは困ったような表情を浮かべる。
「元帥がいらっしゃることでヴァルムハーフェンの住民たちも安心するとは思いますが……、一国民としては元帥の御身も心配ですよ。民のことを優先して元帥が危険な目に遭うようなことがあってもいけません」
「……今日の予定は変えたほうがいいか」
ジークハルトは呟く。元々今日は視察で街に出かける予定だった。アーダルベルトは「そうしていただけると安心です」と安堵したように笑う。
「念のために王都に知らせを送っておこう。――ディートリヒ」
「了解」
短く答えると副官は執務室を出ていく。報告を終えてアーダルベルトとヴァルトラウトも退室していった。
アナベルはソファからジークハルトに話しかける。
「随分と物騒な事件ですね」
完全に他人事のような感想を呟く。ジークハルトは難しい表情のまま「そうだな」と呟いた。その反応を見て、アナベルはピンと来る。
「何か気づいたことでもありました?」
しかし、アナベルの勘は外れていたのか、怪訝そうな顔をされた。
「いや。ただ、不思議な事件だと思っただけだ」
その言葉にアナベルは首を傾げる。似たような感想を自分も持っているが、ジークハルトの言い方はニュアンスが違うように感じたのだ。
「……まあ、そうですね? 推理小説に出てくるような不可思議な事件ですよね。――あっ。そういえば、東方……エーレハイデにも推理小説ってあるんですか? 西方には殺人事件の謎を解くという娯楽小説がありまして」
「こちらにもある。私は読んだことはないが――」
そこまで答えて、彼はため息を吐く。それから、話を戻した。
「私が言いたいのは犯人の目的が読めないという意味だ」
「目的?」
「部屋は荒らされた様子もなく、貴重品も手つかずだ。金品目的とは考えにくい。だが、私怨でもない。なら、なぜ夫人は殺されたのか。理由がまるで推測できない」
「だから、無差別犯なんじゃないですか?」
そんな話をヴァルトラウトがしていたではないか。
アナベルが反論すると、ジークハルトは静かな視線をこちらに向ける。
「無差別なら理由がないと思うか?」
何故か、その言葉にドキリとしてしまう。
「狙う対象が無差別であっても、人に危害を為すには理由がある。それが他者から理解できないものであってもな。……今ある情報からはそれが読み解けない。ただ、それだけの話だ」
そう言うと、ジークハルトは手元の書類に視線を落とす。それから頁をめくり始めた。それ以上話すことはないということなのだろう。
アナベルは思う。
(犯人の目的なんてどうでもよくないですか?)
もっとも、犯人の目的が分かれば犯人像も絞ることが出来る。逮捕に近づくことができる。捜査を行う軍人としては必要な思考だとも思う。
――しかし。
(ジークのことだから、絶対それだけじゃないですよね……。犯人のこと理解してあげたい! とか考えてそう)
そういう姿勢はジークハルトの美徳であろう。アナベルとしては度が過ぎると何か彼の身に火の粉が降りかかりそうで心配ではある。
そんな杞憂は胸のうちに秘め、アナベルは別の質問を投げかける。
「それで、視察。延長するんですか?」
「三日の間に進展があれば予定通り出発する」
ジークハルトは『はい』『いいえ』は答えなかった。状況次第ということなのだろう。
「だから、帰り支度は進めておくように」
まるで養母のような物言いにアナベルは言い返す。
「ご心配なく。ヴィーカちゃんがやってくれることになってますから」
「……胸を張って言うことではないと思うが」
冷静に指摘してから、ジークハルトは部屋の隅で置物のように控えているヴィクトリアに視線を向ける。
「少しは本人にやらせるように」
「ええ!! そんな!! 私だけ置いていくおつもりですか!? それじゃあ、私一生王都に帰れませんよ!?」
「――お前はどれだけ荷造りが下手だと言うつもりなんだ」
元帥は呆れたように頭を押さえる。それから、侍女に「本当に困っているようだったら手伝うように」と指示する。ヴィクトリアは「かしこまりました」と頭を下げた。
――ひとまず、一人で荷造りする羽目にはならなそうだ。
アナベルは安堵し、それから他にやっておくことがないかを考える。
と言っても、ヴァルムハーフェンではアナベルは完全にお客様だ。元帥の護衛以外には仕事もない。南部を満喫するという一番のやるべきことは、イゾラ大使の一件に意識を持っていかれて不完全燃焼気味ではあるが――。
そこまで考えて、重要なことを思い出した。
「ああああああああああ!!」
大声を上げ、アナベルは立ち上がる。その叫びで部屋の重たい空気は吹き飛ぶ。ジークハルトとヴィクトリアが静かに視線を向けてきた。
「どうかしたのか」
「ラーラちゃんに本を借りてたんです! 読んで返さないと!!」
ヴァルムハーフェンに来て最初の頃に訪れたメッテルニヒ邸。そこの次女に手作りの探検記を渡されたことを思い出す。
「あのイゾラ大使の求婚騒ぎのせいですっかり――ヴィーカちゃん! 私、あの本どうしましたっけ!?」
「部屋の机の引き出しにしまってある」
「ああ! よかった!」
その言葉にアナベルは安堵の息を漏らす。
「ええと、そんなに頁数はなかったので今夜中に読めるとして……いつ返しに行きましょう! このまま帰還するとなると、もう休みにないんですけど! もう、こうなったらいっそ第二第三の被害者が出て、視察期間の引き延ばしを祈るしか」
「縁起でもないことを言うな!」
ジークハルトが珍しく声を荒げる。それから、大きく息を吐き、ある提案を口にする。
「――明日。本を返しに行く時間を取ろう」
「いいんですか!?」
アナベルは執務机まで駆け寄った。
「ただし、護衛をつける。夫人を殺した人間が徘徊している可能性がある」
「護衛だなんて、そんな大げさな。一人で行けますって」
その言葉にジークハルトは険しい表情をする。アナベルは彼を安心させるために言葉を重ねる。
「万が一、殺人犯と遭遇してしまっても返り討ちにしますよ。最悪、殺しちゃっても許してくれますか?」
瞬間、刺すような冷たい目を向けられた。慌ててアナベルは弁解する。
「べ、別に好きで殺そうとはしませんが、やっぱり命がけとなると手加減がうまくいかない可能性がありまして!」
「監督役を誰にするかは私の方で考えておく」
異論を許さないような強い口調に、アナベルは項垂れる。監督役をつけられるなんて、まるで自分が聞き分けの悪い子供のようだ。
そして、追い討ちをかけるようにジークハルトは言う。
「メッテルニヒ邸には連絡を入れておく。本を返して、お礼を言ったら真っ直ぐ帰ってくる。――分かったな」
「…………はい」
まるで子供に言い含めるような言い方に、アナベルは何も反論できなかった。