五章:海から現れるモノ②
そのとき、アナベルは片足を階段に下したばかりだった。まだほとんど甲板にいたにも関わらず、衝撃で宙に飛ばされずにすんだのはヴィクトリアが助けてくれたからだ。
数歩後ろを歩いていた侍女は傾いたアナベルの腰を掴み、隠し持っていたロープを投げる。端についたフックが上手いこと階段のスロープに巻きつく。ヴィクトリアは左手でアナベルを支えたまま、右手でロープを掴む。
「ヴィクトリア! アナベルちゃん!」
上の方から焦ったような副官の声が響く。
アナベルの眼前に広がるのは甲板とその向こうの海面だ。本来、この角度で見えるのは空のはずだ。それが、船が左側にものすごい角度で傾いたためにこんな光景に変わってしまった。
ディートリヒがロープが手繰り寄せ、階段まで引っ張り上げてくれる。そうして、ひと心地つけることができてからようやくアナベルは何が起きたのか理解した。
帆に銀色の何かが巻きついているのが見えた。その先を追っていくと、甲板の手すりの向こうに大きな二つの目が見える。
アナベルは息を呑む。そして、近くの副官の肩を叩いた。
「ほらほら、見てください! 烏賊? 海蛸子? ――よく、分かりませんが、超巨大生物ですよ!! あの足一本で何日分の――いや、何十人分のご飯になるんですかね!? 気になりますねえ!!」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!! ――一体何なの、あれ!!」
ツッコミをいれられるのはいつものことだが、今回は怒鳴られたに近い。
こんな状況ではしゃぐのはいくらなんでも不謹慎だったと反省する。そして、彼の疑問に真面目に回答してあげる。
「魔獣の一種だと思いますよ」
通常ありえない大きさの生物。心当たりはそれしかない。
「魔獣って、あの?」
ディートリヒは驚いたように言う。アナベルは頷く。
「魔力過多により、巨大化する例というのを聞いたことがあります。――いやー、沖に出ればこういう危険もあるんですね。うっかりうっかり」
魔獣とは魔力により、何かしら変異してしまった生物を指す。彼らは言ってしまえば、人間以外の魔力持ちだ。大気に魔力のないエーレハイデでは生存できない。しかし、ここには豊富な魔力がある。魔術の専門家として、大気に魔力が含まれていることに気づいたときに思い至ってもよかった。
「みなさん、大丈夫ですか?」
今度は下から声をかけられる。そちらを見ると、階段の手すりに掴まりながらヘルガがこちらに近づいてくるところだった。階段の下には頭を押さえて座り込むリヒャルトの姿がある。
「ええ。そちらは?」
「リヒャルトが頭を打ちつけてしまいました。本人は大丈夫と言っていますが、少し眩暈があるようなので、動かないように言ってあります。――どうしよう。まさか、こんなことになるなんて。甲板にはまだ他にお客様がいらっしゃったはず」
彼女は焦ったように早口で話す。一番甲板に近いアナベルが外を見る。
甲板の端にしがみつく影が数人見える。魔獣が帆を引っ張ろうとし、また船が揺れる。彼らが海に落ちるのは時間の問題だろう。
「ヴィクトリアさん。そのロープを貸してもらえませんか? どうにか、皆を救出しないと」
「いえ。ここは軍人である我々に任せてください。ヘルガ嬢は中の客人の様子を見に行ってください。あと、この船には救命ボートの用意がありますよね? その準備を。後はジークを呼んできてくれませんか?」
ヘルガとディートリヒが慌ただしく、やり取りをする。それを傍観していたアナベルはヘルガがよろよろと階段を下りていくのを見送り、副官のほうを振り向いた。
「それで、どうするんですか?」
「ヴィクトリアに救出させる。この状態の船で自由に動き回れる人間はかぎられている」
彼はロープの先端を手すりに巻きつける。
「それで皆で救命ボートで逃げよう。ジークが何か策を思いつくかもしれないが、アイツの指示を待ってる余裕はない」
アナベルは溜め息をつく。
「救命ボートで逃げたところで、あの魔獣が後を追ってこない保証はありませんよ。それに、港までどれくらい距離があると思ってるんですか? ここから小さいボートで港まで戻るなんて現実的ではありませんよ」
「じゃあ、他にどうすれば――」
こちらを振り向いたディートリヒが、気づいたように黙った。アナベルはその場に仁王立ちする。
「簡単です。あの魔獣をぶっ飛ばす。それで、この遊覧船で港に帰る。それが一番安全で確実な方法ですよ」
◆
大きく息を吸い、精神を落ち着かせる。それから、アナベルは浮き上がった。船と魔獣が見下ろせる高い位置まで高度を上げる。
――なんだか、懐かしい気分だ。
空を飛ぶこと自体はそれほど久しぶりではない。しかし、大気の魔力を全身で感じ、自身の魔力残量を気にせずにすむのはいつぶりだろう。
アナベルは手を船に向かって掲げる。
魔獣を倒す必要があるが、その前に甲板の人々の救出と、魔獣から船を引きはがす必要がある。
全身の魔力に意識を向ける。
「『浮け』」
そう唱えた直後、船体が浮き上がった。
◆
遊覧船は全長二十トワーズはある。それほど大きな物体であっても、魔力残量を気にしなければ持ちあげることは容易い。
無事、船体を浮かせ、傾きを戻すことには成功する。これで一先ず沈没の心配はいらなくなった。しかし、想定以上に魔獣の力が強いようで、足が帆や船体に巻きついたままだ。海に落ちる気配もない。
アナベルは小さく舌打ちをする。一旦、ディートリヒたちの下へ戻る。
「とりあえず、甲板にいる人全員に中に入ってもらってください」
副官と侍女によって、甲板にいた人々が船内へ誘導される。一人、魔獣を観察していたアナベルは戻ってきた二人に話しかけた。
「あの帆に巻きついている足。あれ、どうにかできませんか? あれじゃあ、船も私の魔術で巻き込んじゃいます」
『アルセーヌの再来』と呼ばれるほど魔力量の多いアナベルでも、魔術において万能ではない。一番分かりやすい欠点は、魔術制御だ。魔獣の足はみっちりと帆に巻きついている。経験則的に、あんな風に絡まっている状態ではまず確実に帆は犠牲になる。下手をすれば、船体自体も破壊してしまうだろう。
最悪、アナベルの魔術で浮かせたまま港まで運ぶことは可能だが、それはさすがに面倒だ。できれば、避けたい。そして、アナベルの要望を叶えられそうなのは――そう思って、ヴィクトリアを見る。
「ヴィーカちゃん。なんとかできませんか?」
スエーヴィルの元諜報である彼女はとにかく身軽だ。そして、力も強く、戦闘能力も高い。そう思って訊ねてみるが、静かに首を横に振られる。
「手持ちの武器じゃ、あの大きさのものは切れない」
そう言って、彼女がスカートの下から取り出したのは数本の刃物だ。どれも短く、一番長いものでも彼女の前腕ほどの長さだ。確かにこれでは多少傷はつけられても、大人二人分はありそうな魔獣の足をどうにかすることは難しいだろう。
「私がやろう」
聞き馴染みのある声が響く。声の方へ振り向くと、ジークハルトがこちらに向かってきていた。
船室でのことを思い出し、少しだけ胸がドキリと跳ねる。しかし、なるべく平静を装いながら、訊ねる。
「もう、体調は大丈夫なんですか?」
「問題ない。剣くらい握れる」
無理をしがちな彼のことだ。それは本当のことではないだろう。
実際、顔色はやはり青く見える。だが、柄から剣を抜く動きは力強く、迷いのないものだった。
白銀の剣身が鈍く光る。
「この剣も、ニクラスのエデルガルト同様、建国から伝わる秘宝の一つだ。大抵のものは斬れる」
元帥であるジークハルトが剣を抜くことは、鍛錬を除けばほとんどない。アナベルも彼が何かを斬ったところはヘルマン反乱のときしか見たことがない。
だが、そのことは剣の切れ味を――ジークハルトの腕前を疑う根拠にはならない。
アナベルは「分かりました」と答える。
「なにかお手伝いすることは?」
「いや。大丈夫だ」
「アイツが船から離れたら、攻撃魔術で倒します。無理はしないでくださいね」
そう言い残し、アナベルはまた空へと飛び上がる。両手に魔力を込め、攻撃魔術発動の準備をする。そして、魔術で視力を上げ、甲板のジークハルトを見た。
彼は剣を構えたまま、神経を集中させているようだった。しばらく身動き一つしなかった元帥が、突如走り出す。その動きは風のように速い。ジークハルトは甲板の端近くの部位に真っ直ぐに迫り、その刃を振るった。
咆哮、のようなものが聞こえる。魔獣は全身震わせ、重力に逆らえず海に向かって落ちていく。無数にある足の一本は見事に切断されていた。
「さようなら」
アナベルはそう一言告げ、魔力で作った光の球を魔獣に向けて発射した。
頭の半分以上を撃ち抜かれた魔獣は力なく海に落下する。大きな飛沫をあげて、その身体は海底へと沈んでいく。その巨体が海面に浮上することはなかった。