五章:海から現れるモノ①
元帥に一人指名され、船室に残る羽目になったリーゼロッテは困り果てていた。
(どうなさったのかしら)
目の前にいる青年は上官だ。それもフェルディナントやボニファーツといった普段から関わりのある相手ではなく、軍の最高責任者である。
彼の直属の部下であるアナベルとヴィクトリアは友人だが、ジークハルト自身とは話すことはほとんどない。こうして二人きりになったのは記憶するかぎりはじめてのことで、緊張せずにはいられない。
「そこに座ってくれ」
ジークハルトが指した向かいの席に腰かける。そして、上官の言葉は待つ。
しかし、なかなか話を切り出さない。何かを思案しているようだ。リーゼロッテが辛抱強く待っていると、やっとのことで彼は口を開いた。
「……君はクラウディオ大使との縁談を前向きに捉えているか?」
それは思いも寄らない話題だった。その件は既に小父に一任すると元帥は言っている。今更、彼がそのことに言及するとは思っていなかった。
リーゼロッテは考える。
どういう意図でその質問をされているかは分からないが、軽率な発言はできない。考えたこと結果、無難な回答をする。
「まだ、検討中の段階ですわ」
そう答えると、ジークハルトはまた黙り込んでしまった。そして、先ほどと同じように長く沈黙した末、意を決したように口を開いた。
「これは私個人の感覚の話だが――彼は君に恋慕の情を抱いてるように思えない」
その言葉にリーゼロッテは瞬きを繰り返す。考える間もなく、言葉がするりと零れた。
「元帥閣下もそう思われます?」
「ああ。――君も気づいていたか」
こちらが同意見であったことに安堵したのだろうか。ジークハルトは明らかに緊張を解く。そして、いつものように落ち着いた口調で話し出す。
「先ほど、君と大使が甲板で話している様子を見ていた。君に対して好感を抱いてはいるとは思う。だが、彼が今まで説いたような、情熱的な恋情は感じなかった」
それはずっとリーゼロッテが一人で抱えていた疑問を解消するものだった。先日丘と海が見えるテラスでクラウディオと歓談してから、ずっと考えていたこと。それは、クラウディオは自分のことを好きではないのではないかということだ。
自慢ではなく、事実としてリーゼロッテは今まで多くの男性から言い寄られてきた。その理由は二年前のアスカロノヴァの戦い以降、天使ともてはやされた結果だ。
口説き文句を言う人の中にはもちろん、真剣な相手もいる。しかし、軽い気持ちの人間も多かった。その両方を知っているリーゼロッテには相手の本気度がある程度分かる。――そして、クラウディオはどう考えても、本気ではなかった。
いや、本気とかそうではないという問題ではない。そもそも、好意を持ってるのかも不思議だった。
確かにクラウディオは紳士的で魅力的な人間だ。リーゼロッテに優しく、情熱的に口説いてくれた。彼の妻になる女性は幸せだろうとも思う。
だが、話していて違和感は強かった。ふとした時に見せる表情。向けられる視線。そういったものから、彼の想いを感じない。
それは一夫多妻制を取り入れているイゾラの王族ゆえかとも思った。真剣な思いを一人の妻に抱くのは、他の妻に対して不誠実だろう。だが、それなら、ああも熱心に口説いてくること自体がおかしく思える。
そんな風にリーゼロッテはずっと悩んでいた。そして、そのことを誰にも打ち明けられずにいた。誰に相談すればいいのか、分からなかったのだ。
悩み事を相談するならまず友人だろう。視察先ではあるが、運良くアナベルとヴィクトリアという二人の友人と同行している。
だが、考えた結果、リーゼロッテはその選択肢を捨てた。二人は大事な友人ではあるが――正直なところ、あの二人に恋愛相談は難しい。
アナベルは目の前の元帥と特別な間柄であることは間違いないが、男女の機微を理解しているように思えない。以前、ジークハルトに婚約者がいてもおかしくないと言及したとき、まるで他人の事のような態度だった。普通嫉妬したり、不安になってもおかしくない状況なのにだ。
ヴィクトリアはヴィクトリアで好きな相手がいるのは明白であるが――そもそも彼女は何かの答えを出すというのがとても苦手だ。相談したところで困らせてしまうことだろう。
そうなると、この地で相談できるとしたらフェルディナントだ。業務上でも、私事でも、信頼できる頼りになる相手だ。
だが、幼い頃からよく知る父ほど年の離れた彼は親戚のおじさんという印象が強い。気恥ずかしさが勝り、未だ打ち明けられてはいなかった。
――それなのに。
あの短い時間でジークハルトはリーゼロッテが思い悩んでいたことの答えを出してしまった。そのことに感心する。そのうえで、彼なら疑問を解消してくれるのではないかと質問を投げかける。
「どうして、クラウディオ様は私に求婚されたのでしょう。元帥閣下のお考えをお聞かせいただけませんか?」
「推測になるが――十中八九、君の医術の知識だろう」
推測と言いながら、その口調は自信に満ちたものだった。
「医術の知識、ですか?」
しかし、リーゼロッテは戸惑う。ジークハルトは淡々と話を続ける。
「言うまでもないことだろうが、エーレハイデの医術は近隣諸国に比べて発展している。イゾラは特に東方でも医療が遅れている国だ。自国の医術の進歩を願い、医療従事者を招きたい。クラウディオ大使がそう考えてもおかしくないだろう」
元帥の言葉に、リーゼロッテは反論してしまった。
「ですが、私は看護師です。医師ではありませんわ。治療はできませんし、私一人ではイゾラの医療を良くするなんてとても無理ですわ」
もし、本当にイゾラの医療技術の進歩を願うなら、クラウディオが呼ぶべきは医師だ。それも、できれば他者に医術を教えた経験のある者が望ましい。
ジークハルトは顎に手を当てる。
「私もそこは分からない。医術の知識がなく、誤解をしているのか。あるいは君を足がかりに、今後医者を呼ぼうとしているのか。……少なくとも、今後、君ほどレーヴェレンツ宗家に近い血筋の人間との接点を持つのは不可能に近いだろう」
リーゼロッテは沈黙する。確かに、と納得してしまう部分は多かった。
エーレハイデでレーヴェレンツを名乗る者は多い。その中でリーゼロッテの家系は宗家――ボニファーツやフェルディナントとも比較的血筋が近く、親交がある。自分と同様か、それ以上に宗家に近い人間はヴァルムハーフェン周辺にはいない。
実際、クラウディオはリーゼロッテを通じて、フェルディナントに接触できている。自分を妻に迎えることは、イゾラの医術を向上させる手段として見当違いなものではないように思えてきた。
ジークハルトはリーゼロッテをじっと見つめる。そして、話を締めくくった。
「以上が、私の話したかったことだ。今の話を元に、縁談をどうするかは自由にするといい。もし、この話をフェルディナントに共有したいが、話しづらいのであれば私から話すこともできる」
「――いえ」
リーゼロッテは首を横に振る。そこまで面倒はかけられない。そして、ジークハルトに深々と頭を下げた。上官に対しては敬礼をするべきだろうが、今はこうしたかった。
「ご配慮、ありがとうございました。フェルディナント軍医官には私の口からきちんとお話します」
ジークハルトの話を聞いて、自分の思いや考えもまとまってきた。今はまた少し違う相談を小父にしたい。
「それでは失礼いたしますわ」
元帥に挨拶をし、扉へ向かおうとしたときだ。――突如、床が大きく揺れ、傾いた。
「きゃっ――!」
無防備だったリーゼロッテは慣性どおりに身体のバランスを崩す。そのまま、急斜面となった床を転げ、壁に身体を叩きつけてもおかしくなかった。しかし、元帥に身体を受け止められ、負傷せずにすむ。
「あ、ありがとうございます」
「…………これは」
ジークハルトは険しい表情で周囲を見回す。船室からは外の様子は見えない。しかし、異常事態が起きているのは間違いなかった。